いつからここにいるとも知れない。長いこと歩いたような気もするが、それも戦場が見せる錯覚の一つにすぎないのかもしれない。ただ、死を齎すための手が、長いことその役割を果たしていないことは確かだった。
それなのに、女の足は未だ瓦礫の山を彷徨している。速やかなる死が全てを覆ったのであれば用はないはずだった。自問に答えは返らず、親しんだ習性のように、彼女は幾度目とも分からぬ仕草を繰り返す。
数多の祭具を使用して行われた、大規模なそれの目的は分からない。何らかの強大な邪神を召喚するつもりだったのか、或いはもっと別の方法で願いを叶えようとしたのか――。
歪んだ鳥籠の扉は放たれている。周囲に殆ど何もない場所とはいえ、そこがどこかと地続きになっている以上、物好きが迷い込む可能性は常に付帯する。一度入れば容易に開かぬ鉄格子の向こうへ誰かが捉えられるより前に、籠そのものを破壊せねばならない。
日常――という言葉から、各々が連想するものであると言っても良い。過去の平穏であるかもしれないし、今の日常かも分からないが、そこでは投影されたたった一日が永劫に続いている。
手段を持たぬ一般人は兎も角、抗うすべを持つ猟兵たちにとっては、そこから抜け出すのは難しいことではないだろうと竜は言う。祭具の大半が破壊されれば、歪みは霧散する。
しばざめ
しばざめです。
昔の記憶はあんまりないです。
今回は(今回も)ほぼ心情のようなシナリオです。プレイングにめいっぱい思いを込めてくだされば幸いです。
一章は時間軸の捻じ曲がった街に到着したところから始まります。街には皆様の記憶にある「一日」が映し出されています。
過去の帰らない幸せかもしれませんし、現在の何の変哲もない一日かもしれません。最終的に祭具を破壊さえすれば、その世界で何をするかは自由です。
シナリオに参加していない他のPCさんが登場する場合は、描写がとてもふんわりします。ご了承ください。
プレイングの受付については、タグ及び断章にてお伝えさせて頂きます。オーバーロードに関しましては、断章公開以降であればいつでも受け付けます(オーバーロードの扱いの詳細に関しましては、MSページを御覧ください)。
それでは、お目に留まりましたら、どうぞよろしくお願いいたします。
第1章 冒険
『永遠の今日はまた巡り』
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|
POW | 領域内を歩き回り、不自然な場所を探す。 |
SPD | 僅かな変化などから、原因を導き出す。 |
WIZ | 目の前の事象を整理し、法則を読み解く。 |
👑11 |
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵 |
種別『冒険』のルール
「POW・SPD・WIZ」の能力値別に書かれた「この章でできる行動の例」を参考にしつつ、300文字以内の「プレイング」を作成してください。料金は★0.5個で、プレイングが採用されなかったら全額返金されます。
プレイングが採用されたら、その結果は400文字程度のリプレイと「成功度」で表現されます。成功度は結果に応じて変化します。
大成功 | 🔵🔵🔵 |
成功 | 🔵🔵🔴 |
苦戦 | 🔵🔴🔴 |
失敗 | 🔴🔴🔴 |
大失敗 | [評価なし] |
👑の数だけ🔵をゲットしたら、次章に進めます。
ただし、先に👑の数だけ🔴をゲットしてしまったら、残念ながらシナリオはこの章で「強制終了」です。
※自分とお友達で、それぞれ「お互いに協力する」みたいな事をプレイングに書いておくと、全員まとめてひとつのリプレイにして貰える場合があります。
●
霧が晴れる。
長く――或いは一瞬――霧のさなかを抜けるような心地がした後、猟兵たちの眼前には見慣れた光景が広がった。胸裡に過る思いは千差万別だろうが、いつかの日々の幻へ、足を進めなくてはならない。
人々の群れが出迎えるかもしれない。通行人として、誰も一瞥もくれぬとも知れない。或いはただ荒野が広がるだけとも分からない。
その場所が、抱く胸中がどうあれ――。
猟兵たちは歩みを進めねばならない。
この日の幻を打ち壊し、訪れることのない日暮れを迎えるために。
※プレイングの受付は『5/2(月)8:31~5/5(木)22:00ごろ』とさせて頂きます。オーバーロードの場合、この断章が公開されてから物理的に受付が閉まるまで、いつでも送信して頂いて大丈夫です。
イヴ・オーガスト
僕がまだものだった頃、僕はずっと作者を見てたんだ。僕を書いた人。僕が愛した人。
最初は楽しんで書いてたのに、ある日、彼のアイデアを盗んで、仲間が新作を、それで……伏せったあと、だ。よりによってこれなのか。たしかに日常だったけどさ、あんまりいい気分じゃない。
あのときはまだ本だったから声をかけることもできなかった。ねえ、■■、僕だよ、君が書いた本の、原稿の、ヤドリガミだ。あのあと、その仲間を……切りに行ったよ。許せなくて。君は勧善懲悪の娯楽小説を書いてたのに、僕の本体もそれなのに、僕がこんなので君もこんなので、皮肉だね。
生きて話がしたかったな。それが叶わないなら、祭具を壊すのに躊躇することもない。
●
窓の外に風が流れている。
いつの間にか机の傍に立っていた。見慣れた部屋の隅で、聞き慣れた弱い呼吸音に鼓膜を揺られながら、イヴ・オーガスト(執着の呼び声・f36217)はベッドを見詰めていた。
机上に置かれた一冊の本に、知らず指が触れた。
ただの無機物だ。
――イヴと、ベッドに眠る彼以外にとっては。
本の内容は諳んじている。主人公の誕生日は七月三十一日。善を成し悪を討つ少年は、愚直な正義と青臭い不屈で人を救う。誰しもが笑顔になって、喝采で終わるはずの物語は、大団円を迎える前に閉じられた。
投影された日常が――。
もっと昔のものであれば、どれほど気分が上向いたか分からないのに。
彼とイヴは知ってしまった。希望は絶望の特効薬ではない。純粋さは世界を救わない。喜びは悲しみに勝てない。不屈は裏切りを覆せない。知ってしまったことを、忘れることは出来ない。
希望を絶望が摘む。純粋さは悪意の食い物だ。悲しみは喜びを殺す。裏切りは不屈を嗤う。忘れたいことばかり、一つも忘れられない。
そうして彼は筆を折った。仲間だと思っていたその人に語った空想を奪われた日から。ただ楽しかった日々が苦悩に変わり、いつしか本に向き合うことすらも出来なくなるのを、イヴはずっと近くで見詰めていた。
「ねえ」
一度も呼べなかったその名を呼ぶ。
愛しいひと。たった一人の作者。イヴを生み出し、倦みきれないまま、ベッドの上で弱い呼吸を続けるひと。
「僕だよ」
終ぞ結末を見付けられなかった物語は、彼をずっと見ていた。
触れる手が欲しかった。近寄れる足が欲しかった。何より、彼の名を呼んで、笑い合える喉が欲しかった。
もう――何もかも遅いけれど。
「君が書いた本の、原稿の、ヤドリガミだ」
それでも告げるべきことがあった。
彼を裏切った者の結末だ。この手で尽きていく命の音を、イヴはよく覚えている。脳裏を過るそれに、曖昧な吐息を漏らした。彼は絞り出すように、低く声を零す。
「許せなくて」
返事はなかった。
晩年の彼はよく眠っていたから、イヴにはその心を推し量ることが出来なかった。覚えていることといえば、震える手で筆を握り、原稿に向き合うときの、ひどく苦しげな顔だけだ。いつか見せてくれた真剣な表情も、会心の表現に浮かべた満足げな笑みも、全て覚えているはずなのに――思い出そうとすると、最後に間近で見た表情に邪魔されてしまう。
「皮肉だね」
今度は明確に、自嘲の吐息が零れた。
勧善懲悪の物語が好きだった。そればかり書いていた。イヴだってその一編だったはずだった。
それなのに――。
彼は悪意に打ちのめされて、イヴは悪によって悪を切るものになってしまった。
「――生きて話がしたかったな」
そうすれば、何かが変わったかもしれないのに。或いは何も変わらなかったとして、こんな思いをすることはなかったはずだ。
それも、こんな幻の中では叶いはすまい。
机の上にあった、何の変哲もない万年筆を取った。不自然なほど磨かれたそれを、迷いなく折って――。
イヴは、深く息を吐いた。
大成功
🔵🔵🔵
ロク・ザイオン
…約束したから。
おれは、きみを手伝うよ。
(よく馴染んだ、友達の匂いと。
まだ知らない、炎の予感を、追ってきた)
…だから、ここで、足を止めているわけには、いかない。
(炎には程遠い、空すら見えぬ深い森)
(嘗て永い時を過ごした、父なる森の胎の裡)
(【野生の勘】は、今更この日常に呑まれることを許しはしない)
…あねご。
(ここを出る鍵なら、その巫女が携えているのが、道理)
それは、あねごの、大事なものですか?
(嘗ての日常であれば
尊い彼女に、己のみにくい声で
直に言葉ををかけることなどできなかった)
(…おれはもう、ここには、還らない)
あねご…いや。
禄歌。
それを、壊させてください。
この先に、行かなきゃいけないんだ。
●
森である。
命の揺籃だ。いつか父と崇め呼んだ、旧き神の胎の裡側だ。追いかけてきた友人の匂いも、燻る炎も、ここにはない。
ロク・ザイオン(ゴールデンフォレスタ・f01377)は、この森の森番だった。
けれどここは嘗てのロクが愛した森ではない。精巧に模倣された日常を、それでも獣じみた勘が否定する。噎せ返るような緑のにおいも、命の揺らめく息遣いも――。
今目の前にいる、そのひとも。
「……あねご」
これが本当にロクの知る日であったならば、彼女は口を開かなかった。
尊きひとにみにくい声を聞かせることは出来ない。鑢のような声は耳障りで、彼女の甘美な歌声には決して敵うものではない。そう思っていたからだ。
だが――。
「それは、あねごの、大事なものですか?」
ロクはこの森の巫女に問う。苦痛の悲鳴を上げ続け、幼気な願いも叶わぬままに土へと還り、再び鎖に繋がれ、最期にようやく笑った彼女に。
人形のように立ち尽くす彼女は、表情を変えない。ロクに声を掛けてもくれない。引き結ばれた口許に感情はなく、目の奥に揺らめく感情が何なのかすらも、悟らせてはくれない。
いつか、それがとても、怖かったことがあった。
けれどロクは、もうそれを恐れない。女を真っ直ぐに見詰める。自然に息を吸って、緑のにおいに少し噎せた。伸ばした手だけは未だ少しだけこわごわとして、鑢音が教えてもらった言葉を押し出す。
「あねご……」
否。
「禄歌」
堪えきれないとばかりに、女は笑った。初めて表情が変わったことに、やはりロクは安堵する。
けれど――。
「それを、壊させてください」
行かなくてはいけない。この鬱蒼としたいのちの鳥籠を壊して、いつかの約束を叶えなくてはいけない。
病葉を灼くのは教えのためではない。ロクの守るべき森はここではない。もう二度と、彼女はここに還らない。森しか知らなかった森番は、森でないものを知り、森の意味を知った。
森は、森だけにあるものではないと悟った。
だから、もう背を向けなくてはならない。それがどれほど身勝手なことでも。ロクが真に守るべき、森のために。
友人が――きっと、ロクを待っている。
真っ直ぐな眼差しと真摯な鑢の声に、ようやく、禄歌と呼ばれた女は口を開いた。
「お前はまた、私を裏切るのね」
「はい」
「そうね。それが――」
人間よね。
身勝手な生き物だから。過去を引き摺って泣くくせに、眸は未来しか見ていないから。無根拠に他者を狩り、無責任に命を育み、無意味に夢を見て、その全てに理由を付けたがるから。
「許してあげる」
また名前で呼ばなかったのも。
また禄歌を置いていくのも。
また――過去にするのも。
差し出されたのは、いつかロクの手に握らされたものによく似た容れ物だった。あのとき開かぬようにと言い含められたそれの中に何が入っていたのかは、とっくに知っている。
もう開いても良いのだ。
ロクは、ヒトだから。
強く握れば、鉄に見せかけたプラスチックは音を立てて罅割れる。その向こう、どこか満足げな顔をした禄歌が、ロクを見詰めて笑った。
大成功
🔵🔵🔵
アルトリウス・セレスタイト
○
俺の日常というのなら
オブリビオンが其処にいるのだろうな
状況は『天光』で逐一把握
守りは煌皇にて
纏う十一の原理を無限に廻し害ある全てを無限に破壊、自身から断絶し否定
尚迫るなら自身を無限加速し回避
要らぬ余波は『無現』にて消去
全行程必要魔力は『超克』で骸の海すら超えた“世界の外”から常時供給
見えるものが何であれ全知の原理は逃しはしない
速やかに破壊の原理にて祭具を破壊し次へ
猟兵がオブリビオンを討つのは当然で必然
時間を掛ける意味もあるまい
●
日常と呼ばうべき場所は一つしかない。
波濤の如く押し寄せる過去が、アルトリウス・セレスタイト(忘却者・f01410)の眼前を埋め尽くしている。めいめい金切り声を上げ、或いはまるで人のように振る舞いながら、アルトリウスという現在を滅ぼさんと迫り来る。
それは――。
実に、今生きる日々によく似た形をしていた。
迷う必要はない。いつもそうしているようにするだけだ。幾度となく起動し続けたこの世の外側の理は、再び男の手に宿る。
この場にある全ては既に見えている。天よりの光に似た絶対視の眸が、アルトリウスに俯瞰の視点を与えた。流れ込んでくる情報の群れを冷静に処理し、彼は己が纏う理外の理を展開した。
襲い来る者がその体に触れることすら叶わない。牙を剥き出しに躍りかかった獣は、すぐにその場に倒れ伏すことになった。
アルトリウスの周囲に在るのは、概念さえも阻む鎧にして刃。十と一の原理が永劫廻り続けるそれは、彼が望む限り万象を絶ち拒絶する。それはただ物理的に触れられぬということではない。『アルトリウス』という存在から、あらゆる現象そのものを断絶するものだ。
瞬く間に絶命した同胞を、しかし過去よりの化け物どもは恐れない。幾度目とも分からぬ死を迎えた骸を踏み荒らし、蹴散らして、指先の一本も動かさぬままに過去を討った男へと雪崩れ込む。
それすらも――アルトリウスにとっては、児戯に等しい。
過去のうねりの中に、男はいなかった。咆哮を上げたオブリビオンが踏みしだいたのは同胞だけだ。目標たる猟兵は、既に遥か離れた場所に立っている。
動いた――。
訳ではないということになろうか。
己を加速しただけだ。無限に等しいそれが、まるで瞬間的に移動したように見えるというだけのことである。怜悧に己らを見詰める眼差しは、既にオブリビオンどもの芽には入っていない。
ただ、残骸が吹き飛んでくるばかりである。
それすらもアルトリウスを傷付けることは出来なかった。絶対否定の理は、彼に迫る全てをこの世から消し去る。血の一滴でさえ、彼を穢すことは不可能だ。
その法外な力もまた、只人には決して知覚し得ない外側より汲み出しているにすぎなかった。無限――という概念が当てはまるのかどうかさえ分からぬそれは、少なくともこの世が終わっても尽きることはないだろう。
そうして齎された万能に限りなく近い力は、アルトリウスに目標を教えてくれる。
ただ一つ残された巨像が崩れ去る。跡形もなくなったそれに一瞥もくれぬまま、彼は静かに踵を返した。
時間を掛ける理由も、固執する意味もない。
猟兵とは――過去を討つものだ。
大成功
🔵🔵🔵
マリィシャ・アーカート
○
やはり、あの森に喚ばれるのですね
それともわたしが望んだのでしょうか
「マリィ」「マリィシャ」と呼び掛けてくれる人たち
それ以外の名前は――
■■■なんて知りません
家族のような大勢のヒトたち
姿かたちは朧げで
昨日見たあなたと今日見るあなたは
同じでないときも多々あります
表情はわからないけれど
笑っているに違いありません
生きているヒトなのだと、
わたしが定義し続ける限り
わたしそのものを認めてくれる家族だと、
わたしが諦めた夢を投影し続ける限り
冷たい森でのあたたかい日常は続くのです
それだけで満足でした
死者たちの怨霊が集う森の奥深く
生きていたのはわたしだけ
もういいの
引き留めてごめんね
ぜんぶ、完膚無きまでに直すから
●
瞬きの間に、緑が目を灼いた。
ここは森だ――直感的に理解した。それも『あの森』だ。静かで、暗くて、賑やかな。それは予感の通りの必然であったのかもしれないし、マリィシャ・アーカート(ルーンの小夜啼鳥・f35902)の心の奥底に蟠った願望であったのかもしれないが。
「マリィ」
声がする。女のような男のような老人のような子供のようなあなたのようなわたしのようなそれが誰の声かは分からないが、すぐに分かった。
「マリィシャ」
彼らだ。
マリィシャを呼んでくれる、大勢のヒトだ。全員が家族のようであり、友のようでもあった。彼女を安堵させる声たちである。
『そう』呼んでくれるのは――。
彼らだからだ。そうでない名前で呼ぶ者は他にもいたが、ああいやそもそもマリィシャにマリィシャ以外の名前などなかったはずだろう。
知らない。
知らない知らない知らない。
■■■を忘れて、マリィシャは家族の群れへと緩やかに歩んだ。姿も形も一ではない彼らは、ときに瞬きの間に造形を変えてしまうことすらある。塗り潰されたように、混ざり合うように、ぼやけた表情を見せる彼らは、しかし笑っているのだろう。
だって。
こんなにも楽しげに、少女の名前を呼ぶ。
彼女が自分を騙していられる間、彼らは決して彼女を裏切らない。生きているのは彼らであり、間違っているのは世界の方であると謳い続ける限り、彼らは家族でいてくれる。
彼女自身を認めてくれる。
頭が良いとか給食を残さないとか遅刻しないとか優しいとか思いやりがあるとかそういう外からの要因を全て省いて相対的な評価をかなぐり捨てて■■■は■■■のままで愛おしく掛け替えのない存在だと抱き締めて撫でて褒めてただ息をしているだけで笑ってくれるようなそういう。
家族だ。
とうに蓋を閉じ、諦めで封をしたそれが、ここではよく叶った。たとえ虚しい人形遊びに過ぎずとも、彼女はここでごっこ遊び(ロールプレイ)を続けていられた。
死に満ちた冷たい森は、温もりに拒絶された少女に何よりの暖かさを与えてくれたのだ。
――それで良かった。
満足していた。息をしているのがマリィシャだけでも。家族と呼んでいるそれらが、怨嗟に凝った死霊にすぎなくても。
でも。
だけど。
「もういいの」
マリィシャは、静かに首を横に振った。
家族たちはまた笑っている。マリィシャの名前を何度も呼んでいる。どれもが穏やかに、暖かく、彼女に腕を広げているのが分かる。
彼女は。
――踵を返す。
「引き留めてごめんね」
目の前には命があった。何かは分からない、薄桃色の塊だ。それでも、脈動する剥き出しの肌が生きているものだと伝えてくる。
こんなものは、森にはなかった。
駆動する得物の振動が伝わってきた。慣れたそれを軽々と両手で持ち上げ、マリィシャは笑った。
「ぜんぶ、完膚無きまでに直すから」
まずはこの森から。
血飛沫が舞って、試験管が光って、それから静かになって――。
全ては、元の通りに直った。
大成功
🔵🔵🔵
リア・ファル
アドリブ歓迎
SSWの片隅
見慣れた、今はもう無い施設
マテリアルボディが出来てから……暫くを過ごした、一室
気付けば、ボンヤリと座っていた
窓越しに見える隣室では、兄と、弟、妹の姿が見えた
微笑みを返し、暫し穏やかな日常を送る。失われたソレを
弟と妹の頭を撫で、兄に微笑む
どんなに代えがたい日々でも、既にボクは歩み続けているのだから
またね、と彼らに声を掛け部屋を出る
裡なる声が、今を生きる誰かの為に、と
理不尽に抗えと、背中を押す
足下に控えていた「ヌァザ」が、祭具の位置を知らせれば、
「セブンカラーズ」の弾丸を、撃ち放った
今日はおしまい
また明日
●
窓の外には漆黒が広がっている。
生命の気配に薄い、機械的な内装の部屋だった。今や親しみよりも懐古の疼痛が大きくなってしまったことに苦笑して、リア・ファル(三界の魔術師/トライオーシャン・ナビゲーター・f04685)は椅子から立ち上がった。
何の変哲もない一室だ。人間が生活を営んでも、きっと何の支障もないだろう。宇宙の片隅にひっそりと浮かぶそこが、リアの生家だった。
電子上の記号から実体を得て、初めて『住んだ』場所だ。訪れる悲劇を予感すらしないままで、今はもう旧懐を抱いてしまうほど遠く離れたここに、彼女は平穏で幸福な日常を刻んでいた。
壁で区切られた隣室の様子は、備え付けられた小窓を通して窺える。この遠大な宇宙の中で、命の担保された船の床を踏みながら、リアはその向こうに目を遣った。
そこで――。
愛しい姿が笑っている。
同じ想いから生まれ、同じ志を胸に宿した。見果てぬ航海の末に同じ夢を追うはずだった、三人の家族だ。兄に戯れ付く弟妹が、ふいにリアの方を見た。
四人の視線が絡み合う。
笑う彼らが手招きをするから、微笑んでそちらへ歩み寄る。飛びついてくる二人の頭に手を置けば、懐かしい温もりがマテリアル・ボディに巡った。
あの頃も、このままここにいられることを、疑ったことがないわけではなかった。
平穏な夢を見るには荒みすぎた世界の中、希望の祈りで生まれた命だ。たった一匙の悪意が何もかもを奪うことも知っていた。
知っていたけれど。
今のように、理解はしていなかった。
「行くのか」
「うん、兄さん」
微笑みかけた兄が静かに声を零した。真っ直ぐに視線を絡ませて、リアはしかと頷く。
「またね」
踵を返すに躊躇はない。
失われた感傷を噛み締めるのは、全てが終わってからでも遅くない。代え難く温かな日々は、それでももう、過去のものだから――。
リアは。
今を生きる誰かのために、戦っている。
「気を付けて」
歩き出すリアの背に、三人分の声が重なった。
同じ夢を追うことは叶わなかった。それでも同じ想いに生まれ、同じ祈りを背負い、同じ志で宇宙(そら)を見た。
だから、分かっている。過去に足を止め、振り返り、その安寧に浸るのは簡単だということも――それを許すことも、許されることも出来ないことも。
痛みを呑み、苦しみを噛み潰しながら歩いていく。あったはずの幸福が永劫この手に戻らずとも、あの日を作り上げてくれた人々の想いが背を押している。
――理不尽に抗え。
足許の猫が小さく鳴いた。迷いなく銃口を向けた先には、古びた鍵がある。
この宇宙船のどこに移動するにも、前時代的な鍵は必要ない。だから、それこそがこの鳥籠のよすがなのだろう。
迷いなく構えた銃口が少しだけ揺らぐ。全てを斬り棄てて征くには柔らかすぎる心に、深く爪が食い込む心地がする。
それでも――。
今日が終わらなくては、誰しもが血を吐くように望んだ明日が訪れることはない。
「――また明日」
七色(セブンカラーズ)の弾丸が放たれる。小さな音を立てて、扉の鍵は開かれた。
大成功
🔵🔵🔵
コッペリウス・ソムヌス
○
日常とは、人の営み
まだヒトとして存在していた時の光景かな
白壁の建物に囲まれた
海へと続く道を歩む
周りにいたのは白衣の大人のみで
子どもたちと関わり合うこともなく
最初で最後の友人はひとりだけ
なんでも知っていたように思う
外には広い世界があることも
その先を夢見ていたことも
叶わぬ望みと知りながら、
手を取り共に海を目指したなら
祈りは届いていたのだろうか
ひとり辿り着いた頃には
夕陽の色に染まった海の景色
終わりの夜を迎える手前の光景
ヒトの営みは、瞬く夢のよう
祭壇を壊して
キミのいなくなった世界に戻ろうか
●
神に日常はない。
ヒトに似た形をして、ヒトのように振る舞えど、実態は起伏のない代物だ。営みというべき維持作業も大して存在しない身に、日常と呼ばうべきものがあるとすれば――。
コッペリウス・ソムヌス(Sandmann・f30787)のそれは、彼が神と呼ばれるより以前の日々にある。
白い壁に威圧感を覚えていた頃のことだ。まるで囚人のように、無機質な白壁の建造物の間に囚われていた頃。遥か過去に取り残された小さな道を辿って、コッペリウスは周囲を埋め尽くす楼閣を見る。
あの頃――。
少年の知る他者は、彼よりずっと背が高い者ばかりだった。
一様に白い服を纏った彼らは、少年とは全く別の世界に住んでいるように感ぜられた。同年代の子供らと関わるような機は終ぞ訪れなかった。
少年の友人は、たった一人を除いて誰もいなかった。
最初で最後の友は博識だった。少なくとも、少年にとってはそうだったのだ。この小さな匣の中では、知識までもが大人たちの白衣の中に隠されていて、少年にはその断片しか知ることが叶わなかった。
だから――。
彼の知らないことは、友が何でも教えてくれた。
この白い匣には外側があること。そこは少年たちの想像すら及ばぬほど広いこと。白い服を着ていない大人たちがいること。子供たちは自由に外を駆け回り、友となって手を繋ぐこと――。
――この道の先には海があること。
いつも、友は夢見るように言葉を紡いだ。
潮騒の気配が流れる道を、コッペリウスは独り歩む。影の中で片割れと道を伴にしながら。
他愛のない空想が、現実になることはなかった。それはどちらのものも同じだ。けれど今にして思えば、足掻くよりも先に諦めていたように思う。
叶わないと知っていた。きっと互いがそうだった。だから彼らは慰めのように夢を描いて、それを抱えて閉塞を忘れようとしたのだ。
或いはあのとき、その手を取っていれば良かったのかもしれない。この道を共に辿って、あの汐の香りを追いかけて、後も先もない小さな逃避行を続ければ良かったのか。
そうすれば。
――望みは叶わずとも、祈りくらいは届いたのかもしれない。
ふいに視界が開けて、コッペリウスは目を細めた。痛烈な赤い光が人のような目を焼いている。夕暮れの海は遠大な赤を永遠に湛えている。
終わらぬ一日が終わる、その直前を切り取った浜辺に、コッペリウスはひとり立っている。
まるで――。
まるで、ヒトの営みのようだ。
ほんの瞬きの間に終わってしまうもの。それなのに誰もが根拠なく永劫を信じ、望むもの。本当の永遠はそんな言葉で約束されはしないのに、枯れることのない未来を口にするもの。
けれど――コッペリウスは神であるから。
永劫の日常に囚われているのは、それに甘んじられるのは、きっと人間だけだ。
指先が、一冊の小さな本を砂浜から拾い上げた。手にしたそれを開かないままで、彼は暫し表紙を見詰めて、ゆっくりと海に放り投げた。
潮風が頬を撫でる。緩やかに水に呑まれていく紙に、夕景が揺らぐ。
――静かに目を伏せて、彼は小さく声を零した。
「キミのいなくなった世界に戻ろうか」
大成功
🔵🔵🔵
陽向・理玖
ただいま
と家に入れば
おう
おかえり理玖
学校どうだった?
