喝采は寂寥に鳴らず
●神牴牾き
あなたは誰ですかと問う声がした。
私はそれに、何者でもありませんと答えた。
●手招くもの
「あの廃教会に神様がいるんだって」
「白い百合を持っていくと、願い事を叶えてくれるやつ?」
「何それ本当?」
「知らない、でも昨日3組の子が言ってたよ」
「でもその教会もう誰もいないんじゃないっけ」
「そうなの?」
「それでさ、次の日にその百合が赤色に変わっていたら成功なんだって」
「まだその話するの?」
「いいじゃん暇だし」
「っていうか何の神様?」
「狼を見たとか、蜘蛛を見たとか、なんか色々噂してるよね」
「あれ、でも確か狼って――」
空にかかる雲は厚く、暗い朝だった。
昼前には雨が降り始めるらしい。手元のスマートフォンの情報を見ながら少女は溜息をつく。時計の時刻は一限目の開始をとっくに過ぎており、いつもは同じような制服を着た生徒であふれかえる道にも人影はない。昨晩はチャットアプリで、友人らと怪談話で夜更かししたのが良くなかった。二度目の溜息をゆるゆると吐く。
怪談の舞台となる学校の裏手にある教会に、実は少女も一度訪れたことがある。ただ、その帰り道で友人が事故にあってしまったので、結果は未だ見に行けてはいない。
事故は軽いもので、本人も不注意だったと笑っていた。けれど勝手に因果関係を作っては、考えは嫌な方へと酔っていく。
呪われてしまった、だとか。
馬鹿馬鹿しい。誰も居ない四辻の信号で足を止める。車すら通っていない。何度目かの欠伸を噛み殺して――聞こえてきた声に、首を傾げた。
(……歌?)
微かに誰かの声がする。どこかのテレビかラジオの音が漏れているのだろうか。
少女がぐるりと辺りを見回した先に、それは居た。
愛嬌のあるツギハギだらけの兎の頭は、着ぐるみのようでいて錆びた金属製。強靭な体躯をもったそれは、果たしていつの間に隣に居たのだろう。随分と背の高い、否。人間とは思えぬ長躯のそれが、音もなく佇んでいる。
これは何だ?
いつから、ここに?
ひゅ、と息をのむ。いくら寝ぼけてるとはいえ、“これ”に気付かないのは可笑しい。後ずされば、静かにスニーカーの靴底が音を立てた時。
ぐるんと、兎は少女の方へ向き直る。
信号が、赤から青へ。
それが合図のようだった。
考えるよりも先に少女は駆け出す、“これ”は駄目だ。本能が警笛を鳴らして、恐怖は背中を震わせる。だが、足を止める方がより怖い。だって背後から確かに足音がする。そう、丁度のあの巨体が地面を踏みしめればこんな感じの音がするのだろう。
考えたくも、無かった。
どこをどう走ったかなど覚えていない。振り返る勇気などないまま、心臓が破裂しそうに早鐘を打つ。
曇天の薄暗さまでもが、酷い悪夢を見るようだった。追い付かれるかも知れぬ恐怖が迫り上がって、視界が滲む。その中で、足元で何か白いものが散った。
一歩。
二歩。
進むごとに散る白から、場違いな香りがする。
甘く、華やかなにおいだ。脳をくらりと揺らして、思考の邪魔をする。
追い付かれてしまう。逃げなければ。
誰も居ない世界で、最初に聞こえた歌を辿るように駆けて、駆けて。
「どうぞこちらへ」
不意に、はっきりとした声がした。
顔を上げる。視線の先に、あの廃教会が見える。そこだけが、差し込む光で輝いている。
辺り一面白百合で埋め尽くされた中で、まるで少女を手招くように在った。聞こえてくる歌が、賛美歌であるとそこでようやく気が付いた。
「助けてあげましょうか」
囁くような声は一体誰のものだろう。
姿は見えない。けれど心地よい声だ。差し伸べる手の代わりに、赤い|花《百合》が導のようにてんてんと咲いている。その香りはより強く脳を揺さぶって、彼女を呼んでいる。
――嗚呼、神様。
「助けて!」
見える光は温かなものに見えた。今こそ捧ぐ花に新たな願いをかけて叫ぶ。どうか今すぐ安全な場所に私を連れてと。背後に迫る異形から救ってくれと。それ以外は何も見えぬ盲目さで少女は古びた教会へと、がむしゃらに足を動かした。
いいですよ、と軽やかな声が返ってくる。
「助けてあげれば、あなたは」
穏やかな声色だ。
慈愛と自信に満ち溢れた、柔らかな声だ。
「褒めてくれますか?」
耳奥へと響く心地よさに、思考が緩んで手放したくなりさえした。けれども、そこに言いようのない違和感が混じる。
歌声は続いていた。今や鼓膜を大きく揺らすほどの音量で、賛美せよと歌っている。
(神様なのに……褒められたい?)
