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【旅団】ちぎる

#カクリヨファンタズム #宿縁邂逅

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#カクリヨファンタズム
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#宿縁邂逅


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●告
 これは旅団シナリオです。旅団「志崎剣道場跡」の団員だけが採用されます。

●糸
 にいや。
 にゃあ。

 か細い声で母を呼ぶような哀憫溢れる鳴声は、さらさら降る雨に紛れる。
 濡れそぼった躰を、木戸の隙間に滑り込ませれば――リリリリッと鈴が鳴る。
 しかし水滴を撒き散らしたところで、騒ぐ声は家内に響かない。

 にゃあ。

 ただいまと告げても、返事はない。
 いたずらをしても、叱られない。

 にぃ。

 濡れた白い尾を先まで震わせて、もう一度、ごしゅじんさまを呼んだ。
 返事は――

「おかえり、あられ」

 姿はないけれど、そこから確かに声がした。

●蒼
 腰に佩いた刀の柄をコツコツと叩き、紺色の鋭い双眸は、視えた予知の気まずさに戸惑い揺れる。
「饗の捜してた猫を見つけた」
 彷徨う白猫――名はあられ。ふわりとやわらかな毛並みは純白で、金色に煌く双眼は邪気なく『ごしゅじんさま』を求めている。
 そんなあられが迷い込んだのは、古い庵。
 戸を開ければ【台所】のある土間、上がれば板の間の【座敷】が二間繋がっていて、生活用品が整頓されている。
 座敷の奥には、畳敷きの一番大きな部屋。その【奥の間】には縁が伸びていて、【庭】に下りることができた。
 そんな庵で、あられはかくれんぼをしている。
 あられが捜し求める『ごしゅじんさま』の終の庵と瓜二つのそこで、彼女は「にぃあ、にゃあ」と、『ごしゅじんさま』を捜している。
「饗には、そこが『終の庵』じゃねえってことは分かってるだろうけど、それでも、『そうだ、ここだ』って思い込んじまうくらいそっくりだ」
 それがあられの力であることは間違いない。
 奇妙な力場を生み出して、遠く離れたかの地にある終の庵に滲みこんだ【さまざまな想い】が、幻となって再生されることだろう。
「饗、お前の……【今の姿になる前】の出来事だって、平気で見える」
 それらはきっと、ごしゅじんさまと、あられと、かのじょたちを取り巻くキオク。
 例えば、台所で炊事に精を出す人影。
 例えば、懇願するような言い争う声。
 例えば、穏やかに未来を語り笑む顔。
 いろんなオモイデの幻を見ることになるだろう。幻影だ。過去だ。手出しはできない。今更ソレを変えることはできない。
 台所で、座敷で、奥の間で、庭で。
 あられは、オモイデを追いかけ、ごしゅじんさまを呼び続ける。
 かのじょを追いかけてほしいと、誉人はそろりと息をついた。
「庭にゃァ綺麗に花が咲いてる――梅が満開だよ、饗」
 ただ、雨が降り続いている。
 大切なオモイデ以外を遮るように、絶え間なく雨が降っている。庭に出るとびしょ濡れになるだろう雨足の強さだ。
「お前とあの仔猫との間に何があったンかは、知らねえけど……」
 誉人の掌上に輝く蒼い珠が、精緻な幾何学模様を浮かべ煌めく。
「ケリつけて来い」
 蒼の奥にあってなお、純白と解るアネモネが一輪――花開く。


藤野キワミ
このシナリオは、「宿縁邂逅シナリオ」です。
旅団《志崎剣道場跡》にて事前にお約束した方を優先して採用します。
====================
藤野キワミです。
決着のそのときまで、どうぞよろしくお願いいたします。

運営速度は速くありません。
じっくりとプレイングを考えていただければと思います。
またリプレイ返却もゆっくりめとなりますので、お付き合いいただけると幸いです。
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第1章 ボス戦 『彷徨う白猫『あられ』』

POW   :    ずっといっしょに
【理想の世界に対象を閉じ込める肉球】が命中した対象にルールを宣告し、破ったらダメージを与える。簡単に守れるルールほど威力が高い。
SPD   :    あなたのいのちをちょうだい
対象への質問と共に、【対象の記憶】から【大事な人】を召喚する。満足な答えを得るまで、大事な人は対象を【命を奪い魂を誰かに与えられるようになるま】で攻撃する。
WIZ   :    このいのちをあげる
【死者を生前の姿で蘇生できる魂】を放ち、自身からレベルm半径内の指定した全対象を眠らせる。また、睡眠中の対象は負傷が回復する。
👑11
🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​

種別『ボス戦』のルール
 記載された敵が「1体」出現します。多くの場合、敵は、あなたが行動に使用したのと「同じ能力値」の戦闘方法で反撃してきます。
 それらを踏まえつつ、300文字以内の「プレイング」を作成してください。料金は★0.5個で、プレイングが採用されなかったら全額返金されます。
 プレイングが採用されたら、その結果は400文字程度のリプレイと「成功度」で表現されます。成功度は結果に応じて変化します。

 大成功🔵🔵🔵
 成功🔵🔵🔴
 苦戦🔵🔴🔴
 失敗🔴🔴🔴
 大失敗[評価なし]

👑の数だけ🔵をゲットしたら、次章に進めます。
 ただし、先に👑の数だけ🔴をゲットしてしまったら、残念ながらシナリオはこの章で「強制終了」です。

※このボスの宿敵主は💠香神乃・饗です。ボスは殺してもシナリオ終了後に蘇る可能性がありますが、宿敵主がボス戦に参加したかつシナリオが成功すると、とどめを刺す事ができます。
※自分とお友達で、それぞれ「お互いに協力する」みたいな事をプレイングに書いておくと、全員まとめてひとつのリプレイにして貰える場合があります。


●台所
 チリリリン……と涼やかな鈴の音が、がらんどうだったそこに響く。
 残響さえじわりと消えていけば――
「おかえり、あられ」
 声は、ごしゅじんさまのものではなかった。近づいてくるのは、まあるくて薄ぼんやりとした人影。
「ずいぶん濡れてきたんだね。拭いてやるから、そこでじっとしてな」
 白い割烹着、海老茶色の着物、ふくふくまあるい身体の女は、手ぬぐいを持ってくる。

 にぃあ。

 いつも忙しくごしゅじんさまの世話をしている人だ。
 金瞳に映る光景は、徐々にいろの数を増やして、鮮明になる。
「今日は雨だね、いやだね」
 話しかけて、冷たかった体を拭いてくれて。
 にこにこと笑みながらごはんをくれる優しい人だ。
 ふわりとかつおの香りがする。
 聞こえるのは女の声だけでなく、かまどの火、炊飯の音――いままで聞こえていなかった、屋根を叩く雨粒の音。
 台所は雨のせいで薄暗いから灯が入れられている。燭台で揺らぐ火の音すら聞こえてきそうだ。
 だんだん増え。
 ますます鮮明に。

 それでもまだ、ごしゅじんさまの声はしない。
香神乃・饗
ひさびさに帰ってきたっす
ね、誉人
毎年夏には必ず帰ってるっすけど
誉人とは久々
誉人にとっては居づらい場所っす
苦笑
それでも見届けて欲しいんっす
ご主人様に

相変わらず良い匂いっす
お福さんの料理っす
誉人は知っているのに
手を出せなかった事はあるっすか
俺はずっとそうだったっす
食べた事は無いっす
美味しいって聞いてる

あられには
帰ってきたっすか!反射的に尻に敷かれる事を警戒
誉人
猫は良くないっすか
雨に降られたりはするっすけど
自由に駆け回れるっす

この庵は
俺の終わりと始まりの場所
無機物である事と無力な俺と決別し
明日に向かい生きると決断した場所

誉人は亡くした事はあるっすか
あの夏の日
出てきたら斃れてきて
亡くした事を受け入れられなかったっす

主の願望を叶えて祝言をあげて
庭を眺めてた
春の日
花の香で
抱いてるモノが何かを理解して
主がそれを望まない事を思い出して
明日を目指したっす
俺が生まれる切欠の主の目標っす

今は越えたから大丈夫っす



●懐/Ambivalente
 雨は凍えるような冷たさではない。しかしずっと濡れていると体は芯から冷えるだろう。
 これ以上、体を冷やしてしまわぬよう軒先に入った。
 髪についた雨粒を払って落とす。隣の黒毛にも珠になった雨がついている。
「なかなか、すごい雨っすね」
「ああ……やっぱすごかったな」
 雨珠を落としながらも、五感は多くを感じ取っている。
 相変わらず――香神乃・饗(東風・f00169)は、懐かしい香りで胸をいっぱいにして、ほわりと笑んだ。
「お福さんの料理の香りっす」
 知っていた。
 ずっとあるじが美味そうに食べる様子を見ていたから知っていた。
 ずっと一緒にいたから、ずっと見えていた。
「主様が言ってたっす、お福さんのごはんは美味しいって」
「確かに美味そうな……味噌汁の匂いだ」
 すんっと鼻を鳴らしたのは、鳴北・誉人(荒寥の刃・f02030)だ。いつか交わした約束を守ってここにいる。
 開け放たれたままの戸から入り込むが、家人はこちらを見ることもない。
(「これが、……過去を見ているってことっすか」)
 福は、せっせと昼飯の準備をしている。
 香ばしくも甘い香りの味噌汁、芋の煮物、さらに魚の焼ける香りも立つ。
 誉人も長らくサムライエンパイアで暮らしていたというから、この食事の『異様さ』には気づくだろう。
 しかし、彼は何も言わない――福の手元を見て、押し黙ったままだ。
「ひさびさに帰ってきたっす。ね、誉人」
「ん? ん、そォだな。いや……お前は毎年帰ってンだろォ」
「そうっすけど、誉人とは久々っす」
 彼にとって、あまり居心地の良い場所ではないだろうことは、想像に難くない。
 執着心と嫉妬心が、寂しさと敗北感にすり替わる誉人だから、ここは彼にとっての鬼門だろう。それでも、『ここは、饗が生まれて、巣立った庵だ』から、やはり郷愁を覚える。
 きょろりと見回して、肯く。『間違いない、ここだ』――毎年、夏の日に帰る庵だ。
 あるじが過ごした、『終の庵』だ。
「里帰りまで邪魔しようとは思わねえだけェ」
 もっともらしいことで嘯いてみせた誉人の横顔をちらと盗み見て、小さく苦笑を漏らした。
 邪魔ではない。
 彼を邪魔だと思ったことは一度もないというのに。
 約束したこととは言え、ここに来ることは、きっと嫌だったろう。彼が嫉妬を剥き出して怒った――過ぎ去った初夏の日をを思い出す。あるじに向かって、はっきり「嫌い」と言い放った彼だ。やっぱり行きたくないと同行を断られても不思議ではなかったというのに。
 誉人は優しいから。
「俺のわがままに付き合ってくれてありがとうっす」
「なン、急に?」
 こともなげに、くすりと笑った誉人は饗を見上げてくる。
「わがままって? 約束したでしょォ」
「それはそうっすけど……でもこんなこと、誉人が困るのは知ってるっす――それでも見届けて欲しいんっす」
 ひたっと饗の視線と合わさった。真剣な紺の星眸が、燭台の火の揺らぎをも映し込んだ。
「誉人はご主人様っすから、見ててほしいっす」
 瞼がぴくりと動く。ほんの些細な動揺は、たちまち消えて、彼は小さく――それでもはっきりと肯いた。

 ◇

 一度交わした約束だが、反故にすることも出来た。嫌だと突っぱねる隙はあった。
 饗の因縁だ。こればっかりは彼が一人で向き合うものだし、そこに誉人が首を突っ込むのは違うと思ったのもまた、嘘ではない――否。もっと心の深いところで、拒否していた。
 本音を言えば、この庵は好きじゃあない。
(「前の人のことすら……好きじゃねえってのに」)
 出かけた溜息を飲み込んで、佩いた太刀の柄頭を撫でる。
 『ここ』は死が香り過ぎている。
 しかし、誉人の預かり知らぬところで、饗が『あの人』に触れることが、ことさら嫌だった。
 思い出は往々にして美化されて、容易く心を苦しめ、惑わすから。
(「もういない人には、俺はどうやっても勝てない……でも、」)
 ほわりと笑む彼を見上げて、柄を握り締め、最後まで彼の隣にいると改めて決意する。
 深い悲しみに、彼一人で触れさせることが、『嫌いな人』に会うより――なにより嫌だったのだ。
「困ることねえよ、ちゃんとココにいる。約束したからァ」
 囁くように言葉を紡ぐ。そうすることで、強くなる気がした。

●呼
 チリン。
 くみひもは、ごしゅじんさまがあんで、あられのくびに ゆわえてくれたもの。
 あられの じまん。
 これは、あられがごしゅじんさまのねこ っていう、しょうこ。
 すずのおと かわいい。
 このおと ならすと、ごしゅじんさまがきてくれる。
 きょうは、あめ。
 あめ すきじゃない。
 からだ ぬれちゃう。
 さむいから すきじゃない。
 あめ……すきじゃない じゃない。きらい。
 すずめ みんなかくれちゃうし、ねずみもみつかんない。
 きょうは ごしゅじんさまによろこんでもらえない……。

●羨/Dilemma
 鈴の音がした。
 先刻、饗らがここに入ってきたように現れたのは、びっしょり濡れた白い子猫。
 チリリっと高らかな鈴の音を鳴らして、水飛沫を飛ばす。
 その金瞳に、ぞわりと総毛立つ。
「帰ってきたっすか!」
 反射的に身構える。よく知っている。この猫に何度も踏みつけられた記憶が蘇る。

 にぃあ。
 にゃあ、にゃぁ。

 甘えたような声で鳴いて福の世話を受けている。
 何を考えているのか、なにも考えていないのか――あられは尾をふらりと揺らして、福の手を喜んでいた。
「誉人、猫は良いと思わないっすか」
 ぽつりと呟いても、福も猫も饗を見ない。聞こえないふりをしている様子でもない。
(「やっぱり不思議っす……でも、この感じ、知ってるっす」)
 ここにいるのに気づいてもらえない――返事が届かないのは、知っている。
 これはすでに起こったことで、塗り替えようのない、事実だ。
 いまは、二十余年前の――遠い昔の雨の一日を追体験しているだけにすぎない。
 饗らに介入する余地がないことを思い知らされる。
「猫は、こんなふうに突然雨に降られたりするっすけど、自由に駆け回れるっす」
 なにものにも縛られることなく、ただ気ままに遊び、思うがままに駆け、無邪気に甘えることができる。
「今となっては俺も、自由に動くことができるっすけど――」
 この時代に、この猫のように、自由に手足を伸ばし、地を駆け、声を出すことができていたら。
 ふと過ぎる、どうすることもできない仮定を口にしかけて、唇を引き結んだ。
 詮無いことだと判っているから。
 誉人の肺の奥から息が不器用に洩れるような音がして、それを隠すように何度も小さく頷き、「ああ……」と喉を震わせた。
「猫は良いよな。分かるよ、俺だって似たようなもんだ」
「似てるっすか?」
「俺だって、好き勝手に生きてる。いろんなしがらみを見ないふりして、勝手気ままに」
「……いろんなしがらみっすか」
 確かに頷いた誉人の紺瞳は、饗を見ながら別のなにかを見ているようだった。
 彼の見ているものがなんなのか――なんとなく分かるような、分からないような。彼が時折見せる寂しさの影が落ちた。
「いろんなことに目を瞑って、いろんなことから顔を背けて、俺はここまで生きてきた」
 呟く誉人の声音は静かに庵に揺蕩う。微かに震える唇が、薄く開いて、躊躇うように閉じられた。
 なにかを話そうとしていることは判った。だから、饗は口を挟まず待つ。
「俺は、あの家に親を置いてきた――……それだけで、俺は十分、不孝をしてる。手を出したくても出せなかったんだ。親は、俺が思うよりずっと、あの町が好きだったみてえだから」
 帰ることのできる家はあるけれど、誉人にとって、それは帰るべき場所ではない。
 言い訳じみた我儘を零す。
 いつだったか、生まれた町がキライだと吐き出したことがあった。辛気臭い場所だと。それでも、やっぱり彼は棄てきれないのだ。
「家族は、誉人が帰ってくるのを待ってるんじゃないんっすか?」
「わかんねえ。それに、今更どのツラ下げて帰りゃいいンかも、わかんねえ」
「待ってるなら、帰った方がいいっす」
「そうさなァ……また今度な」
 思わず笑いが零れた。嘘ではないだろうが、『行きたくない』と言外に逃げ、先延ばしにしようとしているのが判った。それでも――彼はまたひとつ、約束を重ねる。
 たとえどんなに些細なことでも、それは誉人にとって生きるという意志と同義。短い生であることを理由に、あらゆることを諦めていた彼が、こっそりと未来へ掲げる、踏み出し踏ん張る意志だ。
 それが、饗にはたまらなく嬉しかった。
「亡くしてから行っても、遅いっすから」
「ああ、そうだな……」
 彼の声音が憂いに翳る。
 亡くす哀しみを知っているからだ。
 誉人は師を亡くしていた。時折彼の話の中に出てくるセンセーだ。彼を叩きあげた人物で、会ったことはないが、その豪傑さを想像するに、そくっと背筋が震える。
 誉人が師の話を積極的にしたがらないのは、在りし日を思い出してしまうからだろう――墓前で手を合わせる背を思い出した。
「誉人は……――センセーの最期に、間に合ったっすか?」
「いや、もうセンセーとは別れたあとだったから、葬儀が終わったあとに知った」
 静かに。
 深い吐息を一緒に漏らす。
「志崎の親から、センセーが亡くなったことを聞かされて、遺言状もらって……墓の前で泣き崩れて、――」
 訃報に悲嘆し悔悟し涙したあのときを思い出しているように、静かにゆっくりと声を紡いだ。
「百合サンたちは、順番だから仕方ないって言ってくれたけど、それでも俺は、センセーはもっと長く生きると思ってたし、もっとたくさんのことをセンセーから教えてもらうつもりだったし、これからゆっくりたくさん恩返しできると思ってたから……後悔しかねえ」
 その後悔を知っているのなら。
 会えるのなら。
 薄靄のかかる晴れない心持ちのままに、饗は誉人の双眸を見返した。
「なおさら、郷里に行かないといけないっすね」
 会えるときに会っておかないと、また彼は後悔する。
 その後悔は、往々にして繰り返されるものだから――今、こうして踏ん切りのつかない姿を、もどかしく感じた。
 母という存在がどれほど大きなものか、想像する他ないが、
「帰ってきた子を迎えないはずないっすから」
 ただいまと告げられて、おかえりと返さないわけがない。
 ただいまと告げられることが、どれほど嬉しいことか。
 おかえりと迎えることが、どれほど幸せなことか。
 饗は知っているし、誉人もわかっているはずだ。
 困ったように笑う彼は、また小さく頷いた。
「俺は、誉人とはちょっと違うっす」
 見えないふりをして手を出していないと嘯いた彼の隣で、饗はぽつりと呟いた。
「手を出したくても、出せる手がなかったっすから、どうにもならなかったっす」
 ずっとだった。ずっと。映るのに、聞こえるのに。手を出すことはできなかった。
 福の旨そうな料理を知覚することはできても、食べることはできなかった。
 あるじの喜びを共に叫ぶことも、あるじの悲しみを拭うことも。ずっとずっと、できなかった。
 話を聞くだけ。いろんなことを聞いて聞いて聞いて、知っていくだけ。
 もどかしくても、それが常だった。

