帰りたい。
そう、声にするでもなく思ったのは何度目か。
見上げれば目が回るような青空がどこまでも広がっている。
少し視線を下げると、白く霞んだ山の稜線に沿って入道雲が背伸びを始めていた。もうじき夏らしい夕立が来るかもしれない。果たしてこの依頼を終えるまでもっってくれるだろうか。
しかし夏目・晴夜(不夜狼・f00145)が帰りたいのは、予見できる雨のせいでも、終わりの見えない道のりのせいでも、じりじりと照りつける陽射しの暑さのせいでもなかった。
晴夜は目深に被った帽子のつばをさらに引いて、自分の少し前を行く少年――リュカ・エンキアンサス(蒼炎の旅人・f02586)を見遣る。
「……、……ああいえ、なんでもありませんよ」
視線に気づいたのか、ふとこちらを見たリュカと目が合い、無言で逸らされた。
どうかしましたかと首を傾げた護衛対象には無駄に丁寧にかつ誰ですかと言いたくなるくらいには好青年然とした様子で、笑みさえ浮かべている。
それに晴夜は毛を無理やり逆撫でされたような気分になったが、それでも口は開かなかった。敵以外への嫌味や暴言など褒められようがないし、何よりいちいち言うのも面倒くさい。
そんなふうに思うのも、初めてではあったのだけれども。
晴夜とリュカは行動を共にし慣れた戦友であり悪友であり、互いに遠慮なくものを言い合える。互いの性質は理解しているし、あるいは悪癖すら知っていた。
――だからこれまで二人は“喧嘩”と言うものをしたことがなかったのだ。
揉めたことがないわけではない。ただ、基本的にどちらも、悪いことをしたらきちんと謝ったし、謝られたら素直に許した。特に晴夜にとっては、そういったきちんとした行動を取れば『褒められる』というのをよく知っていたし、褒められる機会を逃す気などさらさらなかったのである。
けれどこの日、晴夜とリュカの二人は喧嘩をした。
いつものように依頼を受けて、アックス&ウィザーズの宿に一泊したのだ。景色の良い宿で、いつも通り騒がしく過ごしたはずだった。
しかし翌朝にいつも通りの応酬が不意に険悪になって、それが結局解消できないままに、次の目的地を目指すことになってしまった。
なんででしたかねえ。
正直、いまいち理由がわからないのだ。こうして思い返しても、どのタイミングで険悪になったのかがわからない。だからすぐに刺々しい気分になる記憶の展開を放棄して、晴夜は青いばかりの夏空を黙って見ながら歩いている。
それこそいつもであれば、こうして歩む一歩の十倍は口が動いているものだが、さっぱり話す気にもならなかった。
兎にも角にも帰りたい。それが晴夜の今すぐできるなら叶えたいことだ。
しかし今は依頼中だ。依頼を途中放棄すれば褒められない。ならばさっさと終わらせて褒められてから帰る方が幾分か気分の上でましだろう。
それにしたってこんな気分で仕事を続行することを誰か褒めてほしい。そうは思っても人の善さそうな護衛対象は常にリュカの隣で、その上いつもは無口なリュカが今日に限ってよく喋り、よく笑い、よく気を遣っているので出る幕がないのである。
あれ絶対ハレルヤが褒められるのを阻止してますよね。そうは思うが割って入るのだって面倒くさい。そういうわけで晴夜の視線は敵を警戒し、思考は帰ったあとのことへ飛んでゆく。大きな狼耳は、しっかりとリュカの声も拾ってはいるのだが。
(あ、帰ったらビールとか飲んでみましょうかね。こういう時は飲んで飲まれて飲んで飲み潰れて眠るまで飲むのが良いと聞きました)
飲むのか飲まれるのか眠るのか果たして結果はどれなのだろう。飲めばわかるものだろうか。
「……そうですか、それは大変でしたね。自棄を起こされる前に間に合って良かったです」
リュカの声は耳に入るが、意味としてはそう捉えずに過ぎてゆく。
(まあハレルヤはまだ一滴もアルコールを口にしたことはないので、潰れるか不明ですがね!)
