●目覚め
よく同じ夢を見る。
視界全域を埋め尽くす暗い渦が自身を呑み込んだ。滝壺に落ちた者はきっと同じ感覚を味わうのだろう。気流なのか水流なのか定かでは無いが、兎に角抗い難い強烈な力に振り回されて身体がばらばらに引き千切れそうだった。上下も左右も分からないまま手足を我武者羅にばたつかせる。伸ばした手は何も掴めず、酸素を求めた口は何も吸い込めず、開いた目は何も見えず。四肢の感覚が重い。やがて自分の身体が泡立って消えて行く。世界から忘れ去られるかのように。意識が奥底に吸い込まれる。思考が途切れた瞬間、木目調の天井が現れた。
庭先から聞こえる雀の鳴き声。天井から吊るされた二重の環状の照明は灯されていないが、障子戸越しに自然光が入り込んでいる。
また同じ夢だった。ここに拾われてから何度目だろう。川巳・尖(御先・f39673)は重たい半目を擦りながらゆっくりと上体を起こす。釣られて薄手の肌掛け布団が擦れる音を立てた。身体はまだ布団に未練があるらしく背中が吸い寄せられる。寝直したいところだが、ここでそうしてしまうと|あの人《・・・》がやってきて布団を引っぺがえされてしまう。顔を片手で拭うと遂に布団からの完全脱却を果たすべく渋々立ち上がった。踏み出した素足の裏から年季を重ねて掠れた畳の質感が伝わる。
ふと誰かと目が合った。外側に跳ねた黒い髪に浅く日焼けした色味の肌、そして蛍の発光体を想起させる翡翠色の瞳。目付きはつい先程目を醒ましましたと言わんばかりに据わっていた。白に近い淡い緑のシャツは背丈に対して一回り大きく、だらしなく着崩されている。下は一瞬何も着ていないかと思われたが、シャツの裾の向こうに黒い生地が透けて見えた。丈が詰まったレギンスを履いているようだ。顔立ちは性別の境界線が曖昧になるほどあどけない。しかし胸元でさり気なく主張する双丘の存在からして女性である事に間違いは無いのだろう。
「……あたいのこと、好き? 可愛い?」
いつまでもこちらをじろじろ見ている相手にそう尋ねてみた。すると口の動きを真似された。喜ぶ、怒る、悲しむ。尖が表情を変えると相手も真似して表情筋を動かす。
「うん、とっても可愛い」
返事を寄越さない相手に代わって左右の口角を上げて双眸を薄く閉じる。尖の目が向かう先は桐箪笥の上に置かれた四角形の鏡。その中に閉じ込められている尖も同じ表情を返す。答えに満足した尖は一人部屋の障子戸を開けた。広がる白い光に目が眩む。サッシ越しに取り込んだ朝の陽光だった。
軋む木製の床が続く廊下を伝って玄関に向かう。樹脂製の白い草履に足を通す。曇り硝子が嵌め込まれた扉を横に引く。戸車が乾いた音を立てた。
「んん~……」
家の外に出た尖は両腕を空に向けて大きく背を伸ばす。吸い込んだ空気は春と夏の境目の青い香りがした。燦々と照る日差しが暖かくも目に痛い。大凪の海の色を転写したような空に綿飴状の雲の塊が風に流されて漂っている。空の下に連なるのは見渡す限りの緑の山林と田畑。民家を繋ぐ舗装された道も見える。玄関先の庭に茂る駆り揃えられた芝生が地面を舐める風にそよぐ。目線を横に伸ばせば数匹の雀達が囀りながら草根の隙間を啄んでいた。寝床としていた古民家然り眼前の風景然り、山奥の田舎である事に疑問を挟む余地は無い。奇しくも喪失した記憶の隅に微かに残る虚ろな幽世――カクリヨファンタズムの面影を感じる。そして決定的に異なる世界だった。
「またでっかい剣が飛んでる……」
サッシの硝子窓を震え上がらせ、庭先で戯れる雀の一家を追い払った犯人は遥か頭上にいた。巨大な剣としか形容出来ない二等辺三角形状の輪郭を持った飛翔体。大気を轟かせて並ぶ二つのそれが青空に白い雲の筋を描いていた。
●切掛
居間の中央に安置された円形の卓。その上に置かれた料理が湯気を立てる。白飯に豆腐を沈めた味噌汁、纏めて焼き上げた卵とベーコン、そして千切りにされた山盛りのキャベツ。質素ではあるがご機嫌な朝食だった。
「それは空間戦闘機だ。パトロール中だったのだろうな。近頃はよく飛んでいる」