笑顔で問い掛ける男の低い声
…師匠
3年前は当たり前だった日常
3年離れて帰って来て
今は彼女と暮らすその家の
今でも空けてあるダイニングテーブルの椅子
その定位置から
笑顔で問い掛ける男の顔
もう随分と傷は浅くなったけれど
それでも姿を見れば胸はざわつく
師匠俺さ
…嫁さんにしたい人が出来て
帰って来たんだ
師匠が残してくれたこの家で
一緒に生きていきたい
だから
いつか、…紹介させてくれ
他にも話したい事は沢山あるけれど
過去はもう戻らないから
違和感のある見慣れぬ置物
祭具と思われるそれを思い切り叩き壊せば
一瞬目を見開いて笑みが深くなり
――そうか
という声だけ残し姿は搔き消えて
●
「ただいま」
見慣れた扉を押し開く。言い慣れた、温もりと同時に否応ない虚しさを思い出させる言葉を零せば、すぐに返る声があった。
「おう。おかえり理玖」
それは――。
陽向・理玖(夏疾風・f22773)には、もう永劫、聞くことの叶わない声だ。
「学校どうだった?」
椅子に腰掛けた男は、軽やかな笑み交じりに問うた。まるで昨日もそうしていたようにそこにいるから、理玖は曖昧に目を逸らす。
――優しく温かな救世主との日々は、三年前に終わった。
師と呼びながら、その実は父のようなひとだった。その別離に懐いた絶望と痛苦を今でも思い出す。心の奥にある古疵に爪を立てられるような痛みが過る。
愛しいひとを連れ、この家に帰ってきた今でも、理玖はその定位置を空けてある。ダイニングテーブルと揃いの椅子だ。近寄って見下ろす彼の英雄は、最後に会ったときより小さく見えた。
否――。
理玖の背が伸びたのか。
その向かいに、いつもそうしていたように腰掛ける。お決まりの問いかけには応じぬまま、理玖はゆっくりと口を開いた。
「師匠、俺さ」
本当は。
現実で伝えられたら、どれほど良かったのだろう。そうはならなかったから――そうはならなかったけれど、告げておきたかった。
「……嫁さんにしたい人が出来て」
三年も離れていたこの家に。
恋しさよりも痛みの記憶が勝ってしまうこの場所に。
「帰って来たんだ」
銀の髪が美しいひと。浮世離れして、討つべき過去の痛みさえも悲しんで、じっと話を聞いてくれて、理玖のプリンを喜んで――花のように笑うひと。
「師匠が残してくれたこの家で、一緒に生きていきたい」
それは――。
英雄のいた無邪気な日々ではない。たった一片の希望に縋り、逃避するように独り待っていた日々とも違う。いつか夢見た太陽のような日々でもない。
ほんの少しの寂しさと悲しさに肩を寄せ合えることを幸福と知り、ずっと暖かな光で明日を照らす日常だ。
「いつか、……紹介させてくれ」
それだけだった。
交わしたい言葉は沢山ある。あれから出来た友のこと、進んで来た道のこと――それこそ日が暮れるまで、あの日のように彼に語りたかった。
それでも、分かっている。
過去は戻らないと――分かっているから。
理玖は幽かに笑った。痛みと悲しみを呑み干すことは叶わずとも、瘡蓋と変えることは出来たということの、何よりの証明の代わりに。
そのまま――振り上げた手を、彼と自分の間に置かれた、剣に似た陶器へ振り下ろす。
家に入ったときから見当はついていた。見たことのないそれは紛れもなく祭具だ。記憶の中の暖かな日々の具現が、理玖の脳裏から生み出されたただの幻に過ぎないことを告げる、唯一のよすがだ。
真っ直ぐに視線を絡めた息子のような弟子を見て、師は小さく目を見開いた。その唇がゆるゆると持ち上がる。ひどく柔らかな、安堵したような笑みを口許に刷いて、彼は息を吐くが如く声を上げた。
「――そうか」
ただ一言に籠もった心根が、理玖の耳朶を揺らす。
笑みを返そうと瞬いた。その刹那には、もう、彼の姿はどこにもない。
窓の外の斜陽が、理玖だけを残した部屋に、静かに差し込んでいた。
大成功
🔵🔵🔵
夕凪・悠那
○
――いつかの休日、どこかのお家
記憶の中と変わらない母の姿
カレンダーを確認すれば今日は"小学校"も休日で、お母さんの休みも偶然重なった日みたいだ
というわけなので、まあ、親孝行
母の日だよ、お母さん
大丈夫、もう"高二"だよ私
何時までも子供じゃないの
……本当、こうできたらよかったのにね
――夕暮れだ
もう、この夢も終わる
ハッキングで強度低下させた祭具を破壊して
帰らない過去に別れを告げよう
カタチには残らなくても、思い出はこの胸に
――行ってきます
●
今日は休みだ。
ようやく気温も春めいた頃である。桜が散り、葉が実り、噎せ返る緑のにおいが茂みから香る季節だった。
ダイニングには鼻歌を歌う母がいる。冷蔵庫の中身を覗き、今日の献立を考えている。時計を見れば三時も過ぎようかという頃合いで、こんな時間に家にいる母を見られるのは珍しいことだった。
目を遣った日捲りのカレンダーの日付は赤い。滅多に同日にならない『小学校』と職場の休日が、偶然にも被っていたようだ。
何もかも――。
夕凪・悠那(電脳魔・f08384)の記憶にあるものと、寸分違いない。
軽やかに座っていた椅子から降りる。久し振りの手料理を味わいたい気分もあったが、それよりも。
「母の日だよ、お母さん」
五月の第二日曜日といえば、母への感謝を形にする日のことだ。
「『私』にご馳走させてよ」
少女は笑った。この世に潜む悪意も深淵も、何も知らず笑っていた頃のように。今よりもずっと無垢に――けれどひどく寂しそうに。
娘の思ってもみない提案に、母は瞠目の後に瞬いた。それから苦笑のような、喜ぶような、呆れ混じりの声で悠那を引き留める。
「怪我しないでよ」
「――大丈夫」
母の顔を見ることなく、娘は笑った。
「もう"高二"だよ私。何時までも子供じゃないの」
そういう――。
他愛ないやり取りが出来れば良かった。本当の親孝行が出来れば良かった。たった一人の悠那の肉親。大好きで、愛しくて、ときに喧嘩をしても誰より尊敬していた母。呼べばいつでも応じてくれることを、信じて疑ったことすらなかった。
けれど。
悠那はもう知ってしまったのだ。世界は思うより容易くない。初恋は叶わない。些細な願いほど闇に呑まれやすい。信じた当たり前ほど脆いものはない。
『永遠に続く日常』など。
この世界には――ない。
母の横槍を受けながら作った料理は、一人で食べるよりずっと美味しかった。料理が上手くなったのね――などと笑う顔に笑みを返してから、悠那は手の中のスマートフォンを裏返した。
もう夕暮れだ。
他愛ない夢がもう一度繰り返される前に、ここを出て行かなくてはならない。
「お母さん、私、行かないと」
「そう。もうこんな時間だものね」
母は穏やかに笑みを刷いた。立ち上がる娘を引き留めようとはしない。その表情を目に焼き付けるようにして、暫し立ち尽くした悠那は、ゆっくりと踵を返す。
玄関には見慣れぬ靴が置いてある。こんなものまで祭具になるのだろうかと、少しだけ笑う。超常の魔術を物質に干渉させてやれば、指先でつついただけでも呆気なく壊れてしまう。
それを見届けて――。
悠那は、もう一度振り返った。
「行ってらっしゃい」
母がいつものように手を振っている。名残惜しさが心の裡側に鋭い爪を立てる。それでも――。
――それでも。
もう二度と帰らぬ日へ、別れを告げる時間だ。
言うべき台詞は決まっていた。さようならなんて、母娘の別れには重すぎる。じゃあねと手を振るのは味気ない。
カタチがなくても遺るものは――いつでもこの胸に灯しているから。
「行ってきます」
母の手に見送られて、娘は扉を押し開いた。
大成功
🔵🔵🔵
クロト・ラトキエ
○
革命を掲げる集落。
その終焉の、前日。
いつ頃の仕事でしたっけ。
偽名は…多分、腐食を意味する名。
僕、置いてくんですよね。
物も、記憶も、
どうでもいいモノは。
とはいえ、具に調べた集落。
壊すべき品の在処は見当がつく。
散歩気分で向かいますか。
永劫の一日。
もしこれが明日へ続くとしても、
暴力と理不尽に晒され蹂躙される彼らに、己は、
逃げろと言いも助けもしない。
幻だろうと…現実だろうと。
そこには如何にも“日常”があった。
戦の最中でさえ、人々が笑い合い、時にぶつかり、
懐いてくる青年や少女もあれば、疑心や愛情、他愛なさが。
己にとって、どうでもいいモノが。
何故この日が視得たかさえ
…どうでもいい。
どうせまた置いていくさ
●
砂塵に煽られて、ようやく思い出した。
いつぞやの仕事で訪れた、砂漠の中央である。革命を掲げ、あと半歩と届かせながら、裡に招き入れた死毒に滅ぼされた集落だった。未だ活気のあるそこを見渡して、その死毒は浅く息を吐いた。
革命家たちの最期のさまを、クロト・ラトキエ(TTX・f00472)はよく覚えていない。
似たような仕事はよく請け負っていたから、経過した年月さえも曖昧である。それでも断片的に記憶が残っている辺り、そう遠い昔の話ではないだろう。このとき名乗っていた名は確か――。
「ニグレド!」
溌剌とした声と共に駆け寄ってきた青年の名も、クロトの記憶には残っていない。誰にでもそうするように笑みを返して、彼は緩やかに砂を踏んだ。
懐旧はない。罪の意識もない。例えこの集落が明日に滅ぶとしても、クロトには関係のないことだ。
彼は――。
彼が持つ必要のない荷物は置いていく。血と硝煙の中に紛れて記憶から消えるなら、それはクロトにとってはどうでも良いものだったということの証明だ。であるから、この革命家たちの夢にも、何ら関心はなかった。
覚えていることがあるとすれば――。
徹底的に調べ上げ、内に潜って歩いた集落の、地形図くらいのものだ。
最も奥側に位置する武器庫に当たりを付けて、クロトは軽やかに歩みを進める。纏わり付く砂の感触を払い、隣を駆け抜けていく少年と、彼を追いかける娘を見遣った。
もし――。
明日が来るとして、彼らに生きるすべはない。信じた者に裏切られ、些細な疑心を殺意へとすり替えられて、届くはずだった喝采の大団円を失うだけだ。
それを。
教えてやったりはしない。逃がすようなこともしない。これが所詮は幻だから、などという、感傷的な思いさえない。
罪悪感など、端から死毒は懐かない。
誰かの父になるはずだった人がいるだろう。その妻になるはずだった人がいるだろう。幼稚な青い恋心を抱えて戦う者がいるだろう。笑いかけてくれる顔は多いから、クロトもまた凪いだ笑顔を返す。
下らないことだ。
幸いをこの手に掴むことが、どれほど美しい景色を見せてくれるのかを知った。罪過の全てを感じぬ獣は、人らしい情動の齎すものを識った。
だが。
――他者のそれは、どうでも良い。
どうにせよ、人の世の本質とは奪い合いである。誰しもが幸福に笑える未来などないのである。クロトにとっての真実とは、己の手の中に大切なものがあるか――それを、手中に収めておけるか否かにすぎない。
であるから。
既に滅びた過去の再現など、何の意味も持たない。
この日が選ばれた理由すらも曖昧である。そもそも、ここを訪れねば思い出すこともなかっただろう。
だから、武器庫を開く手に躊躇はない。
見覚えのある――しかしここにあるはずのないものが、足許に転がっている。雑然と置かれた武器の中でもいっとう汚れたそれが祭具であり、既に『使用されたもの』なのだろうことは容易に想像がついた。
どうでも良いことだ。
遠くから聞こえる笑声を置いて、クロトは血に汚れたナイフを割った。
大成功
🔵🔵🔵
洞木・夏来
〇
日常…か。私は何を見るのかな
目に映ったのは見慣れた天井と見慣れた部屋。
ああこれは、朝起きて、学校に行って、お父さんとお母さんと一緒にご飯を食べて眠る。
私が何も知らなかったときの一日。私が壊れるのが怖くて逃げ出しちゃった光景です。
この日をまだいつも通りだと思っている。自分から投げ出したくせに戻りたいって考えてる。浅ましいなぁ私。
でも、もしも私が呪いをどうにかできたとしてもきっとこの日には戻れないんだろうなぁ。
だって、私は知ったから。誰かのために傷つきながら頑張る人たちを、私がどれだけ無力かを。
だから、お父さんお母さん親不孝な娘でごめんなさい。私は仲間と居たいんです。
祭具をナイフで破壊します。
●
ゆっくりと目を開く。
どこか中空に浮かんでいるような心地だった背が、何かに優しく横たえられるような感覚だった。釣られるように周囲を見渡して、少女はどこか茫然とした心地で、もう今はこの手にない光景を見詰めた。
洞木・夏来(恐怖に怯える神器遣い・f29248)の目の前には、よく見慣れた天井がある。
ベッドから体を起こす。少しだけ気怠い足でダイニングに向かって、朝食を摂る。それから前日に用意したバッグを持って、玄関の扉を開けて、言い慣れた『行ってきます』と共に外へ駆け出す。恙なく辿り着いた学校で友達と話して、授業を受けて、軽やかに家に帰って『ただいま』を言う。それから今日の話をして、父と母と揃って夕食を摂ったら、宿題をして眠るのだ。
これは――。
何も知らずに生きていられた頃の幻だ。
呪いなんてものはオカルト番組の十八番で、どれほど恐ろしかろうとも実在するなどとは思わなかった。怯えたり、落ち込んだり、動揺したりすることが、こんなにも恐ろしいことだとは思ってもいなかった。
夏来自身が、制御の利かない呪いに冒されるまで――。
この日々が壊れることがあるだなんて、考えたこともなかった。
夕食に口をつけながら、夏来は悟られないように息を吐く。他愛のない会話はいかにもいつも通りだ。そう思いたがっているだけなのかもしれないが。
――壊してしまいたくなくて、壊れてしまいたくなくて、彼女は全てを放り出した。
それなのに未練が後ろ髪を引く。浅ましくも戻りたいと思っている。また二人と話がしたい。母の手作りの料理が食べたい。父と笑い合いたい。あと二年もすれば飲めるようになる酒を、二人と一緒に――。
「お父さん、お母さん」
それでも――。
それでも夏来は、確信している。
もう戻れない。何も知らずに笑っていた日々には帰れない。この呪いが解けて、再び二人の元に帰ったとしても、彼女はこの道を選ばないだろう。
自ら傷付き、時に重い代償を支払いながら、誰かのために武器を振るう人々を。
この呪いがなければ、彼らの隣に並ぶことすら出来ない己の無力も。
知りながら背を向けることは、もう出来ない。
「ごめんなさい」
恐怖に勝てずに逃げ出して、今だってこんなに嬉しく思うのに、それを捨てていこうとしている親不孝な娘で。父と母が育んでくれた、この命の平穏をかなぐり捨ててしまう娘で。
例えそうなのだとしても。
夏来は。
「私は、仲間と居たいんです」
目の前に配膳された空の皿に、ナイフを突き立てる。
母が何の違和も抱かずに運んできた、アンティーク調の古びたソーサーだった。目を閉じて、振り下ろして、手の中に衝撃が走って――。
次に目を開いたときには、誰もいない部屋を、黄昏が照らしていた。
大成功
🔵🔵🔵
花房・英
○
寿(f18704)と
見える景色は家の庭
でもいつもの庭じゃない
未だ手入れのされていないそれは
…多分俺がいじる前の庭だな
ぽつんと家の壁に置かれた鉢には朝顔が咲いている
これ、寿が育ててって俺に渡してきたやつ?
夏の日差しの下で咲くそれはひどく懐かしい
8年近く前の記憶ってことか
仕事みたいに頼んできたよな
今思えば、育つのがすごく楽しかった
命ってすごいんだなって思った
それは否定しない
今でもお節介だしお人好しだと思ってる
でも、ずっとそういうトコに俺は救われてるよ
…そうやって笑って、これからも俺の側にいてよね
その優しさが俺にだけ向けばいいのにって思うくらいにはそうだよ
…俺も
一頻り話したなら祭器を破壊する
太宰・寿
○
英(f18794)と
突然の夏だと思ったら、本当だ
懐かしいね
英の手入れする庭に慣れててなんだか変な感じ
そうだね、こんな風に咲いてたよ
種からちゃんと育てたから、英もよく覚えてるんじゃない?
もうそんなに経ったんだね
うん、そうしたら育てるかなって
そう思ってくれてたなら安心した
あの頃は、なんでもいいから英が興味持てることやしたいこと見つけて欲しかったから
あの頃は超塩対応だったよね
お節介、お人好し、鬱陶しいの三点セット
ほっとかれるの私は寂しいって思うからつい
今も変わらないかぁ、って笑って
うん、ずっといるよ
今は随分好きだよね、私のこと
思い付きで軽口を言うけど
…恥ずかしい、慣れない事言うんじゃなかった
●
蝉が鳴いている。
鳥籠の扉を潜った二人は、気付けばいつも見る庭の中央に立っていた。今朝もここを通り、家を出て、この仕事が終われば二人一緒に帰る。
そのはずだが――。
見渡したそこの違和に最初に気付いたのは、花房・英(サイボーグのグールドライバー・f18794)の方だった。
花壇になっているはずのところには、めいめい好き勝手に草が花をつけている。慈雨の季節を越えた先で、日差しを受けた伸び放題の雑草が揺れた。英が丁寧に花を選り分け、放っておけばすぐに生えてくる草花を几帳面に抜いている、『今』の庭とは比べものにならない荒れようだ。
隣でしゃがみ込んだ太宰・寿(パステルペインター・f18704)が、足許に生えた名前も知れない花をつついている。強い日差しに照らされる彼女の背を暫し見詰め、英はゆっくりと視線を移した。
家の外壁の近く――鉢植えが一つだけ置いてある。
近寄って持ち上げたそれには、綺麗な花が咲いている。炎天の中に揺れる朝顔を携えたまま、立ち上がった寿を呼び寄せれば、彼女は無防備に青年へと駆け寄った。
「これ、寿が育ててって俺に渡してきたやつ?」
「本当だ」
まるまると瞠目して、寿は笑った。
今の英から見れば拙い鉢植えだった。土は盛りすぎているし、一本しかない支柱は不格好に斜めになっている。肥料を一本与えるだけで、もっと多くの花をつけるだろうことはすぐ分かる。それに、今ならこんなところには置いておかない。
けれど――。
その懐かしい鉢の、不格好な朝顔の一輪が、英にとってはひどく懐かしい。
「8年近く前の記憶ってことか」
「もうそんなに経ったんだ。懐かしいね」
まだ、青年が少年だった時代の話だ。
居候を始めた彼を、寿が弟だと思い切れていなかった頃。冷たい表情で口許を引き結んでいた少年と、これから家族のように生きていこうと心を決めたばかりの時分だった。どう接して良いのかもよくは分からなかったけれど、世界の何もかもに心を鎖したような表情を、変えたいと思っていた時期だ。
「種からちゃんと育てたから、英もよく覚えてるんじゃない?」
「まあ。仕事みたいに頼んできたよな」
「そうしたら育てるかなって」
その頃の英は、まるで野良猫のようだった。心に蓋をしているのに齎される刺激には鋭敏で、善意や思いやりから口にしたことは反射的に撥ね付けてしまう。だから、心の介在しない義務として手渡した方が、素直に聞くと思った。
事実、英は毎朝の世話を欠かすことはなかったし――。
ようやく花が咲いたときには、初めて目を輝かせ、朝食の用意をしていた寿のところに報告に来たのだったか。
寿にとっては、それが初めて見た英の喜ぶ姿だった。けれど彼自身は、もっとずっと前に――それこそ、朝顔が無事に双葉を開いたときから、ずっと楽しんでいたのだ。
小さくて硬い種を破って、柔らかい芽が出る。水と太陽を求めて茎を伸ばし、とうとう花を咲かせる、その過程が。
「命ってすごいんだなって思った」
「そう思ってくれてたなら、安心した」
寿の作戦は大成功に終わったようである。この世になど一つも興味がないというような顔をしていた少年に、少しでも趣味を見付けて欲しかった。何の楽しみがなくとも命を繋ぐことは出来るけれど、生きるには楽しみが必要だ。
手入れをされていない庭に目を遣って、彼女は思わず笑った。英の顔を覗き込みながら、冗句めいて声を上げる。
「あの頃は超塩対応だったよね」
お節介。
お人好し。
鬱陶しい。
小さな彼が発するのは、概ね吐き捨てるような三つの単語だけだった。目だって滅多に合わせてくれなかった彼は、今は寿を見詰め返して、肩を竦めた。
「それは否定しない」
今だってそうだと思ってる――続けた言葉に、お節介でお人好しな娘は小さく吹き出した。
「今も変わらないかぁ」
「寿が変わってないんだから、そうだろ」
だから。
変わったのは、英の方だ。
否――。
彼もまた変わってはいないのか。ただ無自覚であれなくなっただけだ。自分のことに、世界のことに、ずっと抱いてきた気持ちに。
「でも、ずっとそういうトコに俺は救われてるよ」
英の中に芽生えていたものは、この不器用な朝顔と一緒に咲いたのだから。
「……そうやって笑って、これからも俺の側にいてよね」
「うん、ずっといるよ」
いなくなるつもりなど寿にはない。離してはいけないと思っていたこの手は、いつしか離したくないものに変わっていた。今から離せと言われても、余計に固く握ってしまうだろう。
それでも、彼からもらう不器用で真っ直ぐな言葉に、ふくふくと胸が温かくなる。
「今は随分好きだよね、私のこと」
「そうだよ」
思いついたかのような声音で発された軽口を受け取って、英は躊躇なく頷く。それからじっと、その目を見詰めて微笑んでやった。
「その優しさが、俺にだけ向けばいいのにって思うくらいには」
目を見開いた寿の頬が、みるみるうちに染まっていく。彼女がぱっと目を逸らして俯くものだから、釣られるように英も口許を押さえる。夏の日差しのせいだと言い訳するには苦しくて、そもそもそんなことを思いつきもしないものだから――。
寿の唇からは、蚊の鳴くような声が零れるばかりだった。
「……恥ずかしい」
「……俺も」
――慣れないこと言うんじゃなかった。
心の中で重ねた台詞と共に、真っ赤な頬と共に二人で笑った。腹が痛くなってきたところで、深く息を吐いた娘が、笑声の余韻とともに英を呼ぶ。
「帰ろっか」
その言葉に、迷いなく頷いて。
朝顔の鉢の隣にあった、空の鉢植えが割れる音がした。
大成功
🔵🔵🔵🔵🔵🔵
大町・詩乃
ヒーローズアース日本の片田舎にある古い神社の一日。
いつものように祭神『アシカビヒメ』として人々の願いを聞き、必要と思える事については幸運な結果に結びつくように、やり過ぎない程度に神力で運命を後押し。
不満を抱いたことは無いが、物足りなさを感じている事も確か。
ふと視界の隅に双子の巫女姉妹が目に入る。
溌溂として行動力に溢れた姉の大町吉乃、物静かで聡明な妹の大町詩奈。
双子ゆえに外見は似ているが、性格や言動が此処まで対照的なのは珍しい。妹の方は顔色が悪そうだが大丈夫だろうか…。
この『一日』が出てきたのは幸運かもしれない。
自分が何の為に動くのか改めて判りましたから。
と、自分の記憶にない祭具を壊します。
●
育った世界において、神とは現実に近しいものだった。
極東であってもそれは変わらない。ヒーローとヴィランの永きにわたる戦いが続いたこの世界に、大町・詩乃(阿斯訶備媛・f17458)の居城はある。
信仰が途絶えることなく紡がれ続け、しかし争いの火種とならなかったのは、治めた地が小さな田舎だったせいだろうか。確かな現世利益を求めて途絶えぬ参拝客は、しかし祭神である『アシカビヒメ』が願いを聞き届けられない程に押し寄せるわけではなかった。
人々の願いは自由だ。相手が神だと分かっているからこそ零せるものもあるだろう。熱心な祈りと、御礼参りの挨拶を聞き届けながら、詩乃は奥の間に座っている。
日常と言うに足る日々の営みだった。
神の本義は人々の想いを聞き遂げ、選り分けることにある。全ての願は心底から掛けられるものだが、端から叶えてしまえば世界の秩序を乱すことにもなる。神に出来るのは、あくまで人の営みを妨げず、誰かの顔を曇らせることのない、些細な介入だけだ。
今日も届く願いは絶え間ない。子宝を願い祈る夫婦に祝福を。祖母の病を治して欲しいという孫には運命の後押しを。面白半分の願いや、誰かを傷付けるような祈りは聞き捨てる。
いつもの責務に不満はなかったが――。
やはり、少し物足りない。
ふと、廊下を歩く足音がする。見れば顔のよく似た二人の巫女が、どこかへ行くところだったらしい。
名はよく知っている。大町家の双子の姉妹だ。姿勢を正し、笑みを刷いて溌剌と行くのが姉の吉乃。その後ろからしずしずと歩く聡明そうな表情の娘が、妹の詩奈。見るだに正反対の彼女らは、今日も巫女の仕事に精を出しているようだ。
ただ――。
気がかりがあるとすれば、詩奈の顔色か。
歩調もいつものそれより元気がないように思える。些か調子が優れないようではあるが――。
その背を、詩乃は静かに見送っていた。
あの日もそうだった。顔色が悪いことにさえ気付かなかったも同然だ。彼女が病弱であるということすら、後から知った。
無理が祟った詩奈が倒れ、帰らぬ人となるその日まで――。
否。
吉乃がアシカビヒメを連れ出すその日まで、その過ちの真意には気付けなかった。
凝る悔悟の始まりになった背を、見咎めることはしなかった。ここで止めたところで、詩乃の裡に澱む最初の後悔の償いにはならない。
代わりに――。
この『一日』をもう一度この目に映せたことに、光明を見出した。
詩乃が戦い続けてきた理由の始まりだ。一体何のために武器を振るい、願いを聞き、この手を伸ばすのか。何故、ときにお節介とすらなり得ると知っていて、世界には悪意が満ちていることも理解していて、尚も手ずから掬い上げようとするのか。
「自分が何の為に動くのか、改めて判りましたから」
枯れかけた榊が、目の前に落ちている。神の御前にそんなものを置く者は、『この場所』には誰もいない。
迷いなく拾い上げたそれを手折って、詩乃は真っ直ぐに前を見た。
大成功
🔵🔵🔵
ベスティア・クローヴェル
鳥籠の中へと足を一歩踏み入れる
空はカーテンに閉ざされたかのような闇が広がり、大地はどこまでも荒れ果てていた
ダークセイヴァーにはよくある風景で、特に気にするようなものでもない
さっさと祭具を壊そうと一歩踏み出した時、確かに聞こえた
過去に捨てた名前が
どうせ早死にするのだから、覚えて貰う必要はないと捨てた名が
ただの獣(ベスティア)と名乗る前の名が
私をセシリアと呼ぶ声が
確かに聞こえたんだ
振り返ればそこには小さい頃に育った村があって
幼馴染やお世話になったおじさん、それに両親も健在で
とても居心地のいい過去の夢なんだろうな
ねぇ、パパ、ママ
「ヒトが悲しむ事をするな」っていう教えを守る為に、私頑張ったんだ
色んなヒトが笑顔で暮らせるように
大事な友人達を守れるように
途中で投げ出したくなることもあった
どうしてこんな苦しい思いをしないといけないんだ!って
だけど、私を支えてくれる大事な友人が出来たんだ
その友人と一緒なら、どんな困難だって乗り越えられる気がするんだ
そんな友人の為にもう少しだけ頑張ってくるよ
行ってきます
●
開かれた籠は、容易に獲物を招き入れる。
躊躇なく飛び込んだそこはひどく暗かった。見上げた空は曇天に覆われ、地表には一筋の光すら届かない。
――ベスティア・クローヴェル(salida del sol・f05323)にとっては、ひどく慣れ親しんだ光景だ。
押し寄せる過去の波濤に敗北した世界。生きることも、死ぬことさえ救済にならぬ場所だった。灯りの一つもない暗渠へ続く荒野が、ダークセイヴァーの名を最もよく表しているだろう。
銀の狼耳が風に揺れる。生まれたときから傍にある暗闇を見渡し、興味もなさげに歩き出したベスティアが、ふいに足を止めた。
呼んでいる――。
忘れようはずもない、彼女の中に残る暖かな記憶のよすがを。今や誰が知るわけもないそれを。この病に身を冒され、何れ近いうちに尽き果てる命だと悟ったとき、誰かに遺すまでもないと捨てたものを。
「セシリア」
――獣(ベスティア)がまだ少女だった頃、笑いながら返事をした名を。
勢いよく銀狼が振り返る。気付けば後方には小さな光が灯っていた。その向こうにあるものに大きく目を見開いた彼女は、知らず詰まる息を呑み込んだ。
それは――。
『セシリア』が暮らし続けてきた村の光景だった。
この世界において、人々が多く集まりすぎることは、大きなリスクを孕んだ。だから小さな集落を形成し、暗闇の中で嘲笑う脅威に見付からぬよう、息を殺して生きていた。
それでも人々は逞しいもので、支え合えば食い扶持に困ることはなかった。少なくとも少女の生きていた村はそうである。支配者に見付かれば容易に食い散らかされるそれの中には、もっとずっと惨憺たるものもあると、今は知っているけれど。
彼女の目に映る村には、疑心も謀略も支配者の影は差さなかった。
よく面倒を見てくれた男が手を振っている。ベスティアと比べればひどく小さな幼馴染みが、それでも彼女を呼んで飛び跳ねている。
それから。
それから――。
「パパ、ママ」
――零れた声は、幼い少女のそれと何ら変わりなかった。
もういない両親が笑っている。きっと名前を呼んでくれたのは彼らだ。堪らず駆け出した足で、飛び込むように幻影の中へと走る。笑顔で迎え入れてくれた村人たちは、ベスティアの記憶の中にある彼らと寸分違わぬ仕草で、彼女の髪を代わる代わる撫でた。
帰って来た――。
反射的にそう思った。暖かくて、優しくて、何一つ変わらぬ居場所だ。ようやく地に足をつけた気がする。ずっとどこかで張り詰めさせていた心の弦が、ゆっくりと張力を失っていく。
「ねぇ、パパ、ママ」
――ずっと頑張ってきたから。
その胸に抱きつくように、女は声を零す。
「『ヒトが悲しむ事をするな』っていう教えを守る為に、私頑張ったんだ」
父と母の遺したものだ。いつしかそれは名を捨てた獣の中に根付いて、いっとう大事な指針となった。
誰もが日の当たる場所で笑えるように。何の恐怖にも、脅威にも、怯え泣くことのないように。
こんな獣を大切だと言ってくれる友人たちを、獣もまた大切に出来るように。彼女たちの道往きを、ほんの少しでも守れるように。
それは――。
彼女自身が日の当たる道を歩けることと、同義ではなかった。
不本意な虐殺をした。幾度も心を抉られた。同じくらい体が軋み、痛み、とうとう身の丈に合わない力で己が灼かれることとなった。この身が太陽になれるならそれでも構わないと思ったのに、やっぱり痛いものは痛くて、苦しいものは苦しい。意志の元に戦い続けるというだけのことが、こんなにも難しかった。
全て投げ出してしまおうと、幾度も思った。どれほど割り切ったつもりでも未練は捨てられない。どれだけ呑み干したつもりでも、運命を呪う思いはやまない。
きっとそれを叶えれば――。
ベスティアは、短い命を陽の光の下で過ごせるのだろう。
「だけど」
ゆっくりと、父と母から体を離す。
「大事な友人が出来たんだ」
こんな命を心配してくれる友が。灰になるだけだったはずのベスティアを繋ぎ止めようと、手を伸ばしてくれるひとがいる。
だから、ここで思い出に浸っていることは出来ない。
ずっとずっとここにいたいけれど。本当なら、今だって止めてしまいたいとどこかで思っているのかもしれないけれど――。
「その友人と一緒なら、どんな困難だって乗り越えられる気がするんだ」
だから、迷わない。
もう一度会いたいのだ。きっと離れるたびにそう思う。何度だって約束を重ねるし、幾度だって遊びに行くだろう。積み重ねる幸福の思い出は、この短い命の最期さえ、煌めいて照らしてくれるはずだ。
知らず足は軽くなる。ほんの少しの未練とともに、村の入り口へと向かう『セシリア』を、村人たちの声援が後押しする。
それで――。
「もう少しだけ頑張ってくるよ」
振り向いた女は、大きく手を振って、確かに笑った。
「行ってきます」
その先はもう振り返らない。
続く暗渠へと、静かに足を進める。その先にある朝日を――。
――己を繋ぎ止める光を目指して。
大成功
🔵🔵🔵
レイラ・エインズワース
【凪灯】
一緒に向かう先にあるのは、普段通りの平穏
流れ着いた異世界での日常
傍らを見れば、“普段通り”の彼の顔に
無理はしないの、なんて彼の頬に手を当てて
待っている人のことを考えれば、普段通りとはいかないでしょう?