 にゃぁ。
 にぃぁん。

 福の手に甘えるあられの鳴き声に、饗を見つめ返していた誉人の紺瞳が、ひたりとそちらに合わさる。
 それにつられるよう、饗もそちらを見た。
「お前がここにきてくれてから、お嬢様はよく笑うようになったんだからね。お前に風邪でも引かれたら困るんだよ」
 福の言葉に嘘はない。
 あられが庵に迷い込み、ここで共にあるじと生活するようになって、彼女の言う通り――あるじの声には張りが出た。
 覚えている。
 ちょうど、今日と同じような雨の日に、ずぶ濡れでやってきた――今の姿よりももっと小さく頼りなく細い、あられの姿。
 あるじの心を癒し、笑顔にさせたあられ。甘やかで高い声音で鳴いて、あるじを呼んで、自由気ままに出ていくあられ。
 対して饗はどうだ。
 話せず。動けず。ただ見るだけ。歯がゆくとも、手を拱くしかできなかった。
「知っての通り、俺も主様を亡くしたっす」
 あの夏の日――手を伸ばしたときには、手遅れだった。
「主様が亡くなったと、受け入れらなかったんっす」
 やっと触れることのできたあるじの命は尽きていた。
 望みに望んで、焦がれ続けて、漸々触れた躰は、魂が落ちた抜け殻だった。
「饗……」
「話したことあるっすね、誉人には。俺は、主様から、いつか嫁に行きたい、祝言をあげたいと聞かされ続けたっす」
 饗の体の奥底に溜まる願いを叶えないといけなかった。
 饗が饗たらしめるものだから。
 骸を白無垢で清め、あるじが望んだように、ともにいた。
 来る日も来る日も庭を眺め、空を眺め、雨に打たれ、風に吹かれ、雪に降られ。
 文字通り、片時も離れることなく、ともにいた。
 いつか話した過去をもう一度告げれば、誉人の双眼は曇る。彼は何も言わない。ただじっと黙って、饗の言葉を聞いていた。
「狂ってると思うっすか」
 ついに聞いてしまった――それでも、これが俺だから。呆れていないか。愛想を尽かされていないか。薄気味悪いと忌避されやしないか。棄てられやしないか。
 声に乗らなかった思いは重く、庵に沈殿する。
 誉人は息を呑んだまま、答えない。かわりに黒髪が揺れた。僅かに首を振って否定したのだろう。
「俺は、あのとき、……」
 詰まっていた痼と化した息を吐き出しながら、
「それしか知らなかったんっす。わからなかったんっす。でも、春がきて、花の香がしたんっす」
 ふたつの腕に抱いたモノを唐突に理解した。
 腕の中に閉じ込めたまま、どこにも動けずにいる――きょうでも、あすでもないモノは、誰も望んだ姿ではなかった。
 まざまざと思い出すことができる。
 あの春の日の日差しも、頬を冷やす風の柔さも。
 見上げた空に向かって、精一杯に腕を伸ばし、咲き誇る蝋梅の爽やかな甘さの、なんと気高いこと。
「主様は、そんなことを望んでいたわけではないんっす」
 この庵は、見ることしかできなかった饗が終わった場所だ。
 あるじになにをしてあげることも出来なかった饗が終わった場所だ。
「無機物で無力だった俺とは、ここで決別したっす」

 ――生きて
 ――生きて
 ――きょう、あえた、から
 ――あす、も
 ――いきたい

 託されたから。明日に向かい生きると決断し、立った。
 あるじを見続けていたから。言葉を交わしたことはなかったが、きょうの中には、あるじの思いがたくさん溜まっていたから。
 立てた。
 立つことができた。
 明日を目指すことができた。
 過去に囚われて、雁字搦めに縛られて、歪んで凝っている――眼前の猫とは違う。
 饗は明日を手に入れた。
 だから、今がある。
 じわりと潤んだ紺瞳に微笑みを返した。
「誉人、大丈夫っす。もう、超えてきたことっす」
 判っている。
 眼前のこの光景すら、過去であることも。
 チリリっと鈴を鳴らし、福にじゃれつくあられすら――過去であることも。
(「だから、誉人がそんな顔することはないっす」)
 ひどく傷ついたような、いまに泣き出しそうに唇を引き結んでいる。
 眉間に刻まれた皺を伸ばして、「そっかァ」といつもみたく、にかりと笑ってくれればいいのに。
 いまのあるじは、多くを語ってくれそうで、ときおり二枚貝のように口を閉ざす。

 ◇

 手を伸ばしかけて、やめた。今は彼に触れるべきではない。懐かしさと、やるせなさと、ふつりふつりと沸く怒り――それらが渾然と騒然と饗を揺さぶる。
「もう大丈夫っす」
 そう繰り返し言った彼の、それでも溢れる哀しさを見て、誉人は己の無力を思い知る。
 彼の語った出来事は、誉人が生まれたころの話だ。遠い遠い――かの闇が支配する地で産声を上げ、父母の愛だけを浴びていたころの話だ。
 昔話だ。今更、当時の饗に寄り添ってやることはできないし、今の饗にかける言葉は最早ない。それが、たまらなく誉人を掻き乱す。
 諦念したような、達観したような――力ない微笑みに、一層心が締め付けられた。
 慰めも労わりも、一切合切を己の力と意志で乗り越えた饗に、一体なにを言えばいい。
 言葉が見つかるはずもなかった。
 滲んだ涙を乾かそうと、懸命に誉人は目を瞬いた。

大成功 🔵​🔵​🔵​


●疑
 すずのおと いっぱいならした。
 ごしゅじんさま きてくれない。
 やさしく からだをふいてくれたけど、このひとはごしゅじんさまじゃない。
 おっきなこえで ただいまっていってみた。
 でも、ごしゅじんさま きてくれない。
 きこえてないのかな。
 あめのおと おっきくって やかましいから。
「そんなに鳴いて、どうしたんだい? 腹が減ってるのかな……あんたにもごはんあるから、ちょっと大人しくしてな」
 ごしゅじんさまのおせわするひと あられのおせわもしてくれる、やさしいひと。
 このひとのごはん おいしい。
 でも ごしゅじんさまじゃない。

 ごしゅじんさまあ! ただいまあ!

 へんじない。
 だから さがしに……。

●厄
 にゃぁ。
 にゃッ――
 鳴き方ががらりと変わり、ぴりっと雰囲気を引き締めたあられは、慌てて福の手から逃れるように座敷へと駆け入っていった。
「あられ?」
 福の呼ぶ声も聞こえないようで。なにかから逃げるように。手ぬぐいを持ったまま立ち上がった福は、大仰に溜息をひとつ。
「猫らしいと言えば猫らしいけどね……晴れたら洗濯しないと」
 手癖のように手ぬぐいを畳み、止めていた昼食の支度を終わらせようと、踵を返した。
 雨足はいよいよ強く、天井を叩く雨音は、家中に響いて喧しい。

「御免」

 降雨の爆音の中にあって、その男の声は、まるで雷のように鮮烈だった。
 弾かれたように声の方へと体を捻った福は、瞠目した。
 それも無理からぬこと――そこには、本家の伝達役がいたのだ。
●座敷
 本家の使者――福も知っている。何度もこの庵を訪れ、明日香のことを根掘り葉掘りして帰っていく男だ。名を平助。まるで名が体を現さない男だ。なにも平らに収めず、福のことも明日香のことも助けない、冷徹な男だ。
 腫れぼったい一重の細い眼が、じろりとあられを睨む。
「ふん、猫なんぞと暮らしておるのか」
「お嬢様の猫よ」
 暮らしぶりを値踏みするような陰険な視線が、支度の整った昼食を睨めつけた。
 少しは時間を考えて訪ねてくれても良かろうものを――こちらの事情の一切を無視した訪問に、福は苛立ちを募らせた。
 平助は、立ち話をする気はなさそうで、勝手に座敷へと上がっていく。
 そして、盛大に舌打ちをした。
「おい、この猫をつまみだせよ、汚えな」
 平助はあられを足蹴に追い払う。
 驚き慌てたあられは、座卓の上に飛び乗り、さらに箪笥の上へと跳び逃げる。
 その拍子に――薬入れが、床に落ちた。
 戛然と響く音の余韻は、雨に攫われ、最後まで聞き取ることは難しかった。
 蓋は外れとんだが、中身は散らばらない――散らばる中身がなかったからだ。
 空の薬入れを拾い上げた平助は、下卑た嗤いに体を揺らす。
「汚い猫に、空の薬箱……ハハッ、」
「お嬢様の猫だと言ったろう! 乱暴するのはやめて!」
 それでもぴしゃりと言い切った福は、男の手から薬箱を奪い返し、大きな体を怒らせて平助を威嚇した。
香神乃・饗
こいつはいつもそうっす
容赦無く物を傷つけるっす
俺も踏まれていたっす
俺が踏まれるのはこいつだけじゃないっすけど…
人の言う事を聞いてないんっす

薬、貰えて無かったんっすか
本人に隠して飲まなくて良くなったって言ってたっす
でも知ってたっす

幾ら願っても
過去には戻れないっす

生れた家は変えられないし
病気にかかった事は変わらないし
例え死んだとしても生き返れない
だから
昨日に囚われないで
未来へ明日へ進めと言ってたっす

明日になれば
明日には縛る物は何も無いんっす
自分次第で自由に創れる
今に無い可能性がある
そりゃ辛い事があるかもしれないっすけど
明日にならないと解らないっす
明日に希望があるんっす

誉人は何が怖いっすか
出会った頃と違う物が怖くないっすか

遺された物だって強いっす
想いに囚われる事無く前に進むんっす
だから信じて欲しいっす

誰にでも期限があるっす
俺にも
期限が来たら諦めるしかないっす
でも
それまで楽しむ事は誰も咎めないっす
欲張りすぎる程に

誉人も負けないで生きるっす
物怖じしている時間は無いっす
怖かったら一緒に乗り越えるっす



●責/rimorso
「おじょうさま……ねえ」
 我が物顔で座敷へと上がっていき、あられを追い立てた男は、吼えた福を陰湿に睨みつけ――暫し睨み合う。
 雨音は、いやに大きく庵に響いていた。
「こいつは、知ってる人か?」
 訪ねてきた無愛想で不躾な男の誰何を訊ねてくる誉人に、饗は首を振った。
「知らないっす」
 これほどまでに無礼な男は、饗の記憶にない。
 男は、あるじが口にするはずの料理の方を一瞥してまた嗤い、
「いいねえ、あんな死に損ないでも、立派な飯が食えるなんてなあ」
 吐き捨てた。下卑た嗤い方で、体を揺らす。
 カッと頭に血が昇った。必死に生きようと戦うあるじへの冒涜に、こめかみが軋んだ。
 心ない言葉にむかっ腹が立つ。出会い頭にここまで腹の立つことを言い連ねられるとは――なんと根性の曲がり切った男か。
 そう思ったのは饗ばかりではない。
「いけ好かねえ」
 誉人は男の真正面に立ちはだかり、ずいぶん下にある男の顔をぎろりと睨めつける。
 無論、過去に影響されることはない。
 誉人は『最初からいない存在』で、男が彼を見上げることはなく、対峙している福を彼越しに見続けていた。
 先刻より幾度となく見て来た、当然の帰結――無意味なことと知りながら、止まらなかったのだろう。炯々と尖った紺瞳は雄弁で、烈々と怒りを爆発させる。発せられる言葉はない。先行した怒りで言葉を忘れた誉人は、男の胸倉を掴まんと手を出した。
「っ!?」
 果たして、彼は男を締め上げることは出来なかった。
 誉人の手が、男の体をすり抜ける――体積をもってそこに在るわけではないらしい。鮮明に見える幻で、過去の投影。だからこそ、一切の干渉を受け付けていない。
「触れないっすか」
 こちらを向いて、悔しそうに小さく肯く。
 ぶちぶちと文句を垂れながら、饗の隣に戻ってきて、思い切り眉を寄せた。怒りを当人にぶつけることができずに、盛大に舌打ち。
 誉人があまりに激しく怒りを爆発させるものだから、却って冷静になれたし、思わず笑ってしまった。
 不謹慎だろうか――それでも、彼が怒ってくれるということが、嬉しかった。
「そんなだから女房に逃げられるんだよ」
 もとよりこの男に好感を抱いていない福は、男の態度を咎め罵る。
「わざわざくだを巻きにきたわけじゃあないだろ、薬はどうなってるんだい」
「お福よ……お前はもう少し賢い女だと思ってたがな」
 謗られて顔を真っ赤にした男は、手持ち無沙汰に弄んでいた空の薬箱を、いきなり福へと投げつけた。
 突然のことで避けることはできず、彼女の額にぶち当たる。張り詰めた空気が暴発する。硬い音が狭い庵に響き、饗は誉人の右腕を咄嗟に掴んだ。
「止めンなよ、饗」
「誉人の刀は今抜くほど安いものじゃないっす。勿体ないっす」
 低く威嚇する誉人を、「大丈夫っす」とからりと言い放って宥める。
「お福さんは、めちゃんこ強い人っす」
 彼女がこれしきのことで折れるようなことはなかった。いつも語ってくれていたあるじの言葉から感じ取っていたのは、毅然とした女性の像だ。
 彼女は怯まない。気丈に背を伸ばし、真正面から男を睨み据えていた。
(「主様から聞いていた通りのお人っす」)
 優しくて強い人。
 母ではないけれど、母のように厳しい人。
 善いことと善くないことを共に考え諭してくれる人。
 それでも怒らせると怖い人。
 ぽろぽろと溢れてくるあるじの言葉を拾い上げ、饗は笑む。
 いつもこうしてあるじを守り支えていたのか――過ぎるのは、過去への羨望だ。ただただ、羨ましかった。
「それを満たしてやることはないと、旦那様からのお言葉だ」
 助けてやりたかった。
 力になりたかった。
 あるじのために戦う福に味方してやりたい。
 もどかしい。なんと歯痒い。
 行き場のない怒りと、相反する羨ましさ、他にも混在する雑多な感情が、ぐちゃぐちゃに練り合わされて饗の喉奥にこびりつく。
「医者を寄せてやっているだけで満足しろ、裏切り者の産んだ死に損ないにくれてやる薬なんぞないそうだ」
(「……主様は、こんなにも大事にされて……こんなにも疎まれていたっすか」)
 怒鳴られようとも薬箱を投げつけられようとも動じることのない福は、敢然と男と対峙する。
 彼女の吐く息が今にも火になりそうなほど、怒りは静かに燻る。
 福の声は大きくならない。あるじに聞こえないようにと気を配っているのが判った。
「でも、このままじゃあ! 本当にお嬢様が弱り切ってしまうだろう!?」
「だったら口の聞き方ってもんがあるだろう!」
 腹の底に響くような怒号に驚いたあられが、箪笥の上に飾られてあった花瓶を蹴り倒した。
 二人の沸騰しかけの怒りに、まさに水をかけたあられだったが、当の白猫は、花瓶の破砕音に恐慌し逃げ出した。悲鳴のような鈴の音が喧しく鳴り響く。
 生けられていた花は落ち、床に水が広がっていく。
 誰もが一瞬にして言葉を失った――途端に雨音を強く知覚した。

