ルルとちいさな魔法のお店 ~春~
蒸気文明と魔法文明が融合した“|蒸気魔法《アルダワ》世界”の、とある街の片隅。
人気店の並ぶ華やかな大通りではなく、そこから一本脇道に逸れた人が数人並んだら道を塞げてしまうほどの裏路地に、ちいさなアンティーク魔法雑貨店があった。
石畳の細道に並ぶ店はどれも|2階の張り出し《ジェティ》のある煉瓦造り。けれどショーウィンドウや窓まわりの色はそれぞれで、もちろんその店も他とは違うペンキで塗られていた。
魔法具を象った|黒い鍛鉄《ロートアイアン》の袖看板には、後から付けられたような猫のシルエット。
『*Spica』と綴られたその前を、ふわり|一片《ひとひら》の花びらが過ぎてゆく。
✧ ✧ ✧
「……はる、ね」
通りに面したショーウィンドウ越しに見えた春の彩に、ルル・ミューベリ(黒猫の魔女見習い・f32300)は魔法の箒を動かす手を止めて、そう独り言ちた。
見れば、周囲の店の飾り窓やバルコニーには色とりどりの花が飾られ、通りを行き交う人々の格好もいつの間にか明るい色合いの軽装になっている。どこか皆、足取りも軽く愉しそうだ。
それでも、相も変わらずお店には人っ子ひとり訪れる気配もない。
魔導具や魔法雑貨自体は需要もあるし、ルルから見ても――掃除のし甲斐があるほどに、ぎゅっと商品が詰まったこの店は――一般的なものから珍しいものまで、品揃えは豊富だと思う。
とは言え、如何せんここは“アンティーク”魔法雑貨店。
年代物と言えば聞こえは良いが、古物と言ってしまえばそれまでだ。最新のものに比べたら、品質や性能はどうしても及ばない。訪れる客など、それこそ趣味の魔道具収集に明け暮れ、道楽の延長で店を開いたここの店主のような、よっぽどの物好きくらいなのかもしれない。
それでも、未だに店を畳むほどではないのは勿論、“お得意様”がいるからだ。
「こんにちは、ルルちゃん」
ドアベルを響かせながら、大きめに窓をとった硝子扉を開けた初老の女性が、そう言ってルルへと柔和な笑みを向けた。買い物の帰りだろうか、少し大きめの籠には幾つかの食料品と、春めいた小振りの花束が顔を覗かせている。
「あ、いらっしゃいませターラさん」
一年のほとんどを留守にしがちな|人間の魔法使い《店主》に代わり、黒猫もどきの|布おばけ《ブキーモンスター》のルルが店番をするようになって幾度かの季節が巡ったが、彼女はそんなこの店に定期的に訪れてくれる貴重なお客様のひとりだ。
「きょうも、いつものかしら?」
「ええ、ちょうど切らしてしまって。ルルちゃんのお勧めの色でお願いね」
「かしこまりました! ルルにまかせて!」
大きなとんがり帽子を落とさず器用にぺこりと一礼すると、ルルはくるりと身を反転させ、スカートめいた裾を靡かせながら箒に乗ってふわりと浮かんだ。
ターラの“いつもの”は、魔法のインク。
彼女は、決して退色して消えることのないそのインクを使って、遠い街に住んでいる息子家族へと定期的に手紙を送っているのだ。
――大切に残していた手紙がね、ある日読み返そうと開けてみたら、文字が褪せて消えていたのよ。それがすごく悲しくて淋しくて。
だから決して消えることのないインクはあるか、と初めて店を訪れた彼女はルルに問うた。
魔法使いに憧れ、デビルキングワールドから遙々やってきたばかりのルルだったが、「帳簿はこれで付けてくれ」と店主から言われていた羽ペンとセットのインクがまさにそれだった。胸を張って「あるわ」と答えたときの、あのターラの嬉しそうな笑顔は今でもよく覚えている。
魔法の箒に腰かけふわふわと浮かびながら、インクのある棚の前でしばし考える。
インク瓶は7つ。
