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かくして其処には何も残らず

#ヒーローズアース #猟書家の侵攻 #猟書家 #パストテイラー #ダークヒーロー

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「本物の怪物、虚ろなる怪物『スナーク』」
 残念ながら俺はルイス・キャロルに明るくないんだが、と男は言った。
「そのスナークはブージャムだった、だっけね。いや、本当にブージャムだったのかはわからないのか。いずれにせよ、スナークを見つけたと言って、パン屋は消えてしまった」
 俺が知っているのはそれくらいさ。夜も更けたバーガーショップの片隅で、ピンク色の髪をした男は、注文したバーガーを齧りながら、へらりと――どこか空虚な嘲笑を浮かべた。男の正面には、コーヒーのカップを手にした男がもう一人。その顔に生気はない。茶色の髪を短く刈った、二十代の前半と思しき青年であった。
「まあ、ミストレス・バンダースナッチが何をしたいかなんて、正直俺には関係ないんだ」
 何の意味も持たないよ、と、男はバーガーで汚れた指を、紙ナプキンで拭く。
「そもそも彼女の場合、『したい』から『している』わけじゃないだろう。そういう相手には然程興味を惹かれないな」
 青年は微動だにしない。
「ただまあ――」
 男は嘲笑を浮かべたまま、ボックス席の背凭れに体重を預けた。
「――過去の全てを失ってなお、骸の海から蘇った俺みたいなやつが――」
 キィ。
 キィ。
 壊れた蛍光灯の金具が、耳障りな音を立てている。
「――他人の過去から無形の『何か』を生み出せるとしたら――」
 男はぐるりとバーガーショップの中を見回す。その、滅茶苦茶になった店内を。
 何もかもが破壊され、焦げ果て、嵐が吹き荒れた後のような、その光景を。
「――それは『興味深い』と、少しばかり思うね」
 だが、その惨状の中でも、床やカウンター、座席に転がる客や店員の中に死人はいない。無論無傷ではないが、男は別段人殺しを好んでいるわけではなかったからだ。だがそれも、『男』が『好んでいない』のか――それとも、骸の海へ置き去りにした『死人』が『好んでいなかったのか』――最早わからぬことだった。
 それに。男は嘲笑を消して、虚ろな青い――どこか翠を感じさせる――目で瞬きをした。
「……積み重ねてきた『過去〈己〉』を失った人間は、一体何者になるんだろうね」
『誰』として生きればいいんだろうね。
「不思議なものだよ。過去を捨てたがる人間はごまんといるけれど、本当にそれを失うと、たちまち取り戻そうと足掻くんだ」
 けれどそれは決して戻って来ないものだ。ここで転がるすべての人間に、最早取り戻せるものはない。そしてそれは男も同じだった。
『取り戻したいと願っている』。
『それなのに取り戻せないと知っている』。
「気が狂いそうだ。俺は俺自身によって俺を定義できない。『俺が俺である』と明言することができない。俺は失われた誰かの『器』でしかないんだ。それが俺にはわかっている」
 他人が名前を呼んだって。
 幾ら人生を教えてもらったって。
 喪失を埋める手立てなど――どこにもない。
「空っぽだよ」
 いっそ君が羨ましい、と男は言った。今度はまた、笑顔を浮かべて。
「あらゆる本質の存在しない怪物『スナーク』」
 本当に『生まれて』来たら面白いな。
「どこにもいないが確かにいる。どこにでも現れるがどこにもいない」
 スナークを捕まえるのには何が必要だったか。
「俺はよく知らないが、ブランドン、君は知っている?」
 青年は答えない。男は笑ったまま、「ああでも」と続けた。
「スナーク狩りの最後の章題はThe Vanishingだったっけ? それなら、この物語〈事件〉の結末だって『そう』なんだろうね」
 醜く蘇りながらも過去を失っている俺は決して俺でなく。
 切り離された醜い過去でしかない君は決して君でない。
「ならば後には何も残らない――何も」
 意味さえも〈ノンセンス〉。
 そうして名も無き男は、自身の謂れも知らぬ残骸は、死人の幻影は、世界に滲み出てきてしまっただけの『染み』は、ボックス席から立ち上がると、ポケットの中に入っていた財布から金を取り出して、バーガーとコーヒーの分だけ、きっちりと数えてテーブルに置いたのだった。

 ●

「喪失は、ある種の者にとって最大の幸福であるよな」

 同時に、ある種の者にとっては最大の不幸でもある。仮面は――いつもと違って、どこか繕ったような違和感を抱かせる――のんびりとした口調でそう言った。

「さて、今回は猟書家関連の事件なのであるがな。ブランドンというダークヒーローに、とあるオブリビオンが接触するようなのであるよ――そのダークヒーローの、ヴィランとしての過去から、オブリビオン『スナーク』を生み出すために」

 尤も、厳密には、本物の怪物『スナーク』を生み出す素地のためというのが主な目的のようなのであるが、と仮面は続けた。

「過去の罪から生み出された『スナーク』は、ブランドンと同じ容貌で、ブランドンが過去に行っていた悪事をそのまま働く。それによって、最終的に人々が『スナーク』の存在を信じるようになる……という算段らしいのであるよな」

 正直、仮面としては、面白い計画を立てるものだ、と思っていた。流石に猟兵の前で言葉にはしなかったが。仮面にとって善悪と興味は切り離されたものだった。
 ――予知に出てきたオブリビオンの男は、どう言っていたか。本当に『生まれて』来たら面白いな。そんなことを言っていたように思う。自分と同じく、善悪と興味が切り離されてしまっているあの男を――自分は、きっと……否、間違いなく、『知って』いる。
 今、自分の中で煮えているのは、何だろうか。怒りにも似て。だが寂しさにも近い。
 そこまで考えてから、仮面は、ハッと我に返って「すまぬ、一瞬意識が飛んでおった」と頭を下げた。

「話の続きなのであるが、このオブリビオン、ブランドンが過去にヴィランとして起こした事件の現場のいずこかに現れるらしいのであるよ。オレが見た予知ではバーガーショップにおったのであるが……どこの店かまでは流石にわからなんだ。そもそもその場所でブランドンの過去を呼び出したかどうかも定かでない。申し訳ないである」

 ただ。仮面は言う。

「ブランドンにとって『最も印象深い場所』にオブリビオンは現れる――はずである。であるから――猟兵ちゃんたちには、このブランドンに接触して、それがどこかを聞いて欲しいのであるよ」

 とは言えブランドンは元ヴィランであり、今でも素性を隠し、地下鉄を拠点に浮浪者同然の生活をしているらしい。

「手間をかけてすまぬが、刺激せぬよう密かに接触してもらえると助かるである。……それから」

 仮面は、やはり、どこかいつも通りではない調子で一つ首を傾げると、告げる。

「オブリビオンの、手……に、気を付けた方が、よい。と……思うであるよ。何故かはわからぬが……」

 それだけである。
 仮面はそう締めると、「それでは此度もよろしく頼むであるよ」と頭を下げたのであった。

 
 
 


桐谷羊治
 
 なんだか若干様子のおかしいポンコツなヒーローマスクのグリモア猟兵にてこんにちは、桐谷羊治です。
 十三本目のシナリオは初めてのヒーローズアース、猟書家シナリオです。お手柔らかにお願いします。

 ゆっくりめの進行です。再送の可能性が非常に高いです。オーバーロード、通常お構いなくお好きにお選びください。

 今回は割と暗い話になると思います。善人はおらず、因果応報と喪失の話です。

 =============================
 プレイングボーナス(全章共通)……ダークヒーローと共に戦う。
 =============================

 一章はブランドンの過去を探っていただき、オブリビオンの出現場所を特定していただきます。
 二章はボス+呼び出されたブランドンの過去戦です。

 プレイング受付からゆっくりめに書ける・書きたいプレイングを書いていきます。ギリギリのご返却になりがちだと思います。
 また、書けると思ったプレイングを執筆させていただくので不採用が有り得ます。こちらも予めご了承ください。逆に、人数が多くても、送っていただければ採用する可能性もございますので是非ご参加ください。
 大体各章6、7名様の採用になると思います。

 心情はあれば書きます。なくても多分大丈夫です。大体いつも通りです。
 若輩MSではございますが、誠心誠意執筆させていただきたく存じます。
 機会があればよろしくお願いします。
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第1章 日常 『ダークヒーローの過去を探れ』

POW   :    ダークヒーローの現在のヒーロー活動に協力しつつ、話を聞く

SPD   :    ダークヒーローに接触し、言葉巧みに話を聞き出す

WIZ   :    ダークヒーローの過去を調べあげ、刺激しないように話を聞く

👑5
🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔴​🔴​🔴​

種別『日常』のルール
「POW・SPD・WIZ」の能力値別に書かれた「この章でできる行動の例」を参考にしつつ、300文字以内の「プレイング」を作成してください。料金は★0.5個で、プレイングが採用されなかったら全額返金されます。
 プレイングが採用されたら、その結果は400文字程度のリプレイと「成功度」で表現されます。成功度は結果に応じて変化します。

 大成功🔵🔵🔵
 成功🔵🔵🔴
 苦戦🔵🔴🔴
 失敗🔴🔴🔴
 大失敗[評価なし]

👑の数だけ🔵をゲットしたら、次章に進めます。
 ただし、先に👑の数だけ🔴をゲットしてしまったら、残念ながらシナリオはこの章で「強制終了」です。

※自分とお友達で、それぞれ「お互いに協力する」みたいな事をプレイングに書いておくと、全員まとめてひとつのリプレイにして貰える場合があります。


 
 
 

 女の死にざまを見て、因果応報とはこのことだろうとブランドンは思った。
 悪事ならなんでもやってきた。殺人だろうが強盗だろうが、自分にやれることならば、なんでも。彼には力があったからだ。施設にいた自分を養子にしたのは、妙な研究所に勤める所員夫婦だった。彼らが自分を養子にした理由は簡単で、実験用の人材を求めていたからというそれだけだった。それを恨むつもりはない。薬剤や不可思議な魔術で強化された自分の体に、ブランドンは満足していた。ただ、自分で実験を繰り返す彼らが偉そうであることは気に入らなかった。自分がいなければ何もできやしないくせにと彼は思っていた。
 結局ブランドンは、研究所を壊滅させ、自分の養父母も殺した上で、手に入れられるだけの金を根こそぎかき集めてから、実験動物であることをやめた。
 だからと言って、どう生きていけばいいかなど少しもわからなかった。当時十八のブランドンは学校にも行っていなかったし、働くにしても身分証などなかった。そも、『働く方法』がわからなかった。
 金はすぐ尽きた。人でも店でも襲った。他の誰かが計画した悪事に加担したことも、幾らだってあった。眠るのは地下鉄のホームで構わなかった。鼠も慣れれば可愛いものだった。そんな生活を続けて、いつしか三年が過ぎていた。よく捕まらなかったものだとブランドン自身でさえ思っている。
 そんなある日のことだった。
 その女が死んだのは。その時偶々組んでいたブランドンの仲間が殺したのだった。
 女の誕生日に渡そうと思っていた花は、枯れて朽ちた。
 それだけだった。
 それだけ。涙も出なかった。
 まさしく因果応報だった。無論、自分への。それくらいの言葉は知っていた。
 だからブランドンは、ヒーローになった。
 誰かを助けるためではなく。
 誰かを殺すための。
 殺す相手が変わっただけの。
 薄汚れた、どぶまみれの、地下鉄のホームで眠る、ヒーローに。
 女が二度と帰って来ないと知っていても。
 
 
 
トリテレイア・ゼロナイン
ヒーロー名鑑や活動実績のデータベースより件の男の活動圏絞り
機械妖精の探査で補足
(世界知識+情報収集+ハッキング)

ブランドン様ですね
猟兵、騎士のトリテレイアと申します
事件解決にご協力願えますか

(手口説明し)

件のオブリビオンは『最も印象深い場所』に現れるそうです

もし私が標的だったなら、護衛対象の創造主と殺し合い自我を破壊された場所でしょう
それが無ければ、私は騎士の道を歩む事も無かったのですから

被害者である貴方に申し上げるのは心苦しい限りなのですが
“何としてでも”喪われる人命を少なくしたい…それが私の本心です

貴方がヒーローとなった転機を教えて頂けますか


交渉決裂、男単独行動に備え
透明妖精での尾行を準備



 
 