 ◇

 ひたすらに後悔した。
 彼の隣にいると決めて来たというのに――やはり後悔した。
 とめどなく、とっちらかった思考の渦に疲れ果てる。それは自己嫌悪の渦だ。心が擦れて目減りしていく。
 飲んで回復するかもしれない薬が存在するというのに、その境遇のせいで快癒に向かうことさえ出来なかった、あの人を思えば思うほどに――息が詰まる。
 薬を飲んでいたとて、未来(現状)は変わらなかったかもしれない。
 しかし、服薬していれば今も生きていたかもしれない。
 そうすれば――もしかすると――
 あるじとなることはなかったかもしれない――
 そもそも出会うことはなかったかもしれない――
 そこまで考えが及んで、恐ろしくなった。
 今のこの関係でない彼との時間を想像すると、恐ろしかったのだ。
 たらればを考えても意味はない。時間とカロリーの無駄だ。だのに思考はぐるぐると堂々巡りを始めてしまう。
 掴まれた右腕から、饗の手が離れていった。
(「過去だから、変わンねえ……でも、俺は、……」)
 彼の横顔をちらりと見上げる。
 眉間に僅かに皺を寄せて、福と男を見比べ、子猫を睨みつけている。
 冷静に見えるが、饗の心は分からない。終わった出来事を見ているが、この過去は、饗にとって憧憬なのではないか。
(「ここにいたいって思ったりしてンのかな……」)
 気づかれないように吐息をひとつ。
 己の心の卑しさと、蔓延るどろりと気味の悪い闇に、吐き気がした。

●嘘
「薬を飲まなくてもよくなったんだって。
 お福さんが言ってたの。
 でも、あられ。
 お医者様は、私に薬はお終いって仰らなかったの。お福さんだけに伝えたのかな。

 私にはわからないけど、私の体って、よくなってるのかしら。

 ねえ、あられ。
 あなたは、いいね。
 私と違って、たくさん外を見れるから。
 そうだ、あられ。
 今度、お父様がお元気かどうか、こっそり見て来てよ。
 そして……できれば、明日香はお父様にお会いしたがっていると伝えてちょうだい。

 子猫には難しいかな……。
 文なら届けられるかな。
 私も外に行ってみたいな」

 ごしゅじんさまの ひざのうえで、いつもなでられてる まるいかがみ。
 あられのなまえ よんでるのに ごしゅじんさまは、かがみばっかりなでる。
 かがみっていうなまえの まるいやつ。
 ふしぎ。
 すきじゃないのに かがみ みてたら そこにすわっちゃう。
 なんでだろう。
 ごしゅじんさまみたいに あったかいから かな。

 そとにいきたいなら あられがつれていってあげる。
 ごしゅじんさまのいきたいところ つれていってあげる。
 ごしゅじんさまのしてほしいことだって あられがしてあげる。
 だから、そんなかなしそうなこえで なかないで。

「なぁに、あられ。そんなに舐めないで、くすぐったいわ。
 薬はなくなったの。だからもっともっと、生きなきゃ。
 うんっと生きるの。
 そうしたら、私もあなたみたいに外を駆け回れるようになるわ。
 あなたの遊び場にも連れていってね。
 ね、あられ」

●焦/sollievo
 雨音は激しく、座敷にまで大雨が染み込んでくるようだった。
 落ちた花がどんな悲鳴を上げたかは分からないが、あられに踏み躙られなかっただけでも良しとすべきか。
 しかし、花瓶は元に戻らない。できた染みは、床の痣だ。
「……あいつはいつもそうっす。容赦なく物を傷つけるっす」
 饗の眉間に皺が刻まれる。苦々しい思いが、口の中に広がった。
 ああしてパニックになったあられに、いくつ物が壊されてきただろう。
 あるじが落ち着くように宥めても、福が止めようとしても――あれは止まらなかった。
「まるで人の言うことを聞いてないんっす。自分勝手で、自分本位で……俺も踏まれていたっす。腹立たしいっすけど」
 それは、人型となる前の饗の明確な憤怒だった。饗の心だった。あるじの心を映したのかもしれなかったが、不愉快極まりなかった。こればかりは、どうあっても赦すことはできなかった。
 無論、今まで乱雑に扱われたこともあったし、饗を踏んづけたのはあられだけではない。突然暗闇を落とされたことは、幾度となくある。
 それでも、これほどはっきりとした怒りを向けるのは、あられに対してだけだ。
「割られなくて、傷つけられなくて、良かったな」
「危うく引っかかれて、傷が入るところだったっす」
「おーおー、そりゃ一大事だ」
「そっす。とんでもないことっす。いくら主様がダメだって言っても、あいつはひとつもきかなかったんっす!」
 福と男。
 饗と誉人。
 ふたつの会話がごちゃごちゃに重なり混ざり合って、庵に満ちる。
 場違いのような滑稽さに、俄かに緊張が弛んだ。
 曖昧に笑った誉人の翳りに気づいていないわけではない。重ねているのだろう。救うに救えない身だ。
「なんとか旦那様に掛け合っておくれよ。薬がいるんだ。お医者様だって、薬がないからどうにもならないって仰ってる」
「本当に旦那様の子かもわからんガキに医者を寄越してやってるだけ有難いと思えねえか」
「目の前で苦しむ子がいて助けてやろうと思わないのかい!」
 血を吐くように薬を懇願する福と、それを突っぱねては、あるじを罵る男――そんなシーンのテレビドラマを見るように、饗は止まらない応酬を見る。
 その見目の異端さから厭われたあるじ――しかし、今の饗なら解る。髪色は、まさに千差万別だった。知り合えた人々は、みな違う色を持っていた。
 隣にいる誉人も、青みがかった黒だ。彼のセンセーはどんな髪色だったろうか。もしかしたら、孫と同じような蜂蜜色だったかもしれない。
 たったそれだけのこと。
 たったそれだけのことで、あるじは忌み嫌われ、疎まれている。
 やるせなさは募る。
 たまたま金色の髪を持って生まれただけだ――これは、あるじの望んだことではない。
 たまたま病に蝕まれただけだ――これだって、あるじが望んだことではない。
 あるじの意思とは関係のない理由で忌避され、貶められる。果てない理不尽は、強い怒りと深い悲嘆を生み、饗は大きく嘆息した。
「でも、誉人……知ってたんっす」
「ん?」
「主様は、ちゃんと知ってたんっす……わかってたっす。俺にいつも話していたっすから……」
 生まれた家は変えられない。
 金の髪を分けても頭皮から黒い毛が生えていたことはなかった。
 父母に逢いたいと願ったところで逢えることはない。
 病気を治してと懇願しても、魔法のように消えてしまうことはなかった。
「例え、死んでしまったとしても、生き返ることはできないっす……だから、後悔しないようにいたいって」
 よく言っていた。よく覚えている。言霊の力にも頼ったあるじの姿が思い出される。
(「主様が聞いていたのは、このやり取りだったんっすね」)
 今、座敷の奥の間で息をひそめていることだろう。
 饗を撫で、饗を覗き込みながら、ぽつぽつと想いを漏らしていた姿が、まざまざと蘇る。
「昨日に囚われず、未来を向いて、明日へと進むんっす。明日には希望があるんっす。そして、縛るものは何も無いんっす」
 言いながら、ふいに合点した。
 いつかの日の口論を見つめながら――この情景に囚われているのは、饗やあるじではなく――しかし、誉人の諦めを多分に含んだ笑声に、それは霧散していく。
「どうしたっすか、誉人?」
「ん? うん、未来に希望が持てるってのァ、羨ましいことだと思ってな」
「昨日より今日、今日より明日、明日よりももっと、ずっと良いことが待ってるっす」
「それは、――饗らしい言葉だ」
 やはり小さく笑って、「いいなァ」とため息と一緒に吐いた。
「俺らしい、っすか?」
 虚を突かれたように感じた。これは、あるじが言っていた言葉のはずだった。だのに、誉人は饗らしいと言う――面映ゆいような、嬉しいような、複雑な思いに瞠目した。
「俺からしたらさァ、明日も明後日も、雁字搦めなンよ」
「そりゃ辛い事があるかもしれないっすけど、そんなの明日にならないと解らないっす」
「明日になったら、俺の寿命って延びてると思うか?」
 不意打ちの問いに、饗は言葉に詰まった。
「俺は、お前の……前の人と一緒だよ。家族にゃァ疎まれてねえと思うけど、ぜってえ治んねえ病気にかかってる」
 まるで他人事のように鼻で笑った誉人の紺色の視線が刺さる。
「俺はもう、いつ死んだっておかしくねえくらい、生きてる」
 たった二十年。もう二十年――この認識の違いは大きい。
 誉人の悲観は、謂わばトラウマだ。幼かった彼が、『人狼病だから仕方がない』と受け入れることが出来なかった傷痕だ。
「いつ死んだっておかしくないのは……たぶん、みんな同じっす」
 それを強く意識しているか、していないかの程度の差だ。
「今死んで、誉人は後悔することあるっすか」
「山ほどある」
 即答して、笑う。数えきれないくらいの後悔事があると、付け足した。
「いつ死んでもおかしくないって言うなら、今死んで後悔するようなことはしちゃだめっす」
 いろいろなことを諦めなくてはならなかった過去とは違う。誉人の手の中には、未来も希望も一緒くたになって握られているというのに、なぜそれに気づかない。それにまで目を背けているのか――それは、いたずらに時間を浪費していることになりはしないだろうか。
 なぜもっと足掻いてくれない。
「今すぐ死んでもいいってワケじゃねえン。死にたかねえわ――でも、饗」
 恐る恐る……そんな形容が一番しっくりくるような視線が投げられる。
「俺は、絶対、お前より先に死ぬ」
「そっすね……俺が割れない限り、そうなると思うっす」
 ああ、そうか。
 漸々、判った。
 伝えたと思っていたが、彼はまだ囚われたままだったか。
(「だったら、何度でも言って判ってもらうだけっす」)
 恐れてくれるな、それはすでに覚悟できている。
 未だ縛られ動けないままだ。無理もない。彼の身体を蝕む不治の病は、心を痩せさせる。魂にこびりついた死の香りはいつまでも誉人に纏わりついている。
 生を受けてからずっと、彼もまた枷を嵌められているのだ。
「俺はね、饗……お前に悲しい思いをさせんの。絶対に俺は、お前を遺して逝くから」
 ぽつりと告げた誉人の声音は、低くかすれて、自嘲する。
「誰にでも期限はあるっす。それこそ、俺にだって。俺も、手入れされなければ、朽ちて終わるっす」
 この人型はいくらでも替えはきくが、いま誉人の懐に在る《命》はたったひとつだ。
 割れてしまえば、満杯まで溜まったあるじたちの想いが流れ出して、饗が終わる。
 偶発的であろうと、悪意的であろうと、好意的であろうと――割れたときは、饗の最期だ。
 その最期を夢想することは、危機を回避することと同義だ。悲観し続けなければ、その想定は意味を成し続ける。
 ひとの浸みこんだ考え方は簡単には変わらないけれど。
「誉人は、何を怖がってるっすか。俺と出会う前と後で、それって、何か変わったっすか?」
 誉人の喉の奥で、声にならない音がした。

 ◇

「俺と出会ったあの頃とは、違うものが怖くないっすか」
 饗に問われ、はっとした。
 死ぬことは不思議と怖くなかった。宿命だと思っていたから。悲観していたのも事実だ。それよりももっと――開き直っていたという方が正しいか。
 今は、死ぬことが怖い。心底怖い。失いたくない。なにも。

 ――お前はほんまに厄介な性分じゃね。
 ――遅かれ早かれ、みーんな死ぬけん。
 ――そんなもん、死んだらぜーんぶのぉなんのは当たり前じゃろ。
 ――難儀な子じゃね、まったく。

 困ったように笑う師の言葉が蘇る。知らず知らずに彼女へと見せていた執着心を、厄介で面倒だと言いながらも、それを受け止めてくれた。
 失いたくないから、大切なものを増やさないように、いろんなことから逃げてきた――だのに、今はどうだ。
「失いたくねえもんがいっぱい増えた……なくなっちまうのが、怖え」
 饗を見上げれば、彼はにっこりと優しく笑っていた。あまりに優しいものだから、ばつが悪くなる。それをこともなげに払ってしまう彼だから、誉人は無性に泣きたくなった。
「だったら、もっと貪欲になっていいっす。だって、誉人は俺を手放さないって約束してくれたっす。俺が、拾い上げてあげるっす」
 咄嗟にズボンのポケットを触る――鼓動はないが、確かに《魂》はそこに在る。
 自分の胸元のシャツを掴む――チェーンに通した銀環ごと、握り締めた。呪詛にも似たその《契り》は、強く果てない独占欲から吐いたものだ。
「綺麗ごとに聞こえるっすか。死ぬのは怖いっす。誰でもそうっす」
 俺だって怖いっす――と続けたが、彼の瞳は力強く輝くのみ。
「でも、誉人。俺は主様を見てきたから知ってるっす。死ぬのを怖がってたら、明日にもたどり着けなくなるっす」
 明日には死が待っていたとして。
 行くしかないのだ。過去には戻れない。時を昨日に巻き戻してしまうことは出来ないのだ。
 誉人はそれを望んでいない。
「ん……でもな、饗……」
 それ以上の言葉が見つからない。
 死後のことを考えれば考えるほど、幼少期のことを思い出す。遺された者の深い哀しみは、いつまでも心に蟠って、家の端々に溜まって、痛々しく墓地へと葬列を成す。
 幼いながら、人前で笑うことは、憚られた。
 小さな幸せを見つけては、こっそり隠して大切にし続けた。
 大人に見つかれば、一様に哀しそうに微笑んだから。

 ――あの子もそうして笑ってたわ。
 ――まだ生きていれば、お前のように賢い子になってただろうに。
 ――もう、何日目だっけね……まだ、そんなに経ってないのにね……。

 泣かれることが嫌だった。
 想いを残せば、香りがつく。大切なものほど香りは濃く残った。死の香りは哀しすぎる――大切なものをつくりたくなかった。否、つくれなかった。
 遺された者を悲しませるだけだったから。

 ――貴方が母をもう一度、剣士として輝かせてくれました。
 ――帰った母は、それはもう、貴方の話ばかりをしてくれましたよ。
 ――折れた母を生き返らせてくださって、ありがとうございました。

 敬する師との別れのときも、彼女の家族は悲しみの中にいた。家族が逝ったのだから、哀しくないわけがない。それなのに志崎の人々は一様に誉人に礼を言っていた。
 あれほどに生きた人ですら……たくさんのものを遺した彼女でさえ、「早すぎる」と嘆かれ泣かれ、悔やまれて、遺族の悲しみを軽くすることはできなかったのだ。
 ならば、家族を増やさなければいい。いっそ、子なんぞつくらなければいい。誉人が逝っても、悲しむ者をつくらなければいい――そう思い至るに、遅くなかった。
 遺されてきたから。寂しい思いをうんとさせられてきたから。
 だから、誉人はそうはさせまいと決めたのに。
「俺、泣かれンの、きらい……」
「わかったっす。だったら俺は泣かないっす」
 視界がぼやけた。饗の輪郭を見失う。
 ああ、ああ、だめだ。鼻の奥が痛い。眼が熱い。泣くな。泣くな。
 饗の眼差しから隠れるように俯いた。
 辿り着いた明日、誉人に死が訪れて――それでも、涙に暮れないという。こんな嬉しいことがあるか。それがたとえ、誉人を安心させるためのウソだったとしても、こんな嬉しい言葉があるか。
「俺が死んでも、泣かねえ、ン?」
「誉人のきらいなことはしないっす」
 かあっと頬が熱くなった。
 見上げれば、いつもの優しい饗がいて。
 手を出せば、すぐに握り返してくれる手がある。
 大切な手だ、大好きな手だ。誉人を諦めない強い手で、誉人を肯定してくれる優しい手だ。
 伸ばした手を強く包んでくれる大きな手は、あたたかかった。

●苛
 平助は頑として、薬の手配を断り続けた。
 彼の主張は一貫して福を苛立たせる。妙齢の女子に投げつけるにはあまりに尖り過ぎていた。
 平助の言葉は、すべからく家長の言だという――この毒を浴び続け、福とて疲弊しないわけではないが、この程度で音を上げていては、明日香の体調を気遣ってやれない。春の陽だまりのように優しかった、あの方の忘れ形見だ。こんなところで折れるわけにはいかないのだ。
 明日香には、もっと幸せになってもらいたい。世には、もっと多くの楽しみがあることを知ってもらいたい。
 こんな寂れた庵に幽閉され、孤独に闘病し続ける人生などないのだ。
 医者も言っていた。薬がないのならば、本人の体力に任せる他ない、と。
「よく考えろよ、お福。あれは、金色の髪をしている。奥方の不貞の証拠だろうよ」
「それ以上言ったら、容赦しないよ」
 平助はにたにたといやらしく嘲笑し、まるで福を苛立たせ、楽しんでいるかのようだった。
「旦那様にお伝えして。お嬢様には薬が必要だと、お医者様が仰っているとお伝えして」
 念押しして、さらに文を出した。
 これには、明日香の現状報告と、環境改善の嘆願を書き連ねてある。
「旦那様にお渡しして」
「儂がそれを聞いてやる義理はあるか?」
「あるよ! そのためにここまで来てるんだろう!」
 蛇のような笑い方を止めない平助に、手あたりしだい物を投げつけてやりたくなった。
 それでもこの男に託すしかない。福にはあの家へと行く時間がないのだ。こんな信用ならない男にすら頼らざるをえないのが、この男を介してしかあの家と繋がっていない現状が、どうしたって歯痒くもどかしく、福を否応なく苛立たせる。
 鼻を鳴らした平助は、ひとつ吐息、下卑た嗤いに体を揺すって、福の文を袂に入れる。
「これが儂の役目だからな。でもよ、お福。そろそろ、目ぇ醒ませよ。もう奥方はいねえんだぜ」
 そんな分かり切ったことを言わずとも、福は、福の意志でここにいるのだ。
 そのとき、あられが似合わない威嚇の声をあげた。
 背を丸めて、尾をぼわりと膨らませ、小さな体で精一杯に怒りを示している。
 まるで福の心の機微を汲んだように、低く唸り続ける。
「なんだって猫なんて……けっ、畜生めが」
 あられの幼くも、いやに慣れた威嚇を一瞥、忌々しげに吐き捨てる。
 そして、訪ねてきたときと同じように、唐突に戸口に向かって踵を返した。
「旦那様にお伝えしたって好転しねえよ」
「それでも、なにもしないで終わらせらんないだろ」
 平助の袂にある文が、無事に読まれますよう、どうか――福は願わずにはいられなかった。