尖が先ほど見た飛翔体について尋ねると、ちゃぶ台を挟んで反対側に座る白作務衣姿の相手――井ノ上新改がそう答えた。座高だけでも明らかに高身長で、麗しくも精悍な顔立ちも相まってしなやかな印象を受ける。薄い藍色が掛かった黒髪は結って纏められているが相当に長い。目の形は小刀のように鋭く、青い瞳は氷のように冷ややかだ。
新改曰く、尖は今から数日前にこの辺りの山道でボロ雑巾のような姿で野垂れていたらしい。尖自身どうやって迷子になったのかは覚えていない。道なき山の中を昼夜問わずにひたすら歩き続け、疲れ果てた末に飢えて干からびて死ぬのかと目を閉じたが、次に目を開けた時には畳に敷かれた布団の上だった。
「くーかんせんぷーき?」
尖はキャベツの千切りを頬張りながら更に尋ねた。労働の味がする。それもその筈。このキャベツは自分で刻んだのだから。衣食住を恵んでもらう代償に申し出た雑務と奉公の一環である。実のところ尖は自負するほどに面倒臭がりで本来ならこんな雑務を率先してやろうとは思わない。しかし死にかけているところを救って貰った以上は借りを返さなければならないという義務感を背負っていた。受けた恩と怨みは忘れない。そんな人種柄の性格の影響もあったのかも知れない。尤も人では無いのだが。
「戦闘機だ。戦闘する機械と書いて戦闘機」
「なにと?」
「何とは何だ?」
「戦う相手」
「外からやってくる敵とだ」
「外って? |白嶺《ハクレイ》の?」
「間違いではないが、もっと外側だ」
「じゃあ……なんだっけ、あのタマみたいな名前の」
「地球だ」
「それ。地球の外から?」
「ああ、空の向こう……宇宙だな」
尖は新改に拾われてからこの数日間で様々な事を教わった。ここはスペースオペラワールドの外縁宙域の太陽系。太陽系の中に複数存在している惑星のひとつが地球。地球上に複数存在している国のひとつが白嶺。白嶺の領内に新改の自宅は建っている。
「ふーん、敵ってどんな?」
何気なく飛ばした質問に新改の箸が止まった。
「前回降って来た敵の事なら猟兵……いや駆除に当たった連中は|巡礼者《ピルグリム》と呼んでいたな」
猟兵との言葉を聞いた途端に尖は肩を自然に跳ねさせていた。聞き覚えがある――否、きっとよく知っている。同時にこのままでは駄目だという脅迫感が膨らんできた。あのさ、と訊く言葉を紡ごうと新改の顔を見遣ると、青い瞳を埋めた双眸は明後日の方向を見詰めていた。尖も同じ方向に首を向ける。半開きになった隣部屋の襖の奥に仏壇があった。尖は既に仏壇の存在には数日前から気付いていたが、何度見ても胃の辺りが軽く締め付けられるような感覚に陥る。理由は飾られている小さな写真立ての中身にあるのだろう。
外側に跳ねた黒い髪にあどけない顔立ち。肌こそ浅く日焼けしている訳ではないにしろ、やはり自分とどこか似ている気がする。初めて見た時には自分の遺影だと思って目を剥いたものだ。新改と繋がりのある人物なのだろうが詳しい関係性は知らないし聞き出せない。
「|巡礼者《ピルグリム》ばかりとも限らないがな。宇宙海賊に他星系からの侵略者……挙げれば切りが無い」
涼しげかつ落ち着いた声音の元に首を戻す。新改は味噌汁を啜っていた。
「へえ、外は敵ばっかりなんだ」
尖は箸を伸ばして卵黄を摘んだ。一応口に運んではいるがこの行為に意味は無い。だがそれはそれとして食事するのは良い。不足すると比喩抜きで干からびて死んでしまう水分を補給出来るし、食べ物には携わった者の様々な感情が含まれているからだ。勿論良いものばかりとも限らないが、安心や信頼といった感情は腹を満たしてくれる。つまるところ尖は外観通りの真っ当な有機生命体ではないのだ。
「でもあたい、いつか行かなきゃなぁ……」
敵を列挙すれば際限が無いほどに外界は恐ろしいのだろう。しかし一方でそんな外界に飛び出してみたい欲求が強く湧き上がってきてもいた。いつまでも居候している訳にもいかない。それにひっそりと芽生えた力――きっと猟兵と呼ばれる者達と同じこの力を使ってみたい。色んな理由が好き勝手に絡み合って考えが纏まらない。
