メルヴェイユーと歌う日々に
風に春の訪れを感じることができるのは幸いであったことだろう。
黒いコートと白いコートが共に揺れる。
彼らの視線は風に乗って伝わるような波の音を奏でる海原に向けられていた。白波が立つほどではなかったけれど、やはり風があると海が立てる波も大きい。
「他世界を知っているとさ、こういう何でもない光景もなんでもなくないものだって思うようにならない?」
灰神楽・綾(廃戦場の揚羽・f02235)がなんとなしに呟いた言葉に乱獅子・梓(白き焔は誰が為に・f25851)は驚くことはなかった。
以前の綾であったのならば、戦い以外のことに興味を抱くことはなかったのだ。
戦って、血に塗れ、傷を負っても頓着などしない。
ただ敵を屠ることだけを考え、その眼光は鋭く前を向いていた。
けれど、今どうだろうか。
海原の波を見つめる瞳は穏やかだった。
梓はそうだな、と呟く。
別にしんみりするつもりなんてなかったのだけれど、彼はサングラスの位置を直すふりをした。
綾がなんてことのない日常を大切に思っているということにどうしてか心が揺れるのだ。
肩に乗った二匹の仔竜たちが耳元にじゃれてくるのを愛おしく思いながらも、梓は笑って言葉を紡ぐ。
「どうした、急にそんなことを言い始めて。さては元気ないなって思わせたいのか?」
本心ではなかった。
けれど、少し茶化さないととも思ってしまったのだ。
今の時間をどれだけ自分が大切に思っているのか。愛おしく思っているのか。それを綾に諭されるのが、なんとなく気恥ずかしかったのだ。
「あはっ、バレた? 実はさ、あっちに見たこと無いスイーツがあってさぁ」
「おまっ、やっぱりかよ!」
「いやだって、これだけ天気が良いとさ。風があっても暑いんだよねぇ」
それまでの少ししんみりしたような雰囲気は雲散霧消してしまっていた。
海に来るとどうしてもこんな気持ちになってしまうのだと梓は自分の心の内側を再確認する。
「ていうか、なんだよ見たこと無いスイーツって。俺がこれまでどれだけお前にスイーツを作ってきたと思ってんだ!」
むしろ、そんなものはない、とばかりに梓は超が付くほどの料理男子としての矜持を示す。綾はそんな彼の様子に大げさに驚いて見せた。
そう、彼らは今UDCアースの日本にやってきている。
別に猟兵としての戦いがあるとか、そういうわけではない。
ただの観光というか、散歩のようなものだ。
他世界を知っているからこそ、日々の暮らしというのは極彩色のように目まぐるしい。
だからこそ、梓と綾は歩みを止めない。
多くの『普通』を。多くの『日常』を知ることで、自分たちの心の何処かにあるであろう『非現実』や『非日常』というものを払拭しようとしていたのかもしれない。
事細かい理屈を言えば、そういうことだ。
けれど、そんなことは彼らにとっては建前だった。
単純に共に歩みたいと散歩に誘うくらいの気軽さだったのだ。
「それはそうだけどさ。だって本当に見たことなかったんだよ、あんなもの」
綾は梓がこう言えば食いついてくることを熟知していた。
他のことならにべにもなく切り捨てられることも、未知の料理に関しては梓も貪欲なのだ。知らないのならば取り入れたいといつだって思っている。
「まったく。それにどういったところでお前は止まらないんだろう。どうしてそんなに食べらっるんだ。と言うかだな……」
梓の小言が始まる。
説教と言っても良い。
綾は黙って立っているだけならば落ち着きのある雰囲気がある。だが、雰囲気に騙されてはいけない。
朗らかな笑顔を浮かべるのは、ただの印象でしかないのだ。
その実、梓にとって綾とは自由奔放を絵に描いたような存在なのだ。好奇心は旺盛。目を離すとフラフラとあっちこっちに歩き出してしまう。
自分の興味に素直といえば、聞こえはいいが。
「ただの自由人だろ……って、おい聞いているのか綾……」
まったく、と目を開けるとそこには綾の姿はなかった。
「あれ!? え、おい、綾何処行った!?」
気がついてみれば二匹の仔竜たちもいない。
まさか置いていかれたということか? いや流石にそれはないはずだと梓は綾たちの姿を追うように砂浜を駆け出す。
「さっきスイーツがどうとか行っていたな。となると……!」
駆け出した梓は急がねばならないと思った。