紡がれた言葉に頷いて
うん、ゆっくり聞いたことはまだなかったと思うカラ
初めて聞くそのヒト印象を受け止めるように頷いて、思い浮かべて
そうダネ
今聞いただけだケド、私もそのために戦ってるような気がする
きっとネ、自分にできることをしたいってヒトなんだと思う
だから――
紡ぎかけた魔術は途中で止める
うん、きっと伝えられるヨ
大丈夫、いつも隣で照らすヨ、ってちゃんと言ってるでしょ
届けるためにも、一緒にいこう?
鳴宮・匡
【凪灯】
向こう側にあるのは、何の変哲もない異世界の日常
猟兵になってから重ねてきた平穏
でも
この先に待っているのが誰なのか、わかっていたから
“いつも通り”に笑えてはいないかもしれない
無理、してるように見えるかな
そういうつもりはなかったんだけど――
師匠――ヒビキはさ
あ、ええと、急にごめん
どういう人か、とか
話したことなかったなって
俺にとっては優しい人だった
よく頭を撫でてくれたのを覚えてる
……今の俺より腕のいい傭兵だったから
敵兵にとってはそうじゃなかったかも
戦いを教える時は厳しい顔をしてて
ひとを撃つ時はいつだって落ち着いていて
でも、終わった後は少し寂しそうにしてた
あの人は、多分
ひとが好きで、世界が好きで
それを守りたいと心から思ってて――
言葉を切って
視界の端に捉えた違和――祭具を撃ち抜いて
――だから
会いに行かないといけないんだ
これがあの人の影だとしたら
止めたいって思うし
それに――
もし少しでも“あの人”がそこに残ってるなら
伝えたいことがあるから
……な、レイラ
その時は、隣に――
――ありがと
一緒に、行こう
●
寂れた街のあわいに、気付けば二人で立っている。
遠くに見える小高い丘の上、静かな街には不釣り合いなほど巨大な館の扉を、見慣れた顔が潜った。学校帰りと思しき弟分の帰還は、この距離からでもよく視える。
よく知る日常の一場面に、鳴宮・匡(凪の海・f01612)は小さく笑った。
何ということもない。猟兵としての地位を得て、界渡りの力を手に入れてから紡いできた、今や銃と同じほどに両手に馴染んだ日々だ。あの日、何かから逃げるように転がり込んだあの館は、既に家と呼ぶべき居場所に変わった。
――それは、レイラ・エインズワース(水底リライザー・f00284)も同じだ。
欠陥品の角灯が流れ着いた先は、思うよりも暖かな場所だった。幼い頃から見守ってきた悪役令嬢は幸福を手に入れ、友と呼ぶ相手はいつの間にか多くなった。そうして彼女自身もまた、幾ら遠ざけようとしても伸ばされた手を取って、ここに二人で立っている。
固く繋いだ手を離さぬまま、どちらともなく歩き出す。
ひどくゆったりとした歩調は、この後に待っているものを待ち侘びるようにも、或いは遠ざけるようにも感ぜられた。自身に合わせているともいえぬ足取りに、レイラは隣の顔を覗き込む。
その視線に気付いた匡が、小さく笑った。安心させるようなそれは、彼の予期した不安とは裏腹にごく『いつも通り』に見える。
けれど――。
「無理はしないの」
まるで言い聞かせるような口調だった。
伸ばされた細い手が男の頬を包む。背伸びをしたレイラの顔が、額を合わせるように匡へと近付いた。近付いた距離に反射的に仰け反ろうとするのを、男から比べれば非力な指先が許さない。
――視線を外したのは、照れ隠しのためだけではなかった。
「無理、してるように見えるかな」
そういうつもりはなかったんだけど――呟きを零す顔に刷いた鎧が綻ぶ。
この先に誰が待っているのか、匡は知っている。黒き戦禍。いつか聞いた『彼女』の末路。戦場を駆ける、今は本当の死神になってしまったという――ひとだ。
レイラとてそれは聞き及んでいた。
「待っている人のことを考えれば、普段通りとはいかないでしょう?」
だから笑う。顔をぐいっと近付けて、真っ直ぐに焦茶の眸と見詰め合った。その向こうに揺らめく凪色を見透かしたあと、彼女はふいに体を離した。
誘うように、導くように、角灯はほんの少し前を行く。自然とその歩調に合わせた匡の足取りは、先より幾分軽くなった。
「師匠――ヒビキはさ」
――ふいの言葉に、レイラが振り返る。
それで、己が随分と唐突な言葉を吐き出してしまったことに気付いた。優しく笑みを刷いた彼女に紡ぎかけた台詞を押し込めて、脳内に渦巻いていた思考を口にする。
「急にごめん。どういう人か、とか、話したことなかったなって」
幾度か、その存在を零したことがある。
匡が己の核心を話そうとするときばかりだ。一番の中核を成し、今の彼の土台となったそのひとは、自身のことを語ろうとするとどうしても切り離せない。
けれど――。
「ゆっくり聞いたことは、まだなかったと思うカラ」
頷いたレイラが、足取りを緩めて隣に立った。
どこから話すべきなのか、何を話したら良いのかに、少しだけ迷う。話せることも話したいことも多くありすぎて、切り口を選ぶには時間が掛かった。
「俺にとっては、優しい人だった」
頭を撫でる掌を覚えている。
褒めるとき、彼女はいつでもそうした。髪を掻き回すようにして、大きな掌が頭を包み込む。銃を握り続けてきた手は女性のそれにしては武骨だった。隣を歩く彼女のそれのように、白くて細い指ではない。固くなった皮膚の下には筋肉が詰まっていて、けれど女性特有の柔らかさを持っていたように思う。
――けれど、それは匡から見た印象にすぎない。
傭兵にとっての腕の良さとは、それだけ多くの戦場で活躍し、生還したことの指標だ。当然、それだけ人を殺している。精確無比な射撃を得意としていたのだから、さもありなん――というものだろう。
事実、銃を学びたいという匡に、彼女はひどく厳しかった。
年端もいかぬ子供にそうするには恐ろしい表情だった――のだろう。匡はそうは思わなかったが。教官と呼ばれる人間が、部下にそうするのとよく似ていると知ったのは、彼女による厳しい訓練を乗り越えた先のことである。
匡に見せる優しい『家族』の顔も、厳然たる『教官』の顔も、戦場では決して見せなかった。死がその身に肉薄しようとも、相手がどれほど同情を誘う命乞いをしようとも、その銃身も表情も揺らいだことはなかった。
ただ。
全てが終わって、戦場が静かになった後は。
静かに口を噤んで、寂しそうな顔をして、遠くを見た。
「あの人は、多分――」
ひとが好きだった。
世界を愛していた。
持っている手段の全てを使って、その想いを貫こうとしたひとだった。
「それを守りたいと、心から思ってて――」
「そうダネ」
匡の言葉を引き継ぐようにして、レイラが静かに首肯した。
つぶさに話を聞くのは初めてだった。ぼんやりとしていた輪郭が、はっきりと見えるような気がする。
優しいひと。同じくらい恐ろしいひと。大切な何かを守るために大切な何かを犠牲にする苦さを呑み干そうとして、呑み干して、その果てにひとりを守って潰えたひと。
「今聞いただけだケド、私もそのために戦ってるような気がする」
ゆっくりと暮れていく陽を見詰めて、角灯は息を吐く。想いの根底は、きっとずっと変わっていないのだ。表面をなぞれば矛盾した心も、根を辿れば同じ場所に辿り着く。
心とは、そういうものだ。
「きっとネ、自分にできることをしたいってヒトなんだと思う」
だから――。
――だから。
錆びた街には不釣り合いな美しい調度品を、銃弾が貫く。壊れたそれの音とともに、流れていた風が止んだ。
「会いに行かないといけないんだ」
匡は歩まねばならない。
「これがあの人の影だとしたら、止めたいって思うし、それに――」
楽観的かもしれない。希望的観測かもしれない。ただの願望であって、本当は何一つ叶わずに潰える願いかもしれない。
それでも良かった。
もしも、変わり果てたという彼女の中に、『彼女』がひとひらでも残っているのなら。ほんの少しでも、生前に懐いたものが遺っているのなら――。
「伝えたいことがあるから」
水底の楽園(イ・ラプセル)で、都合の良い夢に縋る日々は、もう終わった。
唇を引き結び、真っ直ぐに前を見詰める匡を、レイラは暫し見上げていた。斜陽にテラされるその横顔は、最初に出会ったときのような脆さを孕んではいない。まるで迷子の子供のような、何もかもに怯える野良猫のような――決意の元に足を進める彼にその表情を重ねて、唇を持ち上げた。
「うん、きっと伝えられるヨ」
男の眼差しが、緩やかに娘を見る。絡んだ視線の向こう、匡はおずおずと口を開いた。
「……な、レイラ」
「大丈夫」
――その先は、もう分かっていた。
「いつも隣で照らすヨ、ってちゃんと言ってるでしょ」
今度はこちらから手を伸べた。彼の前へと軽やかに足を進めて、角灯は笑う。
幸せになることは痛い。きっとこの痛みを、ずっと忘れることはないのだろう。心に巣食った罪過と寂寥は、この先に描くどんな夢にも、少しずつ這入って胸を締め付ける。
けれど。
それを分け合って、互いの幸福をひとつに重ねて、生きて行くと決めたのだから。
「届けるためにも、一緒にいこう?」
レイラだって――彼の痛みを背負いたい。
伸ばされた指先に、大きな手が重なる。しかと握ったそれを、小さな掌が握り返す感触に、匡は柔らかな声を零す。
「――ありがと」
刷いた笑みは今度こそ、何の鎧も纏わなかった。
大成功
🔵🔵🔵🔵🔵🔵
ジャガーノート・ジャック
○
(特撮ヒーローのポスターが貼られた部屋。テレビに繋がれたゲーム機。対戦ゲーム。三本勝負で一勝一敗の中、隣の金髪赤眼鏡のやんちゃ小僧が何かを思いついたように話しかけてくる。)
『いいじゃん、コードネーム。つまり名前がダメならコードネーム使えばいんだ!!』
(原風景だ。僕が初めてそう呼ばれた時の、記憶そのままの。)
『…………あ、こんなのど』
「"ジャック"だろ?」
(君が呼ぶ前に、自分から答える。男らしく、兵士らしい名前と、君がつけてくれた名前だ。)
「──今でも大事にしてる、君がくれた名前だ」
(そう言いながら、あの日とは違って、"三勝目を僕が手にする"。それと同時に、過去の原風景が解かれゆき)
(感傷だよな、と思いつつ)
「……君は確かに僕を救ったよ」
(英雄に憧れた君に、あの時は会えなかった感謝を捧ぐ。)
「有難う、僕の英雄。──じゃあね、"ハーレー"」
(ヒーローとして、君が呼ばれたかったと言っていた名前を言って──それで幻の原風景は解かれるだろう。)
(ザザッ)
──先に行こう。
匡の為にも。
●
懐かしい部屋だ。
蝉の声が煩い。日差しと湿気で蒸した箱の壁に、でかでかと貼られた特撮ヒーローのポスターが、いかにもビビッドな色合いで熱を伝えてくる。どこか雑然とした雰囲気と、無造作に引き裂かれたポテトチップスの袋の背面が、如何にも部屋の主の性格を表していた。
ジャガーノート・ジャック(AVATAR・f02381)の――。
――その『乗り手』の少年の眼前には、ゲーム機がある。
端末一つでプレイ出来るゲームが氾濫する今からしてみれば、これもレトロということになってしまうのだろうか。使い込まれた機器の配線が、迷いなくテレビへ伸びている。その向こうにあるのは、当時は盛んに宣伝されていた格闘ゲームを映した画面だ。
ルールは三本先取。一勝目をハメコンボで少年が奪い、二勝目は駄弁っているうちに相手が取った。
続く言葉は――。
ひどく覚えのあるものだった。
『いいじゃん、コードネーム』
ポーズボタンが押される。あと一カウントで勝負が始まるところで止まった画面に応じて、少年の方はポテトチップスに手を伸ばす。味は『小学生』にとっては王道のコンソメパンチだ。
隣に座ってコントローラーを握った同い年の少年は、赤縁の眼鏡の奥から、さも良いことを思いついたとばかり、友人である少年を見た。跳ねた金の髪がふわふわと揺れるたび、旧懐が胸の底を過って、小さな爪を立てていく。
『つまり名前がダメならコードネーム使えばいんだ!!』
――ああ。
そうだよな。君はそんな顔で笑ったんだ。さも閃いたとばかりの声で、御大層な秘密計画でも思いついたみたいに。
画面の中のヒーローと、歴戦の傭兵を交互に指差して――。
『…………あ、こんなのど』
「"ジャック"だろ?」
少年は。
否。
『青年』は笑った。
「──今でも大事にしてる、君がくれた名前だ」
きょとんと瞬く少年が、いつか付けてくれたコードネーム。男らしく、己の好きな兵士らしい名前だとくれたそれを、青年は今でも使っている。
本当は騎士だ、騎士も兵士も変わりない、高級ブランドと間違える奴に言われたくない、英雄みたいで格好いい――。
続くはずだった他愛のないやり取りが、再び響くことはない。よく分かったな――なんて驚く少年の声に笑いかけ、青年の手がポーズボタンを解除して、三戦目が始まる。
あのときは――負けたのだっけな。
今回はそうはいかない。素人の小学生の操作などたかが知れていて、高校生になった青年の敵ではない。
いとも容易く三勝目をもぎ取った青年の目の前が、ふいに歪んだ。
運命は覆る。永劫に回帰するはずの今日は終わっていく。初めてこの名を手に入れた日の原風景が、親友を残して少しずつ崩れ去っていく。
ポスターのヒーローが歪んだ。
それが――。
ひどく胸裡を刺すのもまた、きっとただの感傷だと、分かっている。
ずっと独りだった。それを嫌なことだとも思っていなかった。空っぽの日々は空っぽなりに過ぎていくものだと、ずっと幼い頃から理解していた。多少の我慢は必要だったが、代わりに破滅的に心を揺らがされることもない。
それが寂しいことだと分かっていても、呑み干すしかなかった。
そういう日々に差した一条の彗星が、目の前で鬱陶しいほど尾を引くまでは。『いじめられっ子のシズカちゃん』を、『ジャック』に変えるまでは。
「……君は確かに僕を救ったよ」
ヒーローに憧れていた。
いつか絶対になってやるんだと言っては、殆どフィクションも同然のテレビを指差して熱く語った。世界を救うテレビゲームの主人公には自作のヒーローネームを使って、心底楽しそうにプレイしていたのを覚えている。
けれど。
世界は救えなくても、子供たちの味方にはもうなれなくても、そのヒーローネームが誰かに呼ばれることもなくても――。
「有難う、僕の英雄」
――彼はずっと、たった一人のヒーローだ。
続いたはずのやり取りで、興奮気味に伝えてきたそれを呼んで、照れ隠しをした日を思い出す。不意打ちに揺さぶられて一本を取られて、ムキになって呼ぶのを止めて、そうして。
――その名前はオレが堂々ヒーロー名乗れるまでお預けだな!
あっけらかんと笑いながら言った言葉を、よく覚えている。
だから呼んでやろう。君はもうヒーローを名乗れる。堂々と胸を張って、孤独な誰かを照らす彗星になったのだ。
「──じゃあね、"ハーレー"」
真っ直ぐに見詰めて、呼ばれたかったという名を呼べば、歪んでいく風景の中の少年は無邪気に笑った。
後には、『ジャック』だけが残っている。
ノイズ混じりの赤い光の先で、焦げ茶色の眸が空を見上げる。揺らいでいく夕景の先に続く道へと、迷いない一歩を踏み出した。
君のくれた名前は――。
『兵士』ではなく、本物の『騎士』のそれとなったから。
ジャックはもう、己の目的のためだけに戦っているわけではない。
「──先に行こう」
約束がある。告げられたことがある。それを果たして、守るべきものを守らねばならない。この身に出来る最良の手助けを、今より死地へ挑む兵へと成さねばならない。
心臓に右手を当てる。暫しの瞑目ののち、『騎士』は歩き出した。
大成功
🔵🔵🔵
クロム・エルフェルト
○
はて、何時の間に私は剣狐の庵に帰ったのやら
否、これは私が手を加える前の住居
在りし日の、大胡秀綱の庵と剣道場
夕刻、板張りの床を磨いているのは
弥吉あに、虎千代あに、菊之丸あに
久次郎あには、嗚呼、また姑息な手を使って怒られたか
頭にたんこぶが出来ている
庵の奥で剣の手入れをしているのは
……
お師様。今、帰りました。
昔をなぞるように武芸者の心得を聞きながら夕餉を頂く
・剣は己の心を映す鏡
・剣は己の対等なる伴
・『己が信ずる剣に身を委ねれば』、其れは一拍速く敵に届く
記憶から零れ落ちていた真髄への手掛かりも聞けた
名残惜しいけれど、此の身は猟兵ゆえ
そろそろまやかしの日常に別離を告げねば
祭具と思しき悪趣味な燭台を斬る前に、一つ
お師様。骸の海に堕ちた者は
どうあっても、止まらぬのですか。
嘗ての日常には無かった私の問いにどんな反応が返るか
そんなの判り切っている
何でも無い事のように小さく、痛々しく笑って
然り――なればこそ止めて見せよ
クロム、御前がもののふであるのなら
剣聖と謳われた貴方様は、屹度そう返すのでしょう
●
瞬きの後、足が地に着く。
眼前には見慣れた光景が広がっている。クロム・エルフェルト(縮地灼閃の剣狐・f09031)が今も暮らす庵そのものだ。さていつの間に戻って来たか――一人首を傾いだ彼女は、ふいにかの地の違和に気付いた。
煙が立ち上っている。
夕景の中に緩やかに立ち上るそれは、久しく見ていない夕餉の香りを伴っている。よくよく見れば、クロムが修繕を続けている最中だったそこに見慣れた傷や汚れは残っていない。障子の向こうから漏れ出でる灯りが、住まう人の気配を伝えて来る。
これは――。
彼女が独り遺される前の庵だ。
剣聖大胡秀綱――上泉武蔵守信綱が弟子とともに暮らした、在りし日の剣道場である。
滑らかに動く扉を開く。土間から上がり、ひんやりとした板張りの感触を足の裏に感じながら、クロムは忙しい足音を聞いた。四人分のそれを覗けば、予期したとおりの光景が広がっている。
掃除もまた修練の一つだ。雑巾掛けは足腰の訓練にもなるし、自らが使う場を清めることは心を研ぎ澄ませることに繋がる。叩き込まれた心得に、誰も不服を申し立てることはなかった。
四人の男たちが、並んで板張りの上を駆けている。あにと呼んで慕った兄弟子たちを忘れようはずもない。めいめいの速度で雑巾に体重をかける彼らの顔を、クロムはじっと見詰めた。
――弥吉あには今日も面倒くさそうだ。飄々としているようで面倒見の良いあなたは、こういう雑事を厭うようでいて、決して跳ね返したりはしない。腰に佩いた風車が、風に吹かれてくるくると回る。虎千代あにと菊之丸あにがその後ろを追いかけているのも、いつものことだ。
そうして、少し遅れて走ってくるのは。
久次郎あに――。
クロムの唇が一文字を描く。自身のために姑息な手を使うことを厭わぬ人だった。それを師の慧眼が見抜けぬはずもなく、いつも正座をさせられてはこっぴどく叱られて、拳骨を思い切り喰らっていた。幼く弱い石子を蹴って嗤った彼は、最期までその性根を改めることはなかったと思い出す。
それなのに、きっと怨み切れはしていないのだ。
唇を尖らせながら、渋々雑巾を握っている彼の存在すら懐かしい。その横を通り抜け、剣狐はしゃんと伸ばした背で庵の奥を目指した。
そこに座っているはずだ。いつものように刀を一心に見詰め、ともすれば稽古以上に神経を研ぎ澄ませ、真っ直ぐに背筋を伸ばしている――。
「お師様」
――じいじ。
「今、帰りました」
夕餉の挨拶は全員が揃える。頭を下げて、汁物から頂くのが作法だった。
低く、しかしよく通る師の声が、武芸者の心得を口にする。明らかに拗ねた様子の久次郎を除いた兄弟子たちは、じっとその声に耳を澄ませていた。クロムもまた、兄弟子たちのように師の言葉を呑み込むが、その裡に過るものは旧懐の疼痛に似ていた。
いつもこうして、師は教えてくれたのだ。
一つ、剣は己の心を映す鏡である。
二つ、剣は己の対等なる伴である。
三つ――。
『己が信ずる剣に身を委ねれば』、其れは一拍速く敵に届く。
記憶の底に眠っていた最後の教えが、鮮やかに蘇った。真髄へ至る手掛かりを、今度こそ取り落とさないように心に刻む。
夕餉が終われば自由な時間だ。全ての灯りを落とすまで、めいめい好きなことをして過ごせるようになる。
――立ち上がったクロムが向かうのは、部屋の隅だ。
ひどく悪趣味な燭台である。西洋的なつくりが、畳張りの内装の中で異様に目立つ。古びて脆くなったそれの急所を見破ることなど、易いものだった。
名残惜しくは――。
ある。
もう戻らぬと知っている。あの日に全てを斬り払う骸の理に身を浸した師と、血に塗れた道場の床と、動かぬ足の感触を得たときから。たとえ望んだところで、永劫帰らぬ穏やかな日々であるとも。それでも目の前に在れば疼痛は過る。懐古はすぐに、剣豪たれとするこの心の柔らかいところに突き立つのだ。
それでも。
――それでも、クロムは猟兵であるがゆえに。
「お師様」
後方に座るそのひとを呼ぶ。持ち上げた刃がこのまやかしを斬る前に、一つだけ、聞いておきたいことがあった。
柄を強く握る。唇を噛み締める。何も知らずにいた頃より伸びた上背に、優しい眼差しが刺さるのを感じた。
「骸の海に堕ちた者は、どうあっても、止まらぬのですか」
そんなことを――。
彼といた日のクロムは知らない。だから、師に直接問うたことはなかった。
それなのに分かってしまう。
彼が一体どんな顔をしているのか。その声音がどんな色を帯びるのか。返る答えが何なのか。振り向かなくとも、訊かずとも――。
「然り」
躊躇のない頷きと共に。何でもないことのように。厳めしく、優しく、それなのにどこか痛々しい笑みで。
恩人は。師は。父は。祖父は。
剣聖は――。
「――なればこそ止めて見せよ。クロム」
御前がもののふであるのなら――。
強く奥歯を食い縛った。頷きの代わりに剣戟で応じる。いつか教わったように。いつか、そうするために磨いた活人の刃で。
剣客斯く在る可し。
斬り払った燭台が二つに割れる。刃を納めたクロムの前には、敬愛した人の背も、共に剣術を磨いた兄弟子も、何もない。
ただ――夕景だけが、彼女を照らしている。
大成功
🔵🔵🔵
ウィータ・モーテル
〇△
……本当なら、失われた街のヴィータ。私の、故郷。
在りし日の故郷の街の人達が、笑顔で挨拶してくる。その中には……
"お父さん、お母さん……!"