●是
「……饗」
 縋るように伸ばされた手を咄嗟に握り締める。泣かれることが嫌いと言った彼は、存外涙脆くて、紺瞳は時折溶けてしまいそうなほど涙を浮かべる。
 握った手を振り払われることはない。饗の手より細くも強い手だというのに、今はすっかり力をなくしていた。
 怯えるばかりの弱い人ではないはずだ。
 饗の知る鳴北誉人という男は、不器用に優しい強い男だ。死を恐れ始めたのも、もっと生きたいという欲が出たから――いいことではないか。
「不安なことがいっぱいあるの、分かるっす。でも負けないで生きるっす。物怖じしている時間は無いっす」
 命の期限は誰にでもあるものだから。その長短に嘆いたところで、みな等しく終わりはくる。
「誉人が生を楽しむ事は、悪いことじゃないっす。誰に咎められるっすか?」
 困惑して、揺れて濡れる紺瞳を覗き込む。
 炯然たる双眼も、今は悲憤に暮れていた。この目が、色とりどりの感情を映して光ることを知っている――だからこそ、この哀色を、一笑して払い飛ばす。
「それは誉人の大切な時間なんっす。誰にも文句は言わせないっす」
 決めたのだ。
 魂に刻み込んだのだ。
 この魂は、もはや誉人のものだから、一緒に、どこまでも共に、と。
 彼の望むがままに共に、と。
 今度こそは、後悔しないように、と。
「もっと、楽しいことをたくさんするっす。好きなものだって、うんっと集めていいっす」
 後生だから後悔してくれるな。ひとは悔いを残して逝くのだから、一片でも善かったと笑むことができる生にしなければいけない。怖気づいても構わないから、立ち止まってくれるな。そのときは隣にいるから、共に乗り越えさせてくれ――ゆっくりと、しっかりと、誉人の心裡へと沁み込むようにと、祈りにも似た思いで言葉を紡ぐ。
「もっと笑っててほしいっす」
 頷いた拍子に溢れた涙が熱い軌跡を残した。指を伸ばす――誉人は拒まない。親指の腹で拭い、跡を消した。きっと彼がそう望んでいることだから。
「過去は過去として、それを否定するわけじゃないっす。今の誉人には、それって必要なことっす。だから、なかったことにしてほしくないっす。でも、未来まで『ない』ことにしてほしくないっす」
 過去を否定することは、現在を否定することだ。
 そんなことを許してなるものか。
 悲観してくれるな。侮ってくれるな。誉人があるじであるかぎり、いくらでも言葉を重ねよう。
 縋ってくれて構わない。
 彼は、ひとりで立つことのできる人だから。
 弱ったときはいくらでも支えよう。
 何事かを言いあぐねている誉人の目を見つめ返し、頬から力を抜く。
「過去には戻れないんっすよ、誉人」
 放った言葉は口に返ってこないし、起こった出来事はなかったことにできない。
「幾ら願ったって、もう戻れないっす」
 強い呪縛のような希望を持ち続けたあるじはもういない。
 生きて笑う、あのあるじは、もう。

大成功 🔵​🔵​🔵​


●嚇
 ごしゅじんさま いない。
 こわいひと こいつは きらい。
 いつも ごしゅじんさまのことをわるくいう。
 おっきくて こわい……けど きらい。
 むかつくにおいして むかつくこえして むかつくあしおとで だいきらい。
 ごしゅじんさまをまもる あられもてつだう。
 あられもがんばる。

 でていけ! くるな! いじわるばっかりいうな!

 せいいっぱいいかくして どなったけど こいつにはきかない……。
 こいつきたら ごしゅじんさまのげんきなくなる。
 でも まけたくない。
 でていけ。でていけ。でていけ。でていけ。

 あられのごしゅじんさまを かなしませるおまえなんて しんじゃえ。

 いっぱいいかくした。
 いっぱいどなった。
 つかれたけど。
 あいつ でていった。
 ごしゅじんさまの おせわするひとも、あられも やっと ひとあんしん。
 がんばったから おなかすいた。

 おなかすいたあ!
 ごしゅじんさまあ どこお!

 へんじ ない。
 やっぱり ごしゅじんさま いない……。
 どこにも いない。
 ごしゅじんさま あられ ここにいるよ……。
 いっぱいいいこにするよ だから へんじして。
 ……ごしゅじんさま。

●奥の間
 がたりと戸が鳴った。
 意を決した誉人が何かを言いかけたその瞬間だった。
 何事かとそちらに視線を向ければ、戸が震えて滑り開く。
 瞠目し、息を飲んだ。
「お福さん! 白湯ちょーだい!」
 そこにいたのは、ひとりの少女だった。
 今は来てはいけない――言いかけたが、あの男の姿は、いつの間にやら消えていた。
 座敷にいたはずの福すら、いなくて。ふたりの背後――台所から、福の穏やかな返事が聞こえてきた。

「あるじ、さま」

 饗の小さな声。
 それを掻き消すような、甲高く甘ったるい猫の声がした。
「おかえり、あられ。今日もたくさん遊んできた? よかったね」
「お嬢様、もうじき昼餉の準備も整いますからね」
「ありがとう、お福さん」
 煌く金糸のごとき髪。
 病魔に蝕まれた細く白い四肢。小さな身体は、折れてしまいそうな儚さで――それでも優しく柔和な黒瞳は、足元にすり寄るあられを見下ろし、莞爾と笑む。
「この衣装、あとで着てみてもいいかな? 試しに着てみるの、いいよね、お福さん!」
「では食べてからにしましょ」
「やった! 楽しみね、あられ!」
 チリリリンと鈴が、跳ねるように鳴った。
香神乃・饗
白無垢姿を見ても平時通り
過去の幻でしかなく他人事の様に見るっす

調子が良い時に組紐を編んでいたっす
大事な物に印をつけて
兄弟やあられにもつけていたっす
羨ましかったっす
俺にも欲しかったっすけど俺は通す穴が無い物っす
仕方なかったっす

うまく言葉が出ないっす
生きている時にと願った事がないと言えば嘘になるっす
でも全て終わった事なんっす
『もし』はありえないんっす

元気だったんっす
身代わりにと願っても役目を果たせなかったっす
これを無念とでも言うんっすかね
今見ても悔しいっす
でもなぜか落ち着いて見ていられるっす
結末を知ってるから

俺は今がいいんっす
誉人は俺に印をくれたっす
今は誉人の印の方が大事っす
指輪した手を握り締める

今の主は泣き虫で怖がりっす
隠してても知ってるっす
懸命に生きて寿命と戦っているんっす
俺はそんな主の元を離れたくないっす
ずっと傍に居たいんっす

誉人お願いがあるっす
落ち着いたら誉人の居た世界に連れてって欲しいっす
誉人の家族と会いたいっす

一杯泣いても良いっす
だから誉人の昔を知りたいっす
俺が見せてるんっすから



●印/adoro
 昼食を運び始める福の足元に、あられが纏わりついている。甲高い声で鳴いて、食事をねだっているようだ。
 窘めながらも、福はあられのやりたいようにさせていた。
 盆に載せられた膳が、座敷を通り、奥の間へと運ばれていく。
 饗は、彼女らを追った。
 よく知った庵だ。この柱の傷も、床の軋みも、よく知っているものだが、部屋中に広がり漂う気配は――がらんどうの庵のそれではない。ひどく懐かしく、ひどく余所余所しく、饗は深く吐息した。
 彼の黒瞳に映るのは、白無垢にはしゃぐ、かつてのあるじ。
「お福さん、見て! 綺麗……!」
 試しに一度だけ袖を通してみたことがあった。
 望みに望んだ花嫁衣裳だ。
 純白に包まれている。
 顔色はいい。日に焼けていない頬には、喜びの朱が差していた。
 病に侵された身、外に出ることもままならない身、結婚には適さない身――明日香本人が誰よりも判っていた。
 だからこそ待ち望んだ衣装に興奮しきりだった。
(「よく覚えてるっす。そう……こんな風に喜んでたっすね」)
 それでも、饗の心は凪いでいた。先刻は予期しないタイミングで姿を見たため驚きはしたが、彼女は『過去の幻』であることは明々白々。
「ええ、お嬢様。とてもお似合いですよ」
「やだ、お福さん! 泣かないでよ、気が早いわ。本当の祝言のときまでとっておいてね」
 涙ぐみながら笑う福に、明日香は気丈に笑んでいた。
 饗の中で、すべてが決着していることだ。
 明日香は、もういない。
 無邪気に白無垢に喜ぶあるじは――年相応に笑う彼女は、幻なのだ。
「饗……大丈夫か?」
 ああ、誉人が心配している。
 彼の不安は杞憂であると伝えてあげなければならない。
 今、ぐらぐらと揺れてしまっているのは、彼の方だというのに、饗を気遣っている。
 ひとつ肯き、誉人の瞳を見つめ返す。
「どうってことないっす」
 結末を知っているのだ。明日香は、嫁ぐことなく他界した。病を退けることはできなかった。知っている。骨身にしみている。この二十余年のうちに、すでに飲み込み、乗り越え、思い出話として整理できていることだ。
 あるじの不安を拭いとってやりたい。彼の瞳を曇らせる靄を晴らせてやりたい。
「どうってことないわけないだろ」
「そっすか? 主様が生き返るわけじゃないっす」
 これは、饗が見たいと願った光景ではない。
 眼前の一切合切は、あられが望み願った幻で、楽しかったこの時から一歩も進み出せずに雁字搦めになっている証拠だ。
 慕ったあるじの死を受け入れられずに、過ぎ去った思い出を往々に眺めているのは、あられだ。
「それでも、こうして動いてンだもん! 見ろよ饗、|お前を持ってる《﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅》……!」
 まるで自分に爪を立てるような物言いから、彼の心が混沌と荒んでしまっていることに気づかない饗ではない。
 穏やかにしてやりたくとも、彼を安堵させ、いまに笑顔にしてあげられそうな魔法の言葉は、果たして見つからなかった。
 明日香は、懐に掌大の丸鏡を差して笑う。
 深い黒の中、梅は枝を勇壮に広げ、赤い花を可憐に咲かせる――見間違えることはない。饗だ。
「お福さん、今度お料理教えてね。私、結婚したいの」
「ええ、もちろんですよ、お嬢様。うんと腕前をあげて、未来の旦那様に喜んでもらいましょうね」
 この時は、二人ともが未来に向かって希望を抱いていた。
 本調子ではなくとも、こうしておしゃべりをして、立ち上がって、歩けていたのだから。
 塞ぎ込んでいても仕方がないことは、二人とも判っていたのだ。
 お守りたる|饗《﹅》を肌身離さず持ち続け、快癒を願い、ささやかな夢を語り、想い、真白い着物を撫でる。
 彼女が鏡を懐に入れている姿を初めて見ることになったが、やはり不思議と心は凪いでいた。
「誉人がそんな顔することじゃないっす」
「でも、前の人が、……」
「そっす、前の主様っす。今の主様じゃないっす」
 幻だ。
 幻術だ。
 もういないのだ。
 眼前のこれは、在りし日の姿というだけだ。本物ではない。彼女の霊魂ですらない。
「でも見ろよ、綺麗に笑ってンじゃねえか」
 その投げやりな物言いに隠されたのは、誉人の(おそらく本人にも正体が判っていない)得体の知れない感情だ。
「ずっと抱いてたンだろ。わざわざ着替えさせて」
「そうっす」
「だったら見てやれよ! 自分で着て動いて笑っ……」
 握っていた手を振り解かれ、一歩二歩と饗から離れる――しかし、すぐにばつが悪そうに饗に背を向けて押し黙った。
「そりゃ……生きている時にと願ったことがないと言えば嘘になるっすけど……本当に全部が終わったことなんっす」
 魂に刻んだ。
 己の無力さも、後悔も、角隠しの白も、細い身体の軽さも、虚無も嗟嘆も。
 忘れぬようにと。
 忘れてなるものかと。
 あるじの夢見た願いを、代わりに叶えてくるからと契りを残して。
 懸命に生きた姿を覚えておくと誓いを立てたから、この足で立つことができたのだ。
「主様の姿は懐かしいっす。でも、それだけっす」
 念願だった衣装に歓喜して、これを励みに今よりも健やかに、明日はもっと晴れやかに――そうして必死に笑う姿を覚えている。
「それだけじゃねえだろ……それは、もう信じれねえンだわ。それだけじゃねえってのは、さんざ感じてンの。お前の言葉の端々から、いまも、前の人がいいンだろォなって」
「それは違うっす。生きてて、笑ってくれる誉人がいいに決まってるじゃないっすか」
 誉人の濡れた紺瞳が鋭く尖って一瞬だけ饗を睨んでから、明日香へ視線を投げた。
「俺はいろんな主様の手に渡って、想いを溜めてもらってきたっすけど、誰一人、俺が選んだ人はいないっす」
 そこに饗の意志はなかった。自我はあってないような、実に曖昧模糊とした、漠然とした意識の核のようなものだけで、饗に決定権はなかった。
「この時の俺の主様も、俺が選んだんじゃないっす。でも、誉人」
 呼んでも彼はこちらを見ない。ときおり背を震わせ、嗚咽を隠している。
「誉人だけは違うっす。俺が、誉人がいいって選んだんっす。誉人になら命を預けていいって思えたっす。だから託したんっす。
 確かに……主様は俺にとって大事な人っす。でも、この主様だけじゃないっす! 今までの主様がいなければ、俺は生まれることはできなかったっす!
 この主様は、俺が人型になれたきっかけの人で、仕えるつもりで出てきたら、もう亡くなってたっす。その分思い入れはあるっすけど」
「それは、俺にとっちゃァ十分特別な感情だわ」
「誉人も主様も俺の大事な、」
「俺はお前をシェアする気ねえって言っただろ!」
 饗の言葉を遮って、誉人は怒鳴った。その怒声をどこ吹く風と、明日香と福は笑い、あられは愛らしい鳴き声をあげる。
 耳障りだった。誉人の心が吐露されているのだ。このすべてを受け止めたいと、じっと彼の背を見つめる。
「いくら俺が駄々こねたって変わらねえ。前の人が大事って、それ好きだって言ってンのと一緒だって! 饗ン中の、根っこの部分だろォが!」
 声が尖って、冷たくなって――それでもやはり、自分を傷つけているようだ。
「ソレ、羨ましいンだって! 死んでもそんなんして愛されて! 泣かれねえで想ってくれてて! いつまでも大事にっ」
「誉人……」
「ッ、ちげえ、……お前を、困らせてえわけじゃねえン……ただ……っ! 俺を大事だ、特別だって言いながら、でもお前は今も前の人ンこと大好きだろって……なんでそれを誤魔化そうとすンの!」
「誤魔化してないっす! 大好き……か、どうか……難しいっすけど、……いま、誉人より大切な人はいないんっす!」
 これは誉人の嫉妬だ。大丈夫、気づいている。気づかないわけがない。純然たる嫉妬だけでないのは、彼の声色が物語る。
 羨ましいというのも、彼の本音だろう。今を生きている誉人を追い越すことはないというのに――まったくもって、不思議なあるじだ。
「大切なんっす。
 大事なんっす。
 誉人が。
 このときの主様にお仕えできなかったのは、もう決まってることなんっす。それが無念じゃない……は、嘘になるっす……でも、|だから大事《﹅﹅﹅﹅﹅》なんじゃないっす。この姿形をくれたのは主様っす。そんな姿も、俺の命も、全部丸ごと好きになって、大事にしてくれる誉人は、」
 ぽたっ。不意に畳に水が落ちた。ぽたっぽたっ。とめどなく落ちる音が、彼の涙だと察するに易かった。
 次々に染みを作っていく。
(「今回のあるじは、泣き虫さんっす」)
 溢れて零れる涙は、ぽたぽたと落ち続ける。しゃくり声を堪えて――まるでこどものように泣く姿を、なるたけ見ないようにして、背を撫でた。
「俺に印をくれたじゃないっすか」
 いつかの日、饗の左手を取り、おそるおそる嵌めたリングは、所有の証。
 あの日から片時も離さず、饗の指間で堂々と耀く。
 交わした契りをかたちに残してくれたのは、誉人だ。こんなに細い銀の輪なのに、これはとてつもなくあたたかい。
「俺には、誉人の印の方が大事っす」
「でも!」
 顔を上げたあるじの紺瞳は、溶けてしまいそうに濡れていた。それでもしっかりと饗を見つめてくる。目を擦り、乱暴に涙を拭った彼に、言葉の先を促せば、唇は震える。
「……いくらお前に俺の名前書いたって……お前の心ン中にいつもいんのは! 俺だけじゃねえ! お前が前の人に向ける愛情は今もあって! だから俺は……!」
 震える声で迸らせた想いの丈は、果てない寂しさに満ちていた。
 その全部を聞かせてほしかったのに、彼は言葉を噛み潰してまた俯いてしまった。
「俺は、誉人が俺に印をつけてくれるたび、嬉しくって仕方ないっす」
 印のひとつひとつ、そのすべて、余すことなく――誉人の愛情が注がれていることを知っている。
 明日香へ抱く感情も、誉人へ抱く感情も精確に言葉にすることは至難だけれど、身をもって思い知っている。
「俺には、この印があれば十分なんっす」
「でも今だけだ! このひとを見れンのは、今しかねえだろ! くっそ……なんで、わかってたのに……! ああもう!」
 誉人は自分の顔を擦って、涙を乱暴に拭い唾棄する。
 抱いた嫉妬でぐちゃぐちゃになっているのに、誰よりも俺を選べと言いながらも、饗の思い出を――饗の過去を蔑ろにしない。
「もう二度と、このひとの、こんな姿を見ることなんてできねえ……! その指輪は、いまじゃなくても見れるけど、あのひとは、もう」
 こんな優しい人がいるか。
 自分本位になりきれず、八つ当たりをしながら、結局のところ饗を気にかけるあるじを優先しないで、なにが『大事』だ。
「俺はこんな過去より、誉人の方が大事なんっす。誉人の言葉の方が大事っす。誉人がくれた印の方が大事なんっす!」
 何度でも言葉を重ねてやろう。
 誉人の心が揺るがないように。
 泣いていい。いくらでも涙を流せばいい。気持ちを隠さなくて構わないし、一切飲み込まなくていい。
 後悔なく吐き出して、後悔なく迸らせて、すべてを教えて欲しい。嬉しいも楽しいも哀しいも寂しいも悔しいも――すべてを教えて欲しいのだ。
 全部を受け止めるから。
 彼のこころを受け止めても壊れやしないから。
「俺の言葉だけじゃ信じられないかもしれないっすけど」
 今まで、たくさんの想いを受け止めてきたのだ。
 誉人の心だけを受け止めきれずに零し落としてしまうなんぞ、ありえない。
 熱く愛を叫べと言われたときも、浮かんだのは彼のことだった。
 得体の知れない糸を結われそうになったときも、血を寄越せと凶刃を向けられたときも、あるじのことのみを想っていた。
「誉人をあるじに選んだこと、後悔してないっす。間違ったなんて思ってないっす。まだ足りないっすか、もっとっすか」
「ちがう、……も、」
「俺は主様に姿をもらったっす。でも誉人みたいに笑ってくれなかったっす。主様は大事っすけど、俺に笑いかけてくれる誉人の方がずっとずっと大事で、大好きなんっす」
「もういい、やめろ」
「いやっす、一寸でも信じてくれるまでやめないっす。もっと言ってあげるっすから、ちゃんと聞いてほしいっす」
 誉人の肩を掴む。軽かったあるじとは違う、あたたかな肩だ。この熱があるだけで、どれほど饗が心を震わせるか、彼は判っていない。
 背にぶつかる笑声は軽やかで愛らしい。生前、饗が己の耳で聞くことの叶わなかったあるじの笑い声だが――眼前で涙を零して唇を噛むあるじにしか気が向かない。
「俺はちゃんと、誉人が好きっす。大好きっす。俺は誉人が一番好きっす」
「……また……ああもう! なんでおまえは!……――っ、おれだって、おまえのこと!」
 潤んだ双眼に見つめられ、しっかりと見つめ返す。星眸の力強さは、彼の心の強さだ。逡巡しながら叫ぶ彼は、続ける言葉を突然見失ったように息を飲んで唇を引き結んだ。