 
 ――地下鉄の天井は、トリテレイアにとってあまりに低い。半円柱を横倒しにしたような駅のホーム、その隅、煌々と明かりに照らされたごみ箱の影で、雑巾と見紛うほど薄汚れた毛布に包まって横たわっている男の元へと、雑踏をかき分け、トリテレイアは歩を進めた。
 ヒーロー名鑑や活動実績のデータベースから、ハッキングなどの様々な手段を用いて収集した情報によれば、あの男こそがこの事件の要である『ブランドン』なるダークヒーローであった。活動圏も一致しているし、裏付けとして機械妖精の探査でも補足したから、間違いはないだろう。
 照明の白い光を、トリテレイアが遮った。黒々とした影が男に落ちる。
「……ブランドン様ですね」
 男は動かなかった。顔は全て毛布の中に埋められ、見えるのは短く刈った茶髪ばかりで、男の造作や表情はわからない。だがこの男がブランドンであるのは間違いない事実であったから、トリテレイアは男に構わず続けた。
「猟兵、騎士のトリテレイアと申します。事件解決にご協力願えますか」
 男が――ブランドンが、それで漸く、ゆっくりと身動ぎをし、上半身を毛布の塊から起こして、トリテレイアを見上げた。窶れた男だった――というより、野生の獣に近い。トリテレイアが抱いた印象はそうだった。倫理や道理は、この男にとって余り意味を成さないのだろうと容易に知れた。汚れてはいるが白い肌の男だった。そして若い。どちらかと言えば、青年と呼ぶのが正しい年齢だろうとトリテレイアは思った。警戒を滲ませた瞳の色は、輝くヘーゼルだった。
「猟兵が何の用だ――ああ、待てよ。あんた、見たことあるぞ」
 ブランドンが、嘲るように唇を歪めた。――おそらくそれは、自嘲だった。
「ヒーローズ・フォーティナイナーズだ。アースクライシスで大活躍だった猟兵様じゃないか。そんなやつがおれに何の用だってんだ?」
「先程も申し上げたように、事件解決のためのご協力を願いたいのです」
「事件解決? ハ、おれは犯罪者と見りゃ殺しちまうってんで後ろ指さされてるようなカスヒーローだぜ。しかもあんたは騎士を名乗ると来た」
 ブランドンは床に座り込んだまま、卑屈にトリテレイアを見上げる。
「おれにゃとても、あんたらがやる『お綺麗な』やり口は似合わねえよ。他を当たんな」
 そう言って毛布の中へ再び埋まろうとした青年に、トリテレイアは単刀直入に、淡々と、ただ告げる。
「今回オブリビオンが起こす事件の標的はブランドン様、貴方なのです」
 青年の動きが止まり、ぽかんと――ある種のあどけなさを感じるほど間の抜けた――してトリテレイアをもう一度見上げた。
「……おれ?」
「はい。貴方は昔、ヴィランでしたね」
「向ける銃口の先が違うだけのことを悪と呼ぶならヴィランだったよ」
「それを利用しようとしているオブリビオンがいます」
「利用? おれなんかの過去が何の役に立つんだ?」
「貴方のヴィランだった過去を、つまり貴方の『ヴィランとしての罪』を、オブリビオンとして具現化させようとしているのです」
「……」
 ブランドンは、先程まで見せていた嘲笑も卑屈さも一瞬で消し去って、鋭く目を細めた。
「目的は?」
「スナークの創造です」
「スナーク? スナーク……そう言や、最近なんか騒がしかったな。よく知らねえが……」
 青年が「どうせなら、」と呟くのが聞こえた。その先は、トリテレイアのセンサーをもってしてもよく聞こえなかった。
「件のオブリビオンは、貴方の『最も印象深い場所』に現れるそうです」
「印象深い場所……」
 ブランドンが、考え込む素振りをした。
「研究所か? それとも最初に襲ったアイス屋か? いやでも『一番』印象深い場所じゃあねえな……どこだ? ……」
「――もし私が標的だったなら、」
 考え込む青年に、トリテレイアは言う。
「護衛対象の創造主と殺し合い、自我を破壊された場所でしょう」
 それが無ければ、私は騎士の道を歩む事も無かったのですから。ブランドンが、一度瞬きをして、それから、「ああ」と何か得心したような相槌を打った。
「あんた――純正の機械なのか。やり過ぎたタイプのサイボーグかと思ったぜ。研究所のやつらが見たらひっくり返りそうだ。ま、全員おれが殺したんだけどな! ハァッハ!」
 ブランドンはそう吐き捨てるように笑ってから、『すっく』と立ち上がり、トリテレイアを睨め上げた。
「つまり、あんたが言いたいのは、『生き方の転機がどこで起こったか』なんだな」
「そうです。被害者である貴方に申し上げるのは心苦しい限りなのですが――」
「被害者?」
 トリテレイアの言葉を遮り、ブランドンがきょとんとした顔をして、それからすぐに、身を震わせて哄笑を上げた。
「アーハハハハハッ! こいつぁ笑い話だ、おれが『被害者』だったことなんてこれまでの人生で一度だってねえよ!」
 おれはいつだって加害者だったよ。
「そしてこれからも加害者であり続けるはずさ」
「ブランドン様、」
「トリテレイアって言ったっけか、騎士様よ」
「はい」
「あんた、やっぱり機械なんだなあ」
「――」
 人間であれば、息を呑んだのかもしれない。ブランドンの眼にはトリテレイアを軽んじ、卑しむような感情など一つもなかった。
 そう、一つも。
 だが、だからこそ――トリテレイアの胸を強く刺した。
 機械と言われたことではない。それは然したる発言ではない、何故なら自分は間違いなく機械だったからだ。かつての矛盾を飲み込み、騎士として振る舞っていても、自分は確かに『そう』なのだ。
 だから彼を貫いたのは、そこではない。
 ブランドンの淡褐色の瞳。
 その中に『羨望が浮かんでいたこと』に、トリテレイアは、多分、衝撃を受けていた。
 擦り切れたような底なしの空虚、その中で確かに、自分に対する羨望が、そのヘーゼルを輝かせていた。
 パーカーとトレーナーの重ね着をした青年が、ジーンズのポケットから、よれたメモ帳とペンを取り出して、何かを書き連ねる。
「まあ別に、あんたを貶めたいとは思ってねえんだ。忘れてくれ。協力が必要なら協力するよ。……ほら、多分、ここだ」
 千切って差し出されたメモには、銀行の名前と住所が書かれていた。
「俺がヴィランをやってる時、最後に襲った銀行だよ。で、俺がヒーローに転向した場所」
「……ありがとうございます」
「電話番号も書いといたからなんかありゃ連絡してくれ。まあ役に立つかはわからんがね」
「……」
 トリテレイアはそのメモから顔を上げ、ブランドンを見る。そう言えば自分は、この青年のフルネームも知らない。
「……この場所で、何があったのですか?」
「あ?」
 青年が不審げに首を傾げた。何故一々そんなことを聞くのか、と言った風情だった。目的は達成しただろう、そう明確に告げる目をしていた。
「――貴方が――何者であろうとも……」
 先程のように、被害者、という言葉は使わなかった。彼が自分をそうでないと言うなら、そうでないのだろう。
「“何としてでも”喪われる人命を少なくしたい……それが私の本心です」
 だから、貴方がヒーローとなった転機を教えて頂けますか。
(――貴方が、『機械である私』を羨ましいと思った理由を)
 地下鉄の照明のせいでトリテレイアが落とす影は、まだ青年を黒く包んでいた。
「……流石ヒーローズ・フォーティナイナーズ。言うことが違う」
 女がひとり死んだだけだよ、とブランドンは言った。
「他にも十何人か死んだ。殆どはおれのぶち殺した犯人連中だが、一般人も、その女含めて何人か死んだよ」
「お知り合いだったのですか」
「……あのなぁ」
 ブランドンが、毛布を拾って丸め、小脇に抱えた。
「『ヴィランとしてのおれの罪』が具現化するだけなら――そんなことをあんたに教える義理も必要もねえだろ。それともなんだ、そいつぁその日の再現でもすんのか? 関係者全員がオブリビオンとして呼び出されんのか?」
「いえ、そんな話は聞いていません」
「じゃあ必要なのは場所だけだろ。あんたらが来いってんならちゃんと行く、根掘り葉掘り聞くんじゃねえ、だりぃ」
 じゃあな、と青年は言って、トリテレイアの脇をすり抜けて地下鉄の雑踏の中へと紛れていった。その背中を――トリテレイアは、自律・遠隔制御選択式破壊工作用妖精型ロボ〈スティールフェアリーズ・タイプ・グレムリン〉で呼び出した透明な機械妖精で尾行させる。青年が単独行動する可能性に備えてのことだった。
 そうしてトリテレイアは、先程もらった住所で、『かつて何が起こったか』を調べ始めたのだった。
『“何としてでも”喪われる人命を少なくする』ために。
 
 
 

成功 🔵​🔵​🔴​


 
 
 
 ――猟兵と共闘するなら、流石に多少は身綺麗にした方がいいだろう。
 多少懇意にしている自警団のやつにシャワーでも借りて、まあ毛布は捨てるか。そろそろ限界だと思っていたところだ。服は預けてあるから返してもらって、それから拠点に戻って装備を整えて……腹はさして減っていないが、オブリビオンが出るなら戦闘が激化するか。まあどうせ猟兵が対処するんだろうが、一応何か食っておいた方がいいな……。
 つらつらとそんなことを考えながら、人混みに紛れて改札を抜けると、ブランドンは背を丸めるように地下鉄を出るための階段へと向かった。駅員はそんな彼に気付いているのやら気付いていないのやら、一切見向きもしない。これでも地下鉄の駅構内や電車内で発生したヴィランの犯罪を何件か片付けたことのある身だが、もし駅員が後者の理由で自分を放っているなら、もう少し真面目な態度で勤務にあたるべきだろう、とブランドンは少しばかり思わなくもなかった。尤も、どちらであったとしても、彼にはさして関係はないのだが。彼は他人の犯罪が目についたから対処しているだけであり、わざわざ啓蒙とも呼べるそんな面倒まで見るつもりなどない。
(――しかし、)
 猟兵――しかも、ヒーローズ・フォーティナイナーズまで来るような事件の渦中に、自分が巻き込まれるとは。それどころか、ブランドン自身が原因――『狙われている』だと。
 過去の罪が、ブランドンの罪が具現化する。
 それを、あの猟兵は『被害』と呼んだ。
 だがそれは。
(それは……単に、いよいよツケを一切合切支払う時が来たってだけじゃねえのか)
 自業自得の。
 因果応報の。
 あの女が死んだだけで、自分の行為の清算が終わったとは思っていない。今もブランドンは、正義と人が呼ぶ側に立っただけで同じことを繰り返している。であれば、自分の行為による、所謂『罪』と呼ばれるものは永遠に積み重なっていくだけのものなのだ。
 ブランドンは、正直に言って、自分の生き方を後悔しているわけではなかった。そこまで彼は己のことを軽蔑していなかったし、する気もなかった。彼は自分のことが、それなりに好きだった。世間様で言う『出来た』、『善い』人間では決してないと自覚していたが、それでも。まして自分の成したことを恥じ入るほど、良心が発達しているわけでもなかった。
 それに、だからこそ彼は、自分が何をしていて、どんな報いを受けるべきかを――少なくとも彼の論理に基づくのであれば――正しく理解していたし、同時に、かの猟兵の正体を聞いて感じた『それ』が己のどう言ったところから生まれてきたのかも、やはり、正しく理解していたのだった。
 無論、彼が、かの猟兵のことを少しでも知っていれば、きっとそんな感情は抱かなかっただろう。あるいは失望さえしたかもしれない。だがブランドンはかの猟兵のことを知らず、それ故に、ただ羨ましいと思っていたのだった。それが身勝手なものだと彼は知っていた。そして、感情とはいつも身勝手なものだと彼は思っていた。
 スナーク――ブランドンに学があれば、それを聞いて得心したのに間違いはなかった。
(……忘れたくなくても、忘れていくんだからなあ)
 それならいっそ、覚えたくなかった。
 最初からなかったことにしてしまえたら、余程よかった。
「まったく不出来なモンだよ……」
 青年は、ぽつりとそれだけ呟いた。
 地上目指して歩き続ける彼が声をかけられたのは、そんな折のことであった。
 
 
 
桜雨・カイ
…周囲に聞き込みという形でブランドンさんにも接触
「スナーク」という言葉に聞き覚えはないですか?

……誰かを助ける為ではなかったとしても、
結果誰かの命を救ったのならそれはヒーローだと思います

ブランドンさんはどうしてヒーローになろうと思ったんですか?
薄暗い地下鉄のホームで眠っても、それでも汚せない大切な想いがあるからではないですか?
私の心の中にも、変わらない想いがあるから……そう思ったんです

私は…過去の苦しみを取り除くことはできません
でも、これから起こる未来の苦しみから人を守りたいんです。
因果応報というのなら、人が笑ってくれる因果がいいです

だから教えて下さい。心当たりの場所を。



 
 
