ケルベロスディバイドと縁が結ばれた時、父たる男は迷わず新たな世界へと渡った。
(今度こそ、きっと――否、必ず)
根拠なき確信を胸に、男は|新世界《ケルベロスディバイド》を彷徨った。
その姿が、風の噂のように|異なる世界《ケルベロスブレイド》へと伝わるほどに。
(そんな……まさか?)
娘たる女は疑いながらも、蜘蛛の糸に縋る想いで|門《ゲート》を潜った。
そして|血《薔薇》は引かれ合う――。
『萌芽』
その日は、記憶にある世界との違和感に、園守・風月(薔薇花園の守人・f37224)が不安を覚え始めて幾らか経った頃だった。
薔薇に喰い破られていない左の眼に映る景色の差異は、経年変化に収まる範囲だ。だからこそ風月は、これまで以上の熱心さで妻子の姿を探し求めた。
けれど本能的に察した『違い』が、風月の裡に焦燥感を芽吹かせた。
限りなく近しいのは間違いない。しかし根本的な部分で何かが違っている。
(もしかしたら此処も……)
過った絶望に、風月は寄る辺ない異邦人の佇まいで立ち尽くす。
明るい陽射しまでが疎ましく、風月は右手で視界を覆った。その指と指とで切り取られた視野に、風月は奇跡を見る。
「――っ!」
端を掠める花弁の悪戯だとは思わなかった。思うより早く、懐かしい後姿に、風月の身体は勝手に動いていた。
転がるように駆け、腕を掴む。
「花音、っ」
咄嗟に呼んだのは、妻の名だった。それほど彼女は、風月の記憶の中の妻と重なった――背格好は勿論、まとう雰囲気までもが――のだ。
なれど高く結い上げた髪を揺らして振り向いた顔は、妻のものではなかった。なかった、けれど。
「……お父さ、ん?」
突然の出来事に見開かれた淡桃色の瞳から警戒が溶け、代わりに喜色が浮かぶ。
(――ああ)
目の当たりにした現実に風月は、無い筈の心臓がひとつ大きく、大きく大きく音を立てかの如き感覚を味わう。
「てま、り?」
「っ、お父さん!!」
呼んだ途端、彼女――四月一日・てまり(地に芽吹いた花兎・f40912)の表情が、太陽のように明るくなる。
そうだ。風月が腕を掴んだ女は、風月の娘の一人の『てまり』だ。父と呼ばれたからだけではなく、頭ではない何処かで風月は理解し、確信した。
どうして娘が、自分と殆ど変わらぬ年頃になっているかなど、込み上げる歓喜の前では些末事だ。
「てまり」
繰り返した名に、てまりの貌へ痛みが浮かぶ。それは自身に咲く花に、幼かった娘が見せていた貌で。
「うん、お父さん」
だが頷きを返すてまりの目元は、溢れる嬉しさにすぐに蕩けた。
「あのね、お父さん」
死別したとばかり思っていたろう父との再会に、娘は人目も、息を継ぐのも忘れ、思いつくままを語り出す。
酸欠や熱中症で倒れやしないだろうか。父の顔で|娘《てまり》を案じた風月は、それとなく場を街路樹の影へと移した。
「あのね、それでね」
はしゃぐ仔犬の口振りで、てまりは様々を語る。
近況はもちろん、双子の妹――風月にとっては、もう一人の娘――のこと、結婚したことも、思いつく限り全て、すべて。
「今日もね、ちゃんと断りを入れてからこっちへ来てるんだよ」
「よい家庭を築いているようで何よりだ」
姿形は大人になったが、幼い頃と変っていないらしいてまりの|性質《タチ》に風月の口元にも微かな笑みが浮かぶ。それくらい、風月の気も緩んでいたのだ。故に風月は違和感を拾い損ね、訊ねてしまった。
「お前の母は、壮健か?」
「ッ、……あ」
――てまりの変貌は、劇的だった。
「……お、」
高揚に赤らんでいた顔は一気に青褪め、肩から始まった小刻みな震えは、見る間に全身へと伝播していく。
少しでも考えれば、分かったはずだ。そもてまりが触れない事の方が不自然に過ぎる。
「お母さんは……」
聞かずとも察してしまえる答えに、風月は再び、無い筈の心臓が早鐘を打つ心地を味わう。
「てまり、もう――」
「っ、お母さん……死ん、じゃっ……たの」
「――っ、」
覚悟はしても、掠れて細いてまりの声が紡ぐ『真実』に、風月は息を呑んでしまった。
(花音が、死んだ?)