いるはずがないことは分かってる。でも、でも、街が壊滅する瞬間まで傍にいた2人が笑ってる。手を振ってる。
もう一度会いたかった。どうしても、どうしても会いたかった。
分かってる、けど、ごめんなさいって言いたいの。お父さんとお母さんを、街の皆を、助けられなくて、ごめんなさいって。
……泣くところだけど、泣けない。ユランとの約束だから。でも、思念でめいっぱい伝えるよ。
この日は、両親とピクニックをする日で……私の誕生日だったなぁ。
お母さんが作ってくれた手袋をはめて、お父さんが青いケープを羽織らせてくれたあの日。
本当は幼少の頃のことで、私の力が分かる前に行った、一番楽しい思い出。
街の美味しいフルーツを使って、お母さんが作ってくれたフルーツサンドを頬張ったっけ……
「ウィータ、そろそろ行こ。幻を幻と分かっている間に」
……うん、そうだね。
お願い、祭具を壊して。ユラン。
●
懐かしい。
まず最初にそう思った。形の全てを喪った街の、活気づいた姿がそこにある。行き交う人々のただなかに佇んだウィータ・モーテル(死を誘う救い手・f27788)は、ほんの小さく瞬いた。
――ヴィータ。
それが、この街の名前だった。
今だって忘れたことはない。入り口を潜れば、賑やかな市街地に繋がっている。中心地には神殿があって、穏やかな老齢の神官長が出迎えてくれるのも。それから――。
それから。
ウィータの目の前で、この街が瓦礫に変わったのも。
あのときにはいなかった黒猫を傍らに連れ、少女はゆっくりと足を進める。ゆらゆらと尾を揺らした猫の赤い目を見遣り、彼女は小さく笑って見せた。
道を渡ればすぐに顔見知りの住人たちが声を掛けてきた。一様に笑顔を見せ、ときにウィータの名を呼んで手を振ってくれる。思念と掌でそれに応じる彼女は、鮮烈に蘇る故郷の思い出に身を浸しながら、深く息を吸う。
ふいに――。
誰かに名を呼ばれて、少女は目を開けた。
浅い瞠目と共に足が止まる。呼吸が知らず浅くなった。誰よりも会いたくて、何よりも愛していた人影が、呼吸を止める前の姿でそこに立っている。
――お父さん、お母さん……!
これは幻だ。
分かっている。分かっているのに、ウィータはどうしても、逸る足を止められない。最期の瞬間にまで彼女を守ろうと抱き締めてくれた二人。街が瓦礫に変わるその瞬間まで傍にいてくれた、大切な両親。血色の良い肌と、柔らかく呼吸する胸元が、どうしようもなく懐かしかった。
駆け寄ってきた娘を、父は優しく抱き留めた。母の手が頭を撫でてくれる。愛おしむように。幼い日にそうしてくれたように。
もう一度会いたかった。たった一度だけでも良かった。感謝も懺悔も後悔も、何一つ伝えられないまま命の灯火を喪った二人に、言いたかったことがあった。
――ごめんなさい。
込み上げてくるはずの嗚咽は喉の奥に留まる。涙は決して零れない。それが足許にいる黒猫との――この街が壊れ果てて後、か弱い少女を死の運命より救ったモノとの約束だ。
――お父さんとお母さんを助けられなくて。
助けたかった。いっとう手を届かせたかった。混濁する意識の中、崩落の音が耳許を埋め尽くす直前に聞いたのは、彼らがウィータを呼ぶ声だった。
――街の皆を助けられなくて、ごめんなさい。
そのためにいるのだと思っていたのに。今だってそう思っているのに。生まれながらに宿した光は、誰かを癒やし、救い、傷を塞ぐためにあったのに。届かせようと伸ばした手は小さすぎて、何もかもが目の前を通り過ぎてしまった。
誓約の対価として出せなくなった声と変わらなくなった表情の代わりに、思念で目一杯の謝罪を告げた。父の手が背を叩いてくれる。母の手がそっとウィータの顔を包んで、そっとその手を引いてくれる。
ああ――。
そうだった。
今日はウィータの幾度目かの誕生日だった。それを祝うためのピクニックの予定があったのだ。連れられるまま家に帰れば母の用意した弁当箱があって、父の手が青空のようなケープを羽織らせてくれるのだろう。
自室でいっとう大事なものを入れているところには、お気に入りの手袋がある。母が作ってくれたそれを小さな手に嵌めて、未だ宿した光のことを知らない彼女は、二人と手を繋いでゆったりと街を抜けていったのだ。そうして小高い丘の上で、母の手料理を前に目を輝かせたのだっけ。
街で一番美味しいと評判の店で買ったフルーツ。それと生クリームをたっぷり使って、柔らかな生地で挟んだフルーツサンドだった。今だって、その味をよく思い出せる。
それくらい――。
大切な思い出だった。楽しくて、嬉しくて、幸福な――誕生日だった。
けれど。
「ウィータ」
足許の猫が名を呼んでいる。
「そろそろ行こ。幻を幻と分かっている間に」
そうだ。これはただの過去の投影に過ぎないのだ。最も幸せで、最もよく知る、『日常』と呼ばれた特別な毎日の幻影。
このまま呑み込まれてしまえば、永劫にこの平穏が続くのだろう。感傷の波濤は、ときに容易に心を掬って押し流してしまうから、きっといつか忘れてしまう。
救えなかったひとたちのこと。
救うべきひとたちのこと。
今も暗闇の中で泣いているはずの、この世界の誰かのこと――。
ウィータはそれを許せない。己の存在意義を、慙愧を、意志を――裏切ることは出来ないから。
――……うん、そうだね。
どれほど名残惜しかろうとも。もう一度、あのフルーツサンドを食べたくとも。
母の手を静かに離す。父を真っ直ぐに見詰める。その向こうにある、奇妙な形をしたオブジェを見透かしている。
行かなくては――いけないのだ。
父と母に首を振って、もう一度だけ『ごめんね』を告げる。足許の黒猫を見る眼差しには、もう迷いも感傷もない。
――お願い、祭具を壊して。ユラン。
黒い影が迸る。
鳴り響いた音とともに、全てが掻き消えて、そして――。
残るのは、煌々と照らす夕焼けの、鮮烈な赤のひとつだけ。
大成功
🔵🔵🔵
百鳥・円
〇
――しらない景色。のはずなのに
わたしは、この景色をよく知っていた
賑わう街に、浮き上がる和装の人物
眼前を歩む背高の金糸には覚えがある
さらさらとした髪は、紛れも無く父たる男のもの
浮かび上がっては拡がる、焦げ付くような想い
焦がれ、拗れ、どろどろに煮詰まった痛切な想い
何と重々しくて、痛々しいこと
お前たちも感じるでしょう?
累、……かさね?
共に在るはずの“妹”は、そこに居なくて
代わりに自分自身の髪色と背丈の違和に気付く
ああ、なるほど
そういう事か、と静かに納得です
幻の内側も、このUDCの世界も。貴女の掌上なのだから
わたしの姿が変わったって、可笑しくは無いですね
喧騒に紛れるように歩む人の背を追う
浮き足立って、小走ってしまうような心持ちです
これが……貴女の幸せ、だったんですね
暫くは世界の理に従っていましょう
貴女の心は、決して満足なんてしないでしょうけれど
ずっと、此処には居られない
いつの日にか貴女を解放するためにもね
祭具を見付けて破壊すれば
何もかもが、いつも通り
おかえりなさい。累
何です? その不満げな顔は
●
奇妙な心地が喉元まで迫り上がっていた。
こんな景色は、百鳥・円(華回帰・f10932)の記憶にはない。だというのにひどく懐かしく、心の底から浮き足立つような気分で心が弾む。まるで己の思い通りにならないそれに僅かに眉根を寄せて、彼女はじっと前を見詰めた。
少し前を歩む背がある。他の誰しもが洋装を纏う中で、彼一人だけが異質に浮き上がっていた。上背のある姿。彼岸花の和装。金の髪。前に回れば、その片目が隠れていることもすぐに分かることだろう。
円の――父であり。
この胸に宿した邪神(ひと)に、手を差し伸べた夢魔(ひと)。
心臓が軋む。鼓動が跳ねる。どこまでも走ってゆけそうのなのに、この場に縫い付けられてしまったかのような、鮮烈な想いが体を支配する。胸の裡を灼く焔が臓腑をも焦がすようだ。脳裡までもが溶かされてしまいそうな熱。同時に感じるのは、体を切り裂くような冷えた痛み。そのひと以外の何もかもが見えなくなって、その背から視線が離せなくなる。今すぐに追いつきたい。追いついて、その手を引いて、そして。
逃げてしまいたい。どこまでも。
これが――。
この痛みこそが。
『彼女』の懐いていた想い――その成れの果てであるという。
「お前たちも感じるでしょう? 累」
――返事はない。
「……かさね?」
振り返った先に、いつでも傍にいるはずの『妹』の姿はない。代わりに目の端を過った重々しい黒髪に、円は全てを悟った。
ずっと彼の背に釘付けになっていた視線を巡らせる。普段の彼女の視界とは全く違うそれが、現状を何よりもよく伝えてくる。
そういう――ことか。
幻とは白昼夢のようなものだ。ましてこの世界が宿した歪であれば、なおのこと『彼女』の領分になるだろう。
ここに立つ円は、『円』ではない。
その表現すらも正しくはないだろう。今の彼女が真に『彼女』の――百に散った『母』であるならば、こうまでもはっきりと思考することは出来ないだろう。
欠片だ。
中核を成す欠片として、彼女はここに立っている。生まれ持った姿形の全てを覆い隠すような、念入りな化粧を剥がされて。使命に反し持った自我を残されたまま、『母』を追体験しているにすぎない。
滑らかな金糸が少しずつ離れて、人混みに紛れていく。その背を追って歩き出した足は、やはりひどく軽い。
黒い髪が揺れる。青いリボンを施した、シンプルな白いワンピースの裾が翻る。手にした鞄は少しだけ古びていた。どれもこれも円の好みにはそぐわないが、手放そうという気にはならない。
知らないうちに息が上がっていた。近付くにつれ口角が持ち上がるような心地がする。軽やかな足が、まるでステップを踏むように彼を目指す。その背に振り向いてもらおうと、手を握ろうと――それ以外のことが考えられなくなっていく。
ああ。
これが――幸福だったのか。
他愛のない日常だ。笑ってしまうくらいに。誰しもが心の奥底に願う想いと何ら変わりない。
その目が自分を捉えてくれるだけで良い。
隣を歩いていられるだけで良い。
手を繋いで。笑い合って。言葉を交わして――そういう日々が、永遠に続けば、それだけで――。
だが。
円は知っている。この平穏は永劫にはならなかった。そも、永遠などありはしない。万物は何れ終わりを迎え、そしてまた廻る。甘やかな夢ほど長続きはしないし、そのくせ求められる代償は重い。
彼女こそが、それを振り撒く側だからだ。
それでも今は、胸の底の『母』を――この世界の理を違えることはしない。幾度こんな幻影を重ねようと、こうして代替の口を使って声を交そうと、裡側の熱が満ちるときなど来ないのだとしても。決して手に入らぬ彼は、二度とこの先を伴に歩めぬ彼は、追憶の慰みの他に何も齎さないとしても。
歩みは緩やかだった。きっと父の方が、母に合わせているのだ。込み上げた温度が破顔を生み、また新たに巡る熱を作る。
そうしていつまでも続くはずだったお喋りは、『円』の意志によって止まる。
マネキンがある。百鳥・円の好むような服を着せられていたから、余計に目が留まった。
否。
あれは『百鳥・円』だ。
長い髪を模したウィッグ。この世界にあるはずのない、獣の特徴を持った耳と角が付いている。顔の描かれていないそれは、きっと服を着せられる以前は祭具として扱われていたのだろう。
『彼女』の幸福を断ち切るために、『己』を壊すように仕向けたか。
全く――皮肉なことである。
それでもここにはいられない。母にとって真の意味での救いはここにはないのだ。いつかこの胸の底から鎖を解き放つことこそが使命なれば、それを違えることなど出来はしない。
甲高い音がして――。
マネキンが割れる。燃えるように服が解ける。幻影が掻き消えると同時に、揺れた髪が亜麻色を取り戻す。異彩の虹彩を瞬かせて振り返れば――。
「おかえりなさい。累」
先の円とよく似た姿をした、『妹』がいる。
その顔があまりにも如実に不満をぶつけてくるものだから、自然と唇が持ち上がった。和やかとは言い難い空気もいつものことだ。
「何です? その不満げな顔は」
妹は答えない。代わりのように降り注ぐ斜陽が、一人分の影を落とした。
大成功
🔵🔵🔵
シキ・ジルモント
○
…よりによって、この場所か
祭具を最優先で探し破壊する
一刻も早くこの『一日』から脱出する為に
映し出されたのは、子供の頃に過ごしたダークセイヴァーの貧民街での一日
故郷とも言える場所ではあるが、あまり良い思い出は無い
両親が死に、妹が死に、仲間と信じた者に裏切られた場所
ひとまず辺りを歩きまわってみる
いつも腹を空かせて食べ物を探し歩いた街は、記憶の通りの酷い有様で気が滅入る
祭具を探して、孤児の溜まり場だった場所にも足を運んでみる
片隅の物陰に箱を隠して、大切な物をしまっていた事を思い出して
祭具を探す内にかつての仲間達の姿を見つけたら、反射的に物陰に身を隠す
昔の自分なら迷わず仲間に駆け寄っていただろう
そう遠くない未来、彼らに手酷く裏切られるとも知らずに
呼吸が乱れる理由は、怒りか、それとも恐怖か
処理しきれない感情を祭具にぶつけるように破壊する
…こんな感情の制御すら苦労するのだから
あいつらが言ったように、凶暴な“化け物”というのも否定は出来ないか
そんな下らない考えが浮かぶ程、苦い過去を思い出し調子が狂う
●
――よりにもよって。
暗渠の中に立ち尽くしたまま奥歯を噛み締める。二度と訪れるまいと思っていた、心の底に澱む濁流の源流を、白昼夢に見せられてばかりだ。
シキ・ジルモント(人狼のガンナー・f09107)にとっての故郷は、そんなものだった。
モノもカネも愛もない街。代わりにあるのは謀略と汚臭とゴミの山だ。暖かい家も旨い飯も、死病を治すための薬さえ手に入らない、この世の最果てだった。
両親は弔いもされない骸の山に加わった。唯一の肉親となり、守るためにと奔走した妹も、冷たい床に敷いた薄い布団と襤褸の毛布に包まって息を止めた。残った心のよすが――共に助け合うのだと信じた仲間との絆でさえ、何のことはない幻でしかなかった。
そんな場所に――。
長居をしたくはない。まして永劫に閉じ込められるなど耐えられようはずもなかった。
自ずと急く足で、いつか歩いた道を辿る。つぶさに巡らせた視線と研ぎ澄ませた聴覚は、一刻も早く違和を見付けるために忙しなく動いた。あのときよりもずっと大きくなった歩幅と、あの日と違って飢えていない腹は、幸いにもシキの味方になってくれる。
あの頃は、大抵いつもこうして歩いていた。
本来ならば食べ盛りだったはずの少年時代のことだ。極力動かずにいたところで、代謝は落ちぬし腹は減る。辛うじて手に入る腐りかけの食物では胃を満たすには到底足りず、彼は満腹の夢を見ながら、この街を彷徨していた。
――そう都合良く行くのならば、父も母も妹も健在であったろう。
無数に飛び回る蝿がたかっているのは、最早屍肉と見分けも付かない人間だ。死期が近い者の饐えたにおいを、奴らはよく嗅ぎ当てる。その横に転がっているのは野菜屑だろう。痩せた大地で育った小さな野菜たちの可食部は、とうに掠め取られて誰かの胃に収まっているに違いない。
そういう暮らしを――生きているとは言わない。
死なないようにしていただけだ。生命活動を維持することと、人として生きることは別である。ここでは前者こそが至上の価値観だった。倫理も道徳も、盤石な生があって初めて機能するのだ。
知っている。
知っていても、気は滅入る。
ひどいにおいから距離を取るように、シキは視線を逸らした。余計に足早になる歩調は、未だ祭具と思しきものを見付けられない。苛立ちにも似た焦燥を抱えながら、導かれるように辿り着いたのは、よくよく見慣れた光景だった。
孤児の溜まり場である。
幸いにして孤児らは留守らしい。見渡したそこは随分な襤褸屋だったが、シキにとって最も息の吸いやすい場所だった。
――あの日までは。
薄く影を落とす脳裡を振り切って、男の視線が巡る。とうに朽ち果てた誰かの生活の痕跡は、あばら屋に幾つかの物陰を作った。そのうちの一つに、小さな箱がしまってある。
何の役にも立たない箱だ。それそのものに価値はない。だから誰にも見咎められなかったし、誰も欲しがりはしなかった。
そういうものの方が、都合が良かった。
ひどく些細な小物入れだ。シキにとって大切なものを少しずつ貯めて作った、幼い日の宝箱である。傷付いたときや心の打ち沈んだときには、それを開いて慰みにしていたことを思い出したのだ。
さりとて見渡しただけでは祭具らしきものは見当たらない。やはりどこかに紛れているものかと、男が抽斗に手を伸ばしたときだった。
――扉の開く音がする。
反射的に物陰へと身を潜めた。息を殺してそばだてた耳が、拾いたくない音を拾ったことに後悔した。
どやどやと戻ってきたのは少年たちだ。どうやら今日の計画を遂行し終えたらしい、武勇伝の如く語る台詞が聞き取れる。未だ黄色い、無理に大人びたようなその声に、シキは知らず呼吸を噛み潰した。
嘗て――。
何も知らなかった己であれば、躊躇なく立ち上がっただろう。そうして笑いながら、彼らの中に飛び込んだのだ。おかえり、だの、今日は何をしたのか、だの、そういうことを訊いたはずだ。
今は。
呼吸が乱れる。体が震える。心の底から込み上げる煮え滾るような思いには覚えがあったが、それが何なのかは掴む前に千切れてしまう。
最後に聞いた声と言葉を思い出す。追いかけてくる足音までもが鮮明に聞こえるようだ。奴らはいつからあんなことを思っていたのだろうか。無邪気に奴らを信じ、駆け寄ってくるシキを内心で嘲笑っていたのか。
或いは――最初から。
頭の奥が白んで弾ける。噛み殺した呼吸が咆哮に変わる前に銃を抜いた。隠れた表紙に強く揺らしてしまった宝箱へ、躊躇なく銃口を向ける。
――そこに、錆びたナイフがある。
こんなものを入れた覚えはなかった。反射的に引いた引鉄と共に銃弾が弾ける。腐食した金属が割れると同時、光景が揺らいで消えていく。
夕焼けの真ん中に――。
立ち尽くして、深く息を吐く。
制御出来ぬ感情は、戦場では容易に身を滅ぼす。それを知っていながら、彼の理性はその全容を掴むことすら儘ならなかった。
それこそが証明であろうか。彼らが呻くように残した言葉の。
人ではない獣。理性なき凶獣。凶暴な、理性のない、ただの『化け物』――。
それも否定できまい。
『たかだかこんな感情』に――呑まれるようでは。
強く頭を振って、己の思考を振り払う。額に当てた掌がひどく冷たい。震える息を深く吐きながら、男は独り俯いた。
夕景の照らす道だけが、それを見送っている。
大成功
🔵🔵🔵
朧・ユェー
【月光】○
えぇ、一人で大丈夫ですか?
この子も立派な戦士だ
だがやはり心配なのは心配
えぇ、後で会いましょう。約束しますよ
抱き締める彼女を撫でて
彼女を見送った後、自分も中へ
小さな祠
家でも無いその中で母親らしい女性と二人
今日も1日が始まる
一日?僕に俺に一日などあっただろうか?
上流貴族の吸血鬼だった女
花よ花よと何不自由なく育てられた箱入り娘
そんな人が愛した一人の男
白銀の髪に金瞳が鮮やかな美しい男だったらしいまるで王子様みたいだったと
女性はその男の話しを夢物語の様に語る
いや…その男のそっくりな俺をその男だと思い込んで想い出を語っているのだ
この祠で暮らし
男は子が出来、産む前に何処かへと消えた
まだ語ってる間はいい、俺をその男の様に愛して、くれるから…
でも俺が違う者だとわかると
狂った様に暴れ出す
お前は要らない、欲しいのあの男だけ
罵倒と暴力で
彼女は暴れ疲れて眠りにつく
起きたらまた忘れた様に
また1日が始まる
愛してるわ
小さな少女の声
その声に何の躊躇無く祭具を壊す
あの子は大丈夫でしょうか?
僕を愛してくれる娘の元へ
ルーシー・ブルーベル
【月光】〇
この中に入るのね
大丈夫よ、ゆぇパパ
また後でお会いしましょう
約束よ!
ぎゅぅっとハグしてから鳥籠へ
――朝、
ブルーベル家の寝室に
使用人が朝食を運んでくる
また人が変わった
まるでわたしと親しくさせない様に
顔を確りと覚えられない様に
――午前、
レイラお母さまのお部屋に行きたかったけれど
熱を出してしまわれて中止
寂しいなんてワガママね
ララ、行こう
お庭に青い小さな花が咲いてるの!
――昼、
食堂で食事
席には他に誰もいない
使用人達に「いっしょに食べよう」と言ったらダメだって
デザートはまた、キャロットケーキだった
――午後
お父さまが帰ってる!
言いつけを破って廊下を走って
「おかえりなさい」と言った
怒られなかったけど
返事も無かった
聞こえなかったかも?
白手袋に包まれた手に指先を伸ばす
読んだ絵本で親子が手をつないでいたから
お父さまは手を払って、それから――
嘗ての1日
今なら分かる
わたしは
こうして凍えていった
今は分かってる
わたしの裡で雪解けが始まっている
春の温もりをもう識っている
祭具を壊し
ララ、行こう
パパが待ってるわ!
