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中学三年生の初夏。
配布される進路希望調査書が、より現実味を持った選択を迫ってくる時期だ。
――提出期限は今週末です。親御さんともよく相談して決めるように。
担任の声をどこか遠くに聞きながら、一ノ瀬・帝は密やかに深い溜息をついた。曖昧にしていた進路は、そろそろ確たる答えを出さねばならない。そんなことはわかっているのだが。
ホームルームの間中迷ったシャープペンシルは、遂に意味のある文字をひとつだって綴ることが出来ないまま。
ふと眺めた窓の外。雨に洗い流されたばかりの空で照る太陽の光が、帝の手元の調査書の空白と重なっていやに白々しく思えた。
帰宅しても、帝の懊悩は変わらぬまま。
数日経っても自室の机に置いた進路希望調査書には、名前以外を書けないでいる。
なかなか調査書を提出しない帝に担任が声をかけてくれたが、やはりそこでも具体的な高校の名前は出せなかった。
帝の成績は学年でもトップクラスだ。この成績ならばレベルの高い進学校だって挑戦出来ると担任は言うし、帝自身も確かにそう思っていたが、そもそもに帝が進学先を決められないのは別の理由がある。けれどもそれを担任に相談するわけにもいかず、結局「もう少し考えさせてください」とだけ告げて職員室を退出した。
帝が進学先を決められない理由。それは、幼馴染の知花・飛鳥の存在だ。
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「あっついわぁ。雨上がりの晴れってなんでこんなお日さん強いやろ」
夏服へと衣替えした白いYシャツの襟もとを掴んで、知花・飛鳥はうんざりしたように眉を下げた。
いくら襟をぱたぱたとさせてみたって、微々たる空気の動きがほんの少し感じられる程度。浮かぶ玉汗を乾かすには至らなくて、結局手の甲で汗を拭いながら飛鳥は傍らの帝を振り返る。
先程から――、否。ここ数日ずっと、帝は難しい顔をしていた。
いつもあまり表情が変わらぬ帝だが、長年の付き合いである飛鳥にはなんとなく違いがわかる。切れ長の涼やかな目元が、少しだけ顰められているのだ。だが難しい顔の理由が何かまでは、悲しき哉飛鳥にはわからなかったけれど。
「なぁなぁ、ミカは高校の第一希望どこにするん?」
だから気分を変えてやろうと思って、軽い話題を振る。飛鳥の問いにはっとした帝が飛鳥を見た。
「……まだ悩んでいるところだ。そういう飛鳥は?」
帝が一瞬じっと飛鳥を見つめたような気がした。――気のせいだろうか。
「俺? 俺は家の近所にある男子校にしよっかなって。徒歩で通えるし!」
もともと飛鳥の成績は良い方とは言えない。必然的に選ぶことが出来る高校だって限られてきて、その中で条件が良く飛鳥にも合いそうな高校を選ぶとなるとそこが一番自分に合っていると思ったのだ。
ただそれだけのこと。
「近くの男子校……ああ、あそこか」
「ちゅーてまあ、ちっとベンキョもせなマズいんやけどな!」
頬を掻いて笑えば、帝からふ、と零れる呼気。表情は変わらなかったけれど、それが帝の微かな笑いだ。微か顰めていた眉根も解けていたから、飛鳥もまたへらりと頬を緩めた。
その笑みを見た帝の胸が、きゅっと締め付けられる。
――嗚呼。そうやって無防備に笑う君は、この懊悩など欠片も知りはしないのだ。
桜色の髪を風に揺らして綺麗に笑う飛鳥。何も知らない君。その微笑みを、どうしてかずるくて残酷だと思う。
「ミカは頭ええから高校も選び放題なんやろなぁ!」
「いや、そんなことは……」
言葉を濁した帝を、飛鳥は不思議そうに覗き込んだ。
帝の成績がいいことなど飛鳥は知っている。選ぶことの出来る選択肢の数など飛鳥の比ではないのだ。秀才ばかり通うような進学校だって、帝が望めば手が届かぬ場所ではないだろう。
飛鳥の言いたいことは、帝も十分すぎる程に理解している。けれど。
胸の内にある言葉を一つだって声も表情にも乗せないまま、帝は飛鳥を覗き見る。
こんな時、帝は自分の感情が表情に出にくい性質でよかったと思う。この感情を顔に出さないから、飛鳥は帝の心に気づかないでいてくれる。いつまでも、気づかないまま。
(俺が選びたいところなんて、そんなの「飛鳥がいるところ」一択なんだ――)
何処だって選び放題なのではなくて、はじめから一つなのだ。
けれどもそれは具体的な名前ではなくて。幼馴染であり親友であり、長く片思いをしてきた飛鳥と同じ場所。ただ、それだけ。
「大きくなったらミカと結婚する」
幼き日にありがちな、可愛らしくも真摯で、けれども大人になるにつれ忘れ去られる誓い。
飛鳥が告げて忘れてしまったそれを、帝はずっと覚えている。飛鳥が覚えていなくたって、そうなりたいと想い続けている。
一途すぎる想いは変わることなく、それは友情ではない想いなのだという自覚だってずっとある。けれども飛鳥が帝に向けてくれる感情は、あくまで友情なのだと。それだってずっとずっと分かっているのだ。
自分と飛鳥の成績に大きな開きがあることも分かっている。
帝のレベルに合った高校は飛鳥の進学先の選択肢には入らず、故にこそ担任がかけてくれる期待のままに進めば、帝と飛鳥が通う高校は別々になるのは必然であった。
けれども高校が別々になってしまえば、当然飛鳥と一緒に居る時間は今よりも格段に減ってしまう。
飛鳥は感情表現が豊かで親しみやすい。社交的で快活な性格と優しそうな目を持つ飛鳥は、新しい学校でもたちまちのうちに新しい友人を見つけるだろう。
その中にもし、帝以上に気が合う誰かが居たら?
