『J』our du chocolat
●起きて目覚めたのなら
歩みださなければならないのが人生であったというのならば、バルタン・ノーヴェ(雇われバトルサイボーグメイド・f30809)の人生は立ち止まることを許されぬ運命であったのだろうと今ならば思える。
猟兵というものを未だ知らず、そうでなかった頃のバルタンは喜怒哀楽というものを知ってはいたとしても、己がそれを発露させることはないだろうと思っていた。
知っていることと理解できていることが違うように、彼女はそうした感情の爆発というものを未だ経験したことがなかったのだ。
彼女は結局、兵士である。兵士は戦場の駒であり、戦うだけの存在だ。
戦うことが使命であり、存在意義だったのだ。
「だから、此処にはもういられないのでありますな」
自分たちの力が過剰なる力であることも理解したし、それが呼び水になって争いが再び引き起こされるかもしれないということもまたわかっていた。
寂しさもなければ、悲しみもない。怒りすらない。
かといって、やり遂げたという達成感による喜びもない。
元いた世界からの追放。
それはバルタンに何の感慨も呼び起こすことはなかった。
ただの結果だった。
「……」
眼の前の世界は、曇天に覆われた薄暗い光景ばかりが広がっていた。
何処を見ても破壊の跡がある。
あそこに見えるのは倒壊したであろう巨大な建造物だろうか。
揺れるメイド服の裾だけが場違いだった。
寂寞も、何もない。端的に世界を見ているつるんとした彼女の瞳の端に動くものがあった。
いや、バルタンが見ていなかっただけかもしれない。
それは突然だった。
「やあ、突然現れたみたいだけど、どうしたんだい?」
自分とは似ても似つかぬ闊達な声だった。朗らかと言ってもいい声色。茶色の髪が尻尾のように揺れて、青い瞳がキラキラと輝いていた。笑っていた。
未知なる物にためらわず手を伸ばす彼女の名をバルタンは知る。
「貴殿は?」
「私? 私はクラリーベル。この荒廃した世界で楽しく生きる人間さ!」
「楽しく?」
「そうさ。生きるってことは喜びだ。時には怒りを感じることもあるし、哀しい現実とだって向き合わなければならない。けどさ、とびっきりに楽しいんだよ、生きるってことは!」
そうじゃないか、とクラリーベルと名乗った女性はまた笑った。
「わからないであります。何一つ。喜怒哀楽は言葉と理解できるでありますが」
「感じ取れないってことか。よし! 決めた!」
何を、とバルタンはクラリーベルを見やる。
「行く宛がないのなら、私達と一緒に行こう! きっと楽しいはずさ!」
●承することは命令されることとは異なり
「バルタン! そっちだ!」
「わかったであります」
バルタンはクラリーベルと名乗る奪還者の集団と共に生きていた。
戦場に生きることが彼女の存在意義であったし、意味でもあった。証明であった。
戦いの中で特に感じることはなかったものを、今彼女は感じていた。
誰かのために戦っていたことは間違いない。けれど、それは顔も知らぬ、名前も知らぬ誰かのために『戦わされている』だけであった。
けれど、今は違う。
クラリーベル、奪還者たちのために戦っている。
手にした武骨な刃がレイダーたちを切り捨てる。レイダーの襲撃はいつだって突然だった。彼らは生きるために食料を必要としないが、しかし奪うためだけに人々を襲う。拠点を燃やす。衝動的に生きることをしているのだというのならば、きっとそうなのだろうとバルタンは思った。
「オブリビオン・ストームだ! バルタン、此処までだ。一旦退こう!」
「巻き込まれないようにな! バギーを回してくる!」
仲間たちはバルタンの戦いぶりに感心していたし、彼女を頼もしいと思っていた。打ち解けていると言ってもよかっただろう。
皆そう思っていた。
けれど、クラリーベルだけは違ったのだ。
黒い竜巻、オブリビオン・ストームから命からがらに逃げ延びた奪還者とバルタンたち。
拠点に戻るまでは距離がある。
今夜は野営だと焚き火を集め終わって、一通りの準備を行う。
