線のような光に切り裂かれ、青黒い夜が徐々に白んでいく。
瞼に刺激を受け、エン・ジャッカルは目を覚ました。寝ている間にくっついた葉や細い草を払いながらあくびをする。冷えきって炭になった焚き木と草露。相容れない匂いが混ざって流れ込んできた。
まだまだ暗い視界の端に、相棒であるアヌビス号が停車している。淡い紫色の機体は山の情景とはやはり馴染まない。立ち上がり、犬の頭部に似たパーツをエンは撫でた。
野営の道具を撤収し、バッグパックを背負う。アヌビス号に騎乗しようとして、途中で動作を中断する。
エンはアヌビス号を手で押して、ゆっくりと歩き出す。顔は日の昇る方向へ向いていた。
空が鈍い速度で朝に変化する。辺りを覆う闇が薄まり、おぼろげな白が広がり始める。
日の出を眺め、エンは懐かしい感覚に浸っていた。
旅が始まったあの日も、こんな光景を見た覚えがある。生まれ故郷を捨て、旅に出る決断をした日。足裏に伝わる土の凹凸、荷物を詰めた鞄の重量。何もかもがどす黒い不安に包まれていた。
記憶が頭の裏側で蘇る。薄らいでいく闇を進みながら、エンは回想する。
全ての始まりは、8歳のときだった。
●
「なぁ。自主訓練、エンは誘わなくていいのか?」
「いいよ。だってあいつ、どうせ部屋から出てこないだろ」
「いてもいなくても変わんねぇし。多少動きはいいけどさ」
「肝心の影の術があれじゃ、訓練になんないしな」
ぞろぞろと、窓の外を同年代の子どもたちが歩いていく。
完全に通り過ぎたのを見計らって、エンは窓から彼らの後ろ姿を眺めた。
言いたい放題の寸評に身を震わせる。何か言い返したいとも思ったが、さっきの言葉が自分の中で膨らむうちにその衝動はしぼんでいった。
やがて小さく息を吐くと、エンはぴしゃりとカーテンを閉めた。
「言われてたことは、間違ってない……」
自分は影を巧みに操れない。だから、何を言われても仕方がない。
同年代の彼らの言葉は優しい方で、大人たちはもっと容赦がない。直接的にこそ言わないが、自分に対して露骨なほどに冷淡だ。7歳の子どもでも気づいてしまう程度には。
冷たくあしらってくる大人を思い出し、鬱々とした気分になる。何かをする気力がなくなって、エンはベッドに寝転がった。
今日はもう眠ってしまおう。目を瞑る。眠りを意識するとかえって眠れなくなった。
暗い寝床で思考ばかりが渦を巻く。
「やっぱり父上も、迷惑がっているのかな……」
同じ集落に住みながらも久しく顔を合わせていない父親のことを、エンは考えた。
教団『プァルク』の拠点は人里離れた場所に位置していた。
属する人々は社会から隔絶され、自給自足の生活を送っている。農耕や機織り、果ては建築や子どもの教育に至るまで、全てが集団の内部で完結していた。
文明から独立した一極集中の社会構造。約五百年前からその形態を維持してきたこの教団において、そうした生活は人々の常識となっていた。
一人は全てのために、全ては一人のために。
頭目のために全ての人員は手足として動き、その働きが個々人にも循環する。いわば蟻や蜂の社会と同じように、統率された意思によって動く。ときには非道とされる行いすら、集団の中で容認されてしまう。
そのため、異分子は冷遇される傾向にある。
そんな集落に、エンは異端な存在として生まれ育った。
プァルクでの評価の指標に、自身の影をどれだけ操れるかというものがある。影を使って攻撃や物体の構築などを行うこの能力は、教団では『影の術』と呼ばれている。それをどの程度まで高められるかは、生まれ持った才能に大きく依存する。
エンはその才能に乏しかった。物体構築は小さなナイフを造形できる程度。辛うじて影から狼を生み出すことはできたが、攻撃性はまるでないという代物。同年代では実戦レベルで強力な武器や獣を構築できる者もいて、エンは完全に遅れを取っていた。