足元から芳しい香りがする。白と赤の花びらが舞っている。甘やかな香りがする。何かに似ている筈のそれから意識が勝手に逸れようとして、気付く。
これは――血の臭いだ。
「こちらへ」
再び声がする。
教会に差込む光はどこまでも輝いて見えた。そして、赤い花ばかりがその周りに咲いている。どれも美しく咲いて、佇んでいるだけだ。生き物の気配はどこにも感じられぬ奇妙さが、明るい場所で色濃くあった。
背後からの気配はもう随分と近い。あと一歩踏み出せば、光の元へ逃げられる。
「こちらへ」
けど何故だろう。
その一歩が踏み出すことができない。あと少しで助かる筈なのに、それを体は拒否している。
「助けてあげますよ」
今や鼓膜を突き破らんとばかりに、讃美歌は高らかに鳴り響く。
「だからどうか、褒めてください」
その中で、心地よい声だけがはっきりと聞こえていた。自信と喜びを混ぜて煮詰めたような、男の声だった。
赤い花が笑っている。
それは鮮やかで芳しい、命ばかりによく似ていた。
逃げ場など最初から何処にもなかったのだろうか。嫌な汗が、涙と共に少女の頬を伝った。心音が煩い。足が動かないのは全力疾走の結果か、それとも振り回された恐怖によるものか。
だが、それらはきっと、どうでもいいのだろう。
(もう、)
駄目だ。
そう思った時に、高く犬の鳴く声がした。
●真白の|滓《おり》
「どうして邪魔をしたんですか」
閉ざされた教会の扉の向こうから、感情の色が抜け落ちた男の声がした。
空は酷く濁った色をして、ぽつりと雨が降り出す。遠く、正午を知らせる鐘の音が聞こえている。歌は止み、差す光は既にどこにもありはしない。ただ朽ちていくだけの教会の前に、少女の姿も、それを追う巨体の姿も無かった。
残されたのは声の主だけ。
そして少し離れた影の中に、小さな白い犬が一匹。
小さく尾を振って、甘えたように鼻を鳴らしていた。
「あと少しで、久しぶりに美味しそうな、」
言い切るよりも早く、犬が鳴いた。ふわふわと真っ白い毛並みに降り注ぐ雨を、身を振って弾きながら、もう一度声を上げる。
その子の名前を読んで、男はゆっくりと目を閉じた。柔らかな毛並みの感触を足元に感じて、息を吐く。あたたかで優しい真白を瞼の裏に描いて、撫でようとした手は空を切った。
目を開ける。
傍らには何も居ない。
扉の外から、白いあの子が甘えたような声で寂しげに泣いている。きゅう、きゅう、と扉を短い前足で引っく音が聞こえる。
だが扉は固く閉ざされたまま、開くことは無い。
最後に一度、悲し気な鳴き声が大きく響いて、気配は遠くへと消えていく。
赤い花は散った。
暗闇を讃えるものなど何処にもいない。
ただ静かな白色が、重苦しく敷き詰められている。
●願
雨で洗い流された空が燃えているようだった。
夕暮れ時。傾いた茜色が、割れたステンドグラスの中を通り、朽ちた教会の床で音もなく着地する。時折吹く風が隙間から入り込んでは、積もった埃を遊ばせて、ひかりの中できらきらと踊っている。
神は既に身罷られた。
人々から忘れられて、ゆっくりとその居場所すら朽ちていく。
故に、今。
この光の中に座すものは正しさからは遠いのだろう。