●
「この中に入るのね」
「えぇ」
開いた鳥籠の扉の向こうで、何か渦巻くような心地がする。
その向こうをじっと見詰めたルーシー・ブルーベル(ミオソティス・f11656)がスカートの裾をぎゅっと握るから、朧・ユェー(零月ノ鬼・f06712)がちらりと彼女を見た。
「一人で大丈夫ですか?」
――彼女とて一人の戦士である。
潜ってきた修羅場は数知れぬ。ともすればそこらの男よりもずっと勁(つよ)いと分かっていても、ユェーにとってのルーシーは――『ララ』は、大切な娘だ。
父と呼び慕うその人が、暖かな眼差しで見詰めてくれる。その奥にある心配の色を鋭敏に察知して、少女は殊更大きく頷いた。
「大丈夫よ、ゆぇパパ。また後でお会いしましょう」
約束よ――迷いなく飛びついた胸に、やっぱりまだ腕は回らない。それでも出来る限りの力でぎゅっと抱き締めれば、大きな掌が頭を撫でてくれた。
「えぇ、後で会いましょう。約束しますよ」
離れて、もう一度視線を絡ませて。弾かれるように走り去る少女が、最後まで笑って鳥籠の中へ消えていく。
その金糸の一本までも見えなくなってから。
ユェーもまた、幻想の裡へと沈んでいく――。
●
祠だ。
家とすら呼べまい。眠り、起き、それなりに命を繋ぐためだけの場所だ。大した家財もないそこは、眼前にいる女からしてみれば随分と狭かったに違いなかろう。
彼女はユェーの母――。
らしい。
精確な話は知らない。分かっていることと言えば、高貴な血の流れる吸血鬼の姫君だったことと、愛した男がいたことくらいだ。蝶よ花よと育てられ、叶わぬことなど一つもなかった箱入り娘は、ある日現れた鮮やかな色彩の男に心の全てを奪われた。
星のような銀の髪。月のような金色の眸。美しい相貌が、彼女を迎えに来た王子のように見えたという。
諳んじることが出来そうなほど、聞き飽きた話だ。
いつとも知れぬ時の中で、幾度目かも分からぬ台詞を、女は飽きもせずに吐いている。ユェーに向けられる眼差しが遠くを捉えていることも知って、彼は固く表情を凍てさせていた。
――彼は、父だという男によく似ているのだという。
顔に触れる手は、およそ息子にそうするとは思えぬ情欲を滾らせていた。眸の奥に見えるのは誤魔化しようのない熱情だ。きっと懲りもせずに待っている。ユェーが、ユェーに投影されたその男が、甘い台詞で彼女を蕩かすのを。
母には――。
母だと言った女には、愛した男と息子の区別も付かない。
瓜二つのユェーを父だと思い込み、その思い出を幾つも語る。この祠は彼女にとって思い入れの深い場所なのだ。父だという男とともに、幸福に暮らした場所。
だが。
蜜月は長続きしなかった。彼女が子を宿し、十月十日が経つより先に、男の方が行方を眩ませた。
手に入らないもののなかった彼女にとって――それが初めての亡失だったのだろう。
それから女は狂った。狂ったのか、或いは正気の裡に憤懣が爆発したのか、ユェーには分からない。ともあれ彼が物心ついたときには、既に女はこのありさまだった。
生まれてきた息子が宿したのが彼の面影であったことは、果たして幸いであったのか。話は少しずつ先に進む。緩やかに、語られる『あなた』が消える日に近付いていく。
それで――。
ユェーは覚悟を決める。
彼女の機嫌が良いのは、思い出を口にしている間だけだ。その間だけ、彼女はユェーを愛した男だと誤想して、彼にそうしたのと同じように愛する。心の奥に確かな虚しさを去来させこそすれ、それはまだましなのだ。
誰に向けられているとしても、それが愛であるうちは。
転化のときが迫っていた。ある一時から積み重なることのなくなった記憶は何れ尽きる。尽きれば――。
気付いてしまう。目の前にいるのが、彼女の愛した男ではないことに。
向けられていた愛情は反転する。今の今まで愛おしそうに撫でていた体を、突き飛ばすように立ち上がる。己の手に欲しいものが亡い苛立ちを、衝動のままに振り上げた手と荒げた声で発散する。
――お前は要らない。
――欲しいのは、彼だけ。
およそ考え得る全ての罵声とともに、少ない家財道具が嵐の如くなぎ倒される。どこにそんな力があるのかと思うほどの強さで踏みつけられる。上がった息も絶え絶えになって、とうとう呂律さえも回らなくなった頃、髪を振り乱した彼女はようやく眠りに就くのだ。
そうして。
起きればまた、同じことの繰り返しだ。
床に倒れ伏したユェーは、痛む体を動かして天井を見る。刻まれた痛苦はいつしか諦念に擦り切れ、ただの慣習に変わった。
同じように倒れ眠る女の顔を見る。流れ落ちた汗をぼんやりと見詰める彼の脳裡に、ふいに過る声がある。
愛してるわ――。
跳ね起きる。同時に眼前を薙ぎ払った。見る影もなく荒らされた祠の内に置かれた、存在しないはずの脆い陶器が、鋭い音を立てて呆気なく割れる。
体の痛みは嘘のように引いた。所詮は幻が齎したものにすぎなかったか。今のユェーにとっては、それも好都合だった。
――行かなくては。
誰でもない、『ユェー』を愛してくれる、娘の元へ。
●
ベッドの上で、ゆっくりと身を起こす。
もう朝だ。薄暗いそこで大きく伸びをして、当主の娘は来客を待つ。いつも通りに起きられたなら、きっともうじき使用人が来るはずだ。
案の定、すぐに扉は開く。その向こうの顔を見て、ルーシーは内心で溜息を吐いた。
――まただ。
また、この時間に来るひとが変わった。この前の誰かの顔も、実のところよく覚えられてはいないのだけど、違う人だということは分かる。
あちらもこちらも、はじめては距離を取る。二言三言話が出来るようになった前の使用人とは、きっともう顔を合わせることもないのだろう。ルーシーと彼らが親しくなることは一種の禁忌なのかもしれないと錯覚するほど、入れ替わりは頻繁だ。
ゆっくりと朝食を食べたら、宛がわれた部屋を出ても良い時間。本当は母――レイラお母様のところでお話をしたかった。けれど病弱な母は生憎と熱を出していて、彼女が咳をしただけでも遠ざけられてしまうルーシーには会うすべがない。
――寂しい。
それも、ワガママだな。
沈みそうになる心を持ち上げるように、ルーシーは傍らの青い兎を呼ぶのだ。
「ララ」
さみしくない。
さみしくなんて、ない。
「行こう。お庭に青い小さな花が咲いてるの!」
手を繋いで庭に出て、たっぷり遊んでお腹が空いたら、家に戻って昼食の時間だ。
今日もまた一人しか席に着かないテーブルが、妙に虚しく見えてならない。並べられた豪奢な食べ物も、一人喉に通すと不思議と冷えて感じられて、ルーシーはたまらず周囲を見渡した。
「いっしょに食べよう」
――使用人たちは一様に、首を横に振る。
あれだけお腹が空いていたのに、待ち望んでいた昼食なのに、それだけでひどく気勢が削がれた。小さな手で握るには大仰すぎるナイフとフォークが、余計に速度を失ってしまう。
ようやく全部をお腹に入れて――。
目の前に出されたキャロットケーキに、また心が塞ぐ。
――食べなくちゃ。
――『ルーシー』は、キャロットケーキが大好きな女の子。
昼食を終えて、とぼとぼと歩いていれば、ふいに目の前に過る影があった。
その姿を見付けた刹那、ルーシーは弾かれたように走り出した。廊下は走ってはいけないし、大きな声も出してはいけないけれど、そんなことを考える気にもならない。
だって。
だってだって、お父様が帰ってる。
「おかえりなさい!」
溌剌とした大きな声だったのに、父は振り返らなかった。怒られなかった代わりに、ただいまもなかった。
もしかしたら――。
何か考え事でもしているのかもしれない。聞こえていなかったのならば仕方がないと、ルーシーはその傍に寄った。
白い手袋が目に入った。
思い出したのは、買い与えられた絵本の世界。迷子になった子供を迎えに来た親が、手を繋いで家に帰るラストシーン。それが何だかとても暖かく見えたから――。
そっと、その指先に触れようとした。
柔らかな指がしかと掴むより前に、手が思い切り振り払われる。大きな掌が明確な拒絶を示し、そして。
そしてお父様は――。
――ああ。
いつか、こういうことがあったな。
胸の奥に押し込めていた、寂しさと虚しさと痛みの日々。『ルーシー』の奥で、相応しくないものの何もかもに蓋をしてしまった『わたし』は、こうして温度を失っていった。
雪のように。
氷のように――。
でも今は違う。ルーシーには道を示してくれるひとたちが沢山いる。許して、笑って、一緒にご飯を食べて。出掛けて、遊んで、やがて氷も雪も融けて、春が芽吹くのだ。
根雪の下に隠れていた『わたし』が、ようやく笑える春が。
だから。
迸る花弁が迷わずに壊すのは、父の向こうに見える赤い花。
その刹那、全てが解ける。あったはずの一日も、あの日のお屋敷も、全てが夕焼けのあわいに溶けて消えていく。
その先に――。
長く長く続いている、小径がある。
「ララ、行こう」
抱き締めたぬいぐるみと、己の裡へと言葉を零す。いつの間にか戻ってきた青い蝶が羽ばたくのに笑いかけて、ルーシーは今度こそ、手を繋いでくれる温もりに向けて走り出した。
「パパが待ってるわ!」
大成功
🔵🔵🔵🔵🔵🔵
第2章 集団戦
『黄昏』
|
|
POW |
●【常時発動UC】逢魔ヶ時
自身の【黄昏時が進み、その終わりに自身が消える事】を代償に、【影から、影の犬などの有象無象が現れ、それ】を戦わせる。それは代償に比例した戦闘力を持ち、【影の姿に応じた攻撃方法と無限湧きの数の力】で戦う。
|
SPD |
●【常時発動UC】誰そ彼時
【破壊されても一瞬でも視線を外す、瞬きを】【した瞬間に元通りに修復されている理。】【他者から干渉を受けない強固な時間の流れ】で自身を強化する。攻撃力、防御力、状態異常力のどれを重視するか選べる。
|
WIZ |
●【常時発動UC】黄昏時
小さな【懐古などの物思いにより自らの心の内】に触れた抵抗しない対象を吸い込む。中はユーベルコード製の【黄昏の世界で、黄昏時の終わりを向かえる事】で、いつでも外に出られる。
|
👑11 |
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵 |
種別『集団戦』のルール
記載された敵が「沢山」出現します(厳密に何体いるかは、書く場合も書かない場合もあります)。多くの場合、敵は、あなたが行動に使用したのと「同じ能力値」の戦闘方法で反撃してきます。
それらを踏まえつつ、300文字以内の「プレイング」を作成してください。料金は★0.5個で、プレイングが採用されなかったら全額返金されます。
大成功 | 🔵🔵🔵 |
成功 | 🔵🔵🔴 |
苦戦 | 🔵🔴🔴 |
失敗 | 🔴🔴🔴 |
大失敗 | [評価なし] |
👑の数だけ🔵をゲットしたら、次章に進めます。
ただし、先に👑の数だけ🔴をゲットしてしまったら、残念ながらシナリオはこの章で「強制終了」です。
※自分とお友達で、それぞれ「お互いに協力する」みたいな事をプレイングに書いておくと、全員まとめてひとつのリプレイにして貰える場合があります。
めいめいの日々を映した幻影が、罅割れて消える。
その先に、先まで見えていたものはないだろう。代わりに煌々と輝く夕焼けと、その赤い光に照らされた道がある。
終点の見えない一本道の向こう側で、歪な五時のチャイムが鳴っている。鳥籠から抜け出すための帰路を示すように。
道を歩いていく間、猟兵たちを逢魔時が呼ぶだろう。それは或いは誰かの声なのかもしれないし、郷愁で袖を引くのかもしれない。通じぬとあらば肩を叩くこともあるだろう。さもなくば目の前を封じるように、足を止めさせるように、緩やかな策を張り巡らせる。工事の看板か、或いは惑わすような四つ辻のこともあるかも分からない。
けれど――。
振り返ってはいけない。応えてはいけない。決して足を止め、夕景に心を傾けてはならない。日暮れを目指して、ただ前にのみ進まねばならない。
――夕陽が沈むまで、『今日』は終わらない。
※プレイングの受付は『5/14(土)8:31~5/17(火)22:00』ごろまでとさせて頂きます。オーバーロードは現在から受付開始です。
アルトリウス・セレスタイト
○
手を変え品を変え
怪異とは容易に逃さぬということか
状況は『天光』で逐一把握
守りは煌皇にて
纏う十一の原理を無限に廻し害ある全てを無限に破壊、自身から断絶し否定
尚迫るなら自身を無限加速し回避
要らぬ余波は『無現』にて消去
全行程必要魔力は『超克』で骸の海すら超えた“世界の外”から常時供給
無明の理にて黄昏に介入
存在原理を直に崩して消し去る
金色の髪の赤い姫
その剣で姉の蒼い女性
そろそろ「よく知る」と言って良いだろう程度に付き合いも続いている
声も姿もよく知っている
止まるなという場で止まらせようとする筈もない事も
全知の原理が知らせるまでもない
芸が足りんというものだ
●
小径に差した斜陽が目を灼く。
精確に示せば、それさえアルトリウス・セレスタイト(忘却者・f01410)に干渉は出来ない。眩い紅色で世界を照らす陽光と、小径じゅうに響く不気味に歪んだチャイム――という基礎情報のみを残し、それらは彼に何らの不利益を与えはしなかった。
さりとてここから出られていないことに変わりはない。
「怪異とは、容易に逃さぬということか」
どうにも贄を欲しているとみえる。何も分からぬ一般人ならばいざ知らず、アルトリウスの方に囚われてやる気はない。
放った概念の光の全てが彼の目となり、周囲を照らす。黄昏は理外の理による干渉を知覚しないようだった。アルトリウス本人の視界には映らぬほどの先、途中から歪んで見えなくなった小径の向こうには、ただの暗渠が佇んでいる。
恐らくは――。
彼が『そこ』に近付けば、それらは一斉に姿を変えるのだろう。幻想を打ち破り、内包する邪神の脈動から逃れんとする者を永劫の夕暮れに閉じ込めるための、最後の足掻きとして。
それを叶えてやる義理もない。
アルトリウスに呼応し、理外より見えざる手が伸びる。黄昏に揺らぐ夕陽をじかに握り潰すように、それはぎりぎりと『存在』そのものを締め上げた。俄にひしゃげる小径の上で、歩き出した彼を必死に押しとどめようと、逢魔が時は足掻いた。
――名を呼ぶ声がする。
いい加減に聞き慣れたその声が、後ろから近付いてくる。アルトリウス君。アルトリウス君ってば。この子の声が聞こえないの。待ちなさい。
それでも留めぬ足を、顔を、小走りに並んだ金の髪が覗いた。少し怒ったような、拗ねたような表情を見せる赤い姫と、腰に佩かれた意志持つ蒼剣が、声を揃えて彼を止めようとする。
愚かな――。
幻だ。
アルトリウスの肩を強引に掴もうとした何かが、塵も残さず消えた。一瞥すらもくれず歩き出した彼は、無機質な息を深く吐き出す。
止まることを許されぬ場で、彼女らがこの身を押し留めようとなどするものか。真にここにいたとするなら、想定される行動は寧ろその逆だ。
留まろうとすれば背を押すだろう。止まってはならないと手を引くだろう。振り向かんとする肩を強引に引っ張って、この径の奥にある出口へと向かわせるだろう――。
力尽き、崩落していく黄昏の中で、全知の理が示すまでもない。
「芸が足りんというものだ」
一つ声を零して、その足は籠の外へと歩いて行く。彼女らの姿をした逢魔が時を振り払った理由を、彼は知るだろうか。
虚ろなる裡に懐いたそれが、信頼という名を冠するものであることは――。
大成功
🔵🔵🔵
リア・ファル
暮れ泥む街を歩く
角を曲がれば、また同じ風景が続いている
かけがえのない、この瞬間を
素敵な今日が、もっと続けば良いのに
その気持ちは分かるさ
でも、それは儚く尊いモノ
誰かの祈りと奇跡で続いていく日常に他ならない。だから
にゃあ、と「ヌァザ」が鳴けば、そっとその頭を撫でて
魔剣の姿に戻し、地面に突き立てよう
今を生きる、誰かの明日の為に……日は沈み、また昇る
【暁光の魔剣】!
(ハッキング、全力魔法、祈り)
時空間の流れを奪い返し、また歩き出そう
夕焼けこやけで、また明日
さあ、ボクに出来ることを為しに行こう
●
ゆっくりと、日は暮れていく。
歩く小径はアスファルトに変わった。知らぬ間に、周囲には建物が並んでいる。人々の営みの灯りがぽつりぽつりとついていくのを目に映しながら、リア・ファル(三界の魔術師/トライオーシャン・ナビゲーター・f04685)は続く角を曲がった。
そこに。
街の入り口がある。
幾度も繰り返す光景は、まるで置いていかれることを拒む子供のようだ。じゃあねが寂しくて、おやすみなさいにむずがって、いつか色褪せていく今日の喜びと幸福が永劫になることを願う。
何があるとも知れない明日が来るくらいなら、鮮やかな今日が続けば良い。
「その気持ちは分かるさ」
だが。
ひと気のない街に投げかけるように、リアは言葉を紡ぐ。日常とは連綿と連なるものであるからこそ美しい。一度通り過ぎれば、もう二度と戻らぬが故に愛おしい。永遠に落ちない陽は、いずれ疎ましくなってしまう。
その尊さを、いつか忘れてしまう。
血を吐くような祈りも、身を切るような痛みも、絶望も苦しみも辛さも悲しみも。満ち溢れる願いも、零れんばかりの喜びも、希望も幸福も嬉しさも楽しさも。
全ては奇跡だ。積み重なったものが灯した、真なる光――。
足下で猫が鳴く。軽やかな足取りで肩に登った頭を、少女をかたどる指先が優しく撫でた。
今日はもうおしまい。
くるりとヌァザが飛び降りる。前脚は柄に、後脚は刃に変わる。手に収まった魔剣をじっと見詰めて、リアは笑った。
その刃を地面に突き立てる。歪んだ空間も時間も、全てに干渉しうるその力が、ゆっくりと伝播していくのを強く感じた。
「今を生きる、誰かの明日の為に……日は沈み、また昇る」
望もうと、望まざろうと。
――知り得ぬ明日は、奪わせない。
「暁光の魔剣!」
見えざる粒子が世界を書き換えていく。地に沈むことを拒んだ夕焼けが大きく揺らぎ、少しずつ消えていくのが見えた。まるで今までの時間を取り返すかのように昏くなっていく街の入り口を潜って、リアは再び歩き出す。
歪な五時のチャイムが、涙を流すように呼んでいる。その向こうにあるのだろう出口へ向けて、街灯の灯った夜の淵を、少女の足が軽やかに進んだ。
この先にあるものがどうなるのか――。
それを成した先に、一体何があるのかさえ、リアは知らない。それでもこの胸に灯した希望の光は、決して褪せることなく根付いている。
その光をこそ心と呼ばうというのならば、今日に縋り付く理由も、未来を恐れ拒む理由も、ありはしない。
だから。
「ボクに出来ることを為しに行こう」
街が途切れる。目の前には暗渠が広がっている。
恐れることはない。
振り向くことも止まることもなく、笑ってその向こうへ飛び込んだリアの後ろで、夕景の街が音も泣く崩れ去った。
大成功
🔵🔵🔵
マリィシャ・アーカート
○
彼らは学生でしょうね
影の顔なんて見えないけれど
影じゃなくても
わたしには「同じ」に見えるはずです
誰も彼も雑な大量生産の人形みたい
――ねえ、ヱリィ
此処には私とあなたしかいないのね
「誰に向かって話してるの」
「ヱリィなんて子いないよ」
「独り言ばかり気持ち悪い」
ああ、そっか
ヱリィ、わたしのヱリィ
あなたにも顔が無い
此処には誰も居なかったんだ
じゃあ、もう、要らない
解体(バラ)してしまいましょう
わたしさえも騙せない幻想は
強い薬でみる夢よりも粗悪品
全部直すまで腕を使い潰す
ヱリィはわたしの想像の友達
わかってるのに
引き留めようとするのね
その愚鈍さもわたしそっくりで
嫌になる
日常ってなんですか
目覚めていても悪夢みたい
●
影法師が立っている。
黄昏は逢魔が時だ。すれ違う相手の顔がちょうど影になるから、それが人でないものでも分からない。
マリィシャ・アーカート(ルーンの小夜啼鳥・f35902)にとっては、どちらでも良かった。
学生服を着ている。見慣れたものだから、容易に判別がついた。けれど視線を持ち上げた先の顔は真っ黒に塗り潰されて、性別も分からない。
まあ――。
マリィシャにとっては、どうでも良い。
元より同じにしか見えぬのだ。鋳型で抜かれた体に顔のパーツを貼り付けられ、工程上の微細な差異を個性と尊ぶ人形。粗製濫造の末に生まれた土くれ。そのくせ型に嵌められていなければ、好き勝手に嘆く泥の塊。
「――ねえ、ヱリィ」
いつもと同じだ。
「此処には私とあなたしかいないのね」
隣に立つ娘に話しかけたマリィシャの方を、影法師が一斉に見る。ほら見ろ。今の今まで彼女のことなど見失っていたくせに、彼女らの脳の鋳型から外れた途端に目敏く視認するではないか。
「誰に向かって話してるの」
「ヱリィなんて子いないよ」
「独り言ばかり気持ち悪い」
今し方マリィシャが話しかけていた中空を、女学生の格好をした影が示した。
そこに。
顔のない娘が立っている。
ぽっかりと開いた空洞がマリィシャを見ている。ああ何だ。これも影法師の土くれでしかないのだ。だとすればマリィシャも。
ここには誰もいない。
「じゃあ、もう、要らない」
ぐしゃり。
ひどく嫌な音がして、目の前の三人の影法師が崩れ去る。腕の一薙ぎで解体(バラ)されたそれらを見下ろし、娘は冷えた眼差しで歩き出す。
こんな不良品を欺(だま)せぬ幻覚に意味はない。薬の見せる量産された夢さえこれには勝る。
くだらない。
くだらないくだらない。
このままの形では直しようがない。直せないならまず解体(バラ)さなくては。ぐしゃぐしゃに潰して原型がなくなれば、幾らでも再構築出来る。
鋳型に流し込んで固めて、またパーツを貼ってあげる。
血流が途絶え、黒くなった腕を、ふいに掴む温度があった。顔を上げれば、空洞が彼女を見ている。
――ヱリィ。
空想上の友達。ずっと一緒にいた存在しない友(イマジナリ・フレンド)。マリィシャが分かっているなら、彼女もまた分かっているのに。
「引き留めようとするのね」
愚図。
愚図、愚図、愚図。
――愚図!
創作物は作者を越えられない。だから愚鈍だ。魯鈍だ。ヱリィも、マリィシャと同じくらい。
何もかもがぐちゃぐちゃに混じり合った夕焼けが、ゆっくりと地平に沈んでいく。それを見送りながら、途絶えた小径をなぞる足が靴音を響かせる。
日常など知らない。
目を開けていようが悪夢を見ている。目を閉じて錠剤を喉に下し、不鮮明な幻の中に身を埋めるのと変わりない。
だから――。
倦怠と厭世に塗れた足取りは変わらない。
同じようなものだ。
逢魔が時も幻覚も夢も。
――現実も。
大成功
🔵🔵🔵
夕凪・悠那
○
夕焼けは好きだ
このチャイムは帰路を急がせる、そんな音色で
夕暮れは家族の時間を知らせる、そんな景色だった
いつしか変わっていた見覚えのある道
郷愁を誘う色たちに包まれながらまっすぐ前へ
昔は一緒に歩いたこともあるこの道を一人で歩く
……記憶が曖昧な出来事まで思い出すのはこの空間の効果かな
懐かしいなぁ……
待って、なんて呼ぶ声が聞こえても振り返らない
忘れ物、だなんて肩を叩かれても立ち止まらない
――だって、"行ってきます"は済ませたから
帰るのは『今日』じゃない
――それに、言ったでしょ?
『ボク』はもう高二だって
何時までも子供じゃないんだから、さ
●
夕暮れの色が好きだった。
歪にねじれたチャイムの音は、それでも夕凪・悠那(電脳魔・f08384)の記憶の中の音階を取っている。暖かな家路を知らせるそれが、無機質なのに柔らかく聞こえた心地を、自然と思い出す。
弾んだ吐息で道を辿る。夕方になれば大抵母は帰って来て、悠那とただいまとおかえりを交わす。どちらの方が早いかはまちまちで、競争をしているような気分になったこともあった。
紅色の径が、歩みを進めるうちに色を変えていく。踏み慣れたアスファルト。周囲に並ぶ建造物。斜陽に照らされる穏やかな郷愁が、心の裡に小さく爪を立てる。
昔は――。
二人で歩いたこともあった。手を繋いで、笑い合いながら、小さな少女とその母とで。何のことはない日常の地続きを、悠那は一人辿った。
一歩進むごとに、記憶の底が鮮明に掘り起こされる。母と二人で買い物をしたこと。香る夕飯のにおいにお腹が空いたこと。今よりずっと低い視野で、今からすれば短い道程を、家に向けて駆け抜けたこと――。
懐かしい。
懐かしいという思いで、足を止めるようなことはないけれど。
郷愁を覚えるには若すぎる頃合いであっても、悠那の辿ってきた道は普通の女子高生ほど易くはない。戻れぬ過去も、戻らぬ罪過も、その背丈には不釣り合いなほどに背負いすぎてきた。
それと同じくらいに、沢山の覚悟を決めてきた。
懐かしい家に背を向けるような格好で、紅色の道を辿っていく。後ろから迫ってくる足音と声が、先まで聞いていた音で彼女の名を呼んだ。
「悠那、悠那、待って」
振り返らないから肩を叩かれる。柔らかな苦笑が耳許を掠めていく。揺らぐ気配がどれほど恋しいひとのそれでも、彼女が足を止めることはない。
「ほら、忘れ物」
まるで『小学生』にそうするような声。ハンカチか何かでも差し出すかのような。本当の母だったら、仕方がないわね――などと、続けたのだろうな。
けれど。
もう、『行ってきます』は告げた。帰るべき場所は在りし日の、輪転し永劫になる『今日』ではない。
帰らなければ。
帰るべき場所へ。母も、あの日の道もないけれど、沈む夕陽のある世界へ。
それに――。
「言ったでしょ?」
今度は悠那の方が苦笑する。
無垢だった『私』は、きっとあの惨事の中で死んだ。年月は重なる。あの日は遠ざかる。そうして『ボク』になった悠那は、もう高校二年生になった。
忘れ物があるのかもしれない。
置いていくべきではないものを――置いていってしまったのかもしれない。
それでも、それを泣いて取りに戻らなければならないような年ごろではなくなった。置いていくものも、忘れていくものも、擦り切れていくものもあるけれど。
それでも歩ける。
「何時までも子供じゃないんだから、さ」
小さな声に、影法師の気配が遠ざかっていく。夕焼けが藍色を連れ、そうして。
日は沈む。
『今日』は終わる。
大成功
🔵🔵🔵
陽向・理玖
夕焼けは嫌いじゃない
けどそれは
今日が終わってまた明日も頑張ろうって気になれるからだ
一番星に明日への希望を見るからだ
終わらねぇ夕焼けなんかあり得ねぇ
師匠がいなくなった時
俺は全然動けなくなって
…それすらも師匠にはお見通しで
猟兵って道を示してくれた
あれから3年
じきに4年
もう
自分の道は
自分で選べる
だから化けて出ようが
手を引こうとしてみようが無駄だぜ
俺は決して惑わされねぇ
声が聞こえようが
影が見えようが
俺にはもう
師匠じゃなくて
別の帰りを待ってくれる人がいる
道は自分で切り開けるし
一緒に立ち向かってくれる人だっている
だからここを抜けて
帰るんだ
足は止めず
出て来た影にUC
消えた一瞬を見切って駆け抜ける
●
斜陽に照らされている時間は悪くない。
紅色が山間に沈む。紫紺の空が星の煌めきを連れてくる。熱されていた空気が少しずつ温度を失って、涼やかな風が頬を撫でる――。
優しく背を押すはずの夕陽を、陽向・理玖(夏疾風・f22773)は睨むように見据えた。
今日は終わる。明日が来る。陽光には当然の摂理が付随するものだ。一日が終わりを迎える寂寥。同時に新たな日を迎えることの叶う希望――。
そのどれも、眼前にある歪んだチャイムにはない。
終わらない黄昏は、ただ無機質なだけだ。一番星を連れて来ないそれに意味があろうか。永劫に止まった時に、何の価値があろうか。
――だが、いつか、そうだったときがあったな。
瀕死の師に逃がされ、その死を聞いたときに、彼は歩く足を失った。
分かっていた。生きているはずがない。それでも骸さえ帰らなかった彼が、ひょっこり顔を出して笑ってくれることを期待した。あり得るはずのない帰還を待ち続けたあの頃、きっと理玖は止まっていたのだろう。
それを。
師は、とっくの昔に見越していた。
英雄だった。だが、世界は輝かしい勝利ばかりに溢れるわけではない。だから、そのときに遺される彼へ、数多の贈り物を遺しておいてくれた。
猟兵――世界を救うための戦いに身を投じ、過去の波濤と戦う者としての在り方も、その一つだった。
無我夢中で戦っているうちに、あれほど鮮明だった日は過去に変わっていく。気付けば重ねた月日は三年を過ぎ、じきに四年めに差し掛かろうとしていた。今でも思い出せる喪失の絶望は、知らぬ間に瘡蓋を掻き毟るのに似た、鈍い痛みになる。
もう――。
暗い部屋に蹲ったりはしない。扉の音に耳を澄ませることもない。立ち上がることの出来ない絶望に屈することもない。
自分の道は、自分で選べる。
逢魔が時の影法師は、理玖を縫い付けようと手を伸ばした。懐かしい気配。緩やかな足音。肩を叩く手が僅かに歪んでいるのを、見逃すことはない。
「理玖」
呼ぶ声すらも、嘘だ。
「帰って来い」
――馬鹿げた話だ。
あの夕暮れの部屋の中で、師は穏やかに笑った。それが今更帰れなどと。この足を止めるような言葉を吐くなどと。余程焦っているものとみえる。
それに。
あの部屋で暮らす思い出は、独り重ねるものではなくなった。少しだけ寂しげな、けれど柔らかな、銀に似た青い髪――。
切り拓く力も心も得た。弱音を零して受け止めてくれる場所がある。もしも理玖だけで乗り越えられぬことがあったとして、それすらも案ずることではない。
共に並び立ち、絶望を払ってくれる人が、数多いる。
だから――。
「帰るんだ」
足は止めない。
振るった一撃が、影法師を薙ぎ払う。掻き消えたそれが人の形を失い、茫然としたように揺らぐ隙間を縫って、その足は走り出した。
日暮れの一番星が、その頭上に輝いている。
大成功
🔵🔵🔵
ロク・ザイオン
(胸の中に禄歌の笑顔を灯して道をゆく
だから、何が呼んでも腕を引いても、大丈夫)
(あの調子外れの音が家路を誘うものだと識っている
ならば【歌う】のは"パンザマスト"からの贈り物が相応しい
五時のチャイムに合わせて【大声】で
まるで遠吠えだ)
(もう遥か後ろだろうけれど、禄歌に届くだろうか
この歌が届いたなら、下手だと笑ってくれるかな)
(帰り道は、友たちへも続いているだろうか