影を扱う才能の度合いは、教団での将来的な貢献度に直結する。影の術の才能に乏しいということは、教団にとって役に立たないということ。
周囲からの理不尽な冷遇は、エンにとっても理解できるものだった。たとえ外の世界で異様だったとしても関係がない。
エンには、プァルクこそが世界の全てなのだから。
●
真夜中。エンの暮らす寮を、独り尋ねる人物がいた。
集落の子どもが集められ、生活する場所として設立された木造の寮。一人一人に与えられた自室から子どもたちは学校に通い、夜は寝に戻る。深夜ともなれば起きている者はいない。最も、起きていたとしても気付けないだろうが。
音を殺し、彼は廊下を歩く。一切の足音を立てず、それでいて自然な速さで。エンの部屋まで辿り着くと、彼は静かに扉を開いた。
閉め切られたカーテンの隙間から、わずかながらに月光が差し込む。ささやかな光が彼の姿を暴く。髪は灰色、教団の高位の者だけが着用できる衣装を纏っていた。
黙したまま、灰色の髪をした男――プラウドはエンを見つめる。エンの短い藍色の髪を、物惜しそうに眺めていた。
プラウドこそ、エンの父親だ。しかし顔を合わせたのは久々だった。この場も決して会っているとはいえないが、それでもこれがプラウドにできるただ一つの行動だった。
プラウドは教団の幹部を務めている。功績が認められたためでもあるが、一番の要因は影の術の才覚だった。プラウドは教団でも突出しているほど影の操作に長け、今では教団の要ともいえる存在だ。頭目である総代の息子ということもあり、次の総代だと期待する教団員も多い。
故に、エンとの接触はできないでいた。全ての者が組織のために働く社会構造においては、階層の上位にいる者は下位の者に平等に利益を還元せねばならない。
親子であっても、触れ合うだけで不信を煽ってしまう。社会そのものが崩れてしまう。ただ話すだけでも教団員が疑心を抱き、間接的にエンを傷つける。
接触を避けていたのはエンも同じだった。期待外れの自分が息子で、父の足を引っ張っているのではないか。もしはっきりと拒絶されたら。その不安がエン自身をプラウドから遠ざけた。
教団の存在。それが互いを引き離し、すれ違いを生じさせていた。
声をかけようとしてから、プラウドは口を噤んだ。隣の部屋にいる子どもを起こすかもしれない。過剰すぎる警戒だと思いながらも、プラウドはエンの眠るベッドから離れた。
懐から本を取り、プラウドは部屋の机へと置いた。旅日記、と乱雑な文字が表紙に書かれた本は、日記と呼ぶには少々分厚い。
題の下に記された名前を見て、プラウドは薄く笑った。
アズール・ジャッカル。プラウドの妻にして、エンの母親。
もうこの世にはいない人。エンと同じく、髪は藍色だった。
弾けるような笑みを、プラウドは思い出す。活動的なアズールは自分とは正反対だった。最初は敵対していたはずの彼女と惹かれ合い、最後には夫婦にまでなった。
その彼女の忘れ形見である息子に、こんなことしかしてやれないのか。自責の念がプラウドの心を刺す。
それでも、これを託すことに意味はあるはずだ。今は亡き母が綴った日々。外の世界からやってきた彼女が見た、彩りに満ちた世界。
世界はプァルクの外にも広がっている。この集落に閉じ籠っていては体験できない、刺激的な外界が。
もしも、エンが彼女と同じ素質を持っているなら。
そう想像して、プラウドは途中で考えるのをやめた。長居は禁物だと部屋を去ろうとする。ふとエンを振り返り、誰にも聞こえないように呟く。
「誕生日おめでとう、エン」
何も発さず、黙って立ち去るつもりだった。だが、言わずにはいられなかった。祝いの言葉を向けるか否かが、父親として最後の境界線だと思った。
カーテンの隙間から差す光が朝日に変わる。