栄光あれ、と讃える歌声が細く聞こえる。伴奏を奏でるパイプオルガンの音色は、記憶の中ですら掠れて久しい。けれども声だけは、未だはっきりとしていた。
あれは私の声なのだろう。
他に声は無い。
誰も、他に、私を褒める者はいない
ざわりと灰色の毛が逆立った。首筋から、尖った耳の先へ。苛立ちは体の隅々まで巡り行き、ずるりと太い尾を床へと打ち据える。それでも尚、行き場の無い怒りは腹の底で渦を巻くようだった。
その衝動のままに、夏目・晴夜(不夜狼・f00145)は祭壇に残された鏡を叩き割った。
粉々になった銀色は、一つであった時よりも随分と自由になる。小さな破片たちは耳障りな音をたて、床をめいめいに駆け回った。キラキラと、ぎらぎらと、各々に巨大な獣の姿を映し出しながら。
それは痩せこけた狼だった。飢餓で膨れ上がった腹だけが、まるで蜘蛛のように大きい。避けた口から唸る声がして、吐き出すのは暗いだけの息。紫色の瞳だけが爛々と、忌々しげに迫り来る夜を睨みつけている。
神になど成り替わるつもりはない。
元より、そんなものには興味が微塵もない。
ただアレになれば、望むものが手に入る。それだけの理由で真似ているだけに過ぎなかった。
獣の頭の中は、ただ一つの事だけが占めている。
――栄光あれ。賛美せよ。
響く歌声の軽やかさが、その歌詞を永遠になぞり続ける。
――栄光あれ。
私は素晴らしいでしょう。
この爪も牙も、毛並みも。そしてあなた方が望むというのであればその力を存分に振るいましょう。少し腹は減っておりますが、大丈夫。願いが叶った後であるならば、あなたの肉を私に差し出して頂ければよいのです。
だってもう不要でしょう?
あなたの望みは叶えて差し上げたのですから。
――賛美せよ
ねぇ、ですから、どうぞ褒めてください。
何であっても構いません、私が真に望むのはそれだけです。役に立たぬ神々などよりも、余程お役に立ったことでしょう。その身を差し出して、命乞いをして、全身全霊でもって褒めて下さいね。
――賛美せよ
このハレルヤを!
全てに価値があるとどれだけ嘯いたところで、優劣はどこにだって存在している。
だが、そうと比べるものすら無いのなら、果たして一体何より優れていると定義するのか。
それは真に劣ったものでは無いのだと、誰が分かるというのだろう?
疑問に答える声はない
何故なら此処は一匹だけしかいないのだから。
白い小さな犬も、歪な兎頭の巨躯も、何処にも居ない。
ただ沈みゆく夜の底で、灰色が一匹蹲っているだけだった。
●hallelujah
異形に追われた先に、手招く影がある。
あたたかな光一つは、天より伸ばされた蜘蛛糸にだって見えたかもしれない。
だがそれが罠では無いと誰が言えただろう? 噂という餌を撒いて、恐怖で釣り上げて、安堵という感謝を最後に得るための歪な仕組みであると、人が分かり得ることはあるだろうか?
そうして願いが叶うなどという甘やかさに、愚かにも縋ってしまうのならば。
至るは、|狼《悪魔》の腹の中。
賛美せよ。
賛美せよ。
|栄光あれ《ハレルヤ》と我を讃えよ。
嗚呼、誰か。
私を――ハレルヤの名前を呼び賜え。
成功
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