綾だけだと際限なく甘味を食べてしまう。彼は激辛派ではあったが甘いものも勿論好きなのだ。
珍しいスイーツが目に入れば、すぐにスマートフォンで撮影したがるほど熱狂的でも在る。テンションが上がってしまえば、もうそれこそ歯止めが効かなくなってしまう。
「このままだとアイツ、夕飯が入らなく……いや、バランスが何より悪いだろうが!!」
甘いものだけなんて、そんな食生活は許さないとばかりに梓は全速力で駆け出す。
いや、完全にオカンである事は言うまでもない。
ただ、ツッコむ者が不在であるというだけだ。
そんな梓はようやく綾の姿を捉える。
シーズンであれば海の家になっているであろう建物。
その前に梓と二匹の仔竜たちの姿を認める。
「あ、梓ー、こっちこっちー!」
わーい、と手を振っている綾に梓は肩をガックリ落としてしまう。心配していなかったわけではない。万が一のことがあるかもしれないとも思った。
けれど、そんな心配は杞憂だったのだ。
「ほら、これ見てよ! モンブランのアイスクリームだって! ジェラートみたいなのかなって思ってたんだけど! あはは! まるで夏に食べた、お素麺みたいじゃあない?」
テンションが高い。
梓はチラ、とお店の中で恐縮そうにしている店員の女性を見やる。
彼の容姿は知らぬ者からすれば、少し威圧感があるのだ。中身は気さくな青年なのだが、どうしたって第一印象がよろしくない。
今だって、チラ、と見ただけだったのだが、彼女からすれば、ギロ、と睨まれたように思われたかもしれない。
「あのな、綾。まだ話は終わってなかったんだが?」
「いやーだって話長くなりそうだったし。ここのモンブランのアイスって数量限定っていうしさぁ? もたもたしたら売り切れてしまうって思ったら、居ても立っても居られないじゃない?」
「『焔』と『零』も連れて行くことはないだろ! なんでそうお前はふらふらと!」
そんな風に説教が再開されそうになっている所に女性店員が申し訳無さそうに呼びかける。
「あ、あの~……よろしければ、ご注文を……」
彼女にしては大分意を決しての言葉だったのだろう。
遠慮がちに尋ねる様は何処か蛇に睨まれた蛙みたいだった。
「……あ、すまない。店の前で」
「そうだよ、梓。お店に迷惑がかかっちゃう」
梓は仕方ないな、というようにため息を一つ吐く。
こうなってはもうどうあっても食べないことには綾は動かないだろう。それ以上に二匹の仔竜のキラキラした眼差しを向けられてはどうしようもない。
これも綾の策略の一つであった。
なにかと梓は二匹に甘い。
親ばかって言っても良い。
彼の説教を躱して、かつモンブランのアイスクリームを手に入れるためには二匹をダシにしなければならなかった。
けれど、綾は二匹だってモンブランを食べたそうにしていたのだ。
いつもわがままを聞いてもらっているから遠慮した二匹のことを綾は自分が悪者になることによって気にかけていたのだ。
それに梓が気が付かぬわけがない。
だから、それ以上何も言えなかった。
「……仕方ないな。一つだけだぞ」
「えー! だってニ種類あるんだよ!? 和栗と紫芋の! どっちも食べたいってば!」
「ならシェアすればいいだろ。まったく……全部一人で食べようとするんだからな、綾は」
二匹の分まで仲良くニ種類のモンブランアイスを購入して梓はまた一つ深いため息をつく。
してやられてしまった感はある。
けれど、いやではない。
彼らがモンブランが糸のようにワッフルに収められていく様を目をキラキラさせながら見つめている様子。
それがどうにも無邪気な子供のように思えてならない。
彼の境遇を考えれば、到底想像できぬ変わりぶりだった。
それがダメだということはない。
むしろ、歓迎スべきことだろうと梓は思う。
甘味一つでこんなにも表情を変える綾。
「美味しいね、梓!」
彼の中に在ったもの。
それは今まで戦いという血濡れの道によって蓋をされていただけにすぎないのだと知る。
煌めくような笑顔がある。
たった一つの確かなこと。
今、彼がなんてことのない日常を尊ぶのならば。
「ああ、また……」
いや、と梓は笑う。
「次は俺がとびっきりのを食べさせてやるよ――」
成功
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