目覚めたエンは部屋に気配を感じ取った。身を起こして辺りを見渡すが、誰の姿も見当たらない。
寝ぼけているのかな。ベッドから立ち上がると、机に昨日までなかった本が置かれているのに気づく。
「あれ、本なんて読んでたかな……」
本を手に取り、表紙を眺める。意外な重さを感じながら、エンは目を見開いた。
「母上の……旅日記?」
母親の名前と旅日記という文字を見て、エンは言葉を零す。
母は昔、旅人だったと聞いている。生まれ故郷を飛び出し、世界の様々な場所を渡り歩いていたそうだ。最後にはプァルクの集落に忍び込み、出会った父と恋に落ちた。
自分を生んで、母は亡くなった。それがエンの知る母の物語。ただ、旅をしていた最中のことはよく知らない。日記にはその旅の記録が綴られているのだろう。
誰が母の日記を。
思い当たるのは一人しかいなかった。
「父上……?」
扉を開けて廊下を覗く。早朝の廊下には誰もいない。既に立ち去った後だと悟り、エンは部屋の椅子へと腰掛けた。
「そういえば誕生日だったっけ……忘れてた」
父からの贈り物を嬉しく思いつつも、やはり会ってはくれないのだと寂しさも覚える。とはいえ、それはいつものこと。エンの意識は別の方向に向き始めていた。
うずうずと、旅日記を持つ自分の指が踊る。
母上は、どんな景色を見てきたのだろう。どんな路を通って、この場所に辿り着いたのだろう。いつになく興味を惹かれた。
本を開き、エンはページをめくる。
綴られた冒険譚は、外を知らないエンにとって眩しすぎるほどだった。
これが全ての始まり。エンが8歳のときだった。
●
母は様々な冒険を繰り広げていたらしい。
あるときは古代遺跡を歩き、またあるときは都市の裏側に潜入した。密林、砂漠、雪国、山脈。空から海まで、世界全部がアズールにとっては冒険の舞台だった。
自分の目で確かめたい。強すぎる好奇心で困難に挑み、最後には打ち勝つ。怪物や敵組織に遭遇しても、持ち前の身体能力で薙ぎ払う。本当かと思わなくもないが、格好いいには違いない。
閉鎖的な集落で、アズールの冒険譚だけが光を放っていた。
エンは何度も繰り返し旅日記を読んだ。
学校から帰ると自室に戻り、すぐにアズールの日記を開く。綴られた母の冒険は読み返すのも大変なページ数だったが、エンは何の苦労も感じなかった。
濃密な冒険が本の内側に記されている。読み返しても読み返しても、新しい発見がある。
今日はこの冒険、明日はこの冒険。国々や文化の知識と一緒に、母が感じた情動を知る。尽きない水源のような記録がエンを満たしていく。
眠くなるまで、エンは旅日記を読み続けた。日が暮れても、傍らにランタンを置いて読書を続ける毎日。
旅日記を読むのが習慣になるのは自然なことだった。
だから、プァルクの価値観が絶対ではないと思うようになったのも、ある意味では自然なことだったのだろう。
最初は純粋な疑問だった。
ある日の授業中。農業の方法を教える科目にて、エンが手を挙げて質問する。
「全部を自分たちでやらなくてもいいんじゃないですか?」
教室の全員がエンを見て、唖然としていた。凍った空気をどうにかしようとして、エンは続きを説明する。
「自分で食料を作るのも大事だけど……やっぱり大変っていうか。外と取引して余裕を作った方が、みんなも好きな時間を作れるだろうし――」
「エン」
教師に制され、エンは話すのを止めた。教師の声はひどく冷めていた。
「好きな時間とは何だ? 私たちは総代のために働かなくてはならないんだ。怠けてはいけないだろう」
「そうですけど、食べ物が間に合うならそういう方法があっても――」
弁解する中で、エンは自分に向けられた視線に気づく。
落ちこぼれが何を、と言わんばかりの苛立ち。周りの生徒が自分に負の感情を集中させていると察し、エンは「すみません」と言って席に座った。