この声が聴こえたなら、どうか熱も伝わればいい)
したいことを、しろよ。
…それで
みんなで一緒に、帰るんだ。
●
名前の片方をくれたひとは、笑って掻き消えた。
燦然と輝く斜陽の色は、ロク・ザイオン(ゴールデンフォレスタ・f01377)の髪に似る。あの鬱蒼とした神代の森では見ることすら叶わなかったそれが、眼前に開けた小径を静かに照らしていた。
遠い道の向こうで、チャイムの音が呼んでいる。まるでロクの声の如く、鑢に掛かったような雑音が耳許でさざめいた。
後ろから――。
緑の香りがする。
影法師が何事かを叫んでいる。甲高いこどものようなその声が、女の足を止めようと、木々に絡まる蔦を這わせているのを感じる。
ロクは足を止めない。
胸の裡には美しいひとの笑みが灯っていた。誰より慕い、崇拝じみて愛した――本当は、ただほんの一欠片の幼気な願いを抱き締めて、渇望しただけのひと。彼女が笑って見送ってくれたのならば、女が振り返るべき理由はどこにもない。
森の香りを置き去りにして、彼女は獣の耳にも似た髪を揺らす。家路を導く歪なチャイム。鑢の音色に重ねるように、息を吸う。
――歌が響く。
警咆が空を揺らす。夕焼け小焼け(パンザマスト)からもらった歌を叫ぶさまは、己が居場所を告げる狼の遠吠えに似た。
五臓と六腑は奮えたか。
彼女は聞いているだろうか。遥か後方の森に置いてきた彼女は。きっと少しだけ眉を顰めて、この声を聞くのだろう。みにくいと言われたそれを惜しげもなく震わせるロクに少し不満げな顔をして、けれど耳を塞ぐことも、遮ることもなく聞き遂げる。
きっと。
最後まで静かに聞いて、さやさやと笑うのだ。
――へたくそ。
心の烽火と成り得たか。
踏みしめる大地は、友の前にも広がっているだろうか。この道の遠く先には、彼らの歩みが記されるのだろうか。だとすれば、きっとこの声も届くだろう。
もしも聴こえたなら――。
ロクの込めた熱も伝われば良い。そうであれば、夜を運ぶことを拒む夕焼けに心の温度を奪われたとしても、それをまた灯してやれる。
足が止まりそうになるなら、ロクが背を押す。俯きそうになるなら、その顔を前に向けてやる。
そのくらい。
そのくらいのことは、森番(ひと)にも出来る。だから。
「したいことを、しろよ」
どうなるのだとしたって。
どうあるのだと――したって。
道は繋がっている。歩みを止めぬ限り。例えばこの先には夜しか残っていないのだとしても、それは必ずしも昏いだけのものではない。
迎えに行こう。その先に漁り火が燃えるだけなのだとしても、それを焚いた誰かの手を握ることくらいは、出来る。
「みんなで一緒に、帰るんだ」
夕焼けのチャイムが呼んでいる。静かに沈む陽の向こうに、藍色の夜が来る。
その隙間を――。
燃えるあかがねの落星が、鑢の声で縫った。
大成功
🔵🔵🔵
大町・詩乃
【WIZ】
綺麗な夕焼け♪
夕焼けだと翌日は晴れると言いますね。
全てのものに終わりは有るとしても何かしら続いていくものは有ります。
だから終わりを拒むこの世界に居続ける訳には行きません。
過去に触れ合った神々や人々。
去来する懐かしさはあり、優しい視線を向けはすれど、それに囚われることなく先を目指します。
新しいものが良いものとは限りません。
時には間違えて大きく後退する事もあります。
それでも望みを捨てずに流れを繋いでいけばより良い明日が来ると信じ、その助けとなる為に私は日々を過ごしていくのです。
さようなら偽りの永遠の世界。
私は変わり続ける世界にて人々と交わって生きていきます。
と、迷いなく進むのでした。
●
こうして見れば、ただの恙ない夕焼けだ。
これが沈んで明日が来るのなら、きっと軽やかな快晴となるのだろう。暫しの間それを見上げて、大町・詩乃(阿斯訶備媛・f17458)は歩き出す。
永劫とも思える道筋が続いている。歪んだチャイムの音が誘う出口は未だ見えないが、それもこの陽が落ちるまでのことだろう。
――どれほど望まずとも、終わりは来る。
詩乃はそれをよく知っている。殆ど永遠と言って良い神の在り方にしてみれば、生命の在る時間は短すぎる。
呼ぶ声は絶えない。影法師が人の、神の姿を取っては、詩乃の手を引いて留めようとする。過去に変わってしまった彼女らも、今を生きる彼らも、皆が笑っていた。
その一つ一つに――。
旧懐の小さな棘が刺さる。故に巡らせる視線は柔らかく、浮かべた笑みもまた穏やかに唇を彩る。
けれど。
声を返すことはない。足を止めることも、振り返ることもしない。
全てはいつか終わっていくものだ。それが少しばかり早いか、それとも遅いかの違いがあるだけである。
それでも、なべて全てを俯瞰すれば、それは真なる終わりではない。個体の命が尽きれど、一つの技術が死ねど、その先には新たな何かが芽吹いている。
秋が過ぎれば冬が来るように、冬が終わればまた春が来る。
衆生の永遠を願うのは、その連鎖を途切れさせる停滞と何ら変わりない。
その先に在るものが、必ずしも善であるとは限らない。遥か先で、また間違いだったと殺されて行くのかもしれない。或いは他のものを巻き込んで、破滅的な衰退を促すものであるのかもしれない。
だが。
それを――恐れていては、進歩はない。
学び続ける人を、詩乃は見てきた。祈り、願い、縋りながら、最後には己の力で運命を切り拓く腕を、彼女はずっと手助けしてきた。人々の悪性を見せつけられたところで、それが間違ったことだとは思わなかった。
――絶望するには、この世は美しすぎるから。
希望を手放すのは簡単だ。弱い心は、時に容易に光に背を向ける。それでもそれを手放さず持っていたのなら。
きっと、明日は晴れる。
「さようなら」
だから今日には別れを告げるのだ。明日の晴れる空に思いを馳せて、その向こうに雨上がりの虹を見るために。
真に誰かの望みを受け止めることとは、真に願いを叶えることとは――そういうことなのだ。いつかこの名をくれた親友が教えてくれたそれを、詩乃は強く抱き締める。
「私は、変わり続ける世界にて、人々と交わって生きていきます」
宣誓の声が凜と夕焼けに溶けて――。
今日は終わる。
――明日が訪れる。
大成功
🔵🔵🔵
洞木・夏来
〇
この夕焼けを終わらせるためにもこの道を真っ直ぐ進まなきゃ
道を歩いていてすれ違うのは昔の自分と故郷のみんな
つい振り返りそうになる気持ちをぐっと抑えて前を向きます
聞こえる声は懐かしいみんなの声が優しくて甘えたくなる声色で
「帰っておいで」って声のする中で一言だけ、「大丈夫だよ」って声が聞こえました
すると【UC:ハイカラさんは止まらない】が勝手に発動しました。まるで私を安心させるみたいに
でも、それじゃダメなんです。だって私は自分の力だけで前に進みたいから。
私は自分のUCを解除して自らの想いで前に進みます。
あの声は誰の声だったんだろう?一瞬だったからよく聞こえなかったけど知ってる声だったと思う。
●
歩かなくてはいけない。
存在しないはずの夕焼けの向こうで、ぐちゃぐちゃに混ざったノイズで邪魔されたチャイムが響いている。導かれるように小径を歩き出した洞木・夏来(恐怖に怯える神器遣い・f29248)の横を、幾つもの影が通り抜けた。
最初のうちは、何だか分からないような塊だった。それが進むごとに形を作り出して、気付いたときには人の姿になっていた。
吐息が掠めるほどの近くを、笑いながら通り過ぎる集団がある。学生服を着た彼女たちは、姦しいお喋りでじゃれ合いながら細い道を駆けていく。
その真ん中で――。
笑っているのは、間違いなく夏来だった。
友達と談笑する娘。母と父に手を繋がれる小さな少女。学生鞄を持って跳ねるように駆けていく己。その姿が視界の端から消えていくたび、つられて振り返りそうになる体を必死に制する。
俯けば、余計に耳に声がよく届く。唇を噛み締めて前を向いた夏来の耳に、後ろから柔らかな声が飛ぶ。
――なるちゃん。
――夏来。
帰っておいで。こっちにおいで。早く、早く、皆待ってるよ――。
今すぐにでも飛び込んでしまいたくなった。まやかしだと分かっていても、自ら手放した日々の中に戻っていきたい。立てたばかりの誓いも決意もどろどろに溶かそうとする甘い声に紛れて、ふいに優しい音が耳朶を揺らした。
――大丈夫だよ。
道のずっと先から聞こえたそれに、はっと前を見る。誰もいない前方から確かにした声を追おうとして、一歩を踏み出した彼女を、燐光が包みだした。
全ての害を遮断してくれる背負った光が、夏来を守るように抱き締めてくれる。まるで誰かの腕のようだ――思いながら、彼女は息を吐いた。
「それじゃダメなんです」
ここで頼ってしまっては、きっと後悔する。
回された暖かい手を制するように、そっと光を収める。コントロールの出来る力は静かになりを潜め、夏来は小さく笑った。
――懐いた想いは本物だ。誓いだって意志だって、無碍にする気はない。
これは彼女が決めたことだ。だから他の誰かに、何かに、自分の意志で使う力以外に――頼ったりはしない。
今度の一歩は迷いない。後ろからの声も振り切って、踏みしめる大地の感触を強く感じながら、彼女は暮れゆく夕陽の中へと踏み出していく。
その陽が完全に落ちて、藍色が空を染める頃――。
聞こえなくなった声を反芻するように、彼女は一番星を見上げた。
たった一言、導くように、安心させるように囁いたのは、誰の声だったのだろう。一瞬のことで、しかも裡側のせめぎ合いに集中しようとしていたものだから、よくは分からなかった。
分からなかったけれど。
――どこか、知っている響きだったことだけは、よく覚えている。
夜気が優しく頬を撫でていく。幽かな疑問を懐いたままで、彼女は籠の出口へ身を投じた。
大成功
🔵🔵🔵
花房・英
○
寿(f18704)と
うん、日暮れを目指せばいいはずだから
あぁ…寿は看板とかに騙されそう
逸れないように並んで手を引いて進む
寿の話を聞きながら、時折相槌を打って
ふと、いつか雨の中で見た寿の記憶を思い出す
俺は家族を知らないけど
寿と出会ってから寂しいと感じた事はないんだなって気付いて
でも、今は寂しくないんでしょ?
俺も寂しいって思ったことない
どの時間でも寿がいてくれるから
なんなら俺は学校より家にいる方が好きだったな
…一緒にいてって言ったのは俺が先だし
心配しなくても、寿が離れていこうとしても離す気ないから
俺の方が寿に嫌われないか心配なはずなのに
存外そんな心配しなくてもいいのかな、なんて
言葉にはしないけど
太宰・寿
○
英(f18794)と
一本道だから、素直に進めばいいんだよね
自分ひとりだと自信ないけど、英と一緒だからあんまり不安はないかな
私の話になっちゃうんだけどね、と前置いて
夕焼けはあんまり好きじゃなかったの
英も知ってると思うけど、帰っても家に親がいないのが当たり前だったから
夜がくるのが嫌だった、お昼は友だちと遊べるでしょ
さすがに高学年になる頃には慣れちゃったけど
毎日こんな道を寄り道しながらひとりで歩いてたなぁ
うん、そう
今は全然寂しくない、どの時間帯も大好きだよ
英のおかげ
私さ、英より年も随分上だし、それなのに苦労ばっかりかけてるけど
ずっと好きでいてもらえるように頑張るから
これからもおかえりって、言ってね
●
いつもの庭が崩れ去り、夕暮れのさなかに二人残される。
歪なチャイムに花房・英(サイボーグのグールドライバー・f18794)が顔を顰めたのも一瞬、太宰・寿(パステルペインター・f18704)が存外に冷静に声を上げるものだから、彼も表情をいつものそれに塗り替えた。
「一本道だから、素直に進めばいいんだよね」
「うん、日暮れを目指せばいいはずだから」
――こういうとき、寿は割合と地に足のついた対応をする。
見たことのない小径に視線を巡らせてから、英は彼女の方を見下ろした。
「不安じゃない?」
「自分ひとりだと自信ないけど、英と一緒だから、あんまり」
「あぁ……」
古びた『この先通行止め』の看板で、素直に足を止めてしまいそうだ。四つ辻にある工事中の立て札に迂回路を探す彼女が、ありありと脳裡に思い浮かんだ。
英が零した納得の溜息に、寿の方は少しだけ拗ねたような顔をした。小さく笑いながらその手を握り、彼は促すように前を歩いた。
小走りで並んだ小さな歩幅に合わせて速度を緩める。周囲をくるりと見回して、ふいに寿が声を上げる。
「私の話になっちゃうんだけどね」
――視線は真っ直ぐに斜陽を見詰めている。
「夕焼けはあんまり好きじゃなかったの」
仕事で忙しい親は、寿の帰りを待ってはいなかった。
夕陽に照らされる赤々とした外とは違い、窓から光の入らない家の中は昏い。自分で付ける電気も、おかえりのないただいまも、ラップをかけられて冷えている夕食も、大人びた言い訳で呑み込んだはずの寂寥を溢れさせるばかりだった。
だから――。
昏くて寂しくて、気を紛らすすべのない夜を呼んでくる夕陽を見るのが嫌だった。
昼には友人と遊んで誤魔化せる心と、向き合わなくてはいけなくなる。物音のしない中で眠るベッドは寒々しい。それに涙を流していたのも小学校に上がって少しの間で、十を越える頃にはすっかりと慣れきってしまったけれど。
その感覚を思い出させる家の中には、なるべくいたくなくて――。
「毎日、こんな道を寄り道しながら、ひとりで歩いてたなぁ」
訥々と語られる言葉に相槌を打ちながら、英は寿の顔を見詰めていた。
雨の中に見えたかえりみちで、少女は少しだけ俯くようにしていた。当てもなく彷徨する逃避行はそのときを引き延ばすばかりで、昏い玄関に消えていく背が鮮明に思い出される。
英は――。
そもそも家族を知らない。
だから、いるはずの家族が家にいない悲しみは分からない。けれど少なくとも、彼女が近くで笑ってくれるようになってから、寂寥に心を奪われる暇はなかった。
お節介で鬱陶しいお人好しは、彼の日々に斜陽の影が差すことを、決してしなかったのだな――。
「でも、今は寂しくないんでしょ?」
「うん、そう」
問いかけには軽やかな声が返った。綻ぶように笑った寿が、彼女を見ていた英の眼差しを、真っ直ぐに見返してくる。
「英のおかげ」
彼が来てから、家に帰ることを寂しいことだと思わなくなった。
朝も、昼も、夕方も、夜も。春夏秋冬いつでも傍にいてくれる温もりは、どこか寂しさが残る記憶を塗り替えて、全てを良い思い出に変えてくれた。
躊躇のないその言葉に笑った英が、同じように頷く。
「俺も寂しいって思ったことない」
ただいまにおかえりの帰らなかったことはない。そもそも人と関わることを得意としないから、寧ろ学校にいるときの方が孤独であったのかもしれない。
それは緩やかなものだった。心を傷付けるようなものではなかったけれど――。
「なんなら俺は、学校より家にいる方が好きだったな」
いたく素直な台詞に、思わずといった風に寿が笑った。固く握った手に力を込めて、彼女はぽつりと声を零した。
「私さ、英より年も随分上だし、それなのに苦労ばっかりかけてるけど」
――空想の中に生きている節のある自分の手を、いつもこうして引っ張ってくれる。
抜けている自覚だってないわけではない。心配してくれているのも知っているし、不器用ながら真っ直ぐな言葉を伝えてくれることも、ずっと嬉しく思っている。
きっと、彼が思っているより深く――。
寿は、彼が好きだ。
「ずっと好きでいてもらえるように頑張るから、これからもおかえりって、言ってね」
強く強く握られた手と、少しだけ自信なさげに零れた声。その全てを拾い上げて、英は大きく目を見開いた。
まるで、彼女の想いの方が重たいみたいな言い方をするのだから。
「……一緒にいてって言ったのは俺が先だし。心配しなくても、寿が離れていこうとしても離す気ないから」
応えるように、優しく手に力を込める。デバイスが熱を持って揺らぐ感覚にはいつまで経っても慣れないけれど、それを失う気だって一つもない。
嫌われることが不安なのは。
そのくらい彼女が好きなのは、英だって同じだ。
自分の方がずっと重い気持ちを持っているのじゃないかと思っていた。けれど、もしかすると――そんなことは杞憂なのかもしれない。
去来した言葉は呑み込んだ。夕焼けに揺らぐ二つ分の影を見詰めて、二人は少しだけ、互いの間にある隙間を狭めた。
大成功
🔵🔵🔵🔵🔵🔵
比良坂・彷
○
*日常
朝起きて空からおかっぱ髪のあの子を追い
依頼で悩んでたから偶然装って話しかけ
黄昏時は神社屋台を巡った
しかし20年近く過ごした隠れ里の教祖様でもなく
入り浸ってる賭場でもない
あの子といるなんて月に数日だし
最近は意図的に避けてるよ
嘗ての世で破滅した双子なんだから
でも
留まりたくなる日常はこれしかねぇよ
あの子から呼び止められたら振り返ってしまいそうだ
…兄さんって
なァんてさ、引っかかったか黄昏め
彼女は俺を兄と呼んだことはねぇよ
あなたか名字にさん付け
確かに呼ばれたいけどさァ…
それは開けちゃいけないパンドラの匣なのよ
振り切って歩く
心を摩耗する程に辛いけど
なあ
兄さんか嘗ての名の呼び捨てで俺を呼んでくれよ…
●
快晴の空が日暮れに傾くまでをどう過ごしていたのか、よく覚えている。
身なりを丁寧に整えて、塒から翼を広げた。空を馳せながら探すのはたった一人の面影だ。輪転の末に性別すらも変わってしまった、しかし嘗ての――比良坂・彷(冥酊・f32708)の覚えている『彼』の気配を宿した『彼女』。
遥か上空からでも見紛うものか。何やら考え事をしているらしい彼女が俯いている付近、物陰にそっと降り立った。
――ゆったりと歩いて前から声を掛ければ、その赤い眼差しが彷を見る。
聞けば仕事だという。幾分複雑な案件だったようで、悩んでいたのだという彼女の隣に並んだ。そのままさりげなく助け船を出し、流れのままに歩みを共にする。
いつの間にか日が暮れれば、神社に出ていた屋台を回った。ここぞとばかりに――それと悟られぬように――甘やかす『知り合い』に、少しだけ困ったような顔をしながらも、彼女は笑った。
留まりたい日常と言われて浮かぶのが、これとは。
彷の自嘲は誰にも届かない。人生の大半を過ごした教組としての日々も、生と金を効率よく投げ捨てられる賭場のごみごみとした空気も、このほんの僅かな時間に敵わぬときた。
全く。
――我ながら、愚かな話だ。
ひと月の間に彼女と会うのは、片手で数えるほどの時間と決めている。今はそれも殊更に減らした。この頃とは逆に、姿を見かければ踵を返すようにしたのだ。
当然だろう。
破滅の命運を辿った双生の子だ。共にあった結果があの高層ビルの転落劇ならば、同じ轍を踏むのは正しく暗愚な選択である。
分かっている。
分かっていても――。
彷が浸っていたい『日常』は、今やここにしかない。
嘗て一にした家も、今は別々だ。日没が世界を覆う前に別れを告げて、現れた小径を辿る。それでも後ろ髪をひどく引かれた。呼びかけられたら、今にも振り返ってしまいそうなくらい――。
「兄さん」
――なァんてさ。
「引っかかったか」
吐き捨てるような冷笑に、彼女を模した影法師が崩れ去る気配がする。同時に縋るように、重なった声が幾度も呼んだ。にいさん。にいさん。にいさん。
――■■。
そんな。
そんな呼び方を、『彼女』はしない。
当たり前だ。ただの顔見知りを兄と呼んだりはしないし、まして名を呼び捨てにすることもない。他人行儀に『あなた』と顔を覗くか、比良坂の苗字に丁寧な敬称を重ねるか、どちらかだ。
だから、彷も冗談めかして、『きっちゃん』などと呼ぶ。
最早彼女を模すことすらない影の手を踏みしだく。もう一度、その声で呼ばれたいと希う呼称ごと。
呼ばれたいとも。
いつかのようにまた、きょうだいの格好をしたいとも。唯一の救いだった。裡側にある空虚に満ちるたった一つだった。だとして。
この世には、開けてはならない匣がある。
パンドラの手が放ったそれの底には希望が残った。だが果たして、これに遺るのは何だというのか。分かりもしないものがまたぞろ破滅を呼べば、昏く引き摺る悔悟は重みを増すだけだ。
だから。
振り切る。重なる彼女の声を。『彼』の声を。一つ踏み砕く度に、己の心の表皮を削るようだ。魂が剥がれ落ちていくような苦痛に胸を押さえても、心臓は皮肉なほどに規則正しく拍動を刻む。
「なあ」
それは、影法師ではない彼女へ。
『比良坂さん』でも、『あなた』でもない、あの頃と同じ名で――。
「俺を呼んでくれよ……」
小さく零した声を、歪なチャイムが掻き消していく。
大成功
🔵🔵🔵
六道・橘
○
*日常
14歳
猟兵になる前の學徒兵だった日々
樹元に発生し學府に拾われた
女子に混ざるのが苦手で友人できず
殿方と過ごす進歩的な質でもない
いつもひとり
一生こうして過ごすと疑わなかった
誰かと縁を結ぶ才能がないのだと
でも気楽で気ままで
…なにより『前世の兄』だなんて妄想に縋る気狂いでもない、安穏とした日々
強がりでなくひとりが好きだった
(ひとりなら比べて劣等感に苛まれない)
誘い声は「真っ当なあなたに戻りなさい」と囁く
そう、ね
兄の妄想を視る為血塗れ
心は前世の事ばかり
ここ半年はある人を捕まえて『前世の兄だ』だと勝手に見ている有様
―
彼が『兄』か違うのか、わたしはこの謎を解きたいわ
だから過去(ひとり)に未練はないの
●
六道・橘(■害者・f22796)は空気と同じだった。
年の頃は十四だったか。不枯の桜の咲く世界ではごく当たり前のこととして、彼女は樹の根元に生まれた。
桜の花を宿した學徒兵は少なくない。誰もが桜を親とするから、學府に身元を引き受けられるのもさほど珍しい経歴ではなかった。
けれど――。
その中で、橘は異端だった。
きゃあきゃあと声を上げる女学生のさなかに混ざるのが下手だった。他愛ない話がうまく出来ない。挨拶こそ上手くとも、その先を繋ぐ力がない。さりとて男子たちに寄ってゆくほど恥知らずでは――。
否。
そんな勇気があるほど、進歩的ではなかった。
行きも帰りも、教室でさえ、彼女は独りだった。けれどそれは悪いことばかりではない。身軽で気楽だ。誰とも関わらず、縁を繋げる才もないまま生涯を過ごすのだとしても、何ら異存はなかった。
その軽やかさを愛していた。何より、誰かと比して出来ないことを数える必要もなかったのだから。
それが変わったのはいつからだろう――。
夕陽を見上げながら、帰り道と示された小径を辿る。飛び散る血潮の色に似た斜陽の中、耳許に囁く声がある。
「真っ当なあなたに戻りなさい」
『真っ当』か――。
「――そう、ね」
大人しく孤独な桜の精は、ある日狂った妄想に取り憑かれた。
桜に齎される生は輪転する。だから前世があるのは常だったけれど、それを思い出すなどということは殆ど有り得ないことだった。
それなのに、橘は思い出した。
高層ビルから堕ちていく体。遠ざかる屋上。見下ろす誰かの影。
前世の兄――。
彼のことを追い求めるあまり、その手で誰かを刻んだ。血に塗れた体でいる間、刃を振るい肉を裂く間、彼女は兄の存在を感じていられた。不鮮明に歪んでいた過去が鮮やかに眼前に蘇るような気がしていた。
大人しさの意味合いは変わった。ずっと心を『前世』に傾けているからだ。今生きている現実よりも、とうに終わったそれの方が大切に思えた。
幾重に仕事を重ね、己の中の不鮮明さと向き合ううちに、とうとう妄想と現実の天秤は崩壊したか。己でも嗤ってしまうほど愚かなことに、同い年の青年を捕まえては、己の『前世』を投影するようになってしまった。
出会ったのは半年ほど前になる。彼の表情が、仕草が、あまりにもよく重なるものだから――。
自然と思ってしまう。大きな翼を揺らし、煙草を咥えて笑う彼が、『俺』の兄なのではないか。
あまりにも明瞭に思い出した過去は、橘の中では確信を帯びている。一つ目の謎は解き明かされた。その結末を思い出したからこそ。
「彼が『兄』か違うのか、わたしはこの謎を解きたいわ」
――二つ目の謎も、手放す気はない。
『兄』の妄想を知らぬままの、孤独で気儘で、安穏とした生活には戻れない。ただ静かに独り生涯を終えるはずだった娘は、今やこの手に彼岸花への執着を懐いた。
それは。
過去に抱いた身軽な安寧の幸福よりも、ずっと強く燃え盛るものだ。
「過去(ひとり)に未練はないの」
軽やかに、女の足は『真っ当』な過去を置いていく。歪なチャイムの音を目がけ、歩き去るその歩みを、暮れていく藍色だけが見送っていた。
大成功
🔵🔵🔵
ジャガーノート・ジャック
(──窓際から夕陽差す教室だった。席数は、三十五。)
(自分の机と、隣の机。腰の高さよりも下の机面には、まだ何も置かれていない──)
(他の机に一輪ずつ置かれた、弔の花は。)
『──痛かった』
『苦しかった』
『よくも殺したな』
『許さない』
『気取るなよ、人殺し』
(口々に、呪うような言葉を吐く花は。きっと僕が殺したクラスメイトたちの代弁者で、きっとそれぞれ薄暗い花言葉でも持ってるんだろう)
『テメェなんざ、大嫌いだよ』
(いつか極夜で聞いた其の儘の言葉を吐くんだな、ごっちん。)
『──星見の花が置かれる時が楽しみだよ、シズカちゃん』
『殺すんだろ?最後の一人も。お前の大好きな友達も』
(────あぁ。そうだよ鷲野。約束だから。そうしなきゃいけないから、いつかは、必ず。)
(花達が口々に紡ぐ呪詛には、何も答える事なく。見る事もなく。──ただ、夕暮れの、チャイムが鳴る教室を。静かに、静かに、引き戸を開けて出て行く。)
●
小径の真ん中に、扉が用意されている。
どうやらここを通れということらしい――伸ばした手で迷いなく開いたそれの先、広がった光景を映し出して、ジャガーノート・ジャック(AVATAR・f02381)は眸を眇めた。
バイザーに映し出すまでもない。
成長に合わせて高さを調整出来る机と椅子。それぞれの上背に合わせ、でこぼこに並んだそれらも、今となっては座ることすら難しかろう。大きな窓から斜陽が差し込んでいるのも、冬になればよく見た景色だった。
聞こえるはずの子供らの声はどこにもなかった。静謐だけが満たした小学校の教室の中に、五時のチャイムが歪に鳴り響いている。
席数は三十五。二つを除いて、教卓にさえ一様に花瓶の置かれたそこを見渡し、青年の足は一歩を踏みしめた。
何も飾られていないのは、自分の机と。
その隣に座っていた、彗星のそれだ。
並べられた花瓶の群れには、一輪ずつ花が挿してある。そのどれもが一斉に青年の方を見たように思えた。今は亡い彼らの視線が突き刺さるような心地で、ゆっくりと、設えられた教室前方の扉を目がけ、彼は腰よりも低い机の間を縫う。
その――横をすり抜けるたびに。
『──痛かった』
ハナズオウが泣く。
『苦しかった』
クロユリが息を吐く。
『よくも殺したな』
オトギリソウが呻く。
『許さない』
アザミが悲鳴を上げる。
『気取るなよ、人殺し』
ムスカリが吐き捨てる。
その間を、青年の足が縫う。動きを止めることはない。代わり、そこにいた全員の顔を思い出していた。
二十四人を殺した。
二人を還した。
――一人を、これから手に掛ける。
呪いの言葉を囁き続ける花々は、皆青年の手に掛かったクラスメイトたちを代弁するのだろう。きっと不吉な花言葉でも与えられているはずだ。死人に口なしとはよく言ったもので、彼らはもう、こんな幻影の中でしか恨み言を吐くことも出来ない。
言い訳は幾らでも用意出来た。自己正当化は人間が持つ普遍的な能力で、言い訳は本能に根差すものと何ら変わりない。
例えば――。
あんなことに巻き込まれた時点で、こうなるほかになかったんだとか。
じゃあ君たちは、例えば『彼』が暴れなかったとして、大人しく待てたのかだとか。
始まってしまったのだから、もう止められなかったのだとか――。
――そんな下らないことを口にするのは、愚者だけだ。
ゲームの中で言えば中ボスだ。それも雑魚の台詞だろう。必死に膝をついて命乞いをするとき、彼らはいつもそういう台詞で自分を正当化して、主人公の義憤だの正義だのを煽るのだ。
命を絶つ感触を、そんなもので忘れられようものか。
風もない密室の中で、マリーゴールドが揺れた。いつか『資格』を得た彼に掴みかかったときのように。けれど耳朶に囁いたのは、あのときのような絶叫ではない。吐き捨てるような、吐息のような声が、再び耳朶を揺らした。
『テメェなんざ、大嫌いだよ』
白峯――。
否。
――ごっちん。
最期に聞いたその声を、その台詞を、忘れたことはない。ただ母の許に帰ろうとした彼が、白峯極人として残した絶望の悲鳴も。
足を止めることなく離れていく青年の足を――。
『──星見の花が置かれる時が楽しみだよ、シズカちゃん』
トリカブトが嗤う。
いけ好かない優等生は、退屈の軛を破ることに目がないと、もう知っている。次の『玩具』に向けてせせら笑うその声までも、終わりに聞いた笑声と変わりない。
『殺すんだろ? 最後の一人も。お前の大好きな友達も』
そうだ。
──そうだよ鷲野。
そうしなくてはいけない。この名をくれた友人を。彗星を。たった一人のヒーローを。幾度も重ねてきた勝負と『またな』の約束が、青年を呼んでいる。
果たさなくてはいけないのだ。
それこそが、二度も青年を救ったヒーローが、最期に望んだことだったから。
拳を握り締めたまま、花たちの恨み言から意識を逸らした。答えを返すことはない。それ以上の何かを目にすることもない。幻影はどこまでもまやかしのままで、懺悔を伸べようが縋ろうが、何が戻るわけでもない。
復讐も。
仇討ちも。
誓うことなど出来ようはずもないから――。
帰途を知らせるチャイムの中、静寂が満たした小さな箱の中を、青年の足がゆっくりと後にする。啜り泣く今は亡い怨みの渦を置き去りに。
――音もなく、誰もいない教室の引き戸が放たれる。
大成功
🔵🔵🔵
レイラ・エインズワース
【凪灯】
響くのは、かつての所有者たちや、犠牲者たちの怨嗟の声
期待したのに、信じてたのに、こんなはずじゃなかった
それでも止まらぬとみれば
生み出した製作者の声をも作り出すのだろう
それでも
足を止めることはしない
今は手を引いてくれる大切な人がいるんだから
ん、大丈夫
そっちこそ、大丈夫?