それだけならいざ知らず、帝の知らないところで飛鳥が恋人を作ってしまったら?
進路を考えるたび、同時に浮かび上がる不安。こんな想像なんてしたくないのに否応にも想像してしまって、そのたび帝の胸が強く締め付けられて苦しかった。
この不安を拭い去りたいなら、飛鳥と同じ高校に行くのが最善だろう。だが同時に、帝自身を見下ろすような現実的な思考の帝も囁くのだ。
こんな理由で高校を決めてしまっていいのか?
片思いの相手を想うあまり、心配が行き過ぎてはいないか。流石に女々しすぎるのではないか。将来を考えた時、本当にこんな選び方をしていいのか。
そしてその選択を、飛鳥はどう思うのか――。
乾いた喉が水を求めるように答えを渇望するのに、同時に答えを知るのが怖くて聞けはしない。
結局は堂々巡りを繰り返す思考に今も溺れている。飛鳥が行きたい高校が分かったことは僥倖だが、己の答えを出すにはまだ勇気も決意も足りなくて。
そんな時。選択肢と自分の願いの狭間で動けないままでいる帝に、手が差し伸べられた。
「でも正直言うとな、高校もミカと同じやったらええなぁって。そしたら絶対三年間楽しいやろなぁって思てんねん!」
あまりにあっけらかんと齎された飛鳥の願いに、帝は一瞬言葉を忘れて呆けた。青天の霹靂とはこのことか。
飛鳥が帝を見て、朗らかに笑っている。
すぐに頷きたかった。けれども出来ない。その願いに舞い上がることを、帝の自制心と不安が許さない。
「……。お前ならすぐ新しい友人も出来るだろうし、俺がいなくてもどうってことないんじゃないか」
だから、口をついて出たのは何処か拗ねたような言葉だった。口にしてから「しまった」と思い、帝は思わず視線を逸らす。
違う。こんな風に言いたかったわけではない。もう少し穏やかに、冷静に、何でもない風に言おうと思ったのだ。なのに上手くいかなかったのは、飛鳥の予想外の言葉に少なからず動揺してしまったせいだろうか。
同じ高校だったらいいのにだなんて。
そうしたら絶対楽しいだろうなんて。
飛鳥もそう思ってくれていたなんて。
(……嬉しくないわけがないじゃないか。だが……)
帝の心の中で鎌首をもたげる不安が、歓喜を締め付けて思い上がるなと囁く。
お世辞かもしれない。飛鳥は優しいから、帝の様子を気にかけてそう言ってくれているだけかも。
嗚呼。期待と不安でこんなにも胸が苦しいのに。まるで心が梅雨の重く黒い雲に覆われてしまったかのようだ。
それなのに。
「えー! 友達何人いたってミカは特別やし! 離れるとか嫌やもん!」
飛鳥と来たら「当然だろう」とばかりにきっぱりと告げて、何を言うのかと唇を尖らせる。お前は違うのかと眼差しが問うている。
「……本当に?」
「ほんまに!」
あまりにも唐突に齎された一筋の強い光。思わず問い返せば、間髪置かずに是が返る。
まるで雨上がりの雲の切れ間から差した太陽のようだと思った。あまりに突然で、眩しいひかりのような言葉が、帝の目を丸くさせる。
真っすぐに帝を見て笑っている飛鳥の言葉には一欠片だって嘘はなかった。目を見たらそれがわかってしまった。
(ああ、もう)
飛鳥がくれたたった一言が、あんなにも帝を悩ませていた不安を綺麗に吹き飛ばしてしまった。
その一言はあまりに明瞭で眩くて。道がわからず歩みだせなかった帝の足元を太陽みたいに簡単に照らし出してくれる。
(本当にこいつは、ずるい)
なんだか脱力した。は、と吐き出した呼気に微か笑みが混じる。
帝の想いなんて知らないくせに、飛鳥は帝の欲しい言葉をくれる。それがたまらなくずるくて、たまらなく愛おしくて、やっぱりずるい。
「……なあ、飛鳥。俺、」
他ならぬ飛鳥がそう望んでくれるなら、帝が進むべき道は定まった。
不安も心配も、もう帝の心を曇らせない。
帝が行きたい高校へ行こう。飛鳥が居る、飛鳥と同じ高校へ。
次の日。進路希望調査書にたった一つの高校の名前を書いて、帝は担任に提出した。
帝の成績的には随分レベルが低い高校だったから、担任は大層残念がったけれども。帝にはひとつも後悔はない。
幾度も本当にその高校でいいのかと聞く担任に、「そこがいいんです」と帝は何度だって頷いた。
雨上がりの空、差し込んだ光芒は眩く道を照らしている。
成功
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