学校が終わって自室に戻ったエンは、今日の出来事を振り返った。
「やっぱり変だと思う方がおかしいのかな……」
言いながら、机に置いた日記を開く。母が旅した国々には市場と呼ばれる場所があった。取引によってお金や物品を交換する場所で、自分が何かを差し出す代わりに相手の品を入手できる。
「プァルクも外と交易をやればいいのに」
その方が楽だろうに、何でやらないんだ。
息を吐き、エンは悶々とした思考を切り上げた。
「こっちが絶対に間違っているわけじゃない」
アズールの日記を握り、エンは独り頷いた。
それから、エンは質問を繰り返すようになった。
プァルクでの暮らしには疑問を呈したくなることがいくつもあった。どうして今まで何も疑わず過ごしていたのかと、昔の自分に聞きたくなるくらいには。
気になった風習にぶつかるたび、エンは周囲の人々に尋ねた。
「なんで?」
「どうして?」
「変えないことに意味はあるの?」
疑問をぶつけられた生徒や教師には苦い顔をされ、最後には呆れられる。怒鳴られもしたが、それでもエンは食らいついた。
母が旅した外の世界とプァルクはかなり違う。違うのはいいのだが、そこに何か違和感を感じた。昔の慣習を保つのに固執していて、理由らしい理由はない。
やがて、エンは教団の根幹にも触れることなる。
14歳での出来事だった。
教団というだけあって、プァルクには信仰する神がいる。
神は目に見えないが、信者の生活に恩恵をもたらしているという。影の術を使えるのも神のおかげであり、唯一意思を受け取れる総代のため、人々は総代に奉仕している。
そうした信仰の一つに、集会所で神に向かって祈りを捧げる時間の存在がある。
感謝し、神を崇め奉る。そのための時間が毎日の生活に組み込まれているのだった。
床に跪き、片手でもう一方の手を包む。目を瞑り、そのまま虚空に向かって頭を下げる。誰も疑わず、その日も平穏に終わるはずだった。
祈りの最中、エンはおもむろに立ち上がった。
統率の役割を持つ教団員の指摘を聞かず、エンは言い放つ。
「私たちは何を崇めているんですか?」
聞こうにも迂闊には聞けなかった疑問。
プァルクが信仰する神は誰もが全容をよく知らない。外の世界にも信じられている神がいるらしいが、教団を運営する人員であれば詳細を話せるそうだ。
対してプァルクではある程度の決定権を持つ教団員ですら、どんな神かはよく知らないという。知っているのは総代だけで、他の大勢は知らないのに神を崇めている。不自然だった。
教団員は驚いたまま固まった。周囲からはざわざわと囁き合う声が聞こえる。
その様子を意に介さず、エンは続行する。
「崇めることを非難したいのではありません。どんな神なのか、信仰するのであれば知りたいんです」
「お前は我らが神を疑うのか」
弁明虚しく、教団員がエンを責め立てる。
「疑っているのではなくて、ただ知りたいだけです」
「それ自体が疑念であり、許されないと言っているのだ」
「おかしくはないでしょうか?」
反論を投げかける。周りのざわめきがぴたりと止んだ。
「よく知りもせず正しいとは、私には思えません。生活そのものを神に捧げているのですから、知りたいと思うのは当然ではないでしょうか?」
集会所にいる全員がエンを見ている。ただ、以前のように苛立ちに満ちた視線ばかりではない。わずかにだが、同意するような穏やかさをエンは肌で感じた。
怒りを露わにした表情で、教団員が集会所の出口を指で示す。
「出ていきなさい」
このまま続けても平行線だろう。そう思って素直に従い、エンは集会場を出た。
こっちが絶対に間違っているわけじゃない。
いつか宿した言葉は、それでもまだ生きていた。
●
その夜。自室のベッドに寝転がり、エンは考え込んでいた。