今まで聞いたこともないような丁寧に寄り添う姿勢のリュカの言葉を背景にしながらも、晴夜の思考は脱線してゆく。リュカの類稀なる社会性の発露は珍しくはあるが、二十歳を越えさらに一歳を足しても未だ未知なる晴夜と酒に関するあれこれの方に気が惹かれるのは致し方ないことだ。あれは肉に合うとも聞くし。何より黙っているといつもより思考の回転が速い気がしていた。
(とりあえずビールには餃子が定番ですかね)
たっぷり具の詰まった焼き餃子がいい。焼きたての熱々にたっぷりのタレを吸わせて、ちょっと七味もかけて。極々真剣な顔のまま、晴夜は頭の中を餃子でいっぱいにする。鳴ったような気がした腹をさするようにして、腰にある剣に手を掛けた。
「――そこで動かないでいてくださいね」
リュカが護衛対象を庇って前に出るのと、ハレルヤが無言のまま刀を抜いて駆け出すのは同時だった。沈黙に徹する冷たい無表情の下で、考えているのはビールと餃子のことだけれども。
果たしてハレルヤは酒を飲んだら酔うのか否か、仮に酔うならどうなるのか。
(世界的にも興味深い事案ですよね)
それお兄さんの脳内世界の話じゃないの、と突っ込む声は今はない。ただ響くのは銃声だ。
実を言えば、晴夜は駆けながら敵の姿、その正確な位置を把握していたわけではない。ただ、数拍遅れて追随するであろう銃弾が、スコープ越しのその瞳が、自分よりも正確に敵の位置を割り出すことを『知っていた』。
銃声、命中。穿たれた弾痕を、晴夜の刀が更に深く確実に抉る、斬り飛ばす。更に次の銃弾を追う。ガ、と不意に音を変えて放たれた連射に危うく巻き込まれるところを退きながら避けた。丁度銃を構えたリュカの隣に戻ることになる。
「おや腕が落ちましたかリュカさん、この生ける国宝のハレルヤに弾が当たるところでしたよ」
「ちっ。……お兄さんこそ訛ってるんじゃない、俺の射線に入ったりして」
明らかにリュカが舌打ちした。しかしそういえば割といつものことである。それに再び晴夜も無言に戻り、新たに湧いた敵へと向かってゆく。敵がリュカの方へ吹っ飛ぶ角度で斬り飛ばす。「ちょっと」と抗議の声を狼耳が捉えてぴくっと向きを変えたがそれもさておき、思考は未だ酒の方へ引っ張られている。
(ハレルヤの名を冠したカクテルとかありませんかね。いえ作りましょう)
一体どんな酒を混ぜるべきか。色合いはやはり涼やかでクールな感じだろうか。そんなことを考えているうちに先程吹き飛ばした敵がこちらの方へ蹴り戻されて来るところだった。
「危ないじゃありませんか」
「……なに。別にわざとじゃないよ。ちょっと被害者意識強すぎるんじゃない?」
「ハレルヤが強いのは酒と敵にです。とか言えたらちょっと格好良い気がしません?」
「は?」
リュカが眉を顰めると、至極真面目な顔のままで晴夜が眼前の敵を斬り払う。その大きく振り下ろした体勢が戻るまでの一瞬を埋めるように、リュカの銃弾が先の敵を撃ち抜いた。最早その連携はするしないの問題ではなく、自然とそうなるものとも言える。そしてそれをやらないようにしようとするほうが、晴夜もリュカも神経を使った。何度か互いの攻撃を阻み、互いを盾にしようとして絶妙に上手くも行かず、結局は「めんどくさい」とふたりぶんの声が重なった。そして攻撃の陣形は、いつもと同じ形を取ることになる。
「ですから、ハレルヤの名を冠したカクテルですよ」
「……何の話? お兄さんお酒飲んだっけ」
「いえ全く一滴もまだ」
「それでなんでお兄さんのカクテルができるの」
「ハレルヤの名を冠したカクテルがないなんて、世界的損失ですよ」
何を当然なことをと言わんばかりに首を傾げる晴夜は、その片方でリュカが一発撃ち込んで転がした敵をしっかりと始末している。
「……お兄さんずっとそんなこと考えてたの? あんな真面目に怒った顔で?」
「え? ハレルヤの真面目な顔が良い? ありがとうございます」
「褒めてないからって言うか俺たち喧嘩してたんだけど」
「喧嘩? ああ、してましたっけね」
リュカに言われてやっと思い出した心地で晴夜はリュカを見返し、それから先程とは逆方向に首を傾げた。
「あれ? 何故喧嘩したんです?」
「……俺も忘れた」
言い合って、二人で同じように首を傾げ、それからリュカが浅い溜息を吐いた。
「でも俺たちが喧嘩するくらいだから、きっと|すごく大事なこと《どうでもいいこと》だったんだろう」
「そうですね。じゃあとりあえず、」
敵の攻撃が止んだ一瞬。その間隙でリュカと晴夜は向かい合い、姿勢よく頭を下げた。
「ごめん」
「すみませんでした」
そうして、頭を上げて。
「いいよ」
「いいですよ」
子供めいた、けれど正しい仲直り。ほんの二言でそれを成して、よし、と二人は顔を上げる。その先に見えていた夕立を連れて来そうな雲は、すっかりいない。
「まあなんで喧嘩してたかわかんないんだけどね」
「同じくです。とりあえずお腹が空いたので、早く終わらせて餃子食べに行きましょう」
「なんで餃子?」
「そりゃあ、ビールに合いそうだからですよ。知りませんけど」
成功
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