……そ、か
そうだね、起こったことはそうかもしれないケド
守った選択に、悔いはないと思うんダ
だってこうして、残るものがあったんだからサ
うん、その選択はそのヒトのもの
誰かのせいってことは、きっとないんだヨ
なぁんて、私もヒトに教えられるほどじゃないんだけどサ
……一緒にいて、分かったコト、共有できるのが嬉しいんダ
前を向いて一緒に行こ
鳴宮・匡
【凪灯】
耳を打つのは
誰かの助けを呼ぶ声や、嘆き悲しむ声
昔は、それを聴くことが耐えがたくて
心の中の何もかもを沈めて生きてきた
そうして気付いた時には、何も感じられなくなっていて
だけど
響く声が懐かしい人のそれを象っても足を止めないのは
何も感じられないからではなくて
前を向いて歩くことを決めているから
繋いだ手に少しだけ力を込めて、彼女の方を見る
大丈夫、レイラ?
俺は……今は、大丈夫
ずっと、思ってたんだ
あのひとが死んだのは俺のせいだって
でも、きっと、そうじゃなくて
俺がいなければあのひとは死ななかった
それは事実で、変わらないことだけど
あのひとは、人が好きで、世界が好きで
愛したものを守りたくて
――だから、俺を守ってくれた
本当は、ただそれだけなんだって
それを“俺のせい”って言ってしまったら
あのひとの願いや、想いを、踏みにじってしまう気がするって
今は、思う
……うん
一緒に歩いてきたからわかったこと
気付いたら随分増えてたよな
それを今は、ちゃんと同じように感じられてる
だから、今は
ちゃんと前を向いて、一緒に歩けるよ
●
耳朶に届くのは、同じ叫びだった。
鳴宮・匡(凪の海・f01612)にとってのそれは、戦場であればどこにでも転がっているもので。
レイラ・エインズワース(水底リライザー・f00284)にとっては、繰り返された狂気の一端だった。
どれも一様に悲しんでいる。呻いている。レイラのことを責め立てるそれは、未だ彼女が裡に飼う呪詛と同じ様相をかたどった。彼女を手にした者。或いはその狂騒によって、破滅の運命を与えられた者。
期待した。信じた。縋った。そうして皆、最後は天を仰いだ。
こんなはずではなかった――。
ずっと、レイラが飼ってきた罪過だ。身勝手な狂気と願(のろ)いは、幻燈に宿り渦巻く呪詛と変わった。斜陽の中に今も零れる、本体からの紫焔がその証だ。
けれど今は。
今は――それに足を止めたりはしない。
前に進む理由がある。固く握った手を引いて、共に歩く影がある。
レイラの歩調に合わせ、緩やかに道を往く匡もまた、同じような悲鳴を鼓膜に留めている。命乞いの悲鳴。助けを求める喘鳴。動かなくなった誰かを揺さぶる泣き声。痛みを堪える呻き。
動きを止める、最期の拍動。
聞こえすぎる耳では、感覚を鎖したところで拾い上げるものが多すぎた。人の心を持ってそれらを聞き届けるのは、生きてはおれないほどに苦しかった。まして彼は全てを克明に記憶してしまう。忘却に頼ることすら出来なかった。
だから匡は、心を鎖すことにした。
浮かんだものを端から沈めていれば、何も感じていないのと同じだ。何も感じないのなら、聞こえていないのと同じだ。
そうして――。
気付けば、何もかもが沈んで、手が届かなくなっていた。
不鮮明な水面の底に揺蕩うそれを茫然と見詰める日々だった。飛び込んで掬い上げることも、道具を使うことも、何も思いつかなかった。そのうちに殆ど見えなくなってしまったから、ないものだと思い込んで生きてきた。
けれど。
怨嗟の悲鳴が二人の足を止めないと悟ったか、斜陽が照らし出す怒号が止んだ。同時にかたどるのは、ひどく優しい忘れ得ぬ声だ。
狂気に陥る以前の、創造者の声。
この先にいるはずの、懐かしいひとの声。
振り向いたりはしない。歩みを止めるつもりもない。名を呼ぶ背後の影法師に、声を返すこともない。
代わり、匡は繋いだ手に力を込めて、レイラの名を呼んだ。
「大丈夫、レイラ?」
「ん、大丈夫」
浅く頷いた赤い眸が、隣で似たような声を聞いているのだろう彼を見上げる。覗き込むような眼差しで、レイラは笑んだ。
「そっちこそ、大丈夫?」
「俺は……今は、大丈夫」
「……そ、か」
今は。
――その言葉の意味するところを、拾えないはずはなかった。
この夕景もまた、彼が真に痛みと対峙するまでの道程にすぎない。
暫しの沈黙と共に足を運んだ。遠くから聞こえるチャイムをじっと見詰めて、ふいに匡が口を開く。
「ずっと、思ってたんだ」
戦場に出る度に。教えてくれたことを反芻する度に。隣にも、世界にも、もうどこにもいないことを噛み締める度に。
「あのひとが死んだのは俺のせいだって」
匡を庇って死んだ。
それは、彼がそこにいなければ発生し得なかったものだった。いつか人は終わる。それが戦場に立つ命であるなら、尚のこと。それでも、あの日に死が訪れなければ、彼女はもっと長く生きたはずだった。
どれほど否定しようと、どれほど否定されようと、それは揺るがぬ事実だ。
けれど――。
ひとが好きだった。
世界が好きだった。
「――だから、俺を守ってくれた」
命を愛していた。失われていくそれらを守るための手段として、それらを散らすことを選んだだけだった。それは、きっとずっと変わらぬ彼女の心根だ。
単純なことだったのだ。全ての責を自分で背負い込むのが簡単だったから、そうしただけだ。そう思っていなければ匡が潰れてしまいそうだったから、そう思い込むことにしただけだった。
握り返す小さな白い手を見る。
誰しもが背負うものを持っている。こんなに柔らかな掌にさえ、残酷な業は宿る。
その業に懐くものは――誰かが自分のせいにして、自分の領分に引き入れて、勝手に定義し直して良いものではない。
「あのひとの願いや、想いを、踏みにじってしまう気がするって――今は、思う」
「そうだね」
焦げ茶色の眼差しの奥に、揺れる凪色を見る。
恐ろしいほど静かだった水面は、ほんの少しの風で崩れてしまいそうに見えていた。けれど今の彼は、『誰か』を背負うのを止めた。
それが――レイラにとっては、ひどく嬉しい。
「起こったことはそうかもしれないケド、守った選択に、悔いはないと思うんダ」
守り切れなければ悔いが残ろう。何も遺らなければ悲しみが揺らごう。
『彼女』の守ったものは、そうはならなかった。
生きて、取り戻して、作り直した。未だ歪だというそれを、それでも確かに抱えている。レイラの手を強く握って、真っ直ぐに前を見て、凍てつく事実に向き合って――。
未来を見ている。
「こうして、残るものがあったんだからサ」
「……うん」
きっと『彼女』は、それを喜ぶだろう。レイラの確信は笑みとなって、軽やかで静かな声になる。
「誰かのせいってことは、きっとないんだヨ」
なぁんて、私もヒトに教えられるほどじゃないんだけどサ――。
永く生きていても、分からないものは分からないのだ。それだってとみに感じるようになったのは最近のことである。思わずと苦笑いを零す彼女の横顔を見遣り、匡は僅かに目を細めた。
「一緒に歩いてきたからわかったこと、気付いたら随分増えてたよな」
最初はレイラが手を引いていた。とうに擦り切れて消えてしまったと思っていたものに、一番に気付かせてくれたひと。少しだけ前に進んで、彼女の抱えるものを知って、己の心に根差した暖かな想いの源流に気付いて――今度は、彼の方から彼女の手を握った。
今は握り返してくれるこの手と一緒に、気付けば長いこと歩いて来たように思う。
灯った彩は増えた。共に歩む足は増えた。未だ分からぬことも、壊れて後戻りの出来ないものもある。それでも、彼女と重ねてきた全てを、同じ思いで受け止められる。
今、匡は幸福だ。
幽かな笑みを見上げて、レイラもまた頷いた。角灯の紫焔がゆらりと揺れる。
「……一緒にいて、分かったコト、共有できるのが嬉しいんダ」
人の命は儚い。
レイラが歩んで来た百年、彼と共にいられれば良い方だろう――そのくらいは分かっている。それでも、こうして一つ一つ灯した光が、彼女の影を照らしてくれる。
痛みも苦しみも、生きているうちに消えることはない。何れ来る別離は約束されている。歩んだ道程が長ければ長いほど、その傷は深くなるのだろう。
けれど。
こうして重ね合わせて、灯した光の数も、それだけ増えるから――。
「行こう」
「うん」
手を繋いで、歩幅を合わせて、前を向いて歩いて行く。
この先に待ち受ける、どんな痛みを呑み干してでも――。
――見たい未来は、繋いだ手の中にある。
大成功
🔵🔵🔵🔵🔵🔵
ベスティア・クローヴェル
1日の終わりを告げる鮮やかな赤
平穏な世界ならば、大人はその日の仕事を終えて、子供は楽しかった遊びを切り上げて、それぞれの家へと帰る時間
夕暮れは、幸せな家族の時間の始まりを告げる景色
そんな幸せなイメージの夕暮れには不釣り合いな声が聞こえ続けている
逃げ惑う人々の悲鳴や命乞いの声
勇気を振り絞って敵へと立ち向かう者たちの声
ここに足を踏み入れてからずっと
私の足を止めようとするならば、あの日に出来た傷口を抉るのが一番効率がいい
本当に、嫌味なくらい私のことを理解している
袖を掴まれて助けを乞われれば、振り解いて前へと進む
足に縋りつかれれば、足蹴にしてでも引きはがして前へと進む
克服出来たわけじゃない
未だ夢にみて悲鳴と共に目が覚めるし、幻覚だって見える
それでも、私は前に進まなければいけないから
そして気が付けば辺りは静寂に包まれていて、一番大切な友人の声が聞こえた
ここにいるわけがないとわかっていても、罠だとわかっていても
僅かでも可能性があるのなら私は立ち止まるしかない
本当にムカツクほど、私の弱点を理解してるな
●
一日が暮れていく。
故郷には存在し得なかったその時間帯が、安穏を享受しうる世においてどう受け止められるものなのか、ベスティア・クローヴェル(salida del sol・f05323)はよく知っているつもりだ。
仕事を終えた大人が、ようやく重責から解放されて家へと急ぐ時間。友人たちとの楽しい遊びを切り上げた子供が、名残惜しく明日への約束を灯す時間。鮮やかな赤は、今日の終わりと同時に家族の始まりを告げる色だ。
それに――。
ひどく不釣り合いな声が、ベスティアを呼んでいる。
助けて。許してください。私は良いからこの子だけはどうか。死にたくない。苦しい。痛い。どうしてこんな目に。
ふざけるな。俺たちだってやれるんだ。せめてあいつだけでも。死なば諸共だ。
ずっと聞こえている。この道に来て、歩き始めたときからずっと。
袖を掴むのは傷だらけの女の手だ。血に塗れたそれが泣きながら助けを乞うているのを、ベスティアの腕が振りほどく。足に縋り付くのは既に息も絶え絶えの子供のようだった。泣きじゃくりながら彼女を止めようとする手を踏んで、足を尚も前に出す。
とうに呑み干した痛みだ。
――などと言える日は、一生涯来ないだろう。
ちょうどこの夕陽と同じ、永劫の時間に取り残された村の話だ。とうに滅んだそこで繰り返されるのは、穏やかな斜陽に照らされる何のことはない一日などではなかった。
まさに滅びるその瞬間――無辜の村人が死に瀕する刹那。その苦痛を終わらせるために、自らの手で虐殺を働くことこそが、課せられた任務だった。
今も思い出す。子供を抱えて固く縮こまる母の震えた命乞いを。妻を守るために剣を手にし、敵うはずのない者へ向かい来る夫の鬨の声を。轟々と焼ける炎の熱を、黒煙の香りを、怒号を、悲鳴を、絶望を。
――死にたくない。
誰しもが抱く執心で、とうに亡くした生に縋った少女を。
目を閉じて眠りに就けば、その最中に取り残される。あの日と同じように物陰で震えながら息をすることもあったし、手にした剣を落とさずに、あの日に殺さなかった誰かを殺すこともあった。
深い眠りの中に見える幻覚ならばまだ良い。街を歩いているときも、一人居城にいるときも、ふいに瞼裏に炎がひらめくことがある。そうなればもう、彼女はあの絶望の怒号の中に再び取り込まれるほかない。
それでも。
ベスティアは足を止めない。止められない。己一人の心痛の他に、ここで止まって良い理由がない。翻り、前に行かねばならない理由は溢れるほどにここにある。
目も耳も伏せてはいなかった。それなのにもう、聞こえても見えてもいなかったのだろう。息を止め、無我夢中で振り切るうちに、気付けば何の音もしなくなっていた。
代わり、軽やかな一つの気配だけが鮮明になる。酸鼻な記憶で足を引けぬと知れば、黄昏が『代役』を用意するのは道理だ。
柔らかな声がする。
――ベスティアさん。
足が軋む。脳裡にまざまざと描いた彼女の気配が、たちどころに形を持っていく。後方から駆け寄ってくるそれはまやかしだ。この夕景が、ベスティアを呑むために用意した、逢魔が時の影法師にすぎない。
分かっている。
分かっている――けれど。
もしかしたら。もしかしたら本物の彼女がいるのかもしれない。本当にベスティアを呼び止めようとしているのかもしれない。たとえ天文学的な確率であっても、そこに否定し得ない要素があるのなら、ベスティアは。
足を止めるしかない。
振り返らなかったのは、せめてもの抵抗だった。足音が大きくなる。同時に、目の前を照らす西日が少しずつ迫ってくる。影が伸びていく。
目を灼く閃光の如き紅色が、ベスティアを呑まんと舌舐めずりをする。
奥歯を噛み締めたのが何のせいだったか、よく分からない。苛立ちすら覚える逢魔が時の投影か。それとも、そうと知りながら振り払えもせぬ己の弱さか。
他の猟兵たちがこの理に干渉したとみえる。少しずつ揺らぎ、崩れていく紅の向こうから、誰より大切な友人の形をした足音が迫る。
斜陽が、嗤っている。
大成功
🔵🔵🔵
百鳥・円
○
赤く燃える焔のような夕焼け
“かえらなくてはいけない”
本能的にそんな思考が働いてしまう
――かえる? 何処へ?
桜世界に構えた拠点は畳んだ
新たな住居を定めるまでの日々
綺麗な宿屋を転々としていると言うのに
わたしは、何処へと帰ればいいの
――わたしたちの還る場所は、ひとつきり
初めから選択肢など無いのだと
そう切り捨てるような声が響く
妹は、邪神の欠片は回帰を望む
それ以外を知りもしないと言うように
それが正しいこと
砕け散った百を、一へと戻す
そう、それが正しい筈だったんです
けれど……わたしは望んでしまった
わたしの生を全うしたい、と
現れる分岐の先に現れるもの
噎せ返るような臭い
夥しいほどの血痕
先程のわたし――胡蝶の夢が追ったもの
“あの姿”が、赤い海に浮かんでいる
初めて観る惨状なのに
胸が痛くて、苦しくて、張り裂けてしまいそう
同時に俯瞰的に見下ろす心もある
――ねえ、周。聴こえていますか
わたしは、彼女を本当の意味で救いたい
あなたが彼女から授かった力を、貸して
赤い景色が、朱い花の焔で灼かれてゆく
進まなくては――現実へ
●
かえらなくては――。
彼岸花のようにあかあかと燃える夕景を仰ぎ、歪んだチャイムの音を聞きながら、百鳥・円(華回帰・f10932)は茫洋とそう思った。
夕陽とは何故、人の足をこんなにも急がせるのか。夜はまざりの半身の本領だ。であらば夜歩きが恐ろしいことにはなり得ない。それなのに、こうして斜陽に照らされると、今にも帰らなくてはいけないような心地がする。
かえる。
――何処へ?
不枯の桜が咲き誇る世界に、長く留まったことがあった。
それも過去の話だ。今は次の拠点を定めるまで、仮宿を渡り歩いている。心を強く揺さぶるような場所があれば――と思っているうちに、随分と長いこと、そういう暮らしを続けてきた。
仮宿を家とは呼ぶまい。ならば円に、帰る場所などない。
ひとつを除いて――。
耳許で囁くのは誰の声だったのだろうか。今も従える妹だったのか、或いはそれをかたどった影法師だったのか。そうでなければ、あの幻影の中から聞こえる残響か。
――わたしたちの還る場所は、ひとつきり。
最初から、そうなるはずだった。
そうなるために生まれた。百と散った邪神(はは)がいなければ、そも円も累も生まれることすらなかった。
皮肉なものだ。
生を受けたときには、もう生を終えることを宿命づけられていたとは――。
――まるで、人間のようではないか。
どこから聞こえるのかも分からなかったそれに、妹の声が重なる。今度ははっきりと聞き取れた。母に回帰する。百の欠片は集まり、誂えられた器に宿った。成るだけだ。後は。
『母』に。
妹はどこまでも無垢に回帰を望む。それ以外は最初から用意されていないかのように。他の世界のことなど、一つも知らぬとばかりに。
その忠実さが――円との差異で。
円の身に宿されたひとさじのまざりが、遠ざけたものだったのかもしれない。
理論のうえで正しいことが、全て感情のうえで受け入れられるものとは限らない。宿した心とはひどく厄介な矛盾を孕んでいる。正しさを正しいと知りながら、それを善と定めることも出来ない。
望んでしまった。
百を以て回帰の一を成すよりも、百と散ったうちの一に、しがみ付いていたくなった。
円は『円』でありたい。母でも欠片でもない、ただ一つの命として。
足を止めない姉を、妹はひどく不服そうに見ていた。けれど足が止まらぬとみれば、それを咎めることもしないまま、大人しく後ろをついてくる。
現れた分岐には惑わされない。四つ辻の左右には目もくれず、真っ直ぐに歩む娘の足取りの前に――。
一面に広がる紅が待っている。
斜陽のそれとは違う、ひどく重苦しい赫だった。床も、壁も、一面が朱に塗られたその空間に、乾きかけた粘つく鮮紅と噎せ返るような鉄錆のにおいが満ちている。
その中央に、倒れ伏しているのは――。
見たことのない光景だった。円の知る『彼』からは想像も出来なかった。それなのに、息絶えた体から目が離せない。
胸が掻き毟られるように痛む。声が枯れるほど叫びたかった。名前を呼んで、頽れて、取り縋って、それから。
紅から逃れられなかった蒼い胡蝶が、望みと絶望で円の胸を叩く。勝手に痛む心臓を掴むように握り込めば、その向こうで規則的に鳴る、ひどく冷めた心拍が伝わる。
「――ねえ、周」
叫ぶことはしなかった。
「聴こえていますか」
心の奥底で悲鳴を上げる彼女が、足を止めようとしているのを思う。それすらも円にとっては、どこか一枚の薄膜で包まれた悲劇のように感ぜられた。だから、浮かぶ感情を切り分けて、己のそれを拾い上げることなど造作もなかった。
救いたい。
まやかしの、ただ一になるだけの表面的な『すくい』を、円は許容出来ない。それがただ文字をなぞるだけのハッピーエンドであると理解したのも、彼女がまさしく一個体となったからなのだろう。
――そのためには、円ではない者の力が必要だ。
――とても悔しいが。
『彼女』が明け渡したものの一つ。『彼』の裡に灯ったそれに、彼女は投げかける。
「力を、貸して」
咲き誇るのは曼珠沙華。彼岸の花が重苦しい紅を燃やし尽くして、牢中の娘を解き放つ。
かえらなくては。
彼女を真に救いうる、現実へ。
瑠璃色が空を支配するまで――足は止まらなかった。
大成功
🔵🔵🔵
朧・ユェー
【月光】◯
真っ赤な世界
ドクンと動悸がする
早く抜け出さないと…
どうやらこの道を進まないといけない様ですね
誰かの声がする
助けを求める声
気に留めず足を進める
皆、僕を優しいと言ってくれる
でも僕は元々冷めた部分がある
少しずつ変わってるけど
大切だと思った人以外はまだ変わらない部分
ユェー、何処へ行くの?
またあの人か
母という人があの男では無く僕の名を呼ぶ
先程の幻影を見たせいか少し戸惑う事があるも
あの人に限ってそんな事はあり得ないと進む足を止めない
そっと小さな手が僕の手を握る
この感触はあの子だ
「パパ、そっちじゃないよ。こっち」
小さな手はくぃくぃと違う方へと
あの子を使うとは卑怯ですね
小さな手はあの暖かさは無い
その手を振り払うと
「ひどい、ひどいパパ。パパなんか大嫌い」
……嗚呼
違う……この子はあの子じゃない
どんな事があってもあの子は僕を否定などしない
自分よりも僕を優先してどんな道でも一緒に行く子
そして僕に大嫌いなど言わない
あの子は大丈夫だろうか?
きっと不安になっているはず
愛おしい僕の娘
この進んだ先にあの子がいる
ルーシー・ブルーベル
【月光】〇
この小径を進むのね
黄昏はキライじゃない
ルーと初めて言葉を交わしたのが黄昏の中だった
今のあなたが憶えているかは分からないけれど
あの時わたし、やっとね
ルーと仲良くなれるかもって思ったの
でもこの空はよくない感じがする
道が青い花びらで埋め尽くされている
ごめんなさいと言いながら踏み行く
レイラお母さまが「裁縫を教えてあげる」と囁く声がする
ララを抱きしめて足早にルーの後を追う
手にふれる優しい手
本当のお母さまがを呼ぶ声がする
『わたし』の、
名、を
逃げる様に駆けていく
けれど、
『ルーシーちゃん、おいで』
その声は、
今、一番聞きたいその声は
ずるい、よ
視界が滲んだ
最近、涙の温かさを知ったばかりで
簡単に溢れそうになる
『もう進まなくて大丈夫ですよ。おいで』
違う、ちがう
ゆぇパパは進まなくていいなんて言わないわ
見守って、手をつないで
いっしょに歩いて下さる
それがパパよ!
息が切らしながら走る
ルーも隣を翔けている
あなたもそう思う?