自分が必ず正しいとは思わないが、間違っていると頭ごなしに否定されても満足はしない。何が正しくて何が間違っているか。判断材料すら十分とはいえない。
机に置かれたアズールの旅日記を、エンは姿勢を変えずに眺めた。
外の世界。本の内側に詰まった情景を、目を開けたまま想像する。
この集落を出れば、わかるだろうか。何が正しくて何が間違っているか、見極められるだろうか。
「母上も、最初はそう考えたのかな……」
起き上がる。身体はいつになく軽かった。勢いに任せて飛び出していくこともできそうだ。
「……けど、裏切りたくはないな」
エンは部屋を出て、寮を出た。そのまま集落の中心にある教団本部に向かって歩く。
時刻は夜更けへと移ろい始めた。
住民の多くは寝静まっている時間だが、教団本部の周辺では警備担当の教団員が警戒に当たっていた。建物を見上げ、どうやって侵入するかエンは検討する。本部は大勢の子どもが住む寮以上の大きさだ。哨戒している教団員も少なくはないだろう。
無断での侵入など普通は許されない。百も承知だが、どうしても話をしたい人物がいた。
ゆっくりと呼吸をして、エンは自分自身に唱える。
「大丈夫。母上は何度だって、こういう場面を乗り越えたんだ」
旅日記の文章をそらんじて、心を落ち着かせていく。
準備は整った。
覚悟を決めた瞬間、エンの影が捻じ曲がる。月明かりによって薄く伸びていた影は塊として纏まり、4本足の形状に変化した。耳を立てた獣は狼と呼んでも遜色のない姿になった。
影から生まれた狼の頭を撫で、エンは指示をする。
「人の気配が少ない道順で、父上のところへ……お願いします」
命を受け、狼が走り出す。エンはその後ろを追従する。
エンの生み出す狼は攻撃性を持たない。影の術は結局成長しなかったが、持っている力だけで人は化けられる。アズールの日記からそれを教わった。
追跡においては、エンの狼はかなり優秀だ。哨戒要員の気配を察知し、狼は的確に建物を回り込む。ある一点を突くように狼が扉の一つに飛びかかったので、エンは壁に接近して扉を開けた。
内部に侵入して、エンは息を殺す。心臓が高鳴るのを感じ、緊張に身を震わせる。
母の冒険での一幕を思い出す。どこかに侵入するとはこんな気分だろうかと、不思議な楽しさに包まれそうになる。狼がまた走り出したのを見て、エンもまた駆けていく。
職務室の扉を開き、エンは声を発する。
「父上ッ!」
父であるプラウドは、エンを待っていたかのように座っていた。書斎机越しにエンの顔を見返し、言葉の続きを持っているようだった。薄暗い室内に置かれた何台かの燭台で、蝋燭に灯された火が揺れていた。
今まで遠巻きに見るだけだった父。およそ初めて顔を合わせた。次の総代は突然押しかけられても動揺しないようだ。威厳に怖気づきながらも、エンは切り出した。
「今日はお願いがあって参りました。このような形になって申しわけないのですが、どうしても直接お願いしたいことでして」
息を吸い込み、エンはまっすぐにプラウドの目を見た。
「旅に出たいんです」
思い切り、願いを吐き出した。
他の大人みたく怒り狂うと思っていたが、父親の顔つきは依然として変わらない。逆に驚かされながら、エンは続ける。
「今のまま教団を信じ続けることは、私にはできません。教団の教えが本当に正しいのか、わからないんです。わからないから旅に出て、見極めたい。何が正しくて、何が間違っているのかを」
考えていた言葉はボロボロに崩れる。急いで紡ぎ合わせ、打ち出していく。
「任務もなく集落の外に出てはいけない……それは理解しています。だから、赦しをもらいにきました。旅に出る赦しを、どうか……!」
しどろもどろになったが、エンはしっかりと頭を下げた。
「この世界をもっと深く、知りたいんです……!」
心の奥底から絞り出したような声が、無音の部屋に響き渡った。