 
(因果応報……)
 その言葉の意味を考えながら、桜雨カイはブランドンと思しき人物を探していた。表向きは聞き込みという形で、自然に接触できるよう、留意しながら。
「『スナーク』という言葉に聞き覚えはないですか?」
 そんな質問を突然投げかけても、猟兵という存在を正しく理解してくれているヒーローズアースというこの世界では、オブリビオンの事件の聞き込みと言えば人々は丁寧に答えてくれた。曰く、最近確かに、そんな存在の噂を聞いている。曰く、ヒーローの影である。など曖昧ではあるが様々な返答があった。
 その中で――最後に声をかけた、その汚れた身なりの青年だけが、こう答えたのだった。
 皮肉気に笑いながら、「それは、『おれの過去』がいずれ至るものらしいぜ」と。
 その、短い茶髪に淡褐色の目をした青年こそが、カイの探す『ブランドン』であった。
「……すみません、もう少し詳しく、お話を聞かせてください」
 まだ駅の構内だったので、人の流れを遮らないよう、壁際に移動する。いくら清掃しても拭いきれないのであろう経年の汚れが浮いた壁の傍で二人並んでみると、青年の目線はカイと殆ど同じくらいにあった。金色にも似て、だが鈍く濁った、薄く淡い褐色が、カイをじっと見つめていた。
 それで、とカイが切り出すよりも、青年が口を開く方が早かった。
「あんた、猟兵だろう。さっきも猟兵に会ったよ――オブリビオンのやつが、おれの過去の罪を具現化させて、スナークとかいうのを創り出そうとしてるらしいじゃねえか?」
「既にご存知でしたか」
「ああ。あんたもおれがヒーローに転向した場所が知りたいんだろ? いいぜ、教えるよ。おれも準備をするためにこうやって巣穴から出てきたわけだしな」
「あ――ありがとうございます」
 話が簡単に進むので少々呆気にとられながらも、カイは青年が書いた歪な筆跡の紙を受け取った。少し読みづらいが、銀行の名前と住所、それから、ブランドンのものと思しき電話番号が確かに記載されていた。
 ――ここで、何があったのだろう。ブランドンという青年の生き方が、正反対になるほどの、一体どんな出来事が。カイは、しばし黙して紙を見ていた。
 その沈黙を、読めなかったと判断したらしいブランドンが、「あー、悪いな。おれ学校とか行ってなくてよ、文字がちゃんと書けねえんだ」と、ばつの悪そうな顔で紙に書かれた内容を口頭でカイに告げた。
「ああ――いえ、大丈夫です。ちゃんと読めますよ」
「そうか? いや、それならいいんだけどよ。じゃあな」
 できれば他の猟兵にも伝えといてくれりゃおれの手間が省けて助かる、と笑いながら青年が立ち去ろうとしたので、カイは思わず、「待ってください」と声をかけていた。
 青年が――ブランドンが、僅かな倦怠を滲ませてカイを見た。
「なんだ? 必要なことは全部教えたろ?」
「いえ、その――出来れば、ここで何があったか、教えていただけませんか」
 ブランドンの薄い色をした瞳が、呆れたように細められた。
「ンなもん、猟兵同士で共有して欲しいんだがなあ……時間が勿体なくねえか?」
「すみません。でも、私は――」
 あなたの口から、あなたのことを聞きたい。そう伝えれば、青年が、唇を薄く開いて深く息を吐いた。おそらくため息だった。誰に対してのものか――何故か、カイに対してのものではないように思えた。きっと彼は、自分に対して、嘆息したのだ。
「やっぱおれは紛いもんだよな。あんたらみたいなのが、『本当の』ヒーローなんだ」
 おれは結局、誰を助けたかったわけじゃなくて。
「単に殺す相手を変えただけのやつに過ぎねえんだよ」
「……誰かを助ける為ではなかったとしても、」
 自嘲さえ滲んだ青年の言葉に、カイは返す言葉を慎重に選ぶ。
「結果誰かの命を救ったのならそれはヒーローだと思います」
「……」
 青年は答えなかった。淡い色の瞳に、今どんな感情が浮かんでいるのか、どうしてかよくわからなかった。ただブランドンは、カイを静かに見据えている。ふとカイは、青年の瞳に緑色が混じっていることに気付いた。光の加減で、時々緑色に見えるのだ。それと同じことなのではないかとカイは思った。
「ブランドンさんはどうしてヒーローになろうと思ったんですか?」
「……てめえら口を開けばそればっか聞きやがるな」
「すみません。でも、私は――もしかすると、先にあなたに質問をしたひとも、知りたいんです。あなたのことを……」
「何様のつもりだ、協力するのにおれの人生がそんなに大事か?」
 青年の声は低かった。敵意、いや……カイは、ブランドンという青年の声の中に、『それ』さえも『ない』ことに気付く。
 それなら。
(それなら……何が、この人の中に残っているのだろう)
 ブランドンが平坦に答える。
「起こったのはよくある銀行強盗だよ。ヴィランっつーのは大体オブリビオンの配下にあるって聞くけどよ、おれに限っちゃただの悪党に過ぎなかった。まあ例外くらいあると思ってくれよ。つっても、何でもしてきたからな。中にはオブリビオンが主体で動かしてた犯罪もあったかもしれねえな……何にせよ、主義も主張も何もかも、おれにはなかった。おれには『おれ』しかなかったからな」
 そこで女が一人死んだんだ、と青年は言った。
「しあわせな女だったよ。結婚が決まってた。相手のツラを写真に撮っちゃあ、そりゃ楽しそうに送ってきてた。世の中によくいる女の一人に過ぎなかった。それが一人死んで、あと十何人か死んだ。その中の大半が、おれのぶち殺した犯人連中だったってだけの事件だ」
「だから、あなたは、ヒーローになろうと思ったんですか?」
 その女性のために――とは、言わなかった。その方がいいと感じたからだった。
「……逆に訊くけどよ、なんでそう思うんだ?」
「あなたが……『ヒーローになっても生活を変えていないから』です」
 ――ブランドンが、虚を衝かれた顔をした。
「あなたがずっと、ヴィランだった頃と同じ生活をしているのは。薄暗い地下鉄のホームで眠っても、それでも汚せない大切な想いがあるからではないですか?」
「……ハ! 大切な想い!」
 御大層なこった、とブランドンが口角を吊り上げる。
「それもなんでそう思うのか、聞かせてくれよ」
「……私の心の中にも、変わらない想いがあるから……」
 カイは、自分と殆ど同じ高さにある青年の瞳を、真っ直ぐに見る。青年が渋面を作った。けれど構わない。
「そう思ったんです」
 かつて、とある少女にも語ったことがある。
 人形である己に名前をつけてくれた少年がいた。己を愛してくれた人がいた。
 だから己は共にありたいと願い、この身を得たのだ。
 それから、カイの想いは変わらない。
「人を守りたい。……そう思ったから、私はここに在ります」
 人形である自身は人の為に在るのだと、カイは思っている。
「……」
 ブランドンは、苦い顔をしたまま、黙っていた。
「私は……過去の苦しみを取り除くことはできません」
 でも、と人形は続ける。青年のために。
 喪ったもの、その虚の縁で立ち竦む……ひとりの人のために。
「でも、これから起こる未来の苦しみから人を守りたいんです。因果応報というのなら、人が笑ってくれる因果がいいです」
 だから教えて下さい。
「心当たりの場所を。……そう思い至った理由を」
 長い間、と感じるほど、青年は黙っていた。けれど、本当は数瞬のことだったのかもしれない。地下鉄駅構内の喧騒だけが、カイとブランドンの間に横たわっていた。やがて、青年の唇が震えて、言葉が滑り出た。
「心当たりの場所は、書いた通りさ。起こったことも、言った通りだ、何も変わんねえよ」
 それで、なんでヒーローになろうと思ったかって。
「――しあわせな女が、しあわせなまま死ねなかったからだよ」
 そしてそれを、おれがいつか忘れてしまうからだ。
 思わず――という言葉がよく似合っていた。言うつもりなどなかったのだろう。青年は、自分の口から出てきた言葉に、ぎょっとした顔をしていたから。
「あ――くそ、おれ――ああくそッ!」
「あっ、ま、待ってください!」
 急に背中を向けたブランドンが、戦う者に相応しい速さで地上への階段へと駆けていく。カイも追いかけてはみたものの、結局、人混みを縫うようにして器用に走り去る青年に追いつくことはできなかったのであった。
 
 
 

成功 🔵​🔵​🔴​


 
 
 地下鉄の出入口から転がるように走り出て、しばらくブランドンは、足を止めなかった。止めることができなかった、という方が正しいだろうか。混乱していた――何故あんなことを口走ってしまったのだろう。履き古したスニーカーの薄い靴底が、足の裏が痛くなるほど地面の感触を強く伝えて来ていた。
 しあわせな女が、しあわせなまま死ねなかったから。
 それをおれがいつか忘れてしまうから。
 まったく――正しかった。
 銃身を切り詰めた散弾銃で頭を吹き飛ばされて、あの女は死んだ。ばかな女だった。バーガーを移動販売していた車を襲って、店員の死体を足蹴にしながらレジを漁っていただけのブランドンに、「注文してもいいですか?」なんて聞いてしまうような、救いようのない阿呆だった。殺さなかったのはその愚かさ加減が面白かったからだ。警戒心をどこかに落としてきたような、ああいう類の人間は、一度もブランドンの近くにいたことがなかった。自分は珍しい動物を見た時に、相手をしたくなる性質なのだとブランドンはその時初めて知った。だから彼は、店員のふりで、注文を受けてやった。だが読み書きでさえ相当に怪しく、一度も働いたこともなかったブランドンがまともにバーガーを作ることなどできるわけもなく、出来上がったのは、およそ商品と呼べないようなものだった。それを渡して、ブランドンは女の反応を見た。ここで騒ぐようならそれまで、殺せば終わりだと思っていた。
 だが、返ってきたのは、「ありがとう」という言葉と笑顔、そして代金だけだった。
 流石に面食らって、「そんなもんに代金払ってんじゃねえよボケ」と怒ったのは――まだ、覚えている。そこから、簡単な言い合いに発展したことも。だが交わした言葉の細部まではもう記憶に残っていなかったし、連絡先を交換した理由など、もう忘れてしまった。確か、何かの話題で盛り上がったのだったと思う。
 元から物覚えのいい方ではない。あの女と直接話した数少ない思い出はすべて、とっくに雨で滲んだ文字のようだった。曖昧な輪郭だけが残っていて、声の一つも思い出せやしない。あの女は、死ぬ時悲鳴を上げなかった。それより先に頭が南瓜みたいに砕けたから。
 ――呼び出されたオブリビオンの『おれ』は、あの日のことを覚えてるだろうか?
 過去のブランドンの罪というなら。
 送られた写真は全部残っている。動画だってある。あの女が幸せそうに、婚約者と一緒にいる姿。連絡を取り合っている相手が犯罪者だなんて少しも知らない女の、疵一つない幸福な光景……。
「……でも、それは『あの女』じゃない」
 どれだけ走っただろう、ブランドンはいつの間にか、足を止めていた。協力相手の自警団が常駐している場所は近い。青年は、先程までとは打って変わった、のろのろとした足取りでそこへと向かった。細い道に入り、見えてきたのは、閉店中と札のかかったバーの入り口だった。情報収集も兼ねて、表向きはバーを経営しているのだ。なんだかひどく疲れた心地で、ブランドンは裏口に回ろうとして――
 店の中で、サングラスをかけた見知らぬ男が、ひとり煙草を吸っているのを見つけて動きを止めた。その相手をしているのは、自警団のリーダーでマスターもやっている男だった。どうやら、二人とも自分には気付いていないようだ。が、すぐさま、自分のスマートフォンに男からの連絡が来る――メッセージの内容は想像通りのものだった。
 猟兵がお前に会いたいそうだ、来て協力してくれ。
 ――僅かな逡巡を挟んで、ブランドンは結局、バーの裏口ではなく、扉へと向かった。
 オブリビオンに目をつけられた自分自身へ、多少の怨みを抱きながら。
 
 
 
杜鬼・クロウ
アドリブ歓迎
グラサン装備
古着にジーパン

(そうあって欲しくはねェケド
必ずしも
皆が皆望まれて人の身を…人の器を得るとは限らねェと理解はしてる
失くしてそれが如何に大事だったのか気付くのもよく聞く話だ
喪すのは不幸だと思う)

本質そのものが存在しないのに人々の概念で生まれて
挙げ句に悪さ働くって?
実態があって、ねェのが厄介だなァ
怪異に近いのかねェ…
俺とは立場も真逆な気がしたぜ(実際は共通箇所もある?

ブランドンへ接触
煙草渡し吸いながら過去を聞く

あるモノを探すのにお前の協力が必要不可欠だ
人生で一番心に残った記憶、場所があれば教えてくれ
なァ
何でお前、ココにいるンだ?(現実から逃げて諦めてる様に見え
後悔はねェのか



 
 