 ◇

 どうしたって棘のある物言いになった。饗の真意が判らなかったのだ。
 彼のあるじであることは、揺るぎなく疑う余地のない事実ではあるが、それでも不変の自信を持つことは、誉人には難しかった。
 かつて、誉人を女々しいと評した師を否定することは、やはりできそうにない。
 過去だ。わかっている。それでもこれは、こればっかりは――きっと彼の一等羨む時間のあるじの姿で、きっと共に過ごしたかったあるじの瞬間だ。
 会いたいと願ったと、彼から聞いた。
 やっと会えたと思ったら、事切れていたとも。
 その無念と寂寞を推し量れば、この醜い嫉妬もとけて消えると――浅はかに願った己を呪う。
 これは、今の饗を構成する一部だ。この時間がなければ、今の饗は存在しない。だから、この時間を否定してはいけない。
 苦しいのに、彼女を憎めなくて。キライだけれど、それは同族嫌悪にも似たもので。
 美しい純白の衣装を着て、無邪気にはしゃいで喜び笑う、その姿を直視できなくなる。
 この時間、この瞬間――饗が|饗《﹅》だったら。
 いつものように褒めて、我が事のように喜んでいただろうか。しかし、彼は、もはや明日香を見ない。彼女に背を向けて、誉人しか見なくなった彼に、罪悪感が込み上げる。
 一夜だけ会えると知ったから、まぼろしの橋へと会いに行った彼を思い出す。
 その一度だけではない。
 明日香の前で、ふたりとも大事なあるじだと宣った瞬間をも芋づる式に思い出された。
 あの絶望は到底忘れられるものではない。
 彼の|特別《﹅﹅》にはなれないと知ったから、無理やりに彼に名を刻んで、心身のすべてを己がものとした。けれど、優越感の先にあった歓喜の奥には、汚泥のような悔悟があった。
 いくら饗の想いを聞こうとも、彼の言葉と行動がちぐはぐなものに思えてならない。心は毛羽立ったままだ。
 なにより無理やりに名をつけたところで、饗には、それを外して誉人から離れていく権利があって。 
 一生を約束しても、一等を約束しても、誉人にはそれを縛り付けることはできないのだ。
「忘れてないっすか、誉人。誉人って、俺が選んだ最初の主で、最後の自慢の主になるんっす、この意味、ちゃんと分かってるっすか。俺の覚悟はもう決まってるっす」
 饗は自分の左頬を撫でる。
 彼の頬に赤梅が咲いたあの日を忘れたわけではない。今は見えない覚悟の花に触れていた指が、誉人の頬に添えられた。
「俺は、誉人しか知らないんっす」
 明日香を亡くしてから、誉人に会うまでの間、彼の持ち主は現れなかったから。
 たくさんの|初めて《﹅﹅﹅》をふたりで積み重ねてきた。
「俺の大好きなあるじは、本当は泣き虫で、怖がりなんっす。だからこそ強くって、優しいんっす。
 何度でも言うっすよ、誉人。
 俺の大好きな誉人っすから、俺の主様でいてほしいって」
 頬を撫でるあたたかな饗の手に手を重ねて、目を閉じる。もう泣くのはいやだから、なんとか堪える。眼は熱くて、ともすればすぐに涙が溢れそうになる。
「おまえは……ずるい……」
「当然っす。棄てられたくないっすから、俺だって頑張るっす。それとも……やっぱり、ずるい俺はいらないっすか」
 恐ろしいことを問われ、首を振って即座に否定した。
「じゃあ、信じられない俺は、いらないっすか」
「違え! 俺は、お前を手放そうと思ってるわけじゃねえ……! いらなくなるなんて、ぜってえ、ありえねえからァ!」
 誉人の懇願を聞いてふわりと笑んだ饗には、誉人の中にそんな選択肢なんぞ初めから存在しないことは判っていたようで、虚を突かれた。
(「俺はこんなにも自分勝手で、自分本位なのに……!」)
 饗とくれば、どこまでも誉人に甘く優しい。
 彼を信じていないわけではない。しかし、真意のほどが判らない。だから自信がない――圧倒的な、明日香への劣等感で潰されてしまいそうになる。
「俺は、棄てられてしまう方が痛いっす。遺されても辛いっすけど、それでも、ご主人様の最期の時までお仕えできるのは、光栄なことっす。矜持があるから強くいられるっす。たくさんの想いに囚われることなく、前に進むことができるんっす」
 この強さに惹かれた。誉人とはまるで違う生き方に惹かれた。眩く映った。幾度となく羨んだこともある。詮無いことと判っていながら、そうせざるをえなかった。
 饗の強くまっすぐな言葉は、誉人を容赦なく突き刺した。
「俺のあるじは、懸命に生きて、いっぱい我慢して、戦ってるっす。それが誰にでもある寿命なんて当たり前のものだったとしても――その巡りの中で受けた生を大切にしているっす」
 饗の銀環を感じることはできないけれど、頬に触れる彼の手は、ひたすらに優しく、誉人の心の棘を否応なしに溶かしていく。
(「これがずるいン……」)
 饗の手を握り、頬から離す。
「そんな誉人が大好きっす」
 饗の手に指を絡ませ、握る。謝罪と懇願を込めて――親愛を滲ませて。
「俺をこのまま誉人の傍に置いてほしいっす。誉人の明日を一緒に歩ませてほしいっす」
 もはや、誉人に気の利いた言葉で返事をすることはできなかった。
 ここまでの言葉を言わせてしまった情けなさと、申し訳なさと――隠しきれない嬉しさが込み上げて、どうしたって哀しくなって。
 肯く以外、できなかったのだ。
 何度も肯く。
 無理やりに刻み込ませた契りであっても、饗との絆を強く固く縛り付けることになろうとも。
 どうあっても、彼を手放すことはできないのだ。彼のいない時間を想像することすら難しく、思えば思うほどに悲しく哀しく酷く辛い。
「俺も、お前といっしょが、いい」
 絞り出した一言に、饗の黒瞳は優しく細くなって、頬はやわく綻んだ。

「よかったね。きょう――」

 明日香の優しい声に、ふたりは驚き振り返る。
 莞爾と笑んで、明日香は手元にいるあられを撫でていた。
 むろん、饗に話しかけたわけではないし、ふたりの会話を聞いていたわけではないが、あまりのタイミングに言葉が詰まった。
 しかし、黙っていてはいけない。明日香が饗の名を呼んだように聞こえた。彼の心が変わってしまわないように、言わなければ。
 ちゃんと言わなければ。
 きちんと告げなければならない。
 肯くばかり、泣くばかりでは伝わらないから。
「……饗、俺ねェ――」
 血が顔に昇るのを感じながら、繋いだ手に力を入れる。
 迷いはないけれど、恥ずかしい――もう一度だけ、饗の名を呼べば、短い返事。
 口から飛び出そうな心臓を胸に止めながら、ぽつりと告げた言葉は、饗にどう聞こえたろうか。

●祈
「良かったね、今日は楽しかった? あられ」
 細い体を撫でて、細い首に編み上がったばかりの組紐を結わえた。白い梅花結びは、元気な彼女の邪魔にならないように少し小さくして。
「うん、うん。あられは白いから赤がとっても似合うわ」
 高い声でにぃあと可愛く鳴いて、ぐるぐると喉を鳴らして甘える子猫の頭を撫でる。細い毛はふわふわで、やわい耳がぺたんと伏せられる。
「良かったね。今日はいいことがいっぱいで」
 楽しげに、にゃあ、と返事。
 編み込んだ鈴が涼やかに跳ねた。
 今日のような雨の日に出会った子猫は、明日香の手で遊ぼうとじゃれついてくる。
 抱き着かれて後ろ足で蹴られた。加減を知らない子猫の遊びは激しくても微笑ましく、暫く付き合う。
 チリチリンと鳴り続ける鈴を不思議に思ったか、あられはころころと畳上を転げ始めた。
「ふふ、元気ね」
 勝手な想像だったとしても、嬉しそうなあられの姿に気を良くして、明日香は編みかけの紐に手を伸ばす。
 組紐を編むのは好きだった。
 生きた時間を編み上げていくような感覚だった。出来上がっていく紐は、明日香が生きた証拠だ。
 編めば明日香は繋がっていれられる。いまに抜けていきそうな力を、組紐に向ければ明日香は今日と繋がっていられる。
 だんだん伸びる紐を見れば、暗闇しかない夜を越えることができたと安堵できる。
 没頭すればするほどに、明日香の命は可視化していく。その命を、白猫にも結わえた。
 外出できない明日香にとって、新たな出会いは奇跡だから、彼女との絆を可視化した。
「組紐、よろこんでくれるの? うれしい」
 闇を溶かし燃やす赤は、一日の始まり。安堵と歓喜を発露させる黄金も、強く輝く白銀も、明日香の心をときめかせる色だった。
 大好きな朝の色を編む。
 起き上がれた喜びを編み込んで、生きた証を残して。
 体の融通が利くうちに。
 チリンと賑やかな音を聞きながら。

●兆
 誉人に向き合い、言葉を投げ合っていた僅かな時間で――明日香は白無垢ではなく、見覚えのある浴衣姿で、あられにじゃれつかれていた。
 その彼女の手元には、編みかけの組紐があった。
 赤と金の糸を編み続ける時間は、ひたすらに穏やかな時間だった。そうして没頭している時間というのは、彼女の体調はすこぶるよくて、庵がほわりと温かい雰囲気に包まれていたから。
 先刻跳ねた鼓動は幾分か落ち着いたが、彼女の持つ組紐の正体に気づき、はっとした。
「主様は、大事な物にああして印をつけてたっす」
 当然あられにもつけていたし、福にも贈っていた。
「兄弟にもつけていたっす」
 羨ましいと素直に思った。
 願っても明日香の組紐をもらうことは叶わなかった。
「俺は、兄弟みたいに紐を通す穴がないっすから、仕方なかったっす」
 言いながら、饗は左の薬指を撫でる。だからこそ、この印がたまらなく嬉しかったのだ。愛するあるじが饗につけた所有の印だ。これが、嬉しくないわけがないのだ。四六時中外さないのは、そのためだというのに。
「……お前に紐を括りつけるとこがあったら、お前はそれを……」
「『もしも』の話はしないっす。俺には、あの主様の印はついてないっす」
 代わりに、強い想いを注いでもらった。未来の夫となればいいなと妄想した姿を注ぎ込んでもらった。なによりの贈り物だ。
「あら、お嬢様。新しい組紐ですか?」
「そう! 今度は帯締めよ、お福さん。これを締めて、旦那様と一緒に芝居を観にいくの」
「ま、すてきなこと!」
 茶の香りが漂って、明日香は未来を空想する。
 なんてことはない、いつもの光景だ。
 よく空想していた。元気になったらこうしたい、いつか結婚したら何がしたい――帯締めもそのひとつだ。
「…………俺はさ、饗。できねえのわかってっけど、あの紐、切り刻みてえ」
「なんでっすか!?」
「お前と一緒に歩く妄想してンだもん! だってあれ! お前と一緒に出掛けるつもりだろォ!」
「でも俺はこのときはまだ出てこれてないっす。それにもう、主様はいないっす。一緒におでかけできないっすよ、んん??」
 いま編んでいる帯締めも、使うことなく逝ってしまった。編み上げることができたかどうかも定かではない。
「わっかんねえのか! この! お前はオンナゴコロを勉強しろ!」
「誉人は男っす!」
「そうだけど、そうじゃねえ!」
「んん? 難しいっす……」
 思案に眉を寄せても、誉人の複雑な心裡を垣間見ることは叶わない。
 知っているつもりでも、彼について、まだまだわからないことが多すぎる。誉人のすべてを知ろうとは思わないが――それでも。
 ひとつでも多く。
(「オンナゴコロよりタカトゴコロの方を知りたいっす」)
 こればかりは、秋の空よりもずっと難しそうだ。
 ころころ変わる空模様より複雑怪奇に、タイムラプス映像を見ているように、明日香の暮らす奥の間は、日々が巡る。
 着実に、|今《﹅》へと近づいてきていた。
 配膳されたものをゆっくりと食べる。丁寧に箸を動かし、丁寧に食べる。それでも、彼女の食は細かった。
 すべての生の営みには、体力がいる。どうしたって、力が必要になる。無論、食うにしたって、途方もない力が必要になる。
 明日香には、その体力は残っていなかった。少し食べて、疲れ果てる。
 庵の中を歩いては、息が上がる。
 たくさんの日の明日香の姿が、走馬灯のように、影のように、煙のように、光のように――現れては消えて、また現れては消えて――繰り返すうちに、だんだんと衰弱していくようだった。
 ゆっくりと立ち上がった明日香の足にまとわりつくよう、あられは鳴きなら寄り添った。
 文机の上に置かれたままの、饗と、揃いの手鏡。
 それでも。
 立って歩くことができるなら、いい方だった。
 深く吐息。明日香を心配するようにあられは文机の上に飛び乗った。
「なあに、あられ?」
 にいあ。返事をしたあられは、くるくると机の上を回りはじめる。
「あっ! あ! あれっす、誉人!」
「え? なン?」
「やめるっす! くっ! ああっ!!」
 ぽすっと座った。瞬間、根源的な怒りが込み上げてくる。
「見たっすか誉人! あいつ! 俺に座ったっす! ああして俺をしょっちゅう踏んづけて!」
「お……」
「抵抗できない俺に! やっぱり許せないっす……!」
「そりゃおおごとだわ」
 隣でふふっと弱く笑った誉人だったが、すぐに震えた息を吐き、口を閉ざした。
 繋いだままの手は、根深い不安に冷え切っている。それでもひとりで庵を出て行くことはない。終わるまで外で待つと出て行っても、止めることは出来ないというのに。
 どこまでも彼は優しかった。
「あられ、鏡に座らないで」
 明日香の言下、あられは文机が飛び降りた。丸鏡は蹴られ、その衝撃で柄鏡にぶつかる。
 カツンと小さな音だったが、心が割れるようだった。
 明日香は、丸鏡を掬い上げ、疵の具合を確かめる――次いで柄鏡も持ち上げ、丁寧に撫でた。
「……よかった、割れてなくて」
 安堵の息をついて、丸鏡を赤い巾着の中にしまう。
 繋いだ手は雄弁で――震えて力がこもる。ぎゅっと、離さないように。応えるように饗も握り返す。
 あるじの姿をうつすように、強く受け止めて。
「ほんと……お前が割れてなくて良かったよ」
 明日香の言に肯いた誉人の横顔は、呆然として、力なく、悲しみを色濃く滲ませていた。
 明日香の顔色がますます白くなっていく――同調するように、誉人の口は閉ざされていく。
 話し声は、もっぱら福の声になった。弱い返事が微かに聞こえて、甲高い猫の声もとんと聞かなくなった。
 やがて。
 庵を移動する人物は、福だけになった。敷きっぱなしになった布団から、明日香は動くことをやめた。
 否、病に蝕まれた躰を動かすことが難しくなったのだ。
 終わりが近いことの証だった。
 どこにも行けなくなったあるじ。どこかに行きたいと願うこともままならなくなったあるじ。日々、「よかった、起きた」と安堵するようになったあるじ。生きたいと、明日も生きていたいと茫漠と願うだけになったあるじ――その姿は痛ましくも輝かしい。
(「……それでも、やっぱり」)
 死んでしまったあるじより、不安に揺れて悲しみに叫ぶ、今を生きてくれているあるじの方が断然尊く、愛しい。
「誉人、お願いがあるっす」
 言えば、彼は短く返事をして、先を促した。
「俺を、誉人のいた世界に連れてってほしいっす。誉人の生まれた街を案内してほしいっす」
 連れて行ってくれると約束したものの、どうしたって踏ん切りのつかない誉人の背をそっと押す。
 想定外だったらしく、くるりと表情が変わった。気づかないふりをする。
「それ、……」
 言い淀んだのは、やはり躊躇って逃げていたか。
「落ち着いたらでいいっす」
 甘いだろうか。思わず誉人の逃げ道を作ってしまうのは、彼を思えばこそ――作らなければいけない気がして。
「俺、誉人の家族と会いたいっす」
 常闇の世界でも。
 救いのない街でも。
 そこに誉人が生まれ落ちたのだから、訪れてみたい。
「誉人のこと、もっと知りたいっす。昔の誉人も、知りたいっす」
 己の生に希薄だった彼が、貪欲に生きたいと思い始めたのだ。生きて、生きて――もはや長短は関係ない。いかに濃密に生きたかしかない。
 彼はもっと多くを望んでいい。なにも諦める必要はない。だから、そっと背を押した。
「なんで、いま……?」
「誉人は、ちょっとでも俺を故郷に連れていってもいいって思ってくれたっす――それって、誉人のやりたいことっすよね」
 二の足を踏んでいようが、躊躇い動けずにいようが。
 行きたいと思ったところに、饗を連れていこうと思ってくれたから――たとえ思いつきだったとしても、それを叶えたい。
「俺となら、帰ってもいいと思ってくれたんっすから、行きたいんっす」
 行きたい場所に行けなかったあるじは、苦し気に咳いている。呼吸をすることすら辛そうな音を聞きながら、誉人は眉を寄せた。
「今さらどのツラ下げて帰りゃァいいンか……わかんねえからさァ……」
「でも誉人、俺だって見せてるんっすから、俺だって見たいっす」
「えええ……あー、…………わかった。約束な……約束……」
 言ったそばから、帰りたくないと逃げたそうな誉人だったが、彼の紺瞳は布団の端で丸くなるあられと、臥したままになった明日香を見ていた。
 傍目には、あられの薄い体が呼吸しているのかも判らない。
 明日香はもぞりと寝返りを打って、また息を吐き、激しく咳く。
 奇妙な呼吸音は、ついぞ聞いたことのない音で、彼女の不調が手に取るように判る。
 ふたりとも医学に明るくないため、不調の原因は判らない。ただ、|異様《﹅﹅》であることしか判らない。
 部屋に満ちる、異常に饗は深くため息をついた。
「……俺、覚えてるっす。主様は、このまま弱っていくんっす」
 起き上がる時間はどんどん短くなって、食はどんどん細くなり、心配する福に愛想笑いすらできなくなって。
 その様子を見るしかできなかった饗には、耐えがたいものだった。
「そうか……」
 この先の出来事は、誉人も饗の話で知っているのだ。
「生きているときに、ひとつでも悔いを少なくしておかないといけないっす」
 あるじは、後悔を抱えて逝ったから。
 彼女の身代わりにと願っても、役目を果たせなかった。そのために造られ、継がれてきたのに、あるじは息絶えた。
 これを無念と呼ばず、なんと呼べばいい。
 あるじを喪って、遺された想いを背負って――巡り会えた誉人もまた、短命の呪に縛されていたけれど。
 今度こそ――今度こそ、あるじとともに。
「約束っすよ、誉人。一緒に、帰るっす」
 もう一度、誉人がはっきり頷いたことに、饗は安堵した。
 あるじの、失意のままに悲嘆にくれる姿だけは見たくはないのだ。彼の故郷に行けば、いまよりももっと、彼の|心配事《﹅﹅﹅》は減るだろう――増えるかもしれないが、それこそ生きている証の一つだから。
 それは間違いなく、ふたりにとって大切でかけがえのない時間になる。