息子の決意を聞いた後も、プラウドはしばらく押し黙っていた。
蝋燭の火に照らされる藍色の髪を眺め、記憶が逆流する。
ついにこのときが来たか。
旅日記を渡した日から、こうなることはわかっていた気もする。思えば最初から、母親に似た子どもだった。エンの凛々しい顔立ちに、プラウドはアズールを重ねた。
彼女の唇の動きが、脳裏に蘇る。
『もし私たちの子どもが私に似ていて、旅に興味を持っていたなら……旅をさせてあげて』
アズールはその言葉を遺し、息を引き取った。
そして長い年月が経って、エンは「旅に出たい」と自分に告げた。
引き止める理由など見当たらない。
だが、無条件に承諾するわけにもいかなかった。自分は教団を継ぐ立場にある。規律の違反は教団の混乱を招く。
長い沈黙を経て、プラウドは口を開いた。
「嘆願、しかと受け取った。お前の願いは教団を理解したいが故だろう」
しかし。希望を折るように、プラウドは逆接を挟んだ。
「教団の人間であれば、我らの神が何者であれど信じるべきだ。神への忠誠はそうして成立する。見極める必要はなく、ただ信じればいい。正しさを疑う人間は、教団には不要だ」
エンは自分の表情が強張るのを感じた。エンの瞳を見返して、プラウドは断言する。
「エン・ジャッカル。本日を以てプァルクを破門とする」
破門。言葉の意味を掴めず、エンの思考が止まる。
直後、プラウドは言い放つ。
「外でもどこへでも、好きな場所へ行け」
遅れてエンも意図を悟った。立場を考えながらも、赦してくれたのだ。
旅に出る。その実感が、突如としてエンの身体に湧いてきた。
「はい、ありがとうございます……!」
改めて礼をして、エンは部屋を出た。部屋に残されたプラウドだけがエンの後ろ姿を見送った。破門されて「ありがとう」は変だと思いつつ、顔に微笑を浮かべる。
父親らしい表情で、プラウドはぽつりと呟く。
「誕生日おめでとう、エン」
真夜中。日付は変わっていた。
●
旅支度はものの数分で終わった。
古びたテント、寝袋、わずかばかりの銀貨。いつかのために掻き集めていた不用品を、これまた継ぎ接ぎだらけのバックパックに詰めた。
エンが最後に手に取ったのは、父からもらった母の旅日記。胸に抱き締めてから、バッグの中へ丁寧に入れる。背負ったバックパックは重く、一度戻った自室からふらつきながら飛び出すはめになった。
夜が明けないうちに、エンは集落を出た。
思い残すことは何もない。勢いのままに突き進んで、ぴたりと急停止する。未練めいた何かが、足に絡みついているようだった。
生まれ故郷を、エンは振り返る。夜闇は深いのに集落の景色がはっきりと掴めた。寂しさが心を取り囲んで溺れさせようとする。
正面へと無理に向き直った。
自分は破門された身だ。どちらにせよ戻れる場所ではない。
「行くんだ、それしかない」
自分に言い聞かせ、足を動かす。
どこへ行こう。とにかく、近くの町へ。意識を集中させ、エンは進む。絡みついた未練を振り払う。
二度と振り返らないと心に決める。
また振り返ってしまったら、もう旅立てないような気がした。
かくしてエンは故郷を出た。これが15歳のとき。
まだ、エンは何も知らない。
アヌビス号と出会うことも、猟兵として覚醒して仲間ができることも。
地中に眠る名前も知らない神が、やがて目覚めることも。
歩いているうちに、地表の向こうから眩しい光が現れた。夜が破られ、朝になっていく。
何も見えない闇に辺りは覆われている。これから何が起こるかわからない、どす黒い不安だ。
けれど、どんな闇も次第に白んでいく。既に朝日は昇り始めたのだから。
不安がいつか晴れるように、エンは歩く。
闇が明ける。旅を続ける。
成功
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