●|夏籠《なつごもり》
こちらになります。踏込を上がり主室の戸襖を仲居が開いた途端、広く切り取られた窓の向こう、青い海に射し込む橙が一層鮮やかで、ティルは我知らず感嘆を零した。
あおい畳。一枚板の座卓と一対の座椅子。籐編みの椅子が向き合う広縁。大切な家とはまた違う、でもふたりだけの空間。もうどこにも行かなくていい、やさしく閉じた場所。
女性が宿の説明をするのを彼が聴く。それへ淑女然と添いながら──彼女が楚々と部屋を後にするや否や、ティルは秘色の髪に弧を描かせた。
「ね、とうても素敵ね」
「うん、想像以上で驚いたな」
彼──ライラックの袖引けば眼鏡の奥で眦和らいで、その貌を見れば胸があたたかさで溢れる。
探検みたいに藤色の眸を悪戯っぽく走らせ「あ、」彼と手つなぎ窓の傍、擦り硝子の嵌まった格子戸を開いた。
「お部屋に温泉がある!」
「ああ……、これは凄いね」
愛しい彼女のため選んだ旅館だ、露天風呂付の客室であることはライラックにとって既知。しかし改めて目の当たりにするその構造は物珍しく、胸に疼いた創作意欲はでも、もちろん押し遣って。
「いつだって浸れるね」
「ええ、」
────くぅ。
彼女の眸を覗き込んだ彼へ視線を返したとき、返事をしたのは声だけではなくて。
「ン、ふふ」
耐え切れなかったみたいに口許に拳添えた彼に「……っ、」耳まで熱くなるけれど。
「先に楽しむのは夕餉のほうかな。かわいい腹の虫を収めないとだもの、ね?」
そう囁く彼の声音があまやかで、素直に肯くことすら嬉しくなってしまうのだからずるい、と彼女は彼のシャツの裾をつよく引いた。
●宝舟
「わぁ、美味しそう!」
「これはまた、凄く豪勢だね」
卓の中央にどんと鎮座するのは砕かれた氷も眩しい舟盛だ。
鮮やかな鮪の赤身にサシの眩しいトロ、澄んで艶めく烏賊に旬の鯵は姿造りに生姜を添えて。他にも弾けそうな鯛やぷりぷりの車海老などがひしめき合い大葉が彩り添えて、舟の上は満員御礼。
心尽くしの小鉢が並び、手許の小さな品書きには胸躍る品々が流麗な筆運びで記されていて、ライラックは彼女の藤の輝きに愛おしさを募らせた。
再び襖が閉じてふたりになれば、待ちきれないとばかりにどちらからともなく食前酒の小さな玻璃のゴブレットを手に取った──白桃色にとろり濁って揺れる彼のものとは違い、彼女のそれは細かな気泡と共に桃の香弾ける酒精抜き。
かんぱい。ちりんと鳴るグラスと向こう側の笑顔、大好きな桃の濃厚な味にティルの頬は自然と緩んでいく。
「妾ね、お刺身大好きよ」
「ほんとう? それは何よりのことだ。僕は……実は、これまで味わう機がなくてね」
ちょっぴりはにかみライラックが応じれば彼女の表情は蕩けるように綻んだ。
「なら、妾に初めのひと口を贈らせて?」
狼狽を瞳に過らせたのはひと瞬き。
「君が贈って、特別を足してくれるなら」
応える彼は、きっと知らない。
“同じ”に満たぬ歳の差。
──妾の知らないあなたのあることを、どれだけ、
長い睫毛が白い頬にすこぅし影を落とす。だからこそこのひと口がこんなにも愛おしい。舟の上に視線を巡らせる。一番目を惹くのは新鮮そのものの鯵。でも、初めての方に青魚は如何かしら。ああ、それなら。
あーん、とティルが彼の口許へ運んだのは醤油纏った透明にも近い鯛の身。
あーん、と雛鳥みたいに受ける彼が愛らしくて、自然と影はあたたかい微笑みのそれへ。
しっかりした歯応えは確かに他の料理では感じたことがなく、こんなにも醤油と合って身の甘みを際立たせるなんてとライラックは思わず瞬いた。
「……美味だね。想像以上だ」
「ほんとう? 良かった」
それは君が与えてくれた特別だからかもしれないけれど、頬が落ちるとはこういうことかと思うほどには胸を打った。だから、だからね。
「ええと」
──マグロのトロが一番美味なのだっけ?