「バルタン、火の番頼むな」
「ええ、おすみなさい」
バルタンは焚き火の前に腰掛ける。
仲間たちは優しくバルタンを受け入れてくれていたが、バルタンは出会った頃と変わらなかった。
優しさというのを理解はできるのだが、果たして自分の中にそれがあるのかどうかどうにも確信がもてなかったのだ。
だから、いつも彼らの優しさに曖昧な顔しか作れなかった。
焚き火を見ていると、つくづくそう思ってしまうのだ。
「やあバルタン!」
そんな彼女の隣にクラリーベルがやってくる。いつもの笑顔だった。よく笑う人だとバルタンは思っていた。
「なんでしょう?」
「今日は何の日か知ってるかい?」
ニコニコしている顔を見ると、どうにも不安になる。どうして笑っているのか理解できないからだ。
間違ったことを言ってしまうのを恐れていたとも言える。
「おいおい知らないのかい? 今日はバレンタインっていう日なのさ。まあ、もう何年も行われていないけどさ」
「そうでありますか」
もそもそと乾パンを頬張るバルタンには、あまり興味がそそられなかった。
「チョコを渡してさー、感謝とか告白とかしちゃったりしなかったりさ!」
「チョコとは?」
「えっ……チョコ知らないの!? 食べたこと無いの!?」
「はぁ……栄養補給はこれで十分ですので」
「それじゃあ、これを。バルタンが初めて食べるチョコレートって訳だ。どうぞ、食べてごらん! 甘くて美味しいよ!」
差し出されるチョコレート。
銀色に包まれたそれは不思議だった。受け取らないのもと、思って銀紙を剥がされた奥にある茶色いそれを折って口に運ぶ。
「……!!」
それは衝撃的な味わいだった。
目が開く。口が何かを伝えようとパクパクしてしまう。
どうしようもなく、言葉にしたいのに、言葉にできない。適切な言葉があると知っていながら、何一つ伝えることができない。
目で訴えることしかできなくて、申し訳なくて、けれど、湧き上がる何かに胸が詰まってしまっていた。
それを見たクラリーベルは笑う。
また笑った。
くるくるとよく変わる笑顔。
胸の奥に熱が宿った気がした。それが何であるのかを説明できないけれど。
「この世界、いや、どの世界にだって、美味しいものも楽しいこともいっぱいあるんだ。バルタン、君はまだそれを知らないだけなんだ。これからいっぱい、知っていこう!」
そういう笑顔をこそバルタンは大切にしたいと思った。
●転ずれば、言葉交わす間もなく
「ハッハッハー!」
バギーが荒野に跳ねる。
その車体の上でクラリーベルは笑っていた。その笑顔を見るバルタンにも彼女は促す。
笑うっていうことがどういうことなのかを。
あの夜以来、クラリーベルはずっとバルタンにつきっきりだった。
心から笑ってもらいたいと彼女は思ったのだ。何も知らないのなら、これから知っていけば良い。知って、体験して、自分のものにしていけばいい。
なら、その笑顔を誰かに伝えることができたのならば、もっと楽しいはずだと。
「HAHAHA」
「いいね! その調子でテンション上げていこう! ハイになるんだ!」
「ハイテンションであります」
「まだまだ! そら、オアシスが見えてきたよ! みんな、水だよー!」
さあ、こういう時はどうする? とクラリーベルの笑顔がバルタンの顔を照らす。誰かに言われたからではない。
今、みんな待望の水があるオアシスが見えてきている。
それをバルタンはどう思っているんだ、と問い掛けるような笑みだったし、また同時にクラリーベルがどうしようもなく喜びに満ちていることをバルタンは『知った』だろう。
「ヒャッハー」
「そう! もっと!」
「ヒャッハー」
もっともっと、とバギーが砂地を蹴って跳ねていく。
楽しい、ということが今この時ならば、きっとそうなのかもしれないとバルタンは朧気に思い始めていた。
クラリーベルのマネをして笑ってみた。
そうすれば、幾ばくかの熱が胸に灯る。あの夜食べたチョコレートはとんでもなく貴重なものだったのだと仲間たちから聞いた。