「ブランドンですか」
 出されたウイスキーのグラスに口をつけて、杜鬼クロウは「あぁ」と一つ首肯した。今回狙われているブランドンというダークヒーロー、彼のよく出入りしている場所というのが、この情報屋兼自警団の本拠地であるバーだというので、訪ねてきたのである。自警団のリーダーであるという店主の男は、最初こそ少々警戒していたものの、クロウの猟兵であることを知るやいなや、笑顔になって酒を出してくれた。そうして今である。
「そうですね……本当にあいつがオブリビオンに狙われていると言うなら、多分ここへ来ると思いますよ」
 情報が欲しいでしょうし、あいつが身支度を出来るのはここだけですからね。カウンターの向こうで、男はグラスを磨く手を止めることなくそう答える。
「身支度?」
 情報のために出入りしているだけだろうと思っていたが、違うのか。サングラスの奥から覗くように見遣れば、磨かれたグラスを片付けつつ、男が深くため息を吐いた。
「一応廃線になった地下鉄の一部に拠点を作ってはいるみたいなんですけどね。そこで生活していくつもりはないようで、フラッと来ては、うちの二階にあるシャワーだのなんだのを借りていくんですよ。金も置いていくんで、まあいいんですけどね」
「それくらいならどっか安いアパートでも借りときゃよさそうなモンだが」
 男が「してませんねえ。する気もないようです」と新しいグラスを手に取る。
「ありゃ多分、家というもの自体に馴染みが薄いんでしょうな。実験施設育ちと聞いてますし、ヴィラン時代からホームレス紛いの生活をやってるようですから、今更家が欲しいとも思わんのでしょう。ああそうだ、キャンピングカーでもどうだと言ってみたこともありますが、手酷く拒絶されましたね。移動式の車も好かんようです」
「ふうん……」
「どうも気難しいやつなんですよ。野生動物の方がまだ扱いやすいんじゃないでしょうか」
 ははは、と男が軽く笑って、またグラスを片付けた。
「暫く待ってみてもいいか?」
「どうぞ、こちらも連絡してみますよ」
 男がスマートフォンを取り出し、おそらくはブランドンへとメッセージを送る。それから、「そう言えばつまみをお出ししてませんでしたね」と言って、クロウが座るカウンターに、手早くナッツの皿を出した。
「店主、煙草を吸っても?」
「いいですよ」
 灰皿を受け取ると、クロウは腰のポーチから煙草を取り出し、一本くわえ、火をつける。薄い紫の煙が、開店前のバーのカウンターに漂い、天井の空調に吸い込まれていった。
 ――スナーク。そしてブランドン。
 ガラスの縁で煙草を少し叩いて灰を落とし、クロウは考える。
(そうあって欲しくはねェケド、必ずしも、皆が皆望まれて人の身を……人の器を得るとは限らねェと理解はしてる)
 失くしてそれが如何に大事だったのか気付くのもよく聞く話だ。喪すのは不幸だと思う。クロウはまた灰を落として、ウイスキーを一口飲んだ。この事件を予知した、あのグリモア猟兵は、ある種の者にとっては喪失が最大の幸福になると言ったが――やはり、少なくともクロウにとって、喪失というのは不幸なことだった。
 グリモア猟兵による予知の中で、今回の事件における首魁のオブリビオンは、結末は喪失へ至るだろうと言った。
 ならば――この事件で喪われるものは、一体何なのだろう。
 サングラス越しに、クロウはただ、細く煙草から立ちのぼる煙を見つめた。そんなものは最初からなかったのだと言わんばかりに、それは綺麗に消えていく。
 カラン、と。
 扉のベルが鳴ったのは、そんなことを考えながら灰を落とした、その直後のことだった。その音で背後を振り向けば、金色か翠色か判別しにくい薄い色味の瞳をした青年がひとり、薄汚れた身形で入口に立っていた。その姿に、店主の男が、「お」と短く驚きの声を上げた。
「なんだ、お前が表から来るのは珍しいな、ブランドン」
「……開店前なら気を遣う必要もねえだろ……」
 どうせ居るのも猟兵とあんただけなんだから。煩わしいという感情を隠しもせずに、青年がクロウへ視線を投げた。悪意までは感じないが、面倒だとは思っているらしい。どうも、あまり協力的な性質ではないようだ。あるいは――
(思い出したくねェことを思い出させられて不愉快……とかかね)
 考えるクロウの前で、店主の男が、青年の言葉に眉を顰めて唇をへの字に曲げた。
「いくら開店前でも、その格好のお前を椅子に座らせたいとは思わんなあ。二階でシャワー浴びてこいよ。服もクロゼットに残してあるから」
「……猟兵さんの方はそれでいいのか」
「俺は構わねェよ」
「じゃあ甘えさせてもらうぜ。……後で時間がどうだの言うなよ」
「言わねェから早く行きな。待っとくから」
 青年――ブランドンが、いかにも浮浪者然とした格好のまま、店の奥へと続くらしい扉の向こうへ消えていった。
「すみませんね、ちょいと待っていてください」
「ああ、別にいいよ。時間はまだある」
 一本目の煙草を吸い終わって灰皿に押し付けて消し、二本目の煙草に火をつける。
 ――あの青年の過去がオブリビオンになることで、スナークが生まれる。
『オブリビオンがスナークになる』わけではなく。
『人々がそれをスナークと認識する』ことによって。
(本質そのものが存在しないのに人々の概念で生まれて、挙げ句に悪さ働くって?)
 実態があって、ねェのが厄介だなァ。クロウはウイスキーをまた一口飲み、皿に盛られたナッツを一つ、口に入れた。
(怪異に近いのかねェ……)
 クロウはヤドリガミだ。実体があるからこそ生まれるものであり、『スナーク』とは真逆であるような気がする。――とは思えど。
(実際は共通する箇所もあるか? ……その在り様に、人が必ず関わってくるところ……)
 ヤドリガミは百年『使われた』器物が魂を得たものだ。人の傍にあるからこそクロウたちは生まれる。であれば、人々の概念から生まれるスナークとは……。
(難しいな)
 サングラスの位置を直して、灰を落とす。考えても詮無いことなのかもしれない――結局正体の知れぬものに総じてスナークと名をつけているだけなのやもしれぬ。
 そうして二本目の煙草を吸い終わり、三本目に火を点けた頃、ブランドンは戻ってきた。短く刈られた髪は整えられており、着ている服も襟付のシャツにジーンズという、小綺麗なものだった。先ほどまでの格好ではわからなかったが、それなりに肩幅があってしっかりとした体つきをしている。尤も、普段の生活のせいだろう、痩せているようにも感じるが。
「おらよ」
「うん?」
 クロウの隣に座ったブランドンが、若干読みづらい文字で書かれたメモを寄越してきた。そこには、銀行のものと思しき名前と住所がある。
「まずはあんたの欲しがってる情報だ。それが心当たりの場所だよ」
「へェ……」
 猟兵と聞いて、何が目的で来たのかはわかっていたようだ。しかし、随分と簡単に教えてくれる。つまり、このブランドンという青年は、この『場所』には然程思い入れがないのだ。『場所』自体は隠す必要がないと思っているのだろう。それでもここを『ヒーローになった切っ掛け』として提示するということは。
(――喪失、か)
「なァ、ブランドン」
「ンだよ……」
 うんざりしたように青年がカウンターに腕を乗せる。
「煙草吸うか?」
 箱を向けると、青年は、ぴくりと肩を震わせてから、数瞬の躊躇いの後に煙草を一本手に取った。火を貸してやり、青年が紫煙を吐く。
「久々に吸った」
「美味いだろ?」
 笑ってやると、ブランドンもまた、ニ、と少しだけ笑った。
「美味い。地下鉄じゃ煙草なんぞ吸えねえからな」
 ま、この街じゃ公共の場にいる限りどこでも吸えねえんだけどな、などとぼやきながら、青年は煙草に耽っている。
「そうだなァ、俺も来てみて、どこも禁煙だったから驚いたぜ。せめて駅前に喫煙所くらいあンのかと思ってたからな」
「あー、そりゃ悪いな。喫煙できる店か、自分の家くらいでしか吸えねえんだよ」
「喫煙者には肩身が狭いねェ……」
「そうなんだよなあ。こればっかは他の街や、あんたら猟兵みたいに他の世界に行けたらと思うね、おれは。流石にヒーローやってて喫煙を注意されるっつーのもダセエしなあ。新聞のショボい記事にでもされた日には泣いちまうよ」
 ヒーローなんてつまんねえもんだよなあ、と――青年が、どこか寂しげに微笑んで、灰を落とした。
「――じゃあなんで、ヒーローになったんだ?」
「――……」
 ブランドンの動きが止まった。それから、少し視線を泳がせて、煙草に目を止め、ふう、と小さくため息を吐いた。
「あんた、質問が上手いな」
「そりゃどうも」
「まあ――煙草代くらいは話してやってもいいぜ」
「酒と肴も頼んでやろうか?」
「要らねえ。酒より炭酸水でもくれ」
 体質的に酔いやすいんでね、と青年が笑ったまま、疲れたような表情を滲ませる。
「ああでも、肴も奢ってくれるってんなら、レバーのパテとバゲットのセットをくれ」
 言われるままに店主へ頼み、出してもらう。
「ブランドン」
 青年は答えず、パテを塗ったバゲットを齧った。
「あるモノを探すのにお前の協力が必要不可欠だ」
「……あるモノって言うがな、おれの過去の罪、それがオブリビオン化したものだろ。もう二度も聞いたよ」
「そいつは正しいが、ちょいと違うな――俺たちは、『スナーク』を追い立ててェんだ」
 どこにでもいるが、どこにもいない。
「そいつを捕まえるために、俺たちは動いている。何を捕まえようとしているのか、本当は誰もわかってねェのかもしれねェ。俺たちにこの事件を教えてくれたやつでさえな」
「ハ、なんだそりゃ」
 とんだお祭り騒ぎだ、とブランドンが炭酸水を飲みながら唇を歪めた。
「そうさ――お祭り騒ぎなんだ。だから俺たちは、皆々こぞってお前にお願いをする」
 ――一意専心〈イチイセンシン〉。ユーベルコードと共に、クロウはブランドンを真っ直ぐに見つめて、言う。真心を籠めなければ、このユーベルコードは使えないから。
 ブランドンの、妄執を断ち切るために。
「人生で一番心に残った記憶、場所があれば教えてくれ。――そう言って」
 青年の喉が、ぐ、と震えるのがわかった。誤魔化すように煙草を吸って、煙を吐き出す。
「なァ」
 ……クロウには、この青年が、現実から逃げて諦めているように見える。
「何でお前、ココにいるンだ? ココはお前の言う通り煙草も滅多に吸えねェ街で、お前はずっと地下鉄で寝てる。俺には、何処へだって行けそうなくらい身軽に見えるぜ。ヒーローなんてつまんねえんだろ? それならなんで、まだお前はココにいるンだ」
 後悔はねェのか――クロウの言葉に、ブランドンが、煙草を灰皿に押し付けて消した。
「……後悔は……ねえよ」
 呟くように、ブランドンが言った。
「後悔してるわけじゃねえんだ。後悔なんて、それこそ一番つまんねえよ」
「じゃあ、なんで」
「……なんつーか、なんだろうなあ……」
 レバーのパテを、青年がバゲットに塗る。だが、口にはしなかった。
「あんたさあ、ある日いきなり、太陽が消えてなくなったら、どうする?」
「太陽?」
「そう――太陽だよ。毎日昇ってきて、おれを照らしてくれて、毎日沈んでいく。太陽ってそういうもんだろ? それがいきなり、消えちまうんだ」
「……」
 比喩であるとは、当然わかっていた。ブランドンにとっての太陽。それが、先程渡されたメモの場所で、喪われたものなのだろう。そして、青年がヒーローになった切っ掛け。
「当然、世界は真っ暗になるよな。月だって、太陽がなくなったら輝かない。何の光もない世界にいきなり放り出されて……それで、太陽を壊したやつが、隣にいたら……」
 ぶっ殺しちまうだろ。
「おれの生き方は変わってないんだよ。これっぽっちも……」
 ただ、太陽が消えただけ。
「太陽の光の温かさを……おれが、いつか、忘れてしまうだけ……」
 ブランドンがバゲットを口に入れる。その横顔には、悲しみも、苦しみもなく、ただ虚ろだけがあった。
「……初めから太陽を知らなければ、忘れる寒さも知らずにすんだんだ……」
 バゲットを嚥下した青年が、空虚をなぞるように言葉を紡ぐ。
「……なら、忘れンなよ」
 クロウも煙草を消して、青年の横顔に言う。
 何故ならクロウは、忘れないことを選んだから。
「その太陽が確かにあったことを――忘れてやンなよ。勝手に逃げて諦めンな、まだお前は太陽があったことを覚えてンじゃねェか」
「……無茶言うんじゃねえよ!」
 青年が激昂した。座っていた椅子を蹴倒し、クロウを見下ろす。
「どうやったって消えていくんだよ、永遠に留めておくことなんてできねえんだよ!」
 それに、と青年が叫ぶ。
「おれの記憶の中にあったからって――それは、『あの女』そのものじゃない」
 それは、『おれの記憶の中のあの女』に過ぎない。青年は、シャツの胸元をぐっと掴んで、顔を苦しげに歪めた。
「『あの女』は、もうどこにもいない」
「……」
「どこにもいないんだ……」
 暗闇の中で、ただ、時折閃く雷光を頼りに歩くしか、おれに道はないんだよ。
 絞り出したような声での吐露が、開店前のバーに転がり落ちた。
「……じゃあな。あんたのことは結構好きになれたぜ――準備をするから、おれは行くよ」
 そう言ってふらふらと去っていく青年を――クロウは結局、引き留めはしなかった。
 
 
 

成功 🔵​🔵​🔴​


 
 
 ああ――ああ!

「――、――!」

 ブランドンは悲鳴を上げたかった。だが形にはならなかった。こういう時、どんな言葉にしたらよいのか、彼は知らなかった。誰からそれを教わればいいのかも知らなかった。ただそれでも喉だけが、何かを叫ぼうとして引き攣ったような音を立てていた。
 足は、殆ど走るような速度でバーから遠ざかっていた。
 どこにもいない。
 どこにもいない。

 もう、『あの女』は、どこにもいない!

 わかっていたことなのに――今更どうしてこんなに苦しい?
 忘れたくない。忘れたくなどない。でも、『忘れないでいる』ことにさえ、本当は何の意味もない。記憶は記憶でしかない。新しい通話どころか、写真も動画も、記憶からでは一枚も生み出せやしない。
 女を殺した同業のクズにおれが襲い掛かってブチ殺した時、一緒にいた別のクズは「お前の女だったのかよ、悪かったな」と言って宥めようとした。強化人間で、ユーベルコードを使える自分を力で捻じ伏せられるほど能力を持ったクズなどは、その場に一人もいなかったからだ。言葉を使ってブランドンを止めるしか、彼らには手段がなかった。
 そしてそれらの言葉のすべてが、ブランドンの神経を逆撫でした。
 何か言葉を紡ぐ度に、クズどもは次々に焼け焦げて、銀行のロビーに散らばっていった。客や銀行員の悲鳴も逃亡もどうでもよかった。気に障るクズをただ全員殺した。
 最後まで立っていたクズは、ブランドンだけだった。
 恋愛関係なんかではなかった。
 恋も愛も、ブランドンの中にはなかった。
 ただ――ただ。
 あの女が、しあわせに……生きていて欲しいと思っていただけだったのだ。
 太陽。バーで猟兵に言った形容が、ブランドンの中で燃えている。そう――太陽だった。宇宙にあって、地面を歩く自分からは遠く離れた場所で輝き続けるもの。その温かい光を、おれはただ、無償で受けていただけだった……。
 今年は、あなたにも、誕生日を祝って欲しい。
 そう言われたから。
 そう言われたから――おれは。
 花を。
 生まれて初めて、花を……買ったんだ。
 口の中に煙草の苦みが広がっている。だがそんなもの、この胸から込み上げてくる苦しみに比べれば大したものではなかった。くそったれ、どうしよう――どうしてくれよう。もう猟兵なんぞ全員無視してしまって、一人で銀行まで行ってやろうか。あの銀行は、とっくの昔に営業を再開して久しい。内装を一新したらしいことも聞いた。だが、働く人間までもが完全に入れ替わったわけではないことをブランドンは知っていた。どんな場所であろうと、人間には仕事が必要なのだ。あの日のことを覚えている銀行員はいるだろう。どれ程凄惨な事件が起きた場所だとしても、世の中、だからと言って早々に辞めてしまえる人間ばかりではないのだ。銀行とは縁遠い自分だから、あの日以来あの銀行には近付いていなかったが、そういう人間が受付にでもいたら、ブランドンに気付いて通報でもしてくれるかもしれない。そうしたら警察や他のヒーローに後は全部丸投げして、おれは猟兵とも遭わず、過去の自分とも遭わず、どこかに隔離されて事件が終わるまで寝ていられるかもしれない。あるいは、あの銀行に行けば、先にオブリビオンが現れて、ブランドンに接触してくれるかもしれない――
(『して』――『くれる』だと!)
 自分の思考に、ブランドンは足を止めて、肩を震わせた。胸から染み出す苦渋よりも昏い自嘲が、青年を笑わせていた。おれは何を考えているのだろう。
 だが。
「……オブリビオン……」
 だが――
「お前は、なんで『おれの過去』を選んだんだ?」
 そのオブリビオン〈悪〉が、もし。
 もし、もし、もし――万が一にも。
 おれを、『救って』くれるなら。
 おれは、それでも『ヒーロー〈悪を殺す者〉』でいられるだろうか?
 