「お返し。あーん」
「! 嬉しい」
途端に咲き誇る満面の笑み。柔らかなそれは口に入った途端にあまい脂が蕩け、しっかと噛むことが困難なくらいのそれは、あなたがくれるしあわせみたい。
「君の美味食むさまも僕にはご馳走だな」
「ええ。あなたの食べさせてくれるとっておき。何にも勝るお味だわ」
ゆるゆるなティルの頬に触れたい衝動を堪えるライラックの胸中を知らず──知れば触れてと望んだのに──ふたり柔らな時を噛み締めた。
●とけて
押入れから取り出す寝着とは明らかに肌触りの違うそれは、浴衣構造の湯着だ。
「ちゃんと君のサイズもあるみたい」
「まぁ。なら、」
すいと手に取ったのは彼と揃いの湯着。羽織ってみたなら裾は床に広がり、手はすっかり袖の中。
「どちらがお好み? なんて」
口許に袖に包まれた両手添えて悪戯っぽく藤色が輝く。その容はこっそり想像した以上に胸を騒がせ、ライラックは降参とばかりに額に掌添えた。
「その問いは、……どちらも好きだから困る」
「……すてき」
結局危ないからと丈の合う湯着を纏い、揃って入った浴室にティルは言葉を失った。
部屋からも臨んだ海。暗くなって観えるのかしらと思っていたけれど、大きな硝子張りの窓の向こうには小さな庭が設えられ、緑に隠されるように石灯籠が淡く灯り、木々の向こうの暗い海のおもてには星々の光が反射していた。
浸けた足先からじわりと全身へ広がる熱。檜の湯舟にふたり寄り添う。
「折角だ、のぼせるくらいに浸ろうか。……──湯上がりの君に眩けど言い訳になるから」
「喜んで。でも、」
言い訳は、だぁめ。少し視線逸らした彼の唇に指先添え、彼女は軽く唇を尖らせた。
「儘と妾に眩いては下さらないの?」
細い指先の触れた彼の唇が波打つ。ぴたりくっつく湯温とはまた違う温度に、傍の貌に、弛緩する。
「君の前では建前も形無しだね」
「そうよ。あなたのぜんぶ、欲しいの」
こんな途方もない我儘さえ許して下さる。眼鏡のない貌も見慣れた事実が嬉しくて、ティルは彼の腕を抱き込む。
「こうして旅館で過ごすのも贅沢なものだね。部屋も、温泉も、居心地がいいし」
「ん、ほんとうに」
触れ合い浸る湯は心地よくて、眸に映る湯ばかりでなく火照るあなたの横顔はかわいくて。
「でも、居心地がいいのはあなたと一緒、だからだわ」
「僕も君の傍だからこそ猶更だ」
見つめればひたと返る視線。やわらかくて、やさしくて、こんなにも愛おしい。
「こうしてぴたり寄り添って、愛おしさと幸せに蕩けて、とけて、あなたと一つになれてしまえそう。身体は無理でも心はそう在れるかしら」
更にぎゅうと距離を詰めれば、ちゃぷと水が跳ねる。
こんなにも、こんなにもめいっぱい “好き”を伝えたいのに。
「心であれば既にひとつのつもりだけど」
あなたはたったひと言で、もっともっと返して下さるの。
だからティルは大きな彼の掌に指を這わせた。
「ね、──慣れた?」
(これからも何度だってあなたとこうして浸りたいの)
湯にも甘き時にも。いつかのショコラの湯で告げた我儘を問うたなら、ライラックはあのときのように眉を寄せて、けれど微笑んだ。
心地よさに落ち着く半分。
触れる肌にそわつく半分。
「難しいよ。……新しい君の容が次々と見付かるものだから」
握り返された手に唇を寄せられ、ティルは頬の熱に自らのそれを引き結んだ。ようやく零した言葉は負け惜しみ。
「……ほんとう、ずるい」
●|春梟たち《エアルオウルズ》
互いの髪を乾かし終え、再び擦り硝子の格子戸を開くと「、」ぴたりと寄り添い整えられたふた組の布団が目に飛び込んで、ライラックは思わず息を呑んだ。
大切な棲み処の二階。ふたりでひとつのいつもの寝台。それとはまた異なる面映ゆさが、あって。
なにを思ったか寄り添っていたティルがととと布団のひとつに坐し、三つ指ついて唇に笑みを刷いた。
「──ね。いらして、旦那様」
「っ、」湯上りのライラックの頬が更に赤らみ、咄嗟に自らの口許を覆う。確かにこの春、晴れて夫婦なったけど。
「んと、こう、お迎えするものと学んだのだけれど、あっている?」
奥様っぽかった? くてりと首を傾げれば、幼妻の乾き切らぬ鈴蘭咲く髪がするりと肩から零れ落ちて。
「──余り惑わせないで、ティル」
過たずその衝撃は胸を射たけれど、だからこそ宜しくない。長く息を吐いて頬の熱もそのままに、布団へ潜り込んでぽんと隣を叩いたなら、きょとんとしていた彼女も破顔し寄り添った。
咎めるようにその小さな身体をすっぽりと腕の中に収め、ようやくひと心地。
「僕の胸に収まる、きみの温もり。そんないつもどおりも好きだな」
「妾も、あなたのあたたかさも、匂いも、すき。だいすき」
すりと胸に寄せられる頬。
いつものようで、違う。
「……けど、こうしていても帰路も恋しくなってしまうのは、それを寂しがる必要のない関係と家が待ってこそなんだろうね。それは君がくれたものでもあるが」
「旅先の特別も、帰路に感じる愛しさも、あなたが与えてくれるものよ」
彼の呟き遮り、彼女は首を振った。まっすぐな視線が、彼を見る。
「ふたりの家も帰る場所も、ぜんぶ。妾の『居場所』はいつだって|あなたの傍《ここ》よ、ライラック」
ああ、もう。
どれだけの幸せで満たしてくれてしまうのだろう、このひとは。
「……君の『居場所』であれて、嬉しい。たくさん、想い出を持ち帰ろうね。煌めく素敵と幸せを満たすように」
明日も楽しみだね。囁く声音で充分な距離が、心を鮮やかに色付ける。
「そうだ、明日の朝、海沿いを歩いてみましょう?」
「そうだね。起きられたらきっと」
「起きられなくてあなたとずぅと添い寝するのも素敵よ。忘れられないその全てを、しあわせを、あなたと刻みたいの」
それは真摯な願いごと。
蕩けてひとつの、心のための。
「おやすみなさい、あなた」
「おやすみ、ティル」
明日もその先も、ずっと、ずっと。
成功
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