「行きたいのか? |外界《そと》に」
「え?」
心境を見透かされたかのような唐突の問い掛けに目を白黒させる尖。
「だったら渡しておくべきものがある」
無味な表情で見詰める新改を見返す。
青い瞳の中に呆けている自分の姿が映り込んでいた。
●始動準備
古民家の裏手には山を拓いて造成した広大な敷地が広がっている。
大自然には全くと言っていいほど似つかわしくない大きな建屋が目に付く。壁や屋根を侵食する赤錆が物語る築年数は十年どころでは済まない。開かれっぱなしの玄関口に立てば様々な工作機械が発する騒音が出迎えてくれるだろう。
「あっづぅ……」
尖が思わず呻くのも無理は無い。建屋内に籠もった熱気は並ならないのだから。汗がシャツを肌に張り付かせる。周囲を取り囲むのは自動旋盤や切断機に鋳造装置。種類は雑多だが設備配置には整理整頓が行き届いていた。この建屋の主の几帳面さが伺える。視線を棚やホルダーに移せば騎士銃槍から突撃銃まで様々な銃火器が見て取れた。知識を備えている者であればどれもが一級品の業物と呼んで差し支えない完成度だと一目で見抜いたであろう。そしてこんな山奥の農村にこれほどの代物を作り出せる職人が潜んでいた事に肝を抜かれるに違いない。しかし尖にとっては暑いしうるさいしで長居したいとは到底思えない場所でしかなかった。
「これだ」
建屋もとい武器工房の主である井ノ上新改が艶の無い黒い金属体を尖に手渡す。
「なにこれ?」
受け止めた手のひらに固く身がぎっしりと詰まった重みを感じる。
「拳銃だ。マコモHc……の改造版だ。お前専用に調整してある」
「あたい専用?」
グリップを掴んでまじまじと眺める。新改が横で「白嶺軍では一世代前の銃だが軽量で反動抑制に優れて……」云々と解説していたが当の尖は自分専用という言葉にすっかり魅了され上の空だった。
「扱い方は……知らないだろうな」
「うん」
当たり前だと強く頷いた尖に新改は予め想定していた通りに肩を竦めた。
「実際に使った方が覚えが早い。射撃場に行くぞ。基本的な操作は道中で教える」
収納装置の方は後回しだなとの零した呟きは尖の耳朶に入る前に工作機械のモーター音に上塗りされてしまった。
「しゃげきじょー?」
首を傾げる尖を他所に新改は工房の外へと歩を進める。射撃場とやらに付くまで追い掛けた背が止まる事は無かった。
●水妖夜行
新改が言う射撃場は工房より更に奥に進んだ先にあった。
射撃場と言うよりは伐採作業を終えた山間と呼んだほうが相応しいかも知れない。更に広い敷地面積の土地こそ平らに均されてはいる。しかし岩やら切り株やら枝葉を削がれた巨木が放置されている野性味溢れる管理状況だ。
「人形? カカシ?」
尖が訝しげな表情で対峙するそれは正しく人の形をしていた。人体を模した機械の骨格には鉄板が貼り付けられている。楕円の頭部の中央にはレンズ状の単眼があった。覗き込むと歪曲した自分の姿がこちらを見返す。人形は棒立ちのまま微動だにもしない。
「ドロイド……いや、人形でいい。今からその人形を使って訓練を行う」
拡声器を介した声音の元を辿ると、後方に立つ物見櫓に新改の姿が見えた。
「訓練って……ええー? いきなり?」
「外に行きたいのだろう? なら戦う術を覚えなければな」
いつか外に行かなきゃなどと口を滑らせたのは自分だが今になって後悔した。何かとてつもない面倒事が待っている予感がする。
「第一訓練なんて言われても何したらいい――」
「その人形が動かなくなるまで弾を撃ち込め。銃の撃ち方は先ほど教えた通りだ。始めるぞ」
言葉を遮られた挙げ句に訳の解らないままに開始通告が達せられる。非難を浴びせようとした矢先だった。背後から不吉な電子的な音が聞こえたのは。
「は……?」
反射的に振り返る。赤い光を放つレンズ状の単眼がこちらを見ていた。かと思いきや握手を求めるかのように片腕を伸ばしてきた。銃を携えた片腕を。
「ひゃあぁっ!?」
飛び退いた途端に足元で青白い光が爆ぜた。
「非殺傷電流砲だ。当たっても痺れるだけだ。だが気を付けろ……とびきり痛いぞ」
