すべてのせかいのすべてのいのち
『聖杯剣揺籠の君』の体は猟兵の一撃によって霧散しようとしていた。
崩れていく体。
伸ばされた手が掴むものは何一つなかった。
彼女の体から放たれていた『いんよくのかぜ』は、もはや効果を発しない。
全ては夢の如き泡沫……となることはない。
金沢大学は、白く粘つく大地のまま、多くの生命を吸い上げたオブリビオン・フォーミュラ『聖杯剣揺籠の君』の痕跡を残そうとしている。
「やー終わったねー」
ロニ・グィー(神のバーバリアン・f19016)は息を吐き出す。
戦いは終わった。
ならば、後はこの白く粘つく世界が崩れて、超常なるものを覆い隠す世界結界に任せるままとなるだろう。
「これでぜんぶまるっと元通りに、なんて便利なものじゃないんだっけ?」
この光景は、この結果は、世界にどのようなフィルターを掛けるのか、ロニにはわからなかった。
どれだけ凄惨たる情景が広がるのだとしても。
なかったことにはならない。
失われてしまった生命は戻らないのだ。
「ゆりゆりはどうしてもほしいのです。ほしかったというかこけいではなく、いまもなおほしいのです。げんざいしんこうけいで、ゆりゆりはすべてのせかいのすべてのいのちがほしいのです」
どうしても、とささやく声を聞いてロニは振り返る。
これまで『いんよくのかぜ』によって認識してはならなかった『聖杯剣揺籠の君』の姿をロニはぼんやりとした帳の向こうに見た。
儚げで、美しく、そして、どこか超然とした顔。
崩れ去っていく体を惜しむように己の胸を抱く姿。
確かに淫靡そのもの。淫蕩に耽る様は、さぞや劣情を誘ったであろう。
この事件のことも世界結界に阻まれ、人々の知る所にはならないだろう。
「きっとキミたちは星の歌を聞いたことがないんだろう。きっと君たちは石と語らったことがないんだろう。きっとキミたちは“無”がどんなに騒がしいやつかってことを知らないんだろう。だから」
だから、寂しいのだと思うのかもしれないとロニは一歩を踏み出す。
オブリビオン。
過去の化身。
過去に在りて、停滞した者。もうこれ以上の無い者たち。故に求めるのかもしれない。
人間が欠けたるものを求めるように。
だから、なんかとロニは思った。
「ゆりゆりはむをしりません。べつにしりたいともおもいません。ゆりゆりはほしいもののためにしりょくをつくすだけ。すべてのせかいのすべてのいのち。それさえあれば、みらいもかこもきおくもおもいでもいらないのです」
崩れていく白い体。
ああ、と吐き出す息すら艷やかに。
最後の最後まで死の宇宙より生まれたリリスの女王は、悲しむでもなく、怒るでも無く、ぼんやりとした顔をロニに向ける。
「ごめんね、ボクも今は不完全だから。なんでキミたちがそう作られたのかはわかんないや」
ロニも同じようにぼんやりとした言葉を告げる。
互いに思うところは在ったのかもしれない。
けれど、それは意味のないことだ。
猟兵とオブリビオン。
滅ぼし滅ぼされる間柄でしか無い。それは絶対に変わることのない事実であるからだ。
この出会いは必然であったし、またこの別れもまた必然。
出会ったが最後なのだ。
「どうしてしろうとするのですか。いのちをそそがれれば、それでてにいれたことになるのに。しらなくてもゆりゆりのなかにとけていくのならば、しらなくてもいいことなのに」
静寂だけは嫌だと思った。
死とは静寂。
どうしようもないほどに静寂。しかし、ロニの言葉はそうではないといった。本当にそうなのだろうかという疑念が彼女の中に沸き起こったのかは彼女しか知り得ぬことだ。
けれど、とロニは笑う。
「でもね、きっとそれでキミたちは“完璧”なんだよ」
ロニは一歩前に踏み出す。
白く粘つく足元など気にもしなかった。帳にぼやける視界の中を踏み出す。
「最後にキミの本当にほしかったものをあげる」
「すべてのせかいのすべてのいのちですか」
「ほら、この手の中に」
それが其処に収まっているとは思えなかったけれど、其処に在るものに手を伸ばさずには居られなかった。
今際の際であったからかもしれないし。
何も知らない純粋さ故に、その言葉に従ったのかもしれない。
もう『聖杯剣揺籠の君』には下半身すら無い。崩れ、霧散していく刹那の、戯れであったのかもしれない。
ろにはいたずらっぽく笑って、彼女の手を握る。
それは握手と呼ばれるものであったのかもしれない。
「この手と手の間にあるものでしょう?」
その言葉に彼女はあっけに取られたような、納得いかないような、なんとも言えない幼な顔をしていた。
「ゆりゆりはぺてんにかけられたきもちです。とっても」
「えー? 違った?」
こうじゃなかったかな、とロニは驚く。
きっとこうだと思っていたのだけど、と思ったが、そうじゃなかったみたいだ。
けれど、別に構わないかとも思う。
崩れていく不満顔。
霧散し、消えてなくなる顔。
そのどれもがロニにとっては本当のことだ。例え、自分の示した答えが間違いであったのだとしても。
それでも、示されたものがある。
「答えは――また今度聞かせてね」
誰もがその次があるとは確証持って語ることはできないだろう。
出来ると言えば、それは騙ることになる。
けれど、ロニは思うのだ。
自分は今はもう不完全な神性である。神である以上滅びは訪れないのかもしれない。
不完全さ故に、愛すべきものがある。
人がそうであるように。
欠けたるところに美しさを見出す。『聖杯剣揺籠の君』をロニは“完璧”だと思った。
完璧でなくなるために求めたものがあって、そして、完璧さゆえに滅びるしかなかったのならば。
きっと次なる邂逅の時に得られる答えは異なるものであるかもしれない。
「その時を楽しみにしているよ、なんてもう聴こえていないんだろうけど」
銀の雨が降る。
すべてを押し流す銀色の雨。
その天を見上げ、ロニは笑う。笑って、笑って、見送って。そしていずれ輪廻の如くめぐる機会が在った時には。
きっとその答えを知ることができる。
その未だ得られぬ喜びに彼は歓喜するように跳ねて、我が道を歩むのだ――。
成功
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