ただ、どういうわけか、このインクたちは日によって色が変わる気分屋だった。昨日は赤だったものが、今日見れば青になっている。「帳簿で使うときは何色でも良いけど、売るときは最後に|色を固定《・・・・》してね」と言った店主の声が脳裏を過ぎる。
ひとまず古びたインク瓶をすべてトレイに乗せると、ルルは箒に乗ったまま窓辺へと移動した。薄暗い店の奥よりこちらのほうが、色と――|ラベルの文字《・・・・・・》がよく見える。
『亡き王妃の愛した薔薇』
『誰かと帰った日の夕焼け空』
『軽やかに唄う春告鳥』
『完璧にできたスクランブルエッグ』
『心優しき魔物の血』
『夜露の毀れた月の道』
『おひるね猫の肉球』
(きょうは……あかむらさき、しゅいろ、くすんだきみどり、こいきいろ、あかるいみどり、あわいあお……それと、ピンクね)
いつものことながら、綺麗だったり物騒だったり、色の名前ひとつとっても気紛れだ。
けれど、ラベルに書かれている色の名自体は気にする必要はない。
実はこのインク瓶自体、幾ら使っても減った分だけのインクが自動的に補充される魔法の品でもあった。故に、販売するときは別の――どこにでもあるような普通の――インク瓶に移し替える。こうすることで|色が固定《・・・・》されるのだ。
だから、純粋に色だけで選べばいい。ルルが良いと思うものを。今のターラに見合ったものを。
ルルはすこしだけ考えてから、ひとつの瓶を手に取った。もう一度陽に翳してみてから、確信を得たようにこくりと頷くと、それだけを手許に残して他を棚へと戻してから、選んだインクを詰め替えた。
「今日はどんな色かしら?」
「ふふ。こんかいは――これにしたのよ」
そう言ってターラに差し出したのは、『完璧にできたスクランブルエッグ』。焦げひとつない、美しく艶やかな濃い黄色。
「まぁ、綺麗ね! 蒲公英みたいな、菜の花みたいな……」
「そう、はるのいろよ」
路地を彩る花々。春の陽だまり。
今この街に溢れているこの色を、彼女の綴った文字とそこに籠められた想いに添えられたら、きっと素敵だから。
そんなルルの心が通じたのだろう。「このインクで手紙を書くのが楽しみだわ」と、ターラも声を弾ませた。あまり待たせすぎないようにと、手早く小箱に詰めて、袖看板と同じシルエットが描かれた紙袋へと入れる。
「おかいあげ、ありがとうございますなの!」
「こちらこそ。いつもありがとう、ルルちゃん」
丸みを帯びた布製のちいさな手から袋を受け取ると、ターラは大事そうに籠へとしまった。
あのインクがなくなる頃には、もう少し陽射しも強くなり始めているだろうか。
その頃には、どんな色が似合っているだろうか。
そんな風にまた次に会える日を愉しみにしながら、ターラを見送ろうと後に続けば、硝子扉のノブに手を掛けたまま、「そうだわ」と彼女が振り向いた。
「あのインクの色、ルルちゃんの瞳の色でもあるのね」
言われて、すぐには言葉が出なかった。けれど、言われてみれば確かにそう。布に描かれた月や星や――ふたつの眼の色にも良く似ている。
きっと、|布おばけ《ブキーモンスター》でなければ思わずひとつ瞬いていたことだろう。代わりに大きな金色の双眸を向け、ありがとうと返すルルに、ターラも嬉しそうに笑み綻んだ。
そうして別れを告げたあと、一度振り返って会釈した彼女の姿はすぐに裏路地の人混みに紛れて見えなくなったけれど。
路の先から訪れた柔らかな春風に乗って、陽だまり色の花びらが|一片《ひとひら》、ルルの魔女帽子にふわりと舞い降りた。
成功
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