「ウソ! 絶対ウソ! それじゃ済まない!」
舞い上がった土の量からして尖の見立て通りなのだろう。
「無駄口を叩いている余裕があるなら問題無いな」
非難を浴びせようにも人形が待ってくれない。電撃が迸る音を間近で聞いた瞬間には既に身体が横へと跳んでいた。
「うご……ける……?」
岩陰に身を潜めた尖は、横を掠めた電流弾よりも自身の動きに驚嘆していた。手足が勝手に動いて勝手に躱してくれた。違う。この感覚は知っている。自分は――。
「あたい、動けるじゃん!」
全身の肌が泡立つ。本能に任せて岩陰を飛び出した。次の遮蔽物へと駆け出しながらマコモHcの銃口を人形へと向ける。
「照星の向こうに敵を見て……! 引き金は鋭く……!」
新改から聞かされた呪文を唱えながらトリガーを引く。スライドが後退しマズルフラッシュの発光と共に腕が跳ね上がった。続けて甲高い金属音が山中に響く。
「はじかれた!?」
7.65mmの拳銃弾は人形の装甲を貫く事無く彼方へと逸れた。すぐに電流砲で報復されるものの尖が巨木の裏手に滑り込む方が速い。
「このっ! このっ!」
巨木から半身を覗かせて立て続けに銃弾を撃ち込む。だがやはり装甲に跳弾するかそもそも命中しない。運良く装甲の隙間に滑り込んだ弾もあったが貫通には至らない。
人形が持つ銃の口に青白い光が集う。尖は半身を引っ込めた。足元近辺から火柱が噴出し電流の衝撃波に吹き飛ばされた。
「いったぁ……!」
怯んではいられない。動き続けないと。すぐに身体を横に転がして無理矢理に立ち上がると岩の塊の後ろへと回り込んだ。
「効かないんだけど!」
目一杯の怒気を込めて新改の居るであろう方角に向かって叫んだ。
「いいや、その銃の性能を引き出せば効く筈だ」
返ってきた答えのなんと腹ただしいことか。性能を引き出すも何もこちらは素人だと言うのに。
「意識を集中しろ。その怒りを弾に籠めろ」
尖は何の役にも立たない精神論に感謝しつつマコモHcのマガジンリリースボタンを押し込んだ。滑り落ちた弾倉を掴むと装填されている弾丸の数を確認する。顔面から血の気が失せた。弾倉を指し直してスライドを引く。
「さっき撃ち過ぎたんだ……」
残弾はエジェクションポートから見える一発のみ。もう勝てない。逃げるか降参しよう。いつか行かなきゃなんて言わなければよかった。グリップを握る指から力を抜いてマコモHcを取り落とそうとした。
『意識を集中しろ。その怒りを弾に籠めろ』
頭の中で新改の言葉が反響する。集中しろ。怒りを籠めろ。この程度の事で諦めたら多分ずっと諦め続ける事になる。戦え。戦える。自分にはきっとその力が――猟兵の力があるはずだから。抜けた力が再臨し、マコモHcを強く握り直す。
「あぁもう……やればいいんでしょ」
宿命が諦めと脱落を許さなかった。全身から殺気が立ち昇る。裏腹に頭の中は冷たく冴え渡っていた。獰猛……或いは邪悪なまでに。銃身の隙間から光が漏れ出している事にも気付かず地面を蹴り出す。身体を横では無く縦方向に跳ばす為に。
「おっも……」
万物を捕らえる重力を振り切った尖の華奢な身体が跳躍した。巨岩を軽々と飛び越え、あたかも翼を得たかの如く宙で移動方向を変えてみせる。
「一撃で決める」
直線に突っ込む尖を人形の電流砲が迎え撃つ。光弾が尖の身体と交差した。焼け焦げた布地が千切れ飛んで紙吹雪のように舞う。
「おしまい」
半身分の布面積を失った尖の両脚が人形の胴体を踏み付ける。レンズ状の眼球が全てを祟る悪霊の姿を反射した。恨み辛みを込めて人差し指を掛けた引き金。弾ける銃声。跳ぶ薬莢。マコモHcが光を伴った弾丸を吐き出す。人形の頭部に小さな孔が穿たれた。尖は人形の胴体を足場として後方に宙返りして膝を付いて着地する。人形は蹴飛ばされた衝撃で背中から地面に倒れ込む。すると死の直前の人間がするようにして身体を痙攣させ始めた。
「いっ……?」
挙動の不気味さに思わず上ずった声が漏れる。強張った表情で眺めていると、人形の頭部に亀裂が生じ始めた。そしてその亀裂から不吉な光が滲み出る。亀裂が頭部全体に及んだ途端、乾いた土塊の如く粉微塵に崩壊してしまった。