 
 
玖篠・迅
オブリビオンの手には気を付けるようにするっと
……すごく言いにくそうにしてたけど、なにかあったのかなあ

まずは警察署とか過去の事件について記録がありそうなところにいってみる
ブランドンについて記録されている事と、ヴィランからヒーローに変わった時期の事件について調べたい
ヴィランからヒーローになった理由とか、今と前のブランドンについてとか
当時に交流のあった人や事件の関係者の人についてとかもわかると、その人たちからもできれば話を聞いておきたいな
調べたりすること多そうだし、「第六感」とかできそうなら「ハッキング」とかも使って調べてくな

地下鉄についたら朱鳥に手伝ってもらってブランドンと似た風貌の人を探してく
ブランドンに会えたら猟兵だって事と、オブリビオン退治に協力してほしいのと、目的があってブランドンの印象深い所に現れるって事を伝えるな
あと、できればそこが印象深いわけとか、ヒーロー活動についてとか、ブランドン本人の事を様子見ながら聞いてみたい
もし話すの難しかったりしたら、朱鳥に仲介頼めば楽になるかな



 
 
 ……なんだか嫌な天気だなー。
 玖篠迅は、徐々にどんよりと曇り始めた空を見上げて、少し眉を八の字に顰めた。警察署の窓によって四角く切り取られた都会の街並みは、今にも泣き出しそうに暗い。来た時は、そんなことなかったのに。このまま雨が降って来たらどうしようかな、と迅は少し思った。傘は持ってきていない。それに、戦うのならばきっと雨など気にしている余裕はない。
 降らなければいいな。願っても変わってしまうのが天気というものだけれど。
 警察署の応接室、その黒い革張りのソファに身を沈めて、資料を持ってきてくれるという警察官を迅は待っていた。ブランドンの名前と、今回の事件について伝えると、少し苦い顔をして、受付の警察官は「そうですか、ブランドンのやつが……」と呟いて、迅を応接室に案内してくれたのだった。そこには、ブランドンという人物への不快さが滲んでいて、迅は僅かに寂しい気持ちになった。何かに悪意を抱いている人を見るのは、あまり心地よいものではない。
(ブランドンが、ヴィランからヒーローになったせいなのかな)
 それだけではないようにも思えたけれど。そんなことを考えながら、迅はふと、自分の手に視線を移した。そうだ――手。あの仮面のグリモア猟兵は、自分たちを送り出す時、手に気を付けた方がよい、と言った。
(オブリビオンの手には気を付けるようにするっと)
 迅は自分の手を何となく握ったり解いたりを繰り返し、うん、と一つ頷いた。――でも。
(……すごく言いにくそうにしてたけど、なにかあったのかなあ)
 迅はあのグリモア猟兵を知っている。何度かUDCアースでも一緒に戦ったし、グリモア猟兵として案内もしてもらった。だからわかる、あの仮面が、あんな風に言い淀むことなど殆ど――少なくとも迅の記憶にある限りは――ないということが。
 というか、全体的に予知の内容を案内している間ずっと様子が変だった。途中、考え込むように黙ってしまったりもしていたし。
 今回の事件に関係があるのだろうか。応接室の扉が叩かれたのは、迅がそうして己の手を見つめながら色々と考えていた、そんな折のことだった。
「はい」
「――お待たせしました」
 ノックに返事をすれば、入ってきたのは、黒い髪の毛を短くした、若い男性だった。何か紙のいっぱい詰められた箱とノートパソコンを持って、制服の男性は迅に微笑む。
「資料はこちらになります」
「あ、ありがとうございます」
 立ち上がってお辞儀をすると、「いえいえ」と柔らかく言って、男性は箱とノートパソコンを応接室のテーブルに置いた。しかし膨大な量である。これ全部ブランドンについての資料なのかな、と驚いていると、男性が言葉を続けた。
「猟兵さんに協力するよう言われていますので、よければ一緒に資料を探しますよ」
「本当? じゃあお願いします」
 その男性警察官は、マックスと名乗った。
 二人で応接室のソファセットに向かい合って、資料箱を覗き、ノートパソコンを開く。
「ブランドンのどんな資料をお探しで?」
「ええと……」
 マックスの質問に、迅は少し考えてから答える。
「まずはブランドンについて記録されている事と、ヴィランからヒーローに変わった時期の事件について調べたいな。ヴィランからヒーローになった理由とか、今と前のブランドンについてとか」
「なるほど……わかりました」
 了承して、マックスが詰められた書類の中から幾つかの書類を選んで抜き出す。
「昔のブランドンが起こした事件についてはこのあたりでしょうか」
 そう言われ、渡された書類には、窃盗から殺人まで幅広い犯罪歴が記載されていた。殺人――それを見た時、迅が最初に考えたのは、捕まらなかったのかな、という至極単純な疑問だった。
「捕まえられなかったんですよ」
「え?」
 頭の中の疑問へ不意に返事を与えられて、迅は書類から顔を上げた。
「捕まえられなかったんです、ずっと。ヒーローの方まで返り討ちにするくらいで」
「そんなに強かったのな?」
「強いというか――いえ、そうですね。強いです。勿論猟兵の方々には劣るでしょうが」
「そうなんだ……」
「ほら、こちらの書類にありますでしょう」
 男が、迅が持つものとは別の紙束を更に渡してくる。素直に受け取って、迅は内容に目を通した。
「……『半径約十メートル以内にある無機物を、極めて高電圧かつ大電流の雷撃に変換し、操作する』……」
「半径十メートル以内に無機物のない場所なんて、この社会に中々ないですからね。第一、石でもポケットに入っていればそれで事足りる。それどころか、服に金具が一つでもあればいい。誰かと組んでいれば猶更です」
 自然公園にだって柵やベンチがあるんですよ。マックスは苦い表情を浮かべて、手を組み合わせた。
「ヒーローになる可能性があるからと殺すことも許可されていませんでしたので、本当に手を焼きましたよ、彼には」
 絶縁スーツを着ていたヒーローでさえ、隙間を的確に狙われてしまって。男が疲れたようにため息を吐いた。
「他人を殺すことに躊躇がなく、攻撃の精度も非常に高いんです。聞いた話によると、雷撃の精度と威力を上げるために実験と訓練を十年以上繰り返していたとか……」
 落雷と同じくらいの威力だそうです、と男性は苦い顔のまま言った。
「一応、殺したい――というわけではないようなんですけれどもね」
「どういうことな?」
「ユーベルコードの威力が高すぎて使うと簡単に人が死ぬんですよ。そしてそこに罪悪感がないので――我々にはそう見えるので、平気でまたユーベルコードを使う。それが当たり前過ぎるんです。だから今でもすぐ犯人を殺してしまう。もう私刑に近いですよ。そのせいで嫌っている人は多いです」
 あんな殺人犯、ヒーローと呼ぶのなんておこがましいと言う人もいますね。
「私としては、話を聞く限り、誰かがちゃんと教育さえしてやれば、もっと善く生きられるんじゃないかと思っていますがね」
「……そう、ですか……」
 人を殺すことが当たり前になる生き方とは――生活とはどのようなものだったのだろう。マックスが迅の考えなど気付かずに続ける。
「そう言えば、彼がヒーローに変わった切っ掛けの事件ですよね」
「は、はい」
「多分、あの事件ですね……ある日いきなり、銀行強盗の時に仲間を全員焼き殺しまして。あれ以来、ブランドンは犯罪者しか殺さなくなったんですよ」
「え……な、なんで?」
「それが実は、よくわからないんです」
 これがその事件です、と今度はノートパソコンを操作して、男が資料を迅に見せた。死亡した人数や、氏名が載っている。こういうの見てもいいのかな、と一瞬思ったが、他ならぬ警察官が見せてくれているのだからいいのだろう。ブランドンの写真まで載っている。探す手間が省けたことを喜べばいいのだろうか。
 ――と、迅は、被害者の中にいた、一人の若い女性に気付いた。所持品が、この人だけ、なんだか違和感がある。んー?と迅は眉根を寄せて少し考え、その正体に気付いた。
 この人だけ、スマートフォンを持っていない。
「……あの、この人の、スマホとかは見つかってない?」
「え? ああ、そうですね。ありませんでした」
「うーん……?」
 普通に持ってなかったのかな、と考える。けれど、迅の第六感が訴えるのだ――ここに、ブランドンという『ヒーロー』の根源があるのだと。
「この人のこと、何かわかりますか?」
「すみません、そこにあること以上のことは……」
 監視カメラも事前にブランドンが壊してしまっていてデータがなく、とマックスが申し訳なさそうに頭を掻いた。
「そうですか……ちょっとこのパソコン、借りてもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
 にこやかに差し出されたので、迅は電脳ゴーグルをつけると、パソコンと向かい合った。そうしてそのまま、パソコンを経由して構築された電脳世界で、女性の名前など、得られた情報でハッキングを行う。マックスが、「コーヒーでも持ってきますね」と出て行くのに感謝を返しながら、迅は女性の名前で作られたアカウントを見つけたので、それを謝罪と共に、開いた。
 アカウントは、クラウドストレージのものだった。中には、女性と恋人らしき男性の写真が沢山入っていた。勿論、友達と思われる人たちとの写真も。それから――彼女が色んな人と交わしたメッセージの履歴。こまめにデータを保存する人だったのだろう。
 その中に、たった一人だけ、写真も、動画もない人がいた。
 ブランドン、と呼ばれていた。
 でもそれは後からつけられた名前だけどな、とブランドンと呼ばれた人物はメッセージで答えていた。じゃあ元は?という質問に、ブランドンは有名な俳優の名前を挙げては、嘘を吐かないでと冗談めかして怒られていた。
 ――名前は忘れた。
 ――要らないものだったから。要らないものはちゃんと忘れられる頭なんだ。要るものもすぐ忘れるから困ったもんだけどな。
 そんなことをブランドンは送っていた。
 ――スマートフォンはいいよな。スペル勝手に補正してくれるから。
 ――おれの字なんてひどいもんだよ。仲間の誰に見せても馬鹿にされるくらいだ。写真? 馬鹿言うな。象でも卒倒するくらい汚いんだ。
 そんな、他愛のないやり取りがそこにはあった。
 それらを全部読み――そうして、マックスがコーヒーを二つ持って帰って来る頃に、迅はハッキングをやめてゴーグルを外した。
 なんだか、ひどく……悲しくて堪らなかった。
「どうしましたか? 気分でも?」
「う、ううん……いいえ、えっと……」
 迅は幾つか考えを巡らせて、だが言うべきこともなく、最後に訊きたいと思っていたことを口にする。
「ブランドンが今拠点にしてる地下鉄とか――わかりますか?」
 ――そして聞き出した地下鉄に、だがブランドンはいなかった。駅員に聞くと、しばらく前に入れ違いで出て行ったと言われたので、迅は朱鳥を呼び出すと、ブランドンを探すようにお願いしてから自分も地下鉄を出た。
 空に解き放った朱鳥の一体がブランドンを見つけたのは、街の中を歩き回って少し経った頃だった。
 警察署で見た写真よりもずっと――暗い目をした青年が、そこにいた。
 自然公園のベンチに座り、朱鳥を指に乗せて、柔らかく笑んでいる。唇の隙間から見える歯が綺麗に揃っていて、何故だか印象的だった。
 ブランドンが、迅に気付いて、それから指の朱鳥を見た。
「……ああ……」
 なんだ、猟兵の鳥か。落胆した声で、それでもブランドンは朱鳥を優しく放した。動物が好きなのかな、と迅は思った。
「なんで、猟兵だって」
「今日はそういう日だから。オブリビオンがおれを使って大犯罪をやらかそうって日」
「知ってるんだ」
「もう散々聞いたからな。で、お前も、おれがヒーローになった動機が聞きたいクチか?」
「……ううん。それは、もういいな」
 本当は、会えたら、そこが印象深いわけとか、ヒーロー活動についてとか、聞いてみようと思っていた。
 でも、あの履歴を見たら。
 何もかも――わかってしまったから。
「へえ」
 ブランドンが意外そうにして、警戒を僅かに解いたような顔で、ベンチの背に凭れた。
「場所も要らない?」
「うん」
 薄っすら笑顔を浮かべながら言うブランドンの言葉を肯定した瞬間――男が、卑屈な様子で笑った。
「ああ――お前には全部バレてるわけだ」
「あ……」
 そうか、それを肯定したら――必然、その結論に至ってしまう。
「これだからおれみたいな馬鹿は駄目なんだ。スマホはどさくさで焼いといたってのによ」
 だから現場になかったのか。いやでも――それなら、焼けたスマホさえ見つかっていないのは何故だろう? 迅が疑問を口にするより先に、ブランドンが項垂れる。
「どっかにデータが残ってたのか、そうか……」
 そうか。呟くブランドンの表情は、俯いているからわからない。
「……しあわせそうな女だったろ」
「……うん」
「おれが、まともな親もいない実験動物の殺人犯だなんて、微塵も疑ってない女だったろ」
「……うん」
「ひとはみんな、多少の苦しみがあっても、最後はハッピーエンドで終わるもんだって……本気で信じてる女だった。そういう世界で生きてる女だった。そういう女だったんだ」
 そういう女だったから。ブランドンが顔を上げた。
「誕生日に、花くらい、贈ってやってもいいな、ってよ……思ったんだ、おれ」
「……うん」
「しあわせな女を、しあわせなまま、死なせてやりたかったんだよ」
 彼のその表情を……どう捉えればよかったのだろう。
 泣き出す直前の。
 笑い出す直前の。
 怒り出す直前の――燃え盛る直前の、燻る火のような……。
 ブランドンが立ち上がる。
「あ――あのさ、」
 このまま行かせちゃだめだ。迅の直感がそう告げていた。暗い淡褐色が、迅を見る。
「あの……」
「あのよ」
 先に言葉にしたのはブランドンだった。
「変なこと聞くがよ――お前ら猟兵って、『世界を救う』やつらなんだよな」
「う――うん」
「そうか。ありがとな」
 ひらりと手を振って、青年が背を向ける。
「あの!」
 ブランドンは立ち止まらない。
「俺たちは――俺は! ブランドンのことも、助けたいと思ってるな!」
 背は遠ざかる。届いているのだろうか。
「ブランドンのことだって、『世界』の中に、ちゃんと入ってるから!」
 結局、青年は、最後まで一度も、迅の方を振り向くことはなかった。
 
