食物文化研究同好会~夏は過ぎ行く
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夏休み終盤のとある日。
玄関のチャイムが鳴り、一ノ瀬・帝がドアモニターを覗き込む。
アポも何もないが、多分そろそろ来るだろうと思っていた相手が予想通りそこに立っていた。
「今行く」
短く告げて、玄関まで小走りで駆け寄る。桜色の髪に、今はどこか不安そうな紫の双眸。幼馴染の知花・飛鳥だ。
ドアを開けると、ぱっと飛鳥の表情が明るくなった。かと思えばいきなり泣き出しそうなほどに顔をくしゃくしゃに歪めて云うのだった。
「ミカ、宿題終わらへん~!」
「知ってる」
「な! エスパーか!?」
ちなみにこれは小学校からの恒例行事である。分からない方がどうかしていると帝としては思うのだが、飛鳥としては本気で驚いているようだった。
「……ちーっとばかし、手伝ってくれへん?」
「いいぞ」
「さっすがミカ!」
ついさっきまで雨に打たれた子犬のようにしょぼくれていたのに、今でははちきれんばかりに振られる尻尾の幻覚が見えるよう。現金だなと思いつつも、そのくるくる変わる表情に絆されてしまうのもまた事実で。
まあ上がって、とドアを開け、飛鳥を招き入れるのだった。
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程よく冷房の効いた室内に、氷入りの麦茶が二つ。
窓の外は気持ちの良さそうな青空が広がっているが、その下を歩いてやってきた飛鳥は額に汗を滲ませている。夏休みも終わってしまうというのに、どうしてこうも秋の気配が薄いのだろうと嘆きたくもなった。
「いやー助かったわ。ちょっとずつは進めてたんやけど、どないしても数学はドリルの後半になってくるとややこしゅうて」
「確かに、俺と一緒にやったところプラスアルファは埋まっているな」
「やろ?」
帝が教えた所はある程度理解して、その応用で解ける範囲は彼なりに頑張ってはいるようだ。いくつかミスはあるが充分許容範囲といえる。
「ミカが折角教えてくれたのに、教え損やったなんて思われたないしな」
「そう、か」
不意打ちのラブコール(ラブではない)に、今日も帝は一人必死に冷静を装う。案外洞察力の鋭い飛鳥が、こんな時ばかりやけに鈍いのが救いだった。
他教科のプリントもその調子で順調に片付いていく。しかしもう一つ大きなものが残っていた。――即ち、夏休みの日記である。
「なんで高校生にもなって日記の宿題があるんやろなぁ」
「確かに。難関大学を受験する三年生とかどうする気なんだろうな」
今日は塾に行きましただの自習していましただのと毎日書くのは気が滅入りそうだと帝が呟けば、飛鳥がうげっと大袈裟に顔をしかめた。
「採点する先生まで気が滅入りそうやん……あれ、ミカ、この日何かあったっけ?」
「その日は俺と一緒にアイスを食べに行っただろう」
「あー、そうそう! あれめっちゃ美味かったんよなぁ。また行こうで!」
「ああ。それでこの日は甲子園まで野球を見に行っただろ」
「試合は残念やったけど、ミカとぎょうさん関西グルメ巡ったんは楽しかったなあ」
自分の事みたいにもらい泣きしている飛鳥の涙が眩しくて、帝にとっては自分の想いを再確認した日でもあった。
「そんでこの日は遊園地に……ミカなんで震えとるん?」
「少し寒くてな。冷房が効きすぎているようだ」
遊園地での飛鳥の悲鳴を思い出してしまい、笑いを堪えていた……と正直には云わない優しさである。
「そうか?」
勝手知ったる幼馴染の家とばかり、飛鳥がリモコンで冷房の設定温度を上げていた。
「夏祭りに行って、スイカ食べて……こうして振り返ってみるとミカとの思い出ばっかやんな」
まあ今年に限った事やないんやけど、とはにかむ飛鳥に、つられて帝も頬を緩める。
「そうだな」
その時の光景はスマホで簡単に切り取れても、思い出というものは少しずつ薄らいでいくものだ。
たとえそれが夏休みという小さな枠組みの中であっても。
それを振り返る機会が貰えるのだから、なるほど日記というものも悪くはないのかもしれない……なんて。
「はぁぁ、終わったー!」
「ドリルやらプリントはさておき、日記は後半に纏めて書くものではないと思うけどな」
――いや、やっぱり日記本来の意図とは違う気がするなと思い直す帝ではあった。
「終わればよし!」
ピースサインで見せびらかされる飛鳥の日記の最終ページは、「今日はミカと一緒に宿題を頑張った」で締めくくられており。
(「……夏休みあと数日、飛鳥が日記をサボってくれてもいいのにな」)
この後に帝が知らない飛鳥の日常が付け加えられてしまうのが勿体ない気がして、そんな事を思うのだった。
ちなみに「そろそろ飛鳥が泣きついてくるだろう」と踏んでいた帝自身は、ここ数日間は何かイベントがあった日でも陽が落ちるまでは日記を書かない事にしていたという。飛鳥との思い出に勝る日記の題材なんてないからである。
「あとは読書感想文で終わりや」
「お疲れ。肝心の本は読み終えたのか?」
ぎくっ、と飛鳥が露骨に身体を強張らせた。
「……は、半分くらいは」
半分読めているのなら、いざとなればそれまでの内容でそれっぽく仕上げる事は出来るだろうと帝は思ったが。
(「でもそれじゃ飛鳥の為にならないし、何より本を読む飛鳥をじっくり眺めるというのも悪く無さそうだ」)
というわけで、その小狡いアドバイスはしない事にしておいた。
「それなら少し休憩してから読むか」
疲れが取れるように甘酸っぱいジュースでも持ってくると、帝は席を立つ。背後から飛鳥の不満が聴こえてきたが聞き流しておいた。
ジュースをふたつ、それにサプライズで飛鳥の好きなお菓子をお盆に乗せて、帝が部屋に戻ってくると。
「……飛鳥?」
取り敢えず宿題の目途がついた安心感と疲労で、なんと飛鳥がすやすやと寝落ちしているではないか。
しかも、帝のベッドの上で。
(「……これは」)
子どもの頃からの親友という事で意識しないようにしていたが、そもそも意中の相手が自分の部屋に通ってきているという時点で充分すぎるほどに刺激の強いシチュエーションである。挙句いつも自分が使っているベッドの上で、しかも無防備に寝転がっているのである。
「お前なぁ……人の気も知らないで」
真上からの部屋の照明を受けて、白い頬に長い睫毛が影を落としている。むにゃむにゃと不明瞭な寝言を発する口元がどこか幸せそうで。
先日都合のいい妄想に巻き込んだ黒歴史も相俟って、何ともいえない感情が湧きあがってくる。
「酷い目に遭わされても文句はいえないぞ、これは」
もし飛鳥が今目を覚ましたのなら、“ミカが俺に酷い事するわけないやろ?”なんてあっけらかんと返すのだろう。全くもってその通りだ。無防備な頬にキスをする事すら、自分には出来そうにないと自覚している。嘆かわしい事に。
「まあ……このくらいは許されるだろう」
恋愛的な手出しを一切しない代わり、頬を思いっきり引っ張ってやった。
「いだだだだ!?」
「ほら、起きろ。もう少しだ」
いい眠気覚ましになっただろうなんてからかってやる。
「もっとマシな起こし方絶対あったやろ!?」
摘まんだ頬は大福みたいにすべすべで柔らかかった。
――ああ、こんなところまで、子どもの頃から変わっていないんだな。
成功
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