●たまゆらの
 亡母からもらった丸鏡を覗き込む。
 憔悴しきった女が映る。理想から遠くかけ離れた蒼白した顔に、弱さを見る。否、否、否――考えることもままならない。
 魔除けの鏡だから。
 訪れる災禍を返す鏡だから。
 いつも持っていた。

 ――おねがいよ。
 ――あしたも、いきたい、の。
 ――もういちど、あさひを みたいの。

 きらきらに輝く太陽を。夜の帳を裂き燃やし、新たな日を雄大に叫ぶ太陽を。
 痛みは体を支配するけれど、想いだけは曇らせないように。
「……あ、られ……?」
 呼んだが彼女の返事はない。きっともう眠ってしまったのだろう。
 月明りが庭を照らして、まるで霜が降りたように白んでいる。
 梅は大きく腕を伸ばして、活力に満ち満ちていた。虫たちの涼やかな声も、命を諦めない歌だ。
 羨ましい。心底羨ましい。喉を掻きむしりたくなるほどに羨ましい。それと同時に、底知れない諦念がある。
 この身にはもはや、空へと手を伸ばす体力も、歌う気力すら残されていないのだ。
「あられ……」
 もう一度呼ぶ。泥の中から起き上がるような、自分ではないような重い体を起こして、すぐそばに丸まっていたあられの背を撫でた。
 やわく。
 あたたかく。
 よわい背を、一度だけ撫でる。
「あられ……やくそくよ、私のいのち、あげるから……そとに、つれていってね」
 掠れた声に応えるものはなかった。
 ただ、虫の音が漂うだけ。

大成功 🔵​🔵​🔵​


●去
 ごしゅじんさまにもらった すず。
 ちりちり おとがするの あられ すき。
 でも いっぱいすずをならすこと できなくなっちゃった。

 まいにち まいにち とってもねむいの。
 ごしゅじんさまと いっしょに よこになる。
 ごしゅじんさまのねどこ ふかふかで すき。
 
 ごしゅじんさまが あられの こと よんでる。
 おへんじ したいけど もう ねむいよ ごしゅじんさま。

 だっこしてくれるの うれしい。
 ごしゅじんさま あったかい。
 あられ さむかったの。
 なでてくれるの うれしい。

 あられ もっと ごしゅじんさまといっしょにいたい。

●崩
「お嬢様、福はお水を汲みに行って参りますよ。あまり陽に当たるとお体に障りますからね」
「……ん、いってらっしゃい」
 蝉が喧しく騒いでいる。
 福は急いで出ていった。こうも暑いと、よく渇いた。
 盆を過ぎて、秋に向かい始めて季節は容赦なく進む――それを拒むような暑い日だった。
 異様に暑かったけれど、躰を起こすことができた。それは、とても嬉しいことだった。
 ずっと屋内にいるから、外が恋しかった。風の刺激も、日差しの熱も、全身で感じたかった。
「あられもいく? 私、縁側に座りたいの」
 このごろ布団にずっと丸まっているあられを抱いて、庭に出る。今までの重い体が嘘のようだ。歩く刺激も、新鮮だ。
 沓脱石に素足で触れる。じわりと足裏が焼けるようで、その刺激すらあまりに懐かしく、嬉しくなる。
 縁側に座り、足を投げ出し、膝にはあられ。
 ときおり強く吹く風は、どこか乾いて秋を含んでいた。
「きもちいい、もうすぐ夏が終わるのよ、あられ」
 いくら名を呼んでも、彼女は返事をしない。撫でても尻尾を動かさなくなった。耳を震わせることもない。
 陽を浴びて青々と輝く梅から、視線を戻す。
「……あられ?」
 撫でていた小さな躰から、鼓動を感じられなくなったのに気づく。
「そんな……」
 胸に手を当てて、鼻に頬を近づけて――あられの魂が抜け落ちていたことに愕然とした。
 逝ってしまった。
 この膝の上で。
 外に連れ出してくれると約束したのに。
 いつか一緒に、外に行こうと約束したのに。
 滲む視界が、一瞬にして鮮明になる。子猫が僅かに濡れた。
「……あられ、私もいっしょに連れて行って。この魂をあげる。約束よ――おねがい、あられ、いっしょに、そとに……」
 ぽたり。ぽたり。
 抜け殻の白い毛並みは、濡れた。明日香の細指で、その跡を滲ませる。
 底なしの自由を手に入れたあられは、旅立った。 彼女を縛るものはもうない。その自由がたまらなく羨ましい。けれども、その自由に、明日香も手を伸ばす。
 あられの熱がなくなって、やわかった体が硬くなっていくまで、撫で続ける。
 陽はぐんぐん昇って、日差しはますます熱くなっていくのに、あられは冷たくなっていく。
 返事はもうない。
 いくら呼んでも彼女は動かない。
 小さくて可愛いから、あられと名付けた。
 いつも無邪気に鳴いていた――その賑やかしさが消えた庵は、夏の喧噪が遠くに響くようで、静かだった。
 だんだん音が消えるようだった。どんどん音が消えていく。ふわふわとした奇妙な浮遊感は、心地よくて。思わず身を委ねた。
「おい!」
 聞いたことのない男の声がした。けれど、瞼は鉛のように重く開かない。

 ――あなたは、だあれ?
 ――でも、ごめんなさい。
 ――もう……

 落ちる。
 落ちる――

 ◇

 糸がぷつりと切れたように、座っていられなくなった。このままでは倒れてしまう――危ない、支えないといけない。
「おい!」
 与えられた腕は望みに望んだものだ。
 やっと強く、あるじを抱くことができた。
 なのに、あるじはいつものように、|俺《﹅》を見ない。金色の睫毛は下りたまま、痩せた頬は、ひくりとも動かない。だらりと垂れた四肢――ずしりと腕に寄りかかるけれど、ひどく軽いあるじは、動かない。
「おい、また眠ったか? まだ陽は高ぇぜ」
 返事はなかった。
 ただただ、どこか幸せそうに瞼を閉じたあるじが、腕の中にいたのだ。

●梅のある庭
 見ていられなかった。一等見たくない過去だった。
 返ってこない言葉を待つ饗の姿が、痛々しく――もうやめてくれと叫びそうになる。
 生前、語った夢を叶えるために正装に身を包んだふたりの姿に、心臓が握り潰されてしまいそうだった。
 饗が抱いているのは、骸だ。あれは明日香|だった《﹅﹅﹅》ものだ。福が悲痛に叫ぶ声も、なにもかもを聞いていない彼は、ただただ、明日香に語り掛ける。
 返事がないことが、不思議で仕方ないといったふうで。
 饗の過去をほじくり返して、彼の心の傷を抉り返して、今また彼を苦しめているかもしれない――否、これは、あまりにも、悲しすぎた。
「饗っ……、きょお、饗! もういい! もう、見なくていい!」
 こんな痛く苦しい過去を追体験する必要はない。もう、彼はこの痛みを越えてきた――彼の心をこれ以上傷つけてくれるな。
 饗の正面から、その黒瞳を掌で覆う。見てくれるな。もう思い出してくれるな。この光景は、彼が始まった日だ。
 明日香と、夫婦の契りを交わしているのだ。
 それを再認してほしくない。
 饗の心を気遣うふりをしながら、彼の心を繋ぎ止めておきたかったのだ。
(「夫婦なんだって……ソレ、もう……!」)
 だというのに、饗は笑っている。
「見ろって言ったり、見るなって言ったり……忙しいっすね、誉人?」
 視界を遮った手は、簡単に饗に剥がされてしまって。
「大丈夫っす。だって、終わったことっす」
 誉人の心配は杞憂だと言ってのけた彼の目は、梅鉢紋の入った己の背を一瞥してから、微笑んだ。
「また泣いて……乾涸びちゃうっすよ、誉人」
 滲んだ涙を拭ってくれた彼は、「大丈夫っす」と繰り返す。
 饗の視線の先に、自分たちの姿がある――否。
「……ようやくっすか」
 饗の声が低く尖った。
 ふらふらと尾を揺らす白猫。
 爛々と輝かせる金眼は、苛烈に饗を見つめる。愛らしいだけではない強い光に、ふたりは警戒を強めた。
 二股の尾が、ふらりふらりと、不愉快そうに揺れていた。

●あなぐれど
 ごしゅじんさま ごしゅじんさま……いっぱいよんだのに。
 ごしゅじんさま うごかなくなった。

 あられのたましい ここのつ あるの。
 きっとまだ のこってるよ ごしゅじんさま……あられのいのち ひとつあげる。
 あられ ごしゅじんさまと いっしょに そとにいきたいの。

 ごはんたべて、
 かいものして、

 あられ ちゃんとおぼえてるよ。

 げきもみて、
 あまいのたべて、
 あられのひみつの はらっぱにも、つれていってあげる。

 なのに。
 ごしゅじんさま おきて。
 あげるってなに?
 あげるのは あられだよ。

 いっしょに。
 いっしょに……。
 探してあげる。見つかるまで一緒に探してあげる。綺麗で美味しい魂を探してあげる。だから一緒にいようね。
 いっしょに……。
 いっしょに。

 ごしゅじんさま いない。
 ごしゅじんさま どこ。
 ごしゅじんさま かえして。
 あられの ごしゅじんさま かえして。
香神乃・饗
誉人と共闘
何が起きても二人なら越えられるっす

最期の願いは
前に
明日に
進む事っす
俺は決めたんっす
今迄の主の願いを背負って生きるっす

俺は死別しなかったら次に渡らないモノっす
出会えすらしなかったんっすから
誉人が前の主に消えて欲しいと願うのは当然っす
恥じる事は無いっす

時間は関係ないっす
渇望って言うんっすか
求められる心の深さこそ
モノ冥利に尽きるっす

誉人は
傲慢で誰より愛し求めてくれる
愛おしい人っす

魂は俺が奪ったんじゃないっす
俺が出てた時には既に
間に合わなかったっす

この映像が全てっす
死を知っているから
俺が触れた瞬間に
生きてないんっす

解っているんじゃないっすか
明日香は傍にいるっす

約束したじゃないっすか
明日香は約束を守ったっす
だから
叶えてあげなくてどうするんっすか
認めて
進むっす
大丈夫っす
大事なモノはそこにあるっす

間に合わなくて悪かったっす
でも
今度は間に合ったっす
過去を止めたっす
頷き
きょうから幸せになるっす

誉人が濡れぬ様半纏被せ
最後にケジメ

誉人!ぶっていいっす!
誉人に辛い思いをさせた俺をぶっとばしていいっす!