 
 

成功 🔵​🔵​🔴​


 
 
 最早、雷光だけがよすがだった。
 閃く稲光だけが、おれを導いた。

 優しいガキだったなあ、とブランドンは思った。あの幼顔を残した猟兵は、『世界』の勘定にブランドンまでをも入れていると言う。ではブランドンはどうだろう。自分の『世界』の勘定に、誰を入れている――入れていただろう?
 舌に残った煙草の苦みが、急に恋しくてたまらなかった。でもこの街では煙草を吸うことも自由にはできない。人道的であろうとする、清潔であろうする、芸術と人間の溢れる街。人々はまだらに混ざり合って、日々を織り成している。十八のあの日――初めて出て行った研究所の外は、たぶん、ブランドンが思っていたよりもずっと柔らかく、優しかった。それを『きちんと』理解できたことは、一度だってなかっただろうが。
 あるいは、ブランドンが『そう』出来ていたのならば、何か変わったのだろうか。馬鹿な問いだった。変わったのに決まっている。少なくとも、彼はあの女に遭わずに済んだ。
 あの女が死んだとしても――その死を知る事などなかっただろう。
 世界が柔らかく優しいことを受け容れて、己もそのように生きていられたら!
 だがそれは、ブランドンがブランドンである限り不可能なことだった。
『過去』! 覆しようのない、排出されていくばかりの過去こそが、人を形作るのだ!
 彫刻を一塊の石から描き出すように、その削ぎ落とされた過去こそが!
 ブランドンはふと立ち止まって、何とはなしに空を見上げた。曇天だった。雨が降りそうだとぼんやり思った。雨――『おれ』と戦うには、あまり良くない天気だ。
 猟兵たちに、教えておいた方がいいのだろうか。いいのだろう。たとえ、相当出来が悪い『ヒーロー』であったとしても、『ヒーロー』と呼ばれる存在であるのならば。
 猟兵たちに、ちゃんと、協力しなくてはならない――のだろう。
『世界』を救うために。
 けれど。

(知るか)
 知るか。
 知るか――知るものか。
 実の親の顔なんか知らない。
 育ての親は飼い主に過ぎなかった。
 研究所の中は――外でさえも、おれの『世界』は。
(おれは)
 なんでここにいるんだ? 問われた言葉が蘇る。
 なんで――そんなもの。
 そんなもの。

「――おれは、結局、ヒーローになんてなれやしないんだ」

 そうだろう、猟兵〈世界に選ばれた者〉どもよ。
 お前らこそが、『ヒーロー』に相応しいのさ。
 
 
 
ヴォルフガング・ディーツェ
スナークか…原作は触りしか知らないが
ブランドンに取ってのブーツはいやしないのだろうな
…人は希望がなくとも息が出来る
残酷にも、ね

電脳空間アクセスが可能なカフェへ
珈琲を啜りつつ【指定UC】で「ハッキング」
ブランドンは大切な者を失い、ヒーローに比較的最近転向した
なら近年から当たるか
片っ端から女とブランドンに関する情報を集めよう、店員を「誘惑」し聞き出しも
若い人間の方が覚えているだろう、必要なら艶やかな時間も差し上げようか
甘い言葉も、滑る指も慣れたもの
…ま、そんなモノで癒される乾きは一時でしかないが

女が愛した店
女が好んだ場所
…或いは女が眠る墓標

当たりを付けてはヒーローを探して回る
弔い花を持ち、墓標へ贈ろう
同情ではないよ、死者の静寂を揺るがしたのなら、礼儀は尽くさねばならないだろう?…なあブランドン

君に出会えたのなら、目的は果たされたと言っても過言ではない
…君を騙るモノが君の過去を再現しようとしている
闘えとは言わない、ただ、死者を弄ばれるのは我慢ならないのではないか
教えてくれ、君が心を喪った場所を



 
 
 
(スナークか……)
 原作は触りしか知らないが、と、ヴォルフガング・ディーツェは、無料でインターネットを開放しているカフェの一席に座って、珈琲に唇をつけた。オーナーが拘り抜いている、というのは嘘ではないようで、頼んだ珈琲は存外美味なものだった。
 特に――その奥で香り立つ、深い苦味は。
 ふ、と男はその皮肉に笑う。この珈琲は、『それ』があるからこそ美味なのだ。
 苦い経験が人に深みを与えると言う者もいるかもしれないが――それは『他人を味わう者』だから言える言葉に過ぎない。奥底に巣食った苦味を噛み締め続ける人生とは……きっと、他の誰とも分け合うことのできないものだ。多分、それをヴォルフガングは知っていた。
 スナーク。スナーク狩り。
(ブランドンにとってのブーツはいやしないのだろうな)
 スナーク狩りにおいて、ブーツ――靴磨き屋、というのは、特殊な立ち位置にある。彼がスナークを見つけたパン屋を殺したという説が古くからあるのだ。尤も、その説が正しいかどうかは、きっと誰にも、そして永遠にわからないのだろうけれど。
 ――死は、ある種の人間にとって、希望となり得る。
 ブランドンに、ブーツ〈彼を殺す者〉がいたならば、あるいは彼も、そこで『救われた』のかもしれない。だが彼にそんな者はいなかった。
『彼には希望さえ与えられなかった』。
 ヴォルフガングは、そう認識していた。花を贈りたいと思うような存在を失って、奈落の底に転がり落ちて。地下鉄で寝起きをしながら、それでも、彼は『生きている』。
(……人は希望がなくとも息が出来る)
 残酷にも、ね。
 老いた狼は、白いカップに入れられた珈琲を、ゆっくりソーサーに戻してから、少しだけ細く息を吐き出した。店のインターネットを経由して『調律・機神の偏祝〈コード・デウスエクスマキナ〉』でアクセスした電脳空間からは既に、ブランドンがヒーローに転向したものと思しき事件の情報を、ハッキングによって手に入れている。
 ブランドンは大切な者を失い、ヒーローに比較的最近転向した。なら近年から当たるか、と警察や報道などの公用端末から、そこに所属する者たちの私用端末まで。片っ端から女とブランドンに関する情報を集めた。珈琲を頼む際にも、店員が若い女だったので、ささやかに色を乗せた微笑みを浮かべてみて、好感触を得たのをよしとして、ブランドンについても質問してみた。事件が新しいものならば、若い人間の方が覚えているだろう、と思ったからである。必要なら艶やかな時間も差し上げようか、とも思っていたが、そこまでの労は不要だった。相手が記憶力のよい話好きの女だったからというのもあるし、カフェがそれなりに忙しくなってきたからというのもある。いずれにせよ、ヴォルフガングが欲しい情報は然程苦も無く手に入った。
 そうして最後に「珈琲ゆっくり楽しんでね、色男さん」などとウインクを一つ投げられ、それに笑顔で応えてから、女とはカウンターで別れた。
 珈琲の入った白いカップの緩やかな曲線は、女の肢体の稜線に似ている。
(甘い言葉も、滑る指も慣れたもの)
 とは言え。
(……ま、そんなモノで癒される乾きは一時でしかないが)
 それを選ばなかったあの女は――賢いと称してよいのだろう。愚かしさを好まない自分としては、比較的好感の持てる『情報源』だった。
 それに、ハッキングでは見つからない類の情報が手に入ったのもよかった。
 店員は、ブランドンが『ヒーローになった』その日、丁度、事件が起きた銀行にいたのだと言う。その日は偶々、あまり手持ちがないこともあり、別の仕事でもらった小切手をすぐに換金したかったのだと店員は言った。せめて明日にしておけばよかったのにねえ、というのは店員の後悔である。昼の最中、彼らはやってきた。
 監視カメラや防犯系統は全て壊されて、まさしく稲妻のように、武装した男たちは銀行員や客に銃を向けた。多分あの日を超える一日はこれからの人生にないでしょうね。あったら困るけど。店員は笑ってそう言った。
 ――照明を全部壊されてね、薄暗い中で、動いたら殺す、なんて言われて。雷が天井で、バンッ!と弾けたから、あ、ヴィランがいるんだ、ってわかったのよ。実際、犯人もこっちには強化人間がいるんだ、って得意げにしてたしね。
 ――ユーベルコードが使えるヴィランがいる銀行強盗なんて、ヒーローが来てくれないとどうしようもないじゃない。でも通報も出来なくて……皆、真っ青な顔で、息を殺して犯人たちを刺激しないようにしてた。そんな中で、女の人が……そう、あの人、運が悪かったのよね。色んな意味で。
 ――驚いた顔をして、お手洗いからひょっこり出てきたのよ。隠れていればよかったのにねえ。何故か? それはわからないわ。ああでも……今にして思うと、犯人が、ブランドンのことを呼んだからだったのかも。警察に事情聴取された時は、もう動転してて、女の人がいきなり殺された、くらいの説明しかできなかったけど。
 ――お手洗いの位置も悪かったのよね。犯人の一人が、すぐ近くだったものだから。
(『持っていた銃で、彼女の頭をすぐ撃ち抜いた』……か)
 そこからは『よく見えなかったし、聞こえなかった』と店員は言った。直後に、凄まじい閃光と、轟音で目と耳を焼かれたからだという。それでも悲鳴と怒号が飛び交っているのはわかったし、仲間割れを起こしたのもわかった。ついでに、銀行の内装がブランドンの雷撃を受けて壊れていくのも。
 ――あの人、恋人だったのかしらねえ。ブランドンの。
 ――だとしたら。
 ――わたし、……。いえ、それは、わたしが言うべきことじゃないわ。だってわたしは、何も失っていないもの。命も、恋人も。小切手も結局アプリを使って換金できたしね。
 店員との会話はそれで終わり、ヴォルフガングは、色男と呼ばれて今珈琲を飲んでいる。成程、碌な記録が出て来なかったのはそういうことか、とヴォルフガングは納得したものであった。被害者の目耳が潰れ、更にパニックになっていたのであれば、残せる記録など殆どないだろう。更に言えば、残念なことに、逃げる隠れるなどで難を逃れた者にも仔細を説明できる者はおらず、かくして『何故か銀行強盗の事件で仲間割れを起こしたために、ブランドンはヒーローになった』という結果だけが残ったというわけだ。
 誰が『どんなもの』を失ったのか――誰にもわからないまま。
 ヴォルフガングは、ため息交じりに、椅子の背に体重を預けた。珈琲にまた口をつける。
 ブランドンが失った女。
 彼女が――おそらく死んだために放置されていた――クラウドのデータから、女が愛した店や、女が好んだ場所などはすぐに見つかった。ただそれは、『生前の彼女』が残したものに過ぎず、『死後の彼女』には最早縁のない場所だった。
 だからだろう。ブランドンは、『生前の彼女』に纏わる場所には近寄っておらず、どの店や場所で能力を駆使してみても、見つけることが出来なかった。
 だが、ただ一箇所。
 ただの一箇所だけ――『生前の彼女』とは無関係な場所がある。
 ヴォルフガングは珈琲を飲み切ると、椅子から立ち上がった。そうして彼は、店員に再び訊いたのだ。
「この墓地へ行きたいのだけれど、道順わかる?」
 と。
 女には家族がおり、女の死を悼んでいて、丁寧に葬式を挙げていた。だから、女の名前で調べれば、すぐに墓地の場所は知れた。
 となれば、後は、そこへ向かうだけだ。
 女が愛した店には行かない。
 女が好んだ場所にもいない。
 であれば――
(……或いは女が眠る墓標)
 ――そう思ったが。
 本当にいるのだから、という言葉の後ろに、どんな言葉を続けてやるのが適切であるか。ヴォルフガングには分かっていたが、結局頭の中でさえも、それを形にはしなかった。
 これでいなければ、他の当たりを付けて探して回るつもりだったが、手間が省けた。それを喜ぶべきか、否か。尤も――ここに来ていること自体は、墓地の監視カメラをハッキングしていたから、分かっていたことなのだけれど。
「……誰だ?」
「ヴォルフガング・ディーツェ」
 素直に名乗る。表情も変えない、死者の前で『お道化』をやるのは、冒涜だろう。
「……ああ。また猟兵か……」
 擦り切れた男だ、というのが、ブランドンを見るヴォルフガングの印象だった。それが、彼のこれまでの生活に依るものなのか、それとも「また」と零すほど猟兵と出会ったために依るものなのか、そこまではわからなかったが。ブランドンが、鼻を鳴らした。
「そんなもんまで持って来て――全部調べて、同情でもしたか?」
「同情ではないよ、死者の静寂を揺るがしたのなら、礼儀は尽くさねばならないだろう?」
 そんなもん、とブランドンが言ったのは、花だった。真っ白な、百合の花束。ここへ来るまでに買い求めた、弔い花だった。
 す、と墓標に近付き、百合を供する。
「……へ。下手にあいつが好きな花なんぞ贈られてたら、おれはあんたのことを嫌いになるところだった」
 ブランドンが心底可笑しそうに笑ったので、ヴォルフガングは体を起こして立ち上がると、男へ向き直った。
「……百合は嫌いな女性だった?」
「ああ。大嫌いだった。婚約者に百合を贈られて、相当キレてたのを宥めたこともあるぜ」
 クラウドにはなかったから、電話か何かで宥めたのだろう。他愛のない話。そして二度と取り戻せない日々の話。ヴォルフガングは、その虚しさを分かっているであろう男と共に、その哀れさに、僅か、笑う。
「はは、そんなに?」
「そう、そんなに。匂いが嫌なんだと」
 変な話だ、あの女のことを知らない猟兵と、あの女の思い出話をしてる。ブランドンが、笑ったまま、そんなことを口にした。
「今日はおかしな日だよなあ。会った事も無い猟兵と、何度も何度も、あの女のことで話を続けてる。あの日にはまったく無関係な、猟兵とばかりさ……」
 ――空虚を抱えた人間は、最後には、皆、笑うようになるのだろうか。
 そんなことを、ヴォルフガングはふと考えた。意味のないことだったから、すぐに考えるのをやめたが。
「思い出せば思い出すほど……あいつがここにいない事実だけが浮き彫りになる。おれの頭から、あいつの記憶が抜け落ちて行ってんのに気付いちまう……」
 疲れちまうよなあ。男が天を仰いだ。その先にあるのは、灰色の空。
「『雷雨』が来るぜ、猟兵さんよ。大丈夫か?」
「大丈夫……でなくとも、『大丈夫にする』ものだ、猟兵というものは」
「世界を救うために?」
「さあ。世界が救われるのは、結果に過ぎない。もしかすると、俺たちは『世界を救おうとしなくても』、『世界を救うという結果に収束してしまう』存在なのかもしれない」
「……収束ね……」
 収束、と男が呟く。
「……なあブランドン」
「うん?」
「君に出会えたのなら、目的は果たされたと言っても過言ではない」
「そうかい」
 ブランドンの反応は淡泊だ。平然としている。――否。
「……君を騙るモノが君の過去を再現しようとしている」
「らしいな」
 否――これは。
 ヴォルフガングは少し言葉を止めて、男を、ブランドンを見る。
 それしか名を持たぬ男――未だ青年と呼ぶべきであろう、この、名も無き歳若い男を。
 ブランドンは、真実、それ以外に『名を持っていない』。
 電脳空間で見つけ出した、青年の経歴。病院で生まれて、すぐ施設に送られた。彼の母親は、彼に名をつけなかった。その後、やはり名がつく前に、研究所に引き取られた。そして彼は「ブランドン」とだけ名前を与えられた。ファミリーネームはあるが、形式上のものに過ぎず、おそらく本人も、それを与えられていることを知らないのに違いなかった。
 嗚呼。ヴォルフガングは、薄暗く落ちていく世界で、数瞬だけ目を閉じ、そして開いた。
 青年を、真っ直ぐに見据えて。
「……ブランドン、本当に『雷雨』が来ると……君は言うのだな」
「ああ、きっとな。どれくらいの大きさになるかは、まだわからねえが」
「そうか」
 ぽつ、と、雨粒が、鼻先に落ちた。
「ほら――もう降ってきやがった」
「……、ブランドン」
 この若い芽に、もう陽の光は望めないのだろうか。望めないのだろう。
 彼の太陽は死んで久しいのだ。
「闘えとは言わない、」
 ただ、と、齢百を超えた男は続ける。雨脚が強くなってくる。来るのだ、雷雨が。
「死者を弄ばれるのは我慢ならないのではないか」
「……わかんねえよ」
 わかんねえ、とブランドンが、言った。百合の花が濡れている。
「おれの過去が……おれの罪を再現したとして……」
 それは、抗いようのない――否定しようがない、『おれ』じゃないのかよ。
「……雷の夜を……おれは……まだ歩いてる……」
「……一つだけ」
 ヴォルフガングは、青年に問う。
 ――この青年に、ブーツ〈彼を殺してくれる者〉はいない。いなかった。
 それを、自分は理解していた。