父の白く濁った左眼に、てまりは苦し気に眉を寄せ、口を噤む。
風月の居ない世界で、てまりは母に否定され、その言葉を鵜呑みにし、母を守れなかったという地獄を視た。
それでもてまりは受け止め、乗り越え、胸を張れるようになった。決して容易なことではなかった。それだけに、風月を見るてまりの双眸はどうしようもなく揺れる。
父が母を深く愛していたのを、てまりは幼心にも理解していた。その父への告白は、てまりにとって懺悔そのもの。
「私が……私が、助けられた、はず……だったのに……――ごめんなさい……、ごめんなさ、いっ」
「――!」
ふ、と。娘が紡いだ謝罪の言葉に、失われかけていた風月の理性に火が燈る。
俯いてしまったてまりの表情は、風月からは窺い知れない。なれど頬を伝うものこそないが、てまりが殆ど泣いているのに等しいのを、風月は『父』として悟る。
てまりは、上の娘であるのを早くに自覚し、滅多に泣かない子であった。それこそ赤子の時分か、己の今際の際の時くらいであったと風月は記憶している。
そのてまりの激情の在処を、風月は知らない。それでも今のてまりは、父からの謗りに怯えているように見えた。
(……娘を怯えさせてどうする)
「――お前の手には、余ったのだろう」
風月はそっとてまりを抱き締め、あやすように一度、二度と、背中を軽く叩く。
「お前のことだ、護ろうとしたんだろう? 右腕を……そんなにしてまで」
言いながら風月は、てまりの右腕を労わるように撫でた。いつの間にか火吹くようになったそれは、てまりが経た辛苦の証左に思え、風月は娘を抱く腕に力を込める。
「何も、引け目になど思うな。お前は、自慢の娘だ――俺にとっても、花音にとっても」
「っ、お父さんっ。お父さんっ、お父さぁん……っ」
ついに泣き出したてまりが、風月の胸にぎゅっと縋りつく。己がモノより随分と高いてまりの体温に――そも、風月の体温は死者のものだ――、風月は裡側の空隙が埋められていくよう錯覚する。
果たして自分の言葉は娘へ届くのか。気休めと取られないことを願う父の想いは、徐々に溶けゆく娘の強張りから知れた。
「……お父さん」
泣き晴らした目でようやく父を見上げるてまりの、安堵と幸福が綯い交ぜになった貌に、風月は円い息を短く吐く。
花咲くような笑顔とは、まさにこのことだ。てまりは風月の言葉を信じてくれたのだ。
「ありがとう、てまり」
口を吐いた感謝に、風月は人らしき感情の一切を乗せる。父として、この上なく倖せな一時を過ごしているのは間違いない。しかし同時に、風月は心の片隅で思ってしまうのだ。
(……あいつは、死んだのか)
長じてよく似た面差しとなった娘を前に、風月は再会の叶わなかった妻を想う。
受け入れがたい事実だ。されど風月の心に慟哭の嵐はない。むしろ凪いでさえいる。
数多の輪廻が廻る広大な世界に於いて、もはや『死』は絶対的な絶望たりえない。何せ風月自身、一度は死した身の上なのだ。
(花音――)
忘却の彼方より記憶を――自分を取り戻した男は、心の中で妻の名を唱え、新たな芽を息吹かせる。
成功
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