●寞
 劇を観てえって言ってたな。
 どんな劇が観たかったんだ、喜劇か? 惚れた腫れたは……まあ、なんだ……あんたが観てえんなら、付き合うよ。
 何を観たって、きっと楽しめるんだろうな。
 そういや、帯締めを編んでたな。
 あれは、どこに片したっけな……あれも赤で綺麗だった。見つかったら、締めて出かけような。
 なあ、なんで返事してくれねえんだ。
 あんたの賑やかな話をまた聞かせてくれよ。今度は、ひとつずつ返事してやれるんだぜ。
 あんたが、食いたがってた団子も食いに行ける。お福さんの土産じゃねえ、その場で食えるんだ。
 きっとうめえ。甘辛い御手洗をいっぺん食ってみてえんだ。
 あんたが美味そうに食ってたのを見てたから、きっとうめえんだろうな。
 美味い飯も作ってくれるって言ってたじゃねえか。
 練習、あんま出来なかったな。
 お福さんの飯は極上なんだってな。俺も食いてえ。お福さんに俺が教わってくるってのはどうだ?
 あんたより、俺の方が料理上手にまっちまうかもしんねえな。
 起きて、お福さんのところに挨拶しにいこうぜ。
 なあ、見てるか。
 もうじきあんたの嫌いな夜が終わる。空が白んできた。あんたの好きな太陽が出るぜ。
 空が輝くの、好きなんだろう。
 朝だ。
 見てるか、今日の太陽は目が焼けそうなくらい、元気に輝いてる。
 なあ、起きねえか?
 もう起きる頃合いだろ。まだ、眠ったまんまか?
 眠いんなら仕方ねえか。
 いいさ、俺はあんたに仕えるために出てきたんだから、あんたのしたいようにすりゃあいい。
 俺は、付き合う。
 いつまでも、あんたのためにここにいる。

●決/Prontezza
 白い仔猫は、長い二本の尾をゆうらりと揺らめかせる。

 にゃあ。
 にぃあ。

 甲高い鳴き声を上げたかと思うと、すぐさま威嚇の鋭い息を噴く。小さいながら、尖った牙が見え、饗と誉人に立ち向かう。
 二本の尾はぼわりと膨れ上がる。
 これが、あのあられか。
 あられ――あるじが愛した仔猫。
 所有の証を首に巻いたままの、白い仔猫。
 そのシルシを持っていてなお、とどまる哀れな仔猫。
 同時に腹の底から沸く怒りに、饗は、一歩を踏み出した――瞬間、あられは再び鋭く威嚇。毛を逆立て、縁側から庭へと降りた。
 饗から逃げたようでもあって、饗を誘い出そうとしているようでもある。
 体が雨に濡れようが構わないのだろう。あれほど濡れることを嫌っていたというのに。
 それを追えば饗とてもれなく濡れるが、それを気にして追わない選択肢はない。
 紋付き袴の背を追い越す――骸を抱いた過去に一瞥もくれてやらないで、あられを追った。
 饗の後を追う誉人の足音を背に受けて、懐から二本の苦無を出し、諸手に握る。
「見てみろ、今日はひでえ雨が降ってやがる」
 饗の声が、誉人の知らない話し方で言葉を操る。|知っているだけ《﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅》の言葉を紡いで、骸を抱く過去を見た誉人の、声なき悲鳴を聞いた気がした。
 事実、誉人の足が鈍る――縁から飛び降りて、雨に打たれるままに、立ち止まる。
 茫漠として、寂寞に囚われ、悄々とただ在り続けただけの姿は、饗の始まりの姿そのもので。
 変えようのない過去だから、ことさら痛く辛い。叫んでも否定しても変わることのない過去だから、飲み込むしかない。
「誉人、」
「――ん?」
 辛うじてある返事は、単音で短く、ともすれば雨音に搔き消されそうだった。
 骸に話しかける言葉を追いかけているのか、誉人の瞳は暗く曇っていた。
「ここまで一緒にいてくれてありがとうっす。最後の頼みっす、俺と一緒に戦ってほしいっす」
「無茶言うぜ……この状態でか」
「そうっす、誉人と一緒なら、俺、やれるっす」
 雨足は強く。
 当たる雨粒は服に滲みて、髪を湿らせ、熱を奪う。それはもはや、些事にすぎない。これまで通り――数々の戦地を駆け抜けてきた事実だけがものをいう。
 あるじを不安にさせた。あるじの心を揺るがせた。あるじを困らせた。あるじを悲しませ、泣かせ――彼の心に触れた。
 それが饗の矜持となる。
 二律背反のシンメトリーは、これから何が起きても二人なら越えることができるという揺るぎない自信となり、確信となる。
 不安定に揺れる心が固まらなくとも、共にいることが力になる。
 だから、今はまだ刀を抜かなくてもいい――本気になった彼の、一部の隙もない抜刀の閃きを知っているから。
 濡れる苦無が滑り落ちないように握る。

「ごしゅじんさま、いない」

 猫の鳴き声ではない。悲しく響く少女のような幼い声音がして、雨に濡れるあられの前に、|あるじ《﹅﹅﹅》が立ちはだかった。
「はくじょうなやつだなァ、みそこなったぜ、きょう?」
「……その姿になんの意味があるっすか……大事な人だから、俺が手出しできないとでも思ってるんっすか」
「そォだよ、きょう? おまえは、おれンこと、だァいすきだもんなァ」
「お前じゃない。俺が慕っているのはお前なんかじゃないっす」
 誉人の声。
 誉人の姿。
 誉人の所作――すべて知っている。だのに、ソレは違う、誉人ではない。
 鯉口を切って、今に斬りつけんと気迫を発露させるソレは、見知った紺瞳を尖らせる。
「俺の慕う人はただ一人っす」
「なんで|おれ《﹅﹅》なン?」
「誉人が俺を必要としてくれるからっす」
「あすかのほうがかァいいでしょォ」
 彼の声がかつてのあるじの名を言った――耳に新鮮である以上に、違和感だった。
「なにをもって可愛いと評するか判断できないっす。俺には誉人が可愛く見えるっす」
「あられといっしょに、なんであすかのそばにいてやんねえの」
 ああ――今まで頑なに誉人はあるじの名を言わなかったから、新鮮に感じるのか。気づけばどうということはない。誉人の小さな抵抗だろう。答えは知らずとも、そう思い至るに易かった。
「そもそも、一緒にいて良いわけがないっす」
 饗の答えごと両断するように一閃。饗の命を真っ向から斬り砕くような気迫が籠った太刀筋――操る苦無がタカトの刀とぶつかり、火花を散らし、刃を擦り上げ軌道を逸らす。
「主様の最期の願いは、『前に、明日に――進むこと』っす」
 立ち止まって、辛いことから逃げて、見ぬふりをして良いとは、明日香に――否、誰からも教えてもらっていない。
 彼女は精一杯|正しく《﹅﹅﹅》生きようとしていた。
「俺は、主様の――今までの主様たちの願いを背負って生きるって決めたっす。お前の言ったことは、主様を蔑ろにすることっす」
 握る|苦無《オリジナル》に力を籠めて、タカトの脚へと擲った。
 その苦無は、しかし男の脚に刺さるより先に泥濘に落ちる。
「たかと」
 |器用に右手で苦無を弄ぶ《﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅》黒髪の男がこちらを睨み据えている。
「たかと」
 あるじの名を気安く呼ぶ幻影が、気に入らない。
「たか、」
「うるせえ、てめえに名前呼ばれたかねえわ」
 饗と鏡合わせのような男へ、言い放った。
「みたっすよね、たかと。おれはあすかをだいていたっす。そこのおれは、あすかをだいじにしてるっすから、ずっとだいていたっす。たかとの、」
「そんなもん見りゃァわかるわ!」
 大音声で一蹴する。キョウが現れたということは、あられが誉人を敵と見なしたからだろう。
 香神に写した苦無の山――その切先を幻のふたりに向けてずらりと展開する。
「そんなぶっそうなもんむけんなよ、きょう? なァあ?」
 どこか軽薄に、嘲るように、タカトは饗の名を呼ぶ。白く美しかった刀身は、泥で汚れてしまっていたが、構うことはない。
 《唯華月代》の手入れを欠かさない誉人とは似ても似つかない姿に、嫌悪を覚えた。
「あすかは、おまえをたっぷり|つかって《﹅﹅﹅﹅》ただろォ? それって、おまえにとって、いっとうだいじなことだろ」
「誉人だって俺を必要としてくれるっす」
「そこの|おれ《﹅﹅》よりも、ずっと、あすかのほうが、おまえのあるじにふさわしいンじゃねえ?」
 泥で汚れた刀を振り下ろしながら、酷薄に嗤うタカトの言葉は、饗を責め立て、誉人を苛んだ。
 拡げた苦無を鋼の傘として、その見え透いた剣刃を防ぐ。
 当代よりも、前代を選ばせようとする言葉で責めることが目的だからか。
「そこの|おれ《﹅﹅》は、あすかがしんでてよかったって、おもうような、ごうまんで、はくじょうで、れいけつなやつだぜ」
「そうっすよ、|おれ《﹅﹅》をしばりつけておくことしかかんがえてない、じぶんかってなひとっす」
「きょう? こんなにもじぶんほんいなやつを|あるじ《﹅﹅﹅》ってよぶンかよ」
 心が冷える。
 雨のせいか。
 否。
 心が冷えていく。
 あからさまにあるじに敵意を向ける幻どもに、むかっ腹が立つ。
 斬りかかってくるタカトの懐へ一陣の苦無を飛ばし、接近を防ぎつつ、背に誉人を隠す。
「当たり前っす。俺のあるじは、誉人っす」
 剛糸をタカトの脚に巻きつけ、バランスを崩させる。斬ろうとも斬れぬ鋼の糸だ。剛く、剛く、縒り上げた。泥濘に落とし、苦無の雨を降らせる。
 たとえ、その姿が最愛のあるじだったとしても、これは饗のあるじではないのだから。
「俺は、主様と死別しなかったら、次の主様の手には渡らないモノっす」
 次代の手に渡るときは、あるじの死がほとんどだった。使い手がいなくなったから、相続された。
 明日香の死がなければ――|彼女が今も健在であれば《﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅》、饗は誉人に出会うこともなかっただろうし、彼をあるじと呼ぶこともなかったろう。
 苦無は、タカトの頬を裂いた。雨は血を滲ませて、紺の双眸は烈しく光る。
「誉人が前の主に、消えて欲しいと願うのは当然っす。俺の持ち主は一人だけっすから、前代が邪魔だと思うことを、どうして恥じる必要があるっすか」
 操る苦無の猛襲は、果たしてキョウの苦無の壁によって遮られてしまう。
 隠すこともせず舌を打ち、複製した苦無が縦横無尽に空を奔る。
 明日香の手から滑り落ちたときの喪失感を忘れたわけではない。誉人の大きな手に渡って、懐の暖かさに安堵した。久しく与えられなかった安心を思い出した。
「時間は――誉人と関わった時間はなにも関係ないんっす。渇望っていうんっすか……求められる心の深さこそモノ冥利に尽きるっす」

 ――俺、執着心つええよ……お前を手放してやれないかもしれない。
 ――センセーが呆れるくらい女々しいン、俺。それでもいいンか。

 自信なげに重ねられた言葉は、彼に深く打ち込まれた楔のせいだ。遺される者の苦しみも悲しみも痛いほどに知っている彼だから、必ず遺すことになる饗を悲しませたくはないと――彼のおよそ見当違いの気遣いの言葉は、今も思い出すことができる。
 前髪の隙間から刺さる視線も、指先が白くなるほどに拳をつくっていた手も、あのときのすべてを思い出すことができる。
「誉人は、傲慢でもなんでも……俺を誰よりも愛して求めてくれる、俺の愛おしい人っす」

 ◇

 饗から紡がれる言葉は、面映ゆく。
 まっすぐな言葉に、射すくめられる。嘘は言っていないし、本心だろう。
 彼の言葉のすべてを鵜呑みにできれば、どれほど幸せだろう。
「みろよ、きょう? あんなふぬけがおまえのあるじだっていうンか」
「そうっす、俺の愛おしい主っす」
 眼前に現れたのは、香神乃饗そのひと――否、彼は饗ではない。幻だ。今までさんざ見てきた幻と同じ存在だ。
「饗――」
「なんっすか、たかと」
 今までと違うのは、コレだ。明確に返事をした。
「聞いちゃダメっす、誉人」
「そんなやつのいうことを、たかとはしんじることができるんっすか」
 苦無を諸手に構えた饗が誉人の名を呼んで。
 苦無を右手で弄ぶキョウが黒瞳を尖らせる。
「そいつ、くちではたかとがだいじっていいながら、あすかをきにかけてるっす。いまも。みたっすよね、たかと?」
 今も――フラッシュバックする先の光景。
 精悍なはずの背は憔悴して寂しく、薄汚れた白無垢はあまりに無残――それでも、男の手は骸を慈しむ。
 痛々しいと思ってしまうのは、誉人の価値観のせいか、沁み込んだ倫理観のせいか。
 それでも、饗の深く深く救いなく項垂れる姿は、耐えがたいほどに痛い。
 《唯華月代》を構えたまま、止まる。
「誉人!」
「ンなでけえこえでよばんでもきこえてるわ」
 饗の苦無を斬り上げて、獰猛に睨むタカトがいた。饗の苦無に傷つけられても消えることのない幻は、自分の満身創痍の姿で――どうすればその厭な笑みを浮かべることができるのかわからない顔をしている。
「あんなけいはくなやつなんて、ほうっておけばいいっす」
 言ったキョウは、無慈悲に苦無を突き立ててくる。刀身を翻し、振るって牽制――しかし、彼は斬閃に怯むこともなく、距離を詰めてくる。
「たかとは、しんじてないっすよね」
 笑んでくれないキョウの顔に違和感を覚える。知らない表情は、心を落ち着かせない。
「おれがいくらたかとを『あるじだ』っていっても、しんじちゃいないっすから」
「違う!!」
「ちがわないっす。どれほどせつめいしたって、ことばをつくしたって、しんじちゃいないっす」
 剛糸が足首に纏わりついて、転倒。泥濘はシャツを汚した。
「それとも……たかとは、しんじたんっすか?」
 饗のあるじは誉人である――饗の言ったその一言が本心であると。
 明日香は過去だと言いながらも、心残りだと会いに行き、また会う約束までした――その、相反した饗の言葉を疑っていないのかと。
 饗の心に在り続ける明日香より、自分は選ばれたと思っているのかと。
 言葉に、詰まった。
 誉人は饗のあるじだ。揺るぎようはない。
 剛糸がさらに脚に絡む。起き上がれない――振り下ろされた苦無の切先を転げて躱した。
「饗が、俺をあるじだと思ってるか? 当たり前だろ……こいつは俺のだ。俺の名を刻んだ! こいつに触っていいンはな、俺だけなんだよ!」
 刀を一閃させ、キョウを退ける。
「たかとのもの? でもそれって、たかとがいってるだけじゃないんっすか」
「違う!」
「ちがわないっす」
「饗は俺のものだ。俺を誰よりも……――」
「そのさきのことばを、たかとはいつもいわないじゃないっすか」
「うるせえ! てめえに聞かせてやるような安いモンじゃねえわ!」
 饗の苦無が疾る。キョウの足元に突き刺さり、男の気勢を削いだ。その隙に絡まった剛糸から抜け出して、驀地に疾る。
「俺だけが知っていればいいことっす」
 複製されたいくつもの苦無は、饗の意思を宿してキョウを翻弄している。
 銀の軌跡は無数に引かれ、その中に紛れ込むキョウの放った苦無――それだけはまっすぐに誉人へと飛来する。
 見えたのは、饗のアシストがあったっから。隠された本命以外の刃を手当たり次第に防いだからだ。
「ここで、俺と饗の秘密を話してやれば、てめえは満足するンか」
 誉人の心臓へと奔りきた苦無を斬って落とす。跳び退ったキョウとの距離を詰め、さらに一閃。
「|おれ《﹅﹅》とのひみつっすか?」
 ふたりで交わした約束のひとつでも披露すれば、ふたりの強固な関係の証明になるとでもいうのか。
 例えそうであっても、教えてやる義理はない。
 鋭く吐いた烈気は雨音に掻き消されたが、剣の精彩は衰えない。
「てめえの知らねえ約束を山ほどした。俺は、それがあれば生きていける……だから饗はそれを裏切らねえ!」
 刀を振るえば振るうほどに|花一華《アネモネ》の香が色濃く纏わりつくよう――香れば香るほどに、亡師を思い出す。
 乱れることのなかった束ねたアンバーブラウンの髪と、鋭くも静かな藤色の双眼の、誉人に剣を授けた憧憬の人の、洗練された太刀筋――それをなぞるように、誉人は声なき烈声を迸らせる。
 口下手だから、彼を満足に喜ばせてあげることはできないけれど、彼を大事に思う心は誰よりも強いから。
 泥濘に足を滑らせども、踏ん張りが利かなくとも、誉人を支える経験はイレギュラーをものともしない。
 些事と斬り捨て、キョウを追い詰める。
 一太刀目は、苦無を持つ手を。
 二の太刀で、斬り下ろし腕を。
 三度目で、大きく踏み込み、腹を突く。浴びた血は激しい雨が洗い流す――奥歯を噛み締める。苦痛に歪み、激痛に叫ぶ最愛の声を聞きながら、男の体を蹴り飛ばし、体から刀を抜く。
「饗は俺をあるじだと本心から想ってくれてンだよ、それを信じねえでなに信じろっつーんだ!」
 言い聞かせる。言い含める――果たしてそれは、あられへの返答のようで、己を納得させるような、強い言霊になる。
 明日香がいなければ、明日香の母がいなければ、その前の持ち主がいなければ、連綿と《梅の丸鏡》が人の手に渡っていなければ、誉人は饗に会うことはなかった。
(「ンなもん、百も承知だ! わかってンだよ! わかってる!!」)
 彼が誉人を本心から慕ってくれていることも、あるじのためにと砕身してくれていることも。
 だから――だからこそ。
「饗のあるじは俺だ」
 強く蹴られて泥水に足をとられバランスを崩し、もんどりを打って倒れた男の喉へと《唯華月代》を突き立てた。
 【殪花白閃】の白い花弁は激しく舞って、雨に流され落ちていく。
「あんま見くびンな。あいつは、そんな薄情な男じゃねえ」
 消えていく。
 雨が地に吸い込まれていくように、男の輪郭もぼやけていった。