「教えてくれ、君が心を喪った場所を」

 濡れそぼる青年は、その問いに、へらりと笑った。

「悪いな。きっと最初から、そんなもんなかったよ」

 邂逅は、それで終わりだった。準備をするから、と青年は去ってしまった。雨は止む気配を見せない。
 傘は邪魔だろうな。そんなことを考えながら、黙したまま、ヴォルフガングは、『雷雨』を迎えるために件の銀行へと歩き出したのだった。
 
 
 

成功 🔵​🔵​🔴​


 
 
 
 雨が降っている。
「――過去ってなんだろうな」
 男は車の中で、そんなことを呟いた。車の行き先は銀行である。後部座席の足元には、車の元の持ち主が首を折られて転がっていた。男は車のラジオをつけている。ラジオからは、きっと『男』が知らなかったような、新しいアーティストの新しい曲が流れている……。
「花と共に地中へ埋められるもの。夢のように出くわし、消えてしまうもの」
 車の中には、飲みかけで冷めた珈琲の匂いが充満していた。
「永遠に失われてしまったもの」
 濡れた車のフロントガラスを、ゴムがぎゅうぎゅうと左右に動いている。手入れを怠っているな、と男は思った。車の手入れをしない人間はあまり好かない。
「時に『しらじら』と身を焼く炎になるもの」
 だが、本当に、『自分』が、『車の手入れをしない人間を好いていない』のか。
「選択が積み重なったもの、あるいは己の礎となるもの?」
 それを判断することは、『自分』にはできない。
「詩的に言うなら、舞台の裏で描かれるもの。それとも、祈りの行き着く先か?」
 黒い革に包まれた指先で、男はラジオを止めた。
「自己の形成に過去が必要となるのは確かだ……」
 男は信号で止まった。そうして、ハンドルに少し凭れると、つまらなさそうに、窓の外で強くなっていく雨模様を眺めた。
「では――肉体を器として……過去を中身とした時……」
 銀行はもうすぐである。
「……一度中身の過去を捨てて空っぽにした場合、それは、『同一』であると言えるか?」
 記憶や名前、経歴の一切を骸の海に置いてきてしまった『俺』は。
「……過去の『俺』と今の『俺』は確かに『同一』ではない……」
 だとすると。
 信号が青に変わったので、男は再び車を走らせた。
「だとすると……俺は、『誰』なのだろう?」
 誰でもない『俺』と定義しても。
 骸の海に落ちた『俺』の、確かに存在する『過去』がそれを邪魔する。
 抗いようのない『過去』が『俺』を否定する。
 抜け殻。
 残骸。
 空の器に――降り続ける『過去』という雨粒が溜まって行っているだけのもの……。
 昔、大事なものを失くした気がする。
 足掻いた気がする。
 膝をつきそうになった、いやきっと、一度は膝をついた。それを『知っている』。
 だが同時に、光を見たようにも思う。あれは最後の、稲妻にも似た、閃光だった。
 だから、もう一度だけ、立ち上がった。
 その結果は、どうだったか。
 それを『俺』は知らない。それを経験したのは、『俺』であって『俺』ではない。
 継ぎ接ぎの器に、雨が降る。過去という、流動的な『何か』が溜まっていく……。
 そしてそれは、今この瞬間も、排出され続ける。
「スナーク狩りか……」
 男は薄ら笑いを浮かべた。それは自嘲だった。
「消えて失せて――後には何も残らない」
 この場限りの『俺』はいずれ消える。所詮オブリビオンだからだ。
 死んでしまったかつての『俺』は――決して戻ってくることなどない。
 ア、ハ、ハ、と、男は、乾いた声で笑った。虚しい戦い。
「意味もない〈ノンセンスな〉話だ……」
 誰も正体を知ることなどない!
 誰も何かを得ることなどない!
 これは、最初から最後まで、そういう話なのだろう。
『だから、きっと、面白い』。
「……そうだろう?」
 こんなものから何かが『生み出される』のであれば。
「ブランドン――」
 それほど『面白い』ことなど、きっとこの世に一つもないのだ!
「――君は、『どれ』を選ぶんだ?」
 選択肢を用意して、『俺』は問うよ。
 必要ならば、猟兵たちにさえ。
 男は、まだ見ぬ『ヒーロー』たちを思って、柔らかく微笑んだ。
 
 
 
レッグ・ワート
生体の想像力って元気だよな。と、仕事。

昔をどう思うタイプかわからんが、先ず本人に会おう。
衛生面がやばい地下鉄の浮浪者に状態確認かけつつ、
こっそり居場所聞いて回る情報収集といくわ。
ちょっと踏み込んできた奴には依頼があるって言うかな。
処置諸々は目立たず出来る範囲で一応希望者だけ。
反応無くても他から情報回ってくるまで処置してるよ。
とまれ依頼内容は、大変そうな連中相手するから手伝ってだ。
対象がヴィランだった頃のデータを使ったヴィランと、
それを呼び出すオブリビオンが相手とも伝えとかないとな。
ほらそれで状態確認許可とれたらいう事無いし。
今も様子見に行く現場について、
どんな能力持ちなのか今どれだけ動けるか、
昔どう動いてたかは作戦会議がてら聞くし、
こっちの得意分野も話すんだが……。
俺としては傷の処置ちゃんとしてるかとか
無理な再生キメたりしてないかが気になるんだよ。

ところでよく飲んでるとか好きな飲み物ある?何か入れる?
休憩だか移動の間にあったっていいだろ。買ってくるよ。
飲まずに持ってるだけだっていいさ。



 
 