本当のパパはきっとこの先
それまでに涙は拭っておかないと
大好きなパパと再会する時は笑顔がいい
●
赤は嫌いだ。
不規則に鳴った心臓に急かされるように、朧・ユェー(零月ノ鬼・f06712)は足早に歩き出した。
紅色に染まる小径の土を強く蹴る。彼が足を進めれば進めるだけ、夕陽は沈んでいく。その向こう側から、さやさやと音がし始めた。
――誰かが助けを求めている。
悲鳴。喘鳴。怒号。泣き声。全てが渾然一体となって、瞬く間にユェーの背後に迫るのを感じる。影法師たちが伸ばした手が裾に触れることすら許さず、彼は歩調を乱さず前に行く。
ユェーを――。
皆は、優しいという。
それを嬉しく思う反面、殆ど騙しているように思う。人当たりの良さの奥に隠しているのは冷然とした心だ。無辜の誰かが目の前で殺されたところで、それが何の面識もない者であったなら、彼は心を乱すことすらないだろう。
昔は――大切だと思った者にさえ、きっと乱されることはなかった。
目を閉じれば瞼裏に浮かぶ数々の顔が、ユェーを変えた。気付けば手放せないものは増え、喪失を恐れるものばかりになっていた。それを強さと呼ぶにしろ、或いは弱さと呼ぶにしろ、厭うことはない。
だが。
それ以外のものが壊れていくことに、興味はない。
止まらぬ足を縫い付けるため、黄昏は次なる手を打ち出した。耳許で囁くように、優しい声が名を呼ぶ。
「ユェー」
――ああ。
――またあの人か。
「何処へ行くの?」
戻っておいでと呼ばう音は柔らかい。終ぞ息子を認識しなかった女が、正しくユェーの名を呼んで、他でもないユェーに愛情を向けている。
それが――。
振り切れなかった時分は、もうとうに終わってしまった。
いつか欲した母の愛に、今も心は揺らいだ。あの頃と同じ幻影を見せつけられたせいか、動揺と共に僅かに足は縺れるが、それだけだ。
あり得るはずがないものに縋るほど子供ではない。嵐の如く荒らされた部屋で倒れた人は、そんな風にユェーを呼ばない。たとえもう一度やり直そうとも。彼がどんな選択を取ろうとも。彼女の中にある愛は、彼女を置いていったたった一人にしか向けられていないのだ。
藍色が次第に天蓋を覆う。いよいよ焦ったと思しき西日が、男の手をそっと握った。
「パパ」
あどけない声。
柔らかな掌も間違えようがない。共にここに来て、今は別れた、あの子だ。
「パパ、そっちじゃないよ。こっち」
――卑怯ですね。
振り返ることを乞うように、少女の指先が別の方向を示してユェーを引いている。だが暖かいはずの手に血は通わず、どこかとってつけたような温度が表面を流れているだけだ。精巧に真似られた声も、心の灯らぬ空々しさで以て耳に響く。
全く。
彼女を使えば、彼が絆されると思ったか。誰よりも傍にいる娘を間違えるはずがないだろうに。
応えることも向き直ることもせず、その小さな手を振り払う。ぱしりと音がして指が離れた途端、息を呑んだような音がした。
「――ひどい」
さも傷付いたとばかり、涙の気配を湛えて揺らぐ声が、耳許でまざまざと聞こえるようだった。震える声も大仰で、まるで芝居のようだ。そうして、見えない少女の声が叫ぶ。
「ひどいパパ。パパなんか大嫌い!」
違う――。
やはり、彼女ではない。
たとえ拒絶せねばならないようなことがあったとて、彼女は駄々を捏ねたりしない。こんな風に泣き叫ぶなどもっての外だ。どんなに辛くとも、どんなに苦しくとも、彼女はユェーの意志を尊重する。もっと我儘を覚えても良いと思うくらいに。
どんなときにも、先に何が待っていようとも、笑ってこの手を握ってくれる。そうしてその小さい歩幅で、彼と一緒に行こうとするのだ。
何より――。
大嫌いなどという言葉を、ユェーに向けて発したりはしない。
泣き声を背に、迷いなく歩き出す。今も一人で歩いているのだろう彼女のことの方がずっと心配だった。こんな風に揺らがされれば、未だ小さく柔らかな心は傷付くだろう。きっと不安にもなるはずだ。決して足は止めないだろうけれど――。
泣いているかもしれない。
そう思えば、すぐにでも抱き締めてやりたくなる。愛おしい娘。ユェーをパパと呼び慕ってくれる、背伸びが得意な寂しがり。
この道の先で――。
彼女に会える。
真っ直ぐに睨んだ黄昏に向けて、一歩を強く踏み出す。藍色を連れて、日が暮れる。
●
黄昏のことは嫌いじゃなかった。
「今のあなたが憶えているかは分からないけれど――」
一歩一歩を小さな足で踏みしめながら、ルーシー・ブルーベル(ミオソティス・f11656)は隣の気配に話しかける。
舞う燐光の蝶に宿った魂と、一番最初に声を交した時間。斜陽の罠だと分かって、心の奥底にしまっていたひどいことを言って、謝って――抱き締めたのは、こんな赤い光の中でのことだった。
「あの時、わたし」
ようやく。
もういなくなってしまった女の子と。心のどこかに抱えた虚しさの先にいた、そのひとと。
「ルーと仲良くなれるかもって思ったの」
けれど、今の光はあのときのように優しくはない。
見上げた逢魔が時の中、急かすように蝶が舞う。きっと彼女も同じことを思っているに違いない。背筋を逆撫でするような嫌な感覚に支配される前に、腕の中のぬいぐるみを抱き締めて、ルーシーは歩き出した。
その眼前、ふいに開けた場所で――。
夥しい数の花弁が道を埋めている。青々としたそれが『何』を意味するのか、目を背けていられた頃はもう終わった。
それでも、足を止めるわけにはいかない。一度強く目を瞑って、前に出した一歩で踏みしだく。
「――ごめんなさい」
ルーシーの罪の象徴が、足の下で鳴っている。長く長く続いた蒼い道を越えた先で、今度は優しい声が耳朶を揺らした。
「裁縫を教えてあげる」
レイラお母様――。
ルーシーに初めての親友をくれたひと。あまりにも穏やかに呼ぶものだから、ともすれば振り返ってしまいそうになる彼女を引き留めるように、目の前をポピーのような蝶が舞った。
強く強く、腕の中のうさぎを抱き締める。前を急ぐルーだけを見て、息を止めて走り抜ければ、何も聞こえないような気がした。遠ざかる声を置き去りにしたルーシーを、今度は触れる柔らかな感覚が押し留めようとする。
そっと手が回ってくる。はっと落とした視線の先で、白くなるほど握り締めたルーシーの指先を労るように、暖かな掌が撫でている。
聞いたことは――多くなくて。
けれど決して忘れられないと直感する声が、優しく優しく頭を撫でて。
――呼ぶ。
「ララ」
弾かれたように、ルーシーは走り出した。同じ名の青いぬいぐるみに縋るように、目の前で心配げに揺らぐ燐光だけを目指す。
心臓が爆発しそうに逸るのも、息がひどく乱れるのも、細い呼吸音が恐怖するように鋭く鳴るのも、きっと走っているからだけではない。それを強く感じながら、同時に振り払うように、少女は逃げた。黄昏から。逢魔が時から。己の心を透かす西日から。
いよいよ息を吸っているのか吐いているのかすら分からなくなる。足許さえ覚束なくなって来た頃、少しだけ冷静さを取り戻した耳朶が、はっきりとその音を捉えた。
『ルーシーちゃん、おいで』
足が軋んで止まりそうになった。無理矢理に動かす代償に、目の前が滲んで揺らぐ。
ずるい。
――ずるいよ。
今すぐにその声に飛び込んでしまいたくなる。優しくて暖かな手。広い胸。いつもルーシーを抱き締めてくれる腕。不安と恐怖で潰れてしまいそうな心を、いつものように慰めて欲しくて堪らない。
いつの間にか、随分と弱くなっていた。先からずっと我慢していたのに、零しちゃいけないと律したことすら忘れていた涙が、この身に馴染んだ温もりを求めて容易く溢れそうになる。
けれど。
『もう進まなくて大丈夫ですよ。おいで』
優しい声が――。
ルーシーの心の奥底に、冷静な温度を取り戻させる。
「――違う」
これは『パパ』じゃない。
「ゆぇパパは進まなくていいなんて言わないわ」
彼女が進むと決めたのに、その手を引いて留めたりはしない。そんな風に泥濘の中に溺れていくことを、よしとする人ではない。
後ろから見守って。
呼べば当たり前のように手を繋いでくれて。
小さな歩幅に合わせて、一緒に道を歩いてくれる――。
「それがパパよ!」
思い切り叫ぶと同時、一気に体が軽くなる。
気付けば呼吸も楽になっていた。隣でひらめく魂の蝶が、まるで夕焼けを威嚇するように大きく翅を広げるから、ルーシーは涙を溢れさせたままで笑った。
「あなたもそう思う?」
そうだ。本当のパパに会うために、彼女たちは走っているのだ。夕暮れの幻、誰かも分からない影法師からその声がしたって、足は止まらない。騙されない。
零れ続ける大粒の涙を、裾が汚れるのも構わずに拭った。沈みかけた夕陽を真っ直ぐに睨む。あの空が瑠璃色に染まるまでに、泣き止まなくては。
泣いてはいけないからなんて、悲しい理由じゃなくて――。
――大好きなパパの胸には、とびきりの笑顔で飛び込みたいから。
大成功
🔵🔵🔵🔵🔵🔵
シキ・ジルモント
○
チャイムが聞こえて、ようやく道に気付いて歩き出す
帰り道はあちらのようだ
とにかく前へ進む、まずは仕事だ
標的を倒し仕事を終えて、帰らなければ
…子供の声が聞こえる
先に聞いた声と同じ、かつての仲間たちの声がする
“化け物のお前に、帰る場所なんてあるのか?”
“人の近くにいれば傷付けるかもしれないって分かってるくせに”
“危険な化け物を閉じ込めるなら、この場所はちょうど良いだろ?”
そうだ、確かにこの声の言う通りだ
危険と分かっていながら、それでも良いと言って居場所をくれる優しさに甘えている
ここに留まれば他者に危害を及ぼすことは無い
鳥籠、か…成程、獣の檻には適している
…こんな自分が、帰ってもいいのだろうか
そう考えて止まりかけた足を、意識して動かす
考えながらでも遅くても構わない、止まらぬように一歩ずつ
ここを抜けても、ずっと考え続けるのかもしれない
それでいいと思える日は来ないのかもしれない
それでも、帰りたいのだと
誤魔化しようもなく望んでしまっていると自覚して
だからこの望みが消えない限り、足を止めるつもりは無い
●
歪なチャイムの音で、白昼夢から目を醒ます。
ようやく己の意志で呼吸が出来たような気がした。一気に明瞭になった視界いっぱいに斜陽が映り、シキ・ジルモント(人狼のガンナー・f09107)は振り払うように首を横に振る。
――今は、仕事の最中だ。
感傷に溺れている暇も、過去の幻影に追い立てられている場合でもない。眼前の道を未だはっきりとしない頭で見詰めてから、彼はゆっくりと顔を上げた。
西日が世界を照らしている。
招くように音がする。踏み出した一歩に引き摺られるように、足は自然とその先を目指した。
帰らなくては。この向こうで待っているという目標を斃し、すぐにでも。
一心に歩くシキの耳に、さやさやと音が届いた。否――音というには指向性を持ちすぎたそれが何なのか、狼の耳は不幸にもよく拾ってしまう。
声だ。
子供の声がする。
嫌というほど記憶に染み付いたそれが、誰のものなのかはすぐに分かった。背筋を悪寒が遡る。振り切るように足を動かし、奥歯を食い縛るシキを嘲笑うように、彼らはその心に爪を立て始めた。
――化け物のお前に、帰る場所なんてあるのか?
足が軋んだ音を立てた気がした。
辛うじて止まらずに済んだそれを、必死に前に出す。今や忌々しい思い出に変わってしまった声が、振り切らんとする彼の足取りを追ってせせら笑う。
――人の近くにいれば傷付けるかもしれないって分かってるくせに。
――危険な化け物を閉じ込めるなら、この場所はちょうど良いだろ?
そうだ。
ずっと心の裡に蟠っていた不安が、嗤う孤児たちに掻き立てられていく。その通りだ。シキとてそう思っていたはずだったのだ。この恐ろしい力が、制御の箍が外れれば誰もの肉を引き裂くであろう爪が、牙が、誰かを傷付けることのないように。
だというのに、このざまだ。この身が齎すであろう自体を誰より知りながら、甘えを捨てられない。笑いかけてくれる顔に、差し伸べられる手に――何よりも、それでも良いと抱き締めてくれる腕に、甘えている。
ここにいればいい。留まり続ければ願いは叶うと、嗤い声は誘う。鍵の壊れた鳥籠。内から開けぬ獣の檻。この爪牙で破壊することの叶わぬそれは、成程、化け物を閉じ込めておくには十全だろう。
一度自虐に傾いた思考を取り戻すのは容易ではない。膨れ上がった疑念が己を覆い尽くすように、背に確かな重みとしてのしかかる。
帰って良いのか。
傷付けるやもしれない。血溜まりに沈む姿など見たくもない。常は安堵と緊張の綯い交ぜになった甘い心地を与えてくれる柔らかな感触を、引き裂くことなど考えたくもない。
ならばいっそ――。
――考えを振り切るように、シキは大きく頭を横に振った。
気付けば足は止まろうとしている。ほとんど前に進んでいないではないか。地を蹴る感触に意識を向けて、深く一歩を踏み出す。
思考の波濤は幾重にも意識を攫おうとする。声はそれを掻き立てるように響く。揉まれようとも、呑まれることだけはせぬように、男は深く息を吐いた。
きっと――。
この思考に終わりはないだろう。元よりずっと心の底で考え続けてきたことである。この夕景に、たまたま強く呼び起こされてしまっただけのそれが、終わる日などきっと来ない。ここを抜けて、帰るべき場所に帰ったとしても、シキの脳の奥で不安となって蟠り続けるのだろう。
それで良かったのだと思える日も、来ないのかもしれない。選んだことを後悔し、打ち消して、また黙考に沈む。及び腰の態度も、柔らかな温もりを引き裂く日を想起して身震いするのも、変わりはしないのかもしれない。
それでも。
――それでも、帰りたい。
暖かな居場所へただいまを告げたい。必ず帰ると言った声にはおかえりを言いたい。ただそれだけの、どうしようもなく瑣末な望みを、捨てることすら叶わないから――。
前に進み続ける。この祈りのような願いが、心の灯火が、掻き消えてしまうような日が訪れるまで。
せせら嗤う子供たちの声を置き去りに、男の足は進む。
帰るべき場所を目指して――ただ。
大成功
🔵🔵🔵
クロム・エルフェルト
○
隠れ郷を出て流浪していた頃に見た気がする
遠方に霞む山まで続くような原野の一本道
然し夕陽に照らされた黄金色でなく
ともすれば不安を覚えるような赤い色
そしてこの不協和音が示すは明かな異界
何人の呼び声であろうと
脚を止めぬと誓いを立てて進みたい
――私を呼ぶ声は、愛しきみ
でも残念、ほんの少しの声の歪みも
狐耳は聞き落さないよ
森亘る鑢の声
豹鎧の電子の声
硬き烈志の声
此処に導いて呉れた竜の声
嗚呼、此の場が原野で良かった
敬愛すれども縁未だ浅き彼らの声は
雑踏であったならば
足を止めて居たやも知れぬ
クロム殿、助けて下され
里に、またあの鬼が――
――ッ、……!
憑紅摸の柄を強く握りしめ
止まる寸前で辛うじて足を前に出す
あの件以来、里には寄らずとも
周辺の哨戒は何度もしている
つい先日も異常は無かったもの
お師様も同じように歩いて居られるのだろうか
今も猟兵の予知の網を逃れつつ
何処かを流離っているのなら
このように誰の呼び声にも耳を傾けず
唯独りきり、進んで居られるのだろうか
――じいじ
それは、あまりにもさびしいよ
●
あてどなく歩いた道に、よく似ている。
あの頃の記憶は既にどこか曖昧だ。けれど、クロム・エルフェルト(縮地灼閃の剣狐・f09031)の眼前に続くその道は、確かに見覚えのある代物だった。
遠く霞んだ山並みが、彼方に揺らぐ。終わりの見えない原野に敷かれた一本の道は、辿ればそこに至るような気さえするほど長々と続いている。けれど嘗て同じように辿った道の向こうからは、耳障りな音が響いていた。
斜陽が照らす景色には、実りの如き黄金は見当たらない。代わりにどこまでも紅色が差し込んでいる。不気味にすら思えるその小径は、正しくクロムが異界に在ることを告げている。
振り返ってはならない。
足を止めてもならない。
ほとんど直感と言って良い警鐘を、彼女が切り捨てることはない。例え誰の声がしようとも、何が袖を引こうとも、立ち止まることはせぬと心に刻む。
血のような紅の間を歩む剣狐の耳を、掠める音がある。気付いた途端に質量を持ち始めたそれが、背後で影法師となって手招くのを感じた。
――クロムさん。
聞き違えようはずもない。
想いを通じた愛しきみ。優しくクロムの名を呼ぶ声に、自然と瞼裏を黒い髪が過る。
けれど――。
普段であれば甘く胸を締め付けるその声も、とってつけたような表面をなぞるだけでは、何らの動揺も齎さない。まるで鳥の声真似のような幽かな歪みが、ぴんと立った狐耳にしかと聞こえている。
前を行くクロムを、数多の声が引き寄せようとする。あかがねの落星の鑢に似た音。しなやかな黒豹が立てるノイズ混じりの電子の声。ともすれば聞き逃してしまうであろうほどに低い硬質な剣士の呼びかけ。大きく手を振るかの如き灰竜の朗々とした音色。
未だ縁は深くない。それでも尊敬の念で見る彼らのそれは、ここが雑踏と縁遠い原野でなければ、女の足を止めるに充分すぎるものだったろう。
だが、ここではいるはずもない。
影法師たちは、次の一手に僅か悩んだようだった。遠ざかっていく背後の気配と、少しずつ藍色に染まっていく空の狭間で、クロムはゆらりと尾を揺らす。
嫌な予感がするとほぼ同時――。
「クロム殿!」
悲鳴にも似た男の声が、後ろから駆けてくる。
「助けて下され! 里に、またあの鬼が――」
振り――返りそうになった。
奥歯を噛み締める。腰に佩いた剣の柄を強く握る。そうすることでようやく押し留められた吐息と共に、軋んだ足を一歩前に出す。
止まりはしなかった。振り返りもしなかった――けれど。
早鐘を打つ心臓に言い聞かせる。大丈夫だ。かの惨禍を退けてから、あの刀鍛治の里には立ち寄らぬまでも、個人的な哨戒には幾度も足を運んだ。次の事件が予知に掛かる保証もないからと続けているそれに、つい先日も従事した。
事件はおろか、その予兆さえも見て取れぬほど、平穏そのものだったのだから――そんなことはあるはずがない。
影法師の声が遠ざかれば、クロムもまた落ち着きを取り戻す。深く深く息を吐いて、見上げた空は少しずつ瑠璃色に染まりつつあった。
――思うのは、今なお行方の知れぬ、たった一人のひとのこと。
お師様――。
彼も斯様に道を往くのだろうか。張り巡らされた予知の合間を潜りながら、クロムの知らぬどこかを彷徨っているのだろうか。
夜を待ち、朝を待ち、最早人であることから離れすぎた過去の波濤として――世を殺すための刃を佩いて、あてどもなく空を見るのだろうか。
誰に名を呼ばれることもなく。
誰の声に耳を傾けることもなく。
ただ独り――この世界を滅ぼすものの一端として――。
「――じいじ」
ぽつりと零れた声は、剥き出しの少女のそれによく似ていた。
侍である前に、剣狐である前に、クロムは彼の娘で、孫で、弟子だった。
もう撫でられることのない大きな手が、誰の手も握らずに血に染まることも。優しくて穏やかだった目が、鋭い光を孕んで孤独に空を睨むのも。
想像をするだけで――。
「それは、あまりにもさびしいよ」
泣き出しそうな声音がどこまでも広い原野に響く。幻の呼び声を振り切った剣狐は、見上げた空の藍色に、ただ唇を引き結んだ。
大成功
🔵🔵🔵
ウィータ・モーテル
〇◇
いつもは、ユランと一緒に旅をする日々。
今はサクラミラージュにしか、影朧を、オブリビオンを救う方法がない。どの世界でも、オブリビオンを助けたい……死霊術とかあるけれど、そうじゃなくて。
沢山の世界を歩き回る。沢山の人と交流して、危ない目に合うこともある。
そんな時は、よくユランに助けてもらうのだけど。
美味しいご飯をもらったり、たまたま一緒にいた猟兵の人と交流したり。
……そうして、一日はすぐに終わっていく。
今は、前にだけ進まないといけない。
親切な人、宿を提供してくれるとありがたい申し出をしてくれる人、こんな時間だからお腹も空くだろうと軽食をくれる人、
……ヴィータの街の人達。お父さん、お母さん……
「だめだよ、ウィータ」
うん、大丈夫。
乱暴に手を引かれそうになったり、足止めされそうになったりするけど、
「僕のウィータの邪魔、しないでくれる?」
それをユランが、大鎌で薙ぎ払ってくれる。
いつもありがとう、ユラン。
「どーいたしまして♪」
日暮れになるまで、ちゃんと真っ直ぐ進むよ。
助けると決めた「覚悟」を胸に。
●
あかあかと、斜陽が小径に降り注いでいる。
いつものように影を落とすウィータ・モーテル(死を誘う救い手・f27788)の隣には、これもまた常のように黒猫が控えた。夕陽と同じ、紅色の目をした猫をちらと見て、少女の足は前に出る。
この旅路は、生きる者を救うためだけのそれではなかった。
桜の枯れない世界には、死者さえ救済するすべがある。ならば他の世界にもあるのかもしれない――細い希望の糸を辿るようなそれを、ウィータはひたむきに歩んだ。
たとえ過去の波濤となり、この世界を蹂躙するために這い出てくる存在だとしても、彼らには生きた時間があった。それは必ずしも世を恨むような時間ではないし、時には黄泉返る彼らが、死してなお苦しむ者であることもあった。
――オブリビオンを助けたい。
彼女の操る死霊術ではない、もっと確かな手段で。扱う術はあくまでただの使役に過ぎず、本質的な救済とはなり得ないのだから。
真っ直ぐな思いのままに進んできた道程は、決して美しいばかりではなかった。それは戦いの記憶と殆ど同じだからだ。足許の黒猫に助けられたことも、一度や二度ではない。
けれど――。
その中には確かに暖かな記憶が息づいている。
例えば。
想起した折から影法師が滲み出す。進まなくてはならないと意を固め、足早に道を往く少女を捕えるべく、甘言を耳朶へと滑り込ませるのだ。
美味しい食事をご馳走してもらったこと。
仕事を一にしたり、或いは偶然に行き会った猟兵たちと、思念の声を交すこと。
そういう柔らかな記憶をなぞるように、一日の終わりを拒んで染み出した影たちの声が、耳を撫でていく。
女の子の一人歩きは危ないよ。そう言って優しく顔を覗き込む、買い物帰りと思しき主婦がいる。もうじき日が暮れるから泊まっていきなよ。いつの間にか現れた家の前で、そこに住んでいるらしい夫婦が手を差し伸べてくれている。お腹空いたらこれ食べてよ。小さな子供が、柔らかな手に持ったサンドイッチを手渡そうとしている。
それから。
それから――。
ウィータの名前を呼んでいる。手を振っている。先程振り切ったはずの幻影が、その優しくて暖かな声が、皆で手招きをしている。
もう遅いよ。戻っておいで。出発は明日にしたらどうだ。こっちで一緒に遊ぼう。
聞き慣れた人々の声を、歯を食い縛って振り切る。もういないのだと分かっている。あの一日から踵を返したのだから、今度だって出来るはずだ。けれど。
夕食を作ったから、一緒に食べようと。
――お母さんが言う。
ほらほつれているところがあるよ、直してもらおうと。
――お父さんが笑う。
「だめだよ、ウィータ」
小さく息を呑んで、少女は足許を見た。
誓約を交わした黒猫の、紅色をしたその目が、じっとウィータを見詰めていた。辛うじて止まることのなかった足を動かすまま、彼女は浅く頷いた。
――うん、大丈夫。
過去は過去だ。どれほどの旧懐が胸の裡を引っ掻いたとしても、どれだけ祈り願ったとしても、時間の戻ることがない限り、そこに戻れることはない。
だから――。
ついに痺れを切らした影法師たちは、とうとうウィータへ手を伸ばす。ほらこっちにおいでよ――優しい声と裏腹に、乱暴な手つきが腕を引く。足許に絡みつくように影が泡立つ。
それを。
「僕のウィータの邪魔、しないでくれる?」
大鎌が薙ぐ。
黒い髪、赤い眸の少年が、いつの間にかそこに立っている。手にした鎌を易々と振るうその姿に、ウィータはゆるゆると瞬いた。
――いつもありがとう、ユラン。
「どーいたしまして♪」
手慣れた所作で得物を回した彼は、にこりと笑うなり黒猫へと変じた。そのまま先導するように揺れる尾を追って、少女もまた歩み出す。
この紅が藍色を呼ぶまで、振り向くことも、歩みを止めることもしない。真っ直ぐに、目指すべき場所を目指して歩いていく。
胸に当てた手の奥に、確かな灯火を感じている。決めた覚悟は裏切らない。この心に宿した存在意義を、今再び刻み込む。
――生も死も、全てを助けるために。
大成功
🔵🔵🔵
クロト・ラトキエ
○
懐かしい声…
無い、とは言わない
けれど
それに後ろ髪引かれる事は、無い
全て、この手に掛けたから?
いいや
そんな心根なんて、持っていないだけ
声など微風の如く聞き流し
伸ばされた手は払い除ける
邪魔なものは、消してゆくだけ
看板なんか蹴り飛ばし
夕陽も伸びる影もずっと視てきた
道に惑い、迷いもしないだろう
俺は只、現在(いま)を生きてる
ならば…いま最も逢いたい声もあるかもしれない
けれど
それにだって、足を止める事は無い
あのひとは…
俺の歩みを止める様な真似なんかしない
だから只管、日暮れを目指して進めるだろう
その先に、見たいものが、ある
――弟でもいたら、こんな感じなのだろうか、と
思った
それは紛れも無い事実
…ただ、それは、本当は随分と昔の事
何の関わりも無い頃、君を見て
何故か直感的にそう思った
知れば知る程、君と俺は全く違う中身だったのにな
それでも
君が『兄さん』と呼んでくれるなら
俺は自分勝手に、見届けたいと思う
かの弾丸に斃れずに
俺は人非人とはいえ
君の変化を“嬉しい”と思う
…それはきっと、俺だけじゃ無い
答えは日暮れの先に
●
呼び声がする。
紅が煌々と染める道の遥か後方、聞き覚えのある声が呼んでいる。渾然一体となった名は全て別物で、けれど紛れもなくクロト・ラトキエ(TTX・f00472)の名であった。
捨て去ってきた偽名を、斯様に親しげに呼ぶ者は、今はない。
全てクロトのその手で死んでいった。悲嘆に暮れながら、或いは絶望しながら、そうでなければ怒り狂いながら――その裏切りに気付くことすらないまま命を落とした者もあったか。皆一様に無意味な問いを零しながら、奈落の底へと潰えたのだ。
ならば地獄よりの呼び声に応えてやる義理もなかった。軽やかな足取りが変わることもない。そんなものに傾けてやる心は、持ち合わせていない。
悲鳴も呼び声もないと同じだ。裾を掴む手は鬱陶しげに振り払う。影法師が立ち塞がれば、それらは全て繰った指の鋼糸に消し飛ばされるだろう。
看板に惑わされるほど貞淑な人間ではない。夕陽の方角を見失わないのなら、現れる四つ辻に迷う必要もないだろう。どうせぶつかることもない工事車両を避ける意味はないし、救急車や消防車の音色に惑わされるような道徳的な人間は、そも人を殺さない。
そうして全ての障害を払いのける耳朶を――。
――クロト、おいで。
柔らかな声音が擽るものだから、思わず息を吐いた。
常ならば振り返りもしようものだ。周囲に誰の目もないならば、その腕に抱き竦められるまで立ち止まっていても良い。
だが。
彼は決して、クロトを止めたりはしない。無茶を厭い気遣わしげに眉を顰めることこそあれど、この足の行く先を無理に捻じ曲げようとはしないだろう。
それが分かっているから――。
愛しい声に絆されるようなこともない。現在(いま)を映し出すそれすらも、影法師の真似事に過ぎないと知っている。
そんなものよりも、ずっと――見たいものがある。
最初の印象は、『弟』のようなものだった。
クロトにはそのような存在はない。であるから、真に兄である気持ちも、弟の存在の感覚も、永劫知ることはないはずだった。
ましてそれが何の関わりもない、その頃にはただ見かけた程度の接点しかなかった男に対して抱くものであったというのだから、不思議なものだ。
ただ。
その直感は決して拭えぬ深いものだったことは、確かだった。
最初のうちは、よく似ていると思った。経歴も仕事も概ね合致していたし、仕事へのスタンスとてそう変わりはなかった。
――知れば知るほど、その感覚は覆されることになったが。
罪悪感も悲嘆も絶望も、クロトは母の胎の中に置き去りにしてきた。人を殺す才はあれど倫理を理解する才はない。人らしく生きる術は知っていても、人を生きるやり方にはてんで疎い。
それを非難されることにも、何らの感情も抱かない。
けれど彼は違う。利きすぎる感覚を鎖すのと同じように、心に鍵を掛けた。罪悪感も苦痛も絶望も、人並みに――或いは人並み以上に――覚えるからこそ、何もかもを磨り減らして、何とか生を繋いでいただけだ。
まあ。
そういう人間からして、全く以て、クロトのありようが『兄』らしくはないだろう。
それでも、彼はクロトを『兄さん』と呼ぶ。交わした声とやり取りの数だけ積もったものに――。
報いる。
わけではない。
これは兄と呼ばれた男の勝手だ。いつも通り、自分のやりたいように、軽やかに道を往くだけ。そこに贔屓の者があって、彼が痛みに立ち向かうというのなら、それを見届けたいというエゴの果てである。
勿論、彼を凌ぐというその弾丸に斃れるつもりも微塵もない。
何しろ彼の変化を嬉しいと思っている。全てを忘れてしまったような顔で、憂いを湛えて引鉄を引いていた弟はもういない。忘れようとして擦り切れた痛みを抱え、悲嘆を見据え、同時に取り戻した幸福とともに歩もうとする。
その――何と、人らしいことか。
人非人でさえもそう感じているのだから、彼の近くにいる『人間』のそれはひとしおだろう。
この日暮れを越えた先に、全ての答えがある。
過去も、現在(いま)も――未来も。
全てを連れて、夜が来る。
大成功
🔵🔵🔵
落ちた陽の代わりに月が昇っている。空には幽かに雲がかかっていた。それがまず目に入るくらいには何もない、郊外の平野だ。遥か過去に朽ちた人工物だけが、そこに嘗て人が生活していた証を残している。