「死んだ?」
瞬きも忘れて恐る恐る尋ねるが人形はそれきり動かない。
「……悪くない成果だ」
首を横に向けて見上げると、そこには新改が立っていた。
尖は壮絶に恨めしい表情を作って睨み付ける。そして差し出された手を握って立ち上がった。
●夜光終幕
「仕組みとしては電磁加速投射砲やサイコガンとさして変わらない。動力を使用者に求める点、そしてその源が妖力という点が大きな違いだ。加えてバレル内のライフリングに妖力を循環させ弾体の通過時に呪殺弾化する。この呪殺弾は侵食と分子結合の崩壊作用を引き起こしエネルギーの流れを寸断して……」
古民家の縁側に腰を落ち着けて長々と講釈を垂れる新改。その横では同じく座った尖が新改の横腹を何度も足蹴りしていた。八重歯を剥いている様子からして講釈の内容は殆ど耳に入っていないらしい。周囲は暗く陽はとっくに沈みきっている。薄い紫を広げた夜空で大小様々な輝石が煌めきを放っていた。春と夏の狭間の程々に涼しい夜風に乗って蚊取り線香の香りが漂う。
「死ぬとこだった」
尖の翡翠色の瞳に重い怒気が宿る。
「妖怪がそうそう死ぬものか」
あっさりと言ってのけた新改に尖は目を丸くして何度も瞬きする。
「知ってたの?」
「匂いで判る」
「え……は?」
引き攣った表情の尖が自分の身体を忙しく嗅ぎ回る。石鹸の匂いがした。それもその筈、先ほど風呂から上がってきたばかりなのだから。そして電流砲を掠めた際に焼けて破れたシャツも新しいものに取り替えて貰った。
「雰囲気とか、身の熟しとか、そういうものだ」
「あっ……そう」
とりあえず変な体臭がしていた訳ではないと胸を撫で下ろす。装いはだらしないように思われるが清流を好む妖怪として清潔には気を使っているのだ。風呂の無い生活などあり得ないし耐えられない。
「昔はこの辺りにも時々出て来たのだがな。近頃はまるで見掛けなくなった。それとも見えなくなってしまったのか……」
「出て来たって? あたいと似たようなのが?」
新改の目は遠くの山々に向いている。だが見ている光景はきっと距離的な意味ではないのだろう。
「元来妖力や呪いの技術概念はあった。だからその銃に専用の仕込みが出来た。試みとしては初だったが……」
尖は傍らに置いたマコモHcに視線を落とす。人形を撃った時の感覚がまだ手に残っている。あの瞬間、この銃は自分の一部だった。自分の中を巡る血が吸い込まれるような、或いは流し込んでるような手応えがあった。あれが妖力か。
「じゃあ、あたいは実験台にされたってこと?」
「そうだ」
先ほどより力を込めて蹴りつける。新改の身体が少し揺れたが表情は微動だにもしない。
「外に行くんだろう?」
「え?」
「なら武器が必要になるはずだ」
「それは、まあ」
「そのマコモHcを持っていけ」
尖は改めて銃を手に取り間近で凝視する。艶を返さない黒は闇夜に置かれていても尚深い。
「これもだ」
いつから持っていたのか、新改が小物入れを差し出す。尖の手に少し余る程度の大きさだ。
「なにこれ?」
小物入れを受け取った尖は蓋を開けて中身を覗く。滞留した霞に淡く光る粒子が踊っている。
「銃を入れてみろ」
言われた通りにマコモHcの銃口を小物入れの中に突っ込む。
「あれ? 消えた」
中に漂う霞の中に突っ込んだ銃口が蜃気楼のようにぼやけて見えなくなった。引き出すと元に戻る。
「その箱は圧縮空間を生み出すパネルで作っている。簡単に説明するなら……なんでも入る魔法の入れ物だ」
「妖怪みたい」
思い切って手首まで入れてみるとやはり消える。だが実体が無くなっている訳ではないらしく、肌にこそばゆさがあるだけで銃を握っている感触は消えない。
「まだ試作段階だが……見切り発車だ。旅に役立つだろうからくれてやる」
「あたいまた実験台?」
尖に膨れた面で睨まれた新改が横目で視線を寄越す。
「何か手伝わせてと言い出したのは誰だったか」
