今考えると『私』は彼女が好きだったのだと思う。それは恋だったかもしれないし、恋から最も遠い感情だったのかもしれない。あの娘は恋をしていて、『私』は、恋をしているあの娘が好きだった。
――いつか、どこかの、桜の降る場所で。
今日もまたあの娘は、あの男の話をしている。
まるで王子様みたいで、最初は目が合っただけで照れてしまったとか。彼とたった一言、些細な会話をしただけでどんなに嬉しかったか。そう言って頰を綻ばせる。変な子だと思われてないかしら、そうして悩む様子まで微笑ましくて、眺めるだけで楽しかった。……はずだった。
じゃあ、また明日。
そう笑って帰路につくあの娘を、この手はどうしてか引き留めようとする。けれど、今日も途中で引っ込めてしまう。なぜ止めようとしたのか『私』は未だ知らないから。
そうして、嵐が街を呑んだ。桜吹雪と荒波が、儚い記憶を流し去っていく。
あの娘の恋は倖せに実って、その報告を一番に聞くのは自分だと、信じていたあの頃を流し去っていく。
昏い海の底で、『私』はひとりもがいている。
もう二度と、あの娘の笑顔を見ることができなくなったから。目の前にあの娘の死体が漂っている。ころころと笑っていた唇は真っ青で、恋に輝いていた瞳は真っ黒に濁り、瞬きすらしない。無惨な彼女の姿には、夢を粉々に砕かれた後の絶望しかなく、『私』の心と身体もぼろぼろと崩れていった。
――ねえご存じ? あそこの娘さん、亡くなったのよ。
――あの男に騙されたんですってね、お気の毒に。
――騙される方も悪いわ。あの娘は純粋すぎたのよ。
――誰も止めてあげなかったのかしら。酷い話よね。
お喋りな貝達が聞きたくもない噂話を囁いてくる。やめろ。やめろ。それ以上、あの娘の純情を貶めるのは――『私』は怒りに任せて貝達を残らず叩き潰し、粉々にしてばら撒いた。
こんな奴らはどうだっていい。本当に地獄を見るべきなのは、あの娘がこうなる原因を作った男のほうだ。絶対に逃さない。必ず見つけ出して、生きたまま八つ裂きにしてやる。
いや、それでも生温い。これは美しいお伽噺ではなかったのだから、偽物の屑王子は、生きたまま鮫に喰われる位が丁度良い。
気づけば、茶色い縞模様を持つ可愛らしい鮫達が『私』の周りに集まっていた。
『私』にそっくりな彼らは、どうやら復讐を手伝ってくれるらしい。思わず笑みがこぼれた。
男は陸にいる筈だ。すぐにでも此処から這い上がって、小さく尖った歯を身体中に突き立てて、じっくり肉を削り取って殺してやる。今更泣いて謝っても絶対に許さない。あの娘は帰ってこないし、あの日々は取り戻せないし、『私』だってもう引き返すことなどできない。
――『私』も?
何故だろう。いくら必死に水面を目指しても、どんどん海底に引き込まれていく。
それでも執念で尾をばたつかせ、水を蹴った。息が苦しい。そんな筈ないのに。泳ぎは慣れている筈なのに。
沈んでいく。何もない真っ暗な闇の中に。あの娘は海中に浮いたまま。せめて共にと思っても、もう手は届かなかった。けれど諦めずにもがき続ける。あの男を野放しにしてたまるか。
呼吸ができない。意識は遠のき、彼らの顔すら浮かばなくなってくる。
厭だ。厭だ。お伽噺みたいに綺麗に終わってなんてやるもんか。
このまま消えてたまるかってんだ――例え泡になったって、『私』は祟ってやる。
どれほどの時が流れ、全てを忘れようと、絶対に殺す。
『私』から大切なものを奪っていった、あの男を。
「……にゃ?」
目覚めれば全てが水の泡。
さっきまで見ていた夢の内容は、今日もまだ思い出せそうになかった。
成功
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