●解
「……しぬって、なに……?」
 消えたキョウの痕を見ながら、項垂れ、舌足らずにぽつりと呟いたタカトは、こちらを見ない。
「だいじだって、いってたのに、かんたんに、ころした――……だいじって、なに?」
 タカトの声だが、彼の皮を被ったあられが話していることは、明白。
 饗は、誉人の隣に立ち、警戒を強めながら、幻の言葉を聞き続ける。
「俺の大事なンは、そんな偽物じゃねえンだわ。俺は、今を生きて、俺と一緒にいてくれる饗が一等大事なン」
「しぬ、て、なに……」
「もう、魂がいないっていうことっす」
「ごしゅじんさまのたましい……おまえがもっていった」
 紺瞳が饗を射る。
「あられ、ちゃんと、みてた。おまえが、ごしゅじんさまのたましいをうばった!」
「俺が奪ったんじゃないっす」
 タカトの像が歪んで揺らめいて、雨とまじりあって。ふいに見え隠れする金色の目が光る。
「みてた、あられ。ちゃんと……ちゃんと、……見てた。お前が、ご主人様の魂を食らった……美味かったのか……あの娘の魂は美味かったか」
 白刀を杖のようにして立ち上がったタカトが、醜悪に頬を歪める。誉人が絶対にしないような下卑た笑みに、饗は眉根を寄せる。
 明らかな変化に、複製した苦無を須らく集め、一切の切先をタカトに向けた。
「俺は、魂を食らってないっす」
「ごしゅじんさまを返して」
「俺が出てきた時には既に……間に合わなかったっす」
 |タカト《あられ》は納得しない。めちゃくちゃに刀を振りまくりながら、こちらに向かってくる。
 激しい金属音が迸ったのは、誉人が幻の一閃を弾き往なした衝撃――唐突に精彩を欠いた男の太刀は隙に塗れ、あっという間に誉人に蹴り飛ばされ、庭を勢いよく奔り、梅の木に刺さった。
「ちがう……あられは、ちゃんと、みてた。お前だ、お前がごしゅじんさまの魂を奪って、現れた――お前のせいで、ごしゅじんさまの魂がなくなった。お前が出てこなかったら……」
 しゅらっ……抜かれた蒼い刀身が雨に濡れる。
 苦し紛れに脇差を構えたタカトは、失った白刃を顧みることなく斬りかかってくる。
 誉人の沁みついた所作はなりをひそめ、めちゃくちゃに、でたらめに刀を振り回す――姿形だけがあるじで、その実、まるで|写しきれていない《﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅》。
 粗悪な贋作は、血を吐くように舌足らずに吠えた。
「あられはっ! いまも! ずっと! ごしゅじんさまといっしょにいれたのに!」
 鈴が震えて、リンリンと悲痛に鳴り続ける。
 受け入れられない主人との離苦は、痛いほどに理解できる。受け入れられなかった。外の世界に手を伸ばし、最初に触ったあるじが、すでに事切れていた虚無を、どうしたって受け入れられなかった。
 それが、このざまだ。
 骸が雨風に晒されようと構う余裕すらなく、ただただ在り続け、語り続け、答え続けたこの過去だ。
「俺も、ずっと一緒にいようとしていたっす――わかるっす、それ……でもそれじゃいけない、ダメだと言われたっす」
 饗の、いつの間にか宿り育まれた魂に刻まれていた、明日香の願いだ。
 彼女は明日を望んでいたから。
 踏み出すことは恐怖だったが、己が抱いていた|もの《﹅﹅》を見下ろして、悲哀と憐憫とを感じ、猛烈に恥じた。
 見よう見まねで弔い、踏み出す恐怖――寂しさは付き纏い続ける。それでも前へ、前へ。進み続けた。
 再び|見《まみ》えたその時に、胸を張って「存分に生きた」と告げられるように。
「お前だって知っているはずっす」
 複製した苦無は、盾のように饗の体前で展開されて、でたらめに振り回される蒼刃を弾き返す。泥濘は容赦なくタカトの足を掴み、地に引きずり倒した。
「これこそが、すべてっす」
 死を知っていたはずだ。
 あられは、「見ていた」といった。明日香よりも先に逝ったはずのあられが、見ているはずのないことを、「あられはみていた」と言った。
 だったら、知っているはずだ。
「しらない!」
 タカトはもう一度吠え、泥まみれのままに、饗へと斬りかかってくる。
「しらない! 教えろ! ご主人様の魂はどこだよ!」
 苛烈な咆哮ごと断つ、白刃の一閃が奔る。鮮血が繁吹く。激しい雨とともに、地に広がっていく。
 すかさず饗は、倒れたタカトに剛糸を巻き付けた――もう、これ以上傷つかないように。
 しかし、彼は止まらない。脇差を振り、糸を潜り抜けて、覚束ない足取りだろうとも、無理矢理に饗へと向かって駆けてくる。
「解っているんじゃないっすか」
 滔々と説く。
 蒼刃を躱しながら、説く。
 過去に囚われ続けることを、明日香は望んでいない。
「明日へ、明日へと……自分に言い聞かせてただけじゃないっす。お前とは、たくさんの約束をしていたっす」
 心底羨ましかったのだから。
 約束を交わすふたりが羨ましかった。
「わかんない、あられ、ごしゅじんさまと、いっしょに」
「今も一緒にいるっす」
「いま、も……?」
 雨は強く、痛いほどにどしゃ降る。肌を穿つほどに冷たく痛い――やかましい雨音の中、タカトの像は崩れて解けた。
 その後には、降りしきる雨に打たれる小さな猫が一匹、座っていた。
 にぃあ……にゃあ……。
「俺は、前の主様との約束を守ったっす」
 前に進め。明日へと生きろ。止まっても、また一歩を踏み出せ。自由にならない己の躰を呪うこともなく、希望を持ち続けた明日香の言葉が蘇る。
「俺は進んでるっす。今を生きているっす。今日も、明日も、生きるっす――お前だって、明日香と約束していたじゃないっすか」
 一緒に外に行こうと。
 それが饗にとって、どれほど羨ましいことだったか。
 己の足で自由に歩んでいけるあられを、どれほど羨んだことか。
「明日香は約束を守ったっす。だから、お前が叶えてやらなくてどうするんっすか」
 金色の双眸を見つめ返し、流れる雨粒がまるで涙のようで。
「明日香は、傍にいるっす。どこにも行ってない――お前が、主様の魂をもらったんっす」
 この分からず屋め。
 饗の羨むものを攫っておきながら、過去に囚われ続けた愚かで臆病な仔猫は、また、「にぃ……」と鳴く。
 か細い声に、怒りはない。深い哀しみしかなかった。
 庵の台所にいたあられは、楽しい思い出がたっぷりつまった姿だった。
 座敷で暴れたあられは、内包する不安と戦いたくとも、戦うすべを持たない姿だった。小さなあられには、解決できないことも多くあったろうに。なにもできなかった自分を責める姿だった。
 明日香とともにいるあられは、饗も知る、無邪気でただただあるじを愛する猫だった。
 あられが囚われた幸せだった日々だ。庵にたどり着き、明日香に拾われた彼女が、いかに幸福だったか、明日香を失ったあられがいかに不憫で愚かだったか。
「大丈夫っす。お前の大事なモノは、そこに――いるっす」
 饗の言葉に、あられは驚き振り返る。耳をぴんと立て、しっぽも立てて、にゃあとひと鳴き。
 最愛のひとを見つけたように――懐かしい音を聞いたように――唯一無二の命に触れたように。
 あられは、高く鳴いて、駆け出した。

●りん
 あられのいのち、あげる って、やくそくした。
 あられのたましいはここのつあるから いくつのこってるか わかんないけど。
 ごしゅじんさまがしたいって おしてえてくれたこと、
 あられといっしょにしたいって いってくれたこと、おぼえてる。
 だから、あられ ごしゅじんさまといっしょに しようって おもってた。
 ごしゅじんさまが うごかなくなったのは、あのかがみに、ごしゅじんさまのたましいがすいとられたから。
 あのかがみが わるい。

 でも、あられね。
 ごしゅじんさまに、たましいをかえすほうほう、わかった。

 いつまでも一緒に、ご主人様と離れなければ、ご主人様に相応しい魂を食べられたの。
 起きてほしかったから、ご主人様に起きてほしかったのに――
 ただ ごしゅじんさまと いっしょにいたかっただけだったのに。

 かがみはね ごしゅじんさまは、ずうっとあられと一緒にいるっていった。
 あいつがあられからご主人様をうばったのに、奪ってないってウソをつく。
 ごしゅじんさまのたましいをもらったのは、あられの方だなんて、デタラメいって。
 そう、ご主人様が動かなくなったから、魂を探し始めたのに。
 なのに、あいつはしんけんな顔して、ごしゅじんさまは、ずっといっしょにいたって、いった。
 ごしゅじんさまは、ずっとねむったままなのに。
 ご主人様はいつまで経っても目覚めることはないのに。
 いくらよんでも、返事はないのに……そんな寂しさも知らないで、かがみは、かってにご主人様を変えたくせに。
 うれしそうに ごしゅじんさまより いまのもちぬしがだいじっていった。
 うらやましいな……ごしゅじんさまとずっといっしょにいれるの うらやましい……。
 ごしゅじんさまじゃないけど、ごしゅじんさまといっしょ……いいな。
 ごしゅじんさまをすてたやつなんて きらい。
 でも、かがみのいったとおり、ごしゅじんさま、たってた。
 ずっとねむってたごしゅじんさまが おきて たって あられをよんでくれてる!

 ごしゅじんさまは にこにこして あられをよんでくれてた。
 うれしい。うれしい。うれしい!
 ごしゅじんさまだ! ごしゅじんさまが おきて あられをまってる!

「あられ」

 待って、でもソレは違うかもしれない。かがみが見せてるマボロシかもしれない。
 あいつはあられもご主人様も裏切ったやつだもん、またあられを悲しませようとしてるかもしれない。
 ご主人様を裏切ってるかもしれない。

 いやだ。
 いかないで。
 もうひとりになりたくない。

「あられ、どうしたの? おいで」

 かがみ ほんとのこといってた。
 きらいだけど、あられにほんとのこといった。
 ごしゅじんさま いつもあられといっしょにいてたって。そのとおりだった。
 あられのたましいも、ごしゅじんさまのたましいも、いっしょにあった。

 ごしゅじんさまと いっしょ うれしい。
 もう たましい いらない、ね。

「おかえり、あられ」

 影がおいて行かれた。
 あられの小さな影だけが、ただそこにあって、降り頻る雨に愕然と茫然と寂然に打ちひしがれている。
 |潦《にわたずみ》へと溶けていく。滲んで滲んで薄くなって。激しい波紋の奥へと沈んでいった。
 あられは、自分の影が消えたことに気づかない。愛おしいひとの姿しか見ていない。最愛のあるじがそこにいるだから。
 囚われ、繋ぎ止められてしまった過去を引きちぎって、あられは駆ける。
 まるで最初から|そこ《﹅﹅》だけは雨なんぞ降っていなかったようで、ほわりと陽が差す。雨音が薄れたようで、梅香が濃く漂う。
 蝋梅が風に靡く白い着物に身を包み、金と赤の帯締めが誇らしい。裾からのぞく小さな赤い草履がこつりと鳴った。
 あられを手招きする細く白い手は、優しくて。漸く会えた最愛のひとに歓喜して、体をぶつけるように足に擦り寄っている。
 甘えた声で何度も鳴いて、抱き上げてほしいと切願する仔猫を、彼女は慈しむように抱き上げた。
「間に合わなくて、悪かったっす」
 彼女は何も言わない。ただただ、じっと饗を見つめ、莞爾と笑んでいる。
「でも、今度は間に合ったっす。過去を止めたっす」
 哀しむあられを。
 非業に咽ぶあるじを。
 もう、別離に苦しむことのないように。共に、共に――
 明日香は、微笑む。
 白い仔猫を抱いたまま。
 そんな彼女らに、しっかと頷き返した。
「きょうから幸せになるっす」
 嬉しそうに、笑みを深くして。
 美しい金の髪を揺らし、軽やかに歩みゆく。
 幸せに弾む鈴の音は、琅々と雨音に紛れていった。

●契
 仔猫の声が消えた。
 ざあざあと降る雨は、止む様子はない。
 それでも、雨の向こうで誉人がそろりと吐いた息が聞こえたような気がした。
「……誉人、大丈夫っすか」
 未だ血を流す傷を案じ、これ以上濡れぬように――着ていた紅半纏を脱ぎ、彼を隠す。
 とはいえ、饗もびしょ濡れだ。むろん半纏も雨を吸って濡れている。
 そうせずにはいられなかった。
 たくさん泣かせてしまった。
 たくさん不安にさせてしまった。
 大事なあるじなのに、傷つけてしまった。
 あるじの悲哀に触れて、あるじの心裡を垣間見て、寄り添って待つことを選んだ。
 血が流れ出る傷を触らせようとしない誉人は、半纏の中でじっと項垂れる。
 紺瞳は饗を映してくれない。
「……誉人! ぶっていいっす!」
「あ?」
 低い音が出る――誉人の声であるが、あまりに単音で耳馴染みがない。
「誉人に辛い思いをさせた俺をぶっとばしていいっす!」
「殴るわけねえだろ」
 半纏を剥がし突き返される。この半纏だって、彼にとっていい思い出のある代物でない。それでも無下にしないのは、誉人が優しいからで――それでも彼の表情は曇ったまま。蟠った憤悶は、解けていない。
「お前を殴ってスッキリするようなやつだと思ってンのか」
 吐き捨てた誉人は、大きく息をついた。
 傷ついた心は、簡単には修復されない。思いつく方法はいくらでもある。しかし、それは御機嫌取りに他ならない。誉人がそれを望んでいるならいくらでも差し出すが、今すぐにできる方法は、生憎とコレ以外に思いつかなかった。
「誉人! さあ!」
「なんで殴られるのに前向きなン……えええ……殴られたいンか?」
「これは、俺のケジメっす。だから一発くるっす!」
 いかな理由があろうとも、誉人を傷つけたことは覆らない。それは、明らかに誉人の心の負担となった。徹底的に彼を傷つけたことに変わりないのだ。
「殴らねえって! もー……つーか……ケジメだっつーンなら……約束しろ、もう一回だ」
「約束っすか? なんっすか?」
「……お前は、俺のもんだ。俺はお前を手放す気はねえ」
「誉人が俺を棄てない限り、俺の主様は誉人っす」
「ん、それでいい……それでいい」
 誉人は小さく何度も頷いて、無理矢理に納得するように、雨濡れの梅を見上げた。
 大きく枝を伸ばした地を這うような雄々しい梅は、明日香が眺め続けた梅だ――饗の背負う梅だ。
 彼は、また大きく吐息した。張っていた肩が落ちた――少しだけ気が抜けたか。消沈とした紺瞳は饗をちらりと一瞥して、また梅へと戻っていく。
 雨濡れの梅は、季節を歪ませて枝という枝に、花を咲かせている。冰姿の高潔な香りは、がなり立てる雨をものともしない。
「誉人……、今晩は何を食べたいっすか?」
 整理はつかないだろう。今は食事のことを考えている余裕はないだろう。そんなことは、十二分に承知している。彼の心をぐちゃぐちゃに引っ掻き回した自覚はあるのだから。しかし、だからこそ、いつもと同じように、日常に戻るように、もう終わったことと線を引く。
 そう望まれているように感じたから。それが間違っていても構わない。嫌がられる御機嫌取りだったかもしれないが、もはや構わない。
「今晩か……そうさなァ……味噌汁のみてえな」
「お豆腐、たっぷり入れるっす」
 縁を紡いだ先に、あるじがいて。彼の倖せのために在れる倖せは、なにものにも替え難く。
 例えば、豆腐の入った味噌汁一品にも、彼の喜びが生まれるのならば――在り続けると契ったこの身を捧ぐように。
「他に、なに食べたいっすか?」
「お前の食いたいもんは?」
 返された質問は、何気なくとも――これが、饗の喜びになる。
「買い物行って、決めるっす」
「ん、それもいいな……よし。帰るぞ、饗」
 篠突くように激しかった雨は、いつの間にか上がっていた。
 しんと静かな庵の輪郭は、ぼやりと薄れ始める――終わりが近いのだろう。
(「――また、夏に帰るっす」)

●まそかがみ
 雨の日に、庭に迷い込んだ、小さな子。
 冷えて汚れて、いまにも消えそうな命。
 見上げてくる金瞳に自身を重ねた――不憫に思えたのは、猫か己か。
 助けた命は小さく可愛かったから、あられと名づけた。寄る辺ない仔猫と過ごせば、棄てられたこの命も価値あるものだったと思えた。
 縋ってくる子がいるかぎり、自分は存在していていい。
 そうして、自由に駆け回る姿が羨ましく、|彼女《ネコ》になれたらと、詮無いことと知りながら何度も思いを馳せた。
 空想、世迷言と、――真綿で首を絞めるように。
「おかえり、あられ」
 汚れて帰ってくる仔猫を迎えて、擦り寄ってきた彼女を撫でる。
 膝に乗ってくる彼女から、丸鏡を守った。
 赤く染められた絹、白抜きの梅が咲く包布を解く。
「見て、きれいでしょう」
 猫にこの美しさが分かるだろうか。
 掌におさまってしまえるほどに小さいのに、描かれた絵図の緻密さ。
 いくら撫でても失われない艶めきも。
 大好きだった母が遺してくれた、二揃えの鏡の片方だ。
 この鏡を覗き込めば――かつて母がそうだったように美しく笑むことができる気がして。
 鏡の中にいる自分には、いつも美しくいてほしくて。
 その美しい自分と恋に落ちてくれる人も夢想した。
 理想を語った。理想と現実の境が曖昧になればいいのに――それは叶うことはなかったけれど。
 鏡を覗き込んだ女は、母でも、理想の自分でもない。
「この鏡はね、私の宝物よ」
 魔除けのお守りだと聞いたこともある。
 持ち主の身にかかる災を吸い取るだったか、弾き返すだったか。
 鏡の縁を撫でれば、真似するように鏡に頬擦りするあられに笑んだ。
「いつか、私の子に、この鏡を渡すの。母の大事なお守りなのよって、あなたのことも守ってくれるからねって」
 母の愛した鏡を継いだときのように、まだ見ぬ愛すべき子へ鏡を譲るのだ。
 そうして、その子に看取ってもらうのだ。
「私の夢よ、あられ」
 仔猫が、優しく鳴いた。

 ――にぃあ。

大成功 🔵​🔵​🔵​



最終結果:成功

完成日:2022年10月20日
宿敵 『彷徨う白猫『あられ』』 を撃破!


挿絵イラスト