皮肉めいた物言いに尖はなんとも決まりの悪い表情になった。確かにそうは言ったが変な人形と撃ち合いをやりたいとは言っていない。けれどこれも外に行こうと考えている自分の気持ちを汲んで準備してくれていたものだ。そんな世話を焼く理由が尖には解せなかった。
「あのさ、気になってたんだけど」
探るように尋ねると新改は無言で横目を送り続きを促す。
「どうしてあたいによくしてくれるの?」
新改が身体を硬直させたのを尖は見逃さなかった。放つ感情の味わいの変化も。戸惑いはあまり主食にしたいと思える味ではない。
「……仏壇の子に似てたから?」
固い沈黙に尖が踏み込む。互いの視線がぶつかり合う。
「あれは妹だ」
新海は顔を逸して深く息を吐いた後にあっさりと言ってのけた。
「|宇宙《そら》から降って来た敵……猟兵はオブリビオンと呼んでいたが、それに殺された」
尖は鳩尾の辺りにざらついたわだかまりを覚えた。多分自分はオブリビオンを知っている。白血球が産まれながらにして病原菌を駆逐する事を知っているように、つまりはそういう関係にあるのだろう。
「罪滅ぼしのつもり、なのかも知れないな。最期に姉として何もしてやれなかった事への……」
新改が結った髪を解く。薄い藍色掛かった長い髪が夜風に乱れて闇に溶け込んだ。そこで尖は長い時間を掛けてようやく気付いた。
「新改って女の人だったんだ」
「私を何だと思っていたのだ?」
甚だ遺憾であるといった新改の瞳にきょとんとした無邪気な少女が反射した。
「拾ったあたいを手籠めにしようとしてるスケコマシ」
「それが望みなら奴隷商にでも売り付けてやろうか? 妖怪は高値が付きそうだ」
手籠めにするつもりなど、ましてや売り飛ばそうとするつもりなど更々無い事は知っている。そんな感情の風味など微塵も漂っていないのだから。
「だって体大きいし、胸もないし」
「四六時中鍛冶仕事をしていれば嫌でも大きく頑強になる。それと胸は仕事に邪魔だから締めているだけだ」
そう言って広げた作務衣の襟からは白いサラシが垣間見えた。納得した尖は愛想笑いで誤魔化すが、新改は遺憾の表情を崩さない。
「あたいさぁ、やっぱ行かなきゃいけないと思う」
無数の綺羅星が散りばめられた夜空を見上げる。猟兵とオブリビオン、二つの言葉を聞く度に神経が騒ぎ立てるのはもう気のせいでは済まないのだろう。人形と戦った時に発露したあの|異能《ユーベルコード》もきっとその為に与えられたものだと思う。義務感や使命感というより好奇心から来る動機の方が強いのだが。
「でもなんかその、まあ……悪いっていうか……」
だが一方で野垂れ死に寸前の所を拾ってくれた恩義を返しきれていない気がする。しかも武器や道具まで用立ててくれたから尚更だ。このまま行ってしまっていいのだろうか――そんな問いを投げたいのだが言葉が足りなくて纏まらない。
「自分がやりたいようにしたらいい」
呟きの元を視線で辿ると新改の横顔に行き着いた。
「尖に借りがあるから拾った訳ではない。尖に借りがあるからその銃と収納装置を作った訳でもない。これは私が勝手にやってる事だ。だから尖もやりたい事をやればいい。生きている内にな」
遺影が仏壇に飾られるような事になればそれも叶うまい。そう含んだ空気は寂寥の味がする。
「まあ……身の振り方を急いで決める必要もないだろう。後で悔やまないよう精々存分に迷うがいいさ」
酷く他人事な口振りだったが、今の尖にとっては胸に詰まる重りが幾らか和らいだ気がした。
「迷えばいっか、あたい妖怪だもの」
そうするだけの時間はまだ十分残されている。自分は妖怪なのだから。けれどもいつか必ず行かなければならない時は来る。目の前に広がっている世界に、あるいは|宇宙《そら》に。
夜風が頬を撫でて通り過ぎた。木々のざわめき、虫の声、蛙の歌、民家に灯る光、虚ろに漂う雲、星々と月を抱く空。尖を待ち受ける世界は、きっとどこまでも美しく満ちていて、そして厳しく残酷なのだろう。
成功
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