クラリーベルはそれを惜しげもなく自分に与えてくれたのだ。
きっとこれは恩義というものなのだろう。いつかきっと、絶対に、とバルタンは思った。今まで生きてきた中で、最も強烈な感情であったのかもしれない。
それを言葉で告げようとシた瞬間、オアシスに聞き慣れぬエンジン音が響き渡る。
「っ! レイダーだ、総員戦闘準備!」
その言葉にバルタンは頭を振る。
この戦いが終わってからでも良い。伝える機会はいつだってある。
だから、とバルタンは武器を手にとって駆け出す。
「了解、斬り込むであります!」
彼女は誰よりも速かった。勇敢だったし、果敢だった。いつも一番先に敵に走ったし、いつだって誰より多く敵を打倒した。
今日もそうなる。
はずだった。バルタンの眼の前が真っ暗になった。
暗転、するように。彼女の目の前に虚空が現れ、バルタンはその中へと消えていく。
その背中をクラリーベルも奪還者たちも見送ることしかできなかった。
あまりに突然の別れだった。
●結ぶは約束か、それとも因縁か
戦い事態はクラリーベルたち奪還者たちの勝利で終わっていた。
誰もが早く敵を撃退しようとしていた。撃退して、すぐにバルタンを探さなければと思っていたのだ。
虚空に消えたバルタンのことで頭がいっぱいだった。
「バルタン! 何処だよ!」
「まだ借りの一つも俺は返せていないんだぞ!」
彼らは口々に消えたバルタンを求めて砂を蹴った。日が落ちるまで懸命だった。
けれど、バルタンは何処にも居なかった。
突然に現れて、突然に消える。
それがどういうものであるのかをクラリーベル走っていたから、なんとなくわかっていた。いつまで探してもバルタンは戻ってこないと。
「みんな、いつまでも泣いているんじゃないよ」
「でもさ、クラリーベル! バルタンが!」
「……きっとどこかの世界に跳んじゃったんだろう」
それじゃあ、あんまりだと奪還者たちが口惜しそうに言うのをクラリーベルは見ていた。同じ気持ちだった。
自分が思う以上にバルタンの存在は皆に受け入れられていたし、掛け替えのない仲間になっていたのだと。
「大丈夫さ、バルタンは強い子だからね! 皆も知っているだろう? 心配したって、仕方ない。水を汲もう! このチャンスにたっぷり補充しないと勿体ないよ!」
それにバルタンならこういう時率先して動いただろうとも思う。
目頭が熱いな、とクラリーベルは青い瞳を閉じて思う。
別れはいつだって唐突にやってくる。
誰も彼もが準備することなど出来はしない。
文明が荒廃し、何もかもが崩れ去った世界で、自分たちは生きていかなければならない。
バルタンにとって、生きていく世界は一つではないということだ。
覚えておいてくれるだろうかとクラリーベルは息を吐き出すようにつぶやいた。
「生きるということは喜びに満ちている。知らないということは、これから知ることのできる喜び」
見上げた空は夜空。
あの日と同じ空。
甘い香りを思い出すことしかもう出来ないけれど。
それでもあの日のことをクラリーベルは忘れない。
まだまだぎこちない笑い方だったし、ハイテンションと呼ぶには程遠いものだった。
いつの日にか、と思う。
笑って、笑って、笑い続けて、そうして生きて行くのが楽しいってことだと、いつか彼女と笑いあいたい。
「……また会えるさ、バルタン」
見上げた空は遠く。
もう二度とあの甘さを味わうこともないだろう。
けれど、覚えている。
忘れられない限り、ひとの生命は終わらない。
本当に出会った者に別れは来ないのと同じように。
きっとバルタンとクラリーベルは出会ったのだ。
こんなにも星空が瞬く空で。いつかのあの日を思う。
自分が思わなければ誰が思うのだと、クラリーベルは、からりと笑う。
「だから、別れは言わないよ」
君が、『初めてチョコレートを食べた日のこと』を覚えていてくれる限り本当の別れは来ない――。
成功
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