 
 ダークヒーローの過去がオブリビオンとなって悪事を働くことで、正体なき、姿なき怪物『スナーク』とやらが生み出される、と。
(生体の想像力って元気だよな)
 レグがヒーローズアースを『ぼちぼち』歩きながら考えたこととしては、大体そのようなことだった。
 熱を出した子供が、枯葉やら柳やらに怯え、魔王がいるとして父親に訴える歌曲もあるとレグは知識として持っている。客観的にのみ現実を捉える――というよりも『事実』のみを。そうすることしか機能的に出来ない。『推測』や『想定』は出来るが、生体で言うところの、所謂『創造的な』想像力などは有していない。すべての『想像』は、蓄積したデータを使用した演算結果に過ぎない――自分としては、「生体、相変わらず元気だなあ」という結論しか出て来ないのであった。逞しいだとか豊かだとか賛ずるには、この場合、害があり過ぎる。
(――と、仕事)
 昔をどう思うタイプかわからんが、先ず本人に会おう。パーソナライズされた対処が必要なケースであろうことは容易に知れたからだ。
 ウォーマシンには少々低すぎる地下鉄の階段を下りたところで、衛生面に問題がありそうな浮浪者を発見したので近付く。随分と水浴びさえしていないのであろう、老いた――レグの状態確認〈スキャニング〉で見る限りは、およそ七十の半ばだった――男は、薄汚い布類を体へ巻き付けるようにして、汚い床へ座り込んでいた。眠っているわけではなかったが、動く気力がないらしく、赤黒い垢にまみれた肌の男は、白いひげをぼうぼうに生やした顔を俯かせたまま、レグがすぐ真横に立っても一瞥さえしなかった。
 状態確認の結果では、高血圧と糖尿を患っていることがわかった。
(それと、体部白癬か)
 水で洗って薬剤を塗布する必要があるが。どうするか、とレグは少し考えたものの、処置諸々は目立たず出来る範囲で一応希望者だけ、という優先度にしておこう、と結論づける。浮浪者から情報を得るたびに治療をしていては時間的な問題が発生する。治療場所の問題もある。簡易的な治療テントを作ることは可能だが、ここは公共の場だ。許可が必要だろう。
「なあ、あんた」
 男は動かなかった。聴覚に衰えがあるわけではなさそうなのだが。面倒だと思っているのかもしれない。
「寝てるとこ悪いんだが、訊きたいことがあるんだよ」
 レグが軽く肩を揺さぶると、男がのっそりと、漸く顔を上げた。
「……なんだ……」
「ブランドンってやつに心当たりある? どこにいるとか」
「……」
 男の形相がみるみるうちに変貌するのを見て、あー、とレグはすぐに失敗を悟った。これは多分、個人的な怨みがあるやつ。
「ブランドン――あの――人殺し!」
 私の息子はあれに殺されたんだ、と男が激昂して声を荒げ――何故かすぐに、息を詰めて充血した目を細めると、僅かに俯いた。だが先程のように、黙り込むことはなかった。
「あれが、私の息子を殺したのは確かだ……しかし、私の息子が、他人の人生や尊厳を踏み躙るような犯罪に手を染めていたのも確かだった……」
 殺したことを許すことはできないが。
 あれがあの子を殺さなければ、私はあの子を『許してしまっていた』かもしれない。
「たとえ、あの子のせいで、どれだけの可愛らしい、前途のあるお嬢さんや……若者が犠牲になっていたのだとしても……私の性根は腐っている。この傷んだ体は、この性根に対する罰なのだ」
「そうかい」
 否定しても肯定しても面倒になりそうだったので、レグはそれだけを言った。相手の思想には、正直なところ、自分の仕事に関係がないのであれば、知識として放り込むものでしかなかった。罰、と己で捉えているからには、治療も必要がないのだろう。
 男が続ける。
「ヴィランはヒーローになるかもしれないから殺すなと、……この世界は言うがね」
 それなら、ヴィランの悪事の被害で死んだ者は、どうしたらいいのだろうか。
 どう、と言われても、自分に判断のつく事柄ではなかったので、レグは黙っていた。まず生体の善悪判断や怨恨に口を出してよい結果になることは殆どない。それに、これは意見を求められているのではないと経験則から知っていた。ただ喋りたいだけなのだ、この場合。
「私の息子はユーベルコードなど使えないただの悪人だったから、捕まれば裁かれていたのだろうが……そうでない者は? ……相手の善性を信じなければならないか?」
 操られていても。
 それしか知らなかったのだとしても。
「罪は――罪だ。私はそう思うのだ。応報されるべき……復讐されるべき……」
(……こりゃ駄目だな)
 外観からもわかるほど、精神に変調を来たしている。これはさっさと次へ行った方がよさそうだな、などとレグが思っていると、男が、口を閉ざして、身動ぎした。何をするのかと見ていれば、男が、しわくちゃになった紙を取り出して、レグへと差し出した。
「あいつは存外……寝床を変えるが。その一覧にある駅を主に使うことが多いようだ。……私が勝手に、通行人の話を聞いてまとめただけだがね……」
「理由は? わかる?」
「知らん。ただ、近くに廃線があったように思う……」
「そうか」
 紙に書かれた文字は、ひどく神経質そうだが、読みやすく整った筆記体だった。失敗かと思ったが、収穫を考えると悪くなかったな、とレグは思った。
「ありがとな、そんじゃ。体に気を付けて……は、要らないか」
 ああ、としわがれた声がして、また男は布類に埋もれた。……やはり本音を言えば、この老いた生体の、あまりに劣悪な体調を考えるとどこかで治療を施したいのだが。それよりもブランドンの事件が先だ。そちらの方が『逃がす』べき規模が大きい。レグは紙に書かれた駅へ向かうべく手段をいくつか検討し――最終的に、地下鉄を使用する、という方法を選択した。駅員に事件の旨を伝え、中へ入れてもらう。他の駅から伝達が来ていたらしく、事件解決にあたる、善良なる猟兵としてレグはすんなりと地下鉄の改札を通ることができた。
 ――最悪、浮浪者たちから反応無くても、他から情報回ってくるまでは希望者の処置続けとくか。
 そう決め、地下鉄の路線図を頭の中に入れて、宇宙バイクを線路に放り出す。自分の速度なら、地下鉄よりも――なんと時刻表がなかった。駅員に質問したところ、「今の時間帯なら十分程度で来ると思いますよ。来ない時もありますが」とのことだった。それを聞いたレグは若干、いやだいぶん驚いた――早く着けるという算段である。
 果たしてそれは当たり、レグは幾らかの駅を回って、浮浪者から話を聞くことができた。そうして、男から渡された紙の内容が、概ね合っていることも。また、レグに情報提供した浮浪者の一人――胃潰瘍を患っており、情報の代わりに治療を望んだ者だった――に曰く、今ブランドンは外へ行っているから、男が記した駅の一覧の中でも、唯一つ、特定の駅へと帰って来る可能性が非常に高いらしい。ついでに、「あいつもついに猟兵の世話になるような事件に巻き込まれたか」と笑っていた別の浮浪者からは、雑誌から切り抜かれたブランドンの写真を見せてもらった。こちらの浮浪者はヘルニアを患った老人であったが、治療を拒否した。曰く、「こういうのは行政がちゃんとやってくれねえと駄目なモンだから」とのことである。そういうわけで、教えてもらった駅を目指して、また線路をバイクで走る――と。
 レグは、その青年を見て、バイクを止めた。
「……お前、ブランドンで合ってるよな?」
 茶色い髪を短く刈った若い男が、想定したより衛生的な格好で、金だか緑だか曖昧な色の瞳を丸くさせていた。ただ、全身がずぶ濡れになっている。外で雨が降り始めているのかもしれない。レグは救護パックからタオルを取り出すと、驚愕した様子のブランドンへと放り投げた。
「合って――合ってるけどよ。なんで線路をバイクで?」
「一々来るか来ないかわからない列車なんて待ってられないだろ」
「そう? ま、まあそう、そうか、だな、うん」
 本当にそうか?とブランドンであることを肯定した青年が首を捻る横で、レグはバイクを持ち上げてホームへと『上った』。それを見て、青年が「あ、待ってくれ」と言った。
「それ一回後ろ乗せてくれよ。すげー楽しそうだった」
「仕事が終わったらな」
 仕事、という言葉に、ブランドンが、多少楽しげだった表情を一瞬だけ凍らせ――すぐに融かすと、「いいぜ、仕事の話をしよう」と、『晴れやかに笑った』。
 流石に不審な言動だった。どうするか、とレグは考える。青年が何を考えているのか探るか。だがこの言動パターンから考えると、『下手につつくとデカく爆発する』類だというのもレグの知識にはあった。
 ……必要最低限のとこから伝えてくか。
 とまれ依頼内容は、大変そうな連中相手するから手伝ってだ。
(対象がヴィランだった頃のデータを使ったヴィランと、それを呼び出すオブリビオンが相手とも伝えとかないとな)
「――あー、ブランドン。出会ってすぐに悪いんだが、」
「わかってる。おれの過去が呼び出されて、オブリビオンと一緒に暴れるんだろ?」
 他の猟兵から聞いたのか、と驚きは特になかった。浮浪者を処置しながら情報収集をしていたので、そういうこともあるだろうとレグは思った。
「わかってんなら話が早い。それに協力して欲しくてな」
「……」
 ブランドンが沈黙した。それにレグは僅か身構え、青年の動きを注視する。どう出る?
「……あんたって、サイボーグ?」
「うん?」
 質問の意図がわからず、レグは疑問で返した。ブランドンは特に気分を害した様子もなく問いをより正しい形で再びレグへと投げる。
「元人間か?って質問だ」
「いや。俺はWR-T2783改め奪還支援型3LG――通称レッグ・ワート、要するに量産型の機械だよ」
「そうか。純正機械の猟兵って案外多いのか?」
 純正機械、とはウォーマシンということだろうか。
「さあ。統計を取ったことないからわからん」
「まあそりゃそうか……」
 猟兵だってきっと色々いるんだろうしな、とブランドンが零した。
「協力か。具体的に何して欲しいんだ?」
「そうだな……まず場所を教えて欲しい。後は、基本情報として、どんな能力持ちなのか今どれだけ動けるか、昔どう動いてたか、だな」
「オーケイ」
 ブランドンは思っていたよりも素直に、場所や能力について説明してくれた。それから、過去の自分の戦い方についても。
「大体、ポケットやポーチなんかに、小石だのなんだのを放り込んでたよ。で、それを放り投げて雷撃にしてから、コントロールして当てる。『直前で元に戻したり』とかな」
「元に戻すとどうなる? まあ大体想像つくが」
「ご想像通り体にめり込んだりする」
「無機物はどれくらいまで変換できる?」
「計測器くらいなら平気で。柱とかもできるな。……やったことないが、あんたもやろうと思えばできるのかもな?」
「やめてくれ。……相当厄介だな」
「厄介さ。おれはそういうやつだった」
 へ、と皮肉気に青年が笑う。さて――問題は、『レグ自身の手の内を明かすかどうか』だ。この青年が『本当に協力するつもりならば』、作戦会議がてら話も聞くし、こっちの得意分野も話すんだが……。
(こいつが『協力しない場合』、ちとまずいよな)
「それで、オブリビオンが現れた後だが――」
 話を続けて様子をもう少し見るか。
 ――「あんた」と青年が口を開いたのは、その瞬間のことだった。
「おれを疑ってんな。わかるぜ」
「……なんでそう思う?」
 単純に疑問だったので、問う。表情も変わらない以上、外から見える要素でレグの思考を推測するのは困難と言える。電脳アクセス、いやそんな履歴はない。読心、ウォーマシンである自分の思考を読めるものだろうか。そんなことを考えるレグの前で、悪戯がばれた子供の表情で、青年が言った。
「おれなら疑うから」
「……」
 これは、『かま』をかけられたのかどうか。判断がつきかねた。
「まあ――どっちでもいいんだ。あんたがおれを疑っていようといまいとさ」
「……そうか。じゃあぶっちゃけていい?」
「いいよ」
「一旦それは置いといてだ」
 置いとくのかよ、と青年が呆れたように笑った。
「俺としては傷の処置ちゃんとしてるかとか、無理な再生キメたりしてないかが気になるんだよ。ずっと気になってる」
「……。……ん、うん!?」
「許可してくれるんなら、俺の機能で、お前の状態を精査したい」
「い――いやそれくらいなら好きにしてくれりゃいいが!?」
「あ、そう? じゃあ遠慮なく」
 状態確認〈スキャニング〉で青年の肉体を精査していく。青年は「マジでそういう感じのやつなのか、あんた」だとか色々言っていた。
 それでわかったことが幾つかあったので、言葉にしていく。
「まず言わせてくれ。傷を焼き塞ぐな。いや塞いでるだけマシかもだが」
「ヴィラン時代のやつだから勘弁してくれよ」
「お前の体に手を入れたやつ。誰か一人は絶対人体の構造理解してない」
「それ、おれの飼い主の女の方だわ多分。研究所でも言われてた気がする。怒られてた」
「それから、お前――」
 レグは言い淀まなかった。そのような情緒的機能は備えていなかった。
「――『死ねない』だろ。少なくとも、自分の意思じゃ『死ねない』よう呪詛的、心理的なプロテクトがかかってるし、肉体的にも致命傷を負った時点で休眠状態に入って、周囲から魔術的に生命力……っていうのか? なんつーのか詳しくは流石に知らねえが。そういうの徐々に吸い上げて肉体を復元して、『やがて生き返る』機能が頭の中にある」
「……そこまでわかるのかよ、すげえなあ猟兵」
 つっても別に、不死身じゃねえよ、とブランドンが言った。
「埋め込まれた生物的魔術機構……まあ正直おれもよく知らねえんだが、脳味噌の中にあるそれをぶち壊せば普通に死ぬ。しかも魔術自体が劣化していくから、老いても死ぬし。正直あんま普通の人間と変わらねえ。ただ――」
「『死ねない』」
「そう。誰かに殺してもらおうと思っても、防衛反応が起きて自分の身を絶対に守る。自殺なんて以ての外、自分の頭に拳銃向けて撃とうとしても、気が付きゃソファに穴が空いてるだけなんてザラだ。まあ別に、自殺したいなんて思ったことはねえけどな……」
『猟兵を真似しようとしたんだよ』。青年はそう言った。
「猟兵ってよ……真の姿解放すると傷が治ったりするらしいじゃねえか。どうも……それを真似したかったみたいなんだよな。でもできなかった。だから、おれは不出来な実験動物で終わったのさ」
 最初は単に不死身の手駒が欲しかっただけみたいなんだけどな。
「なんか最後の方……そういう風にシフトしていったんだよ。それで……元々の目的で既に施術されてたおれも、徐々にそういう感じにずれていったんだけど。おれ以外の実験体全員それで殺してるから世話ねえよな……」
 あいつらのやりたかったことはよくわかんねえよ、とブランドンは頭を掻いた。
「頭おかしくなってたんだよな、多分。おれも、あいつらもさ……」
 だから、と、レグが何かを言うより先に青年が言った。
「だからおれを殺すなら、おれが何かに気付くより先に、頭を木端微塵にぶち抜いてくれ」
「了解。ヴィランの方倒す時の参考にさせてもらうわ」
「……おれ、あんたのこと結構好きかもしれねえわ!」
 アハハ、と青年が笑った。
「好きになってもらえたなら何より。ところでよく飲んでるとか好きな飲み物ある? 何か入れる?」
「今か? ほんとあんたマイペースだなあ……これからオブリビオンやおれと戦うんだろ?」
「休憩だか移動の間にあったっていいだろ。買ってくるよ」
 飲まずに持ってるだけだっていいさ。そう伝えれば、ブランドンが――僅かにあどけなさを感じさせる――笑顔で、「じゃあ」と言った。
「ホットミルクをひとつ頼むよ」
 ミルクか、とレグは手持ちの諸々を頭の中で列挙して、記憶通り該当の品が入っていないことを確認する。
「それこの辺に売ってる?」
「売ってねえな、多分。でも、さいごに飲むなら、それがいいと思ったんだ」
「……時間かけていいなら、探してみようか?」
「いいよいいよ、大丈夫だよ」
「そう?」
「あんた面白いな――何が起きても、あんたは、」
 列車が、レグとブランドンの立つホームまで走ってきて止まった。僅かばかりの乗客が、自分たちの周囲を流れるように降りていく。
 青年は何かを言おうとして唇を震わせ、結局やめていた。
「ま、いいや。じゃあな、ええと……」
「レグでいいぜ」
「あ、そ。じゃあな、レグ。おれは準備しに行くよ――あんたもちゃんと準備して来いよ」
「俺の方の得意分野の話とか要らない?」
「要らねえ。それより、とにかく――よろしくな」
 色々とさ。
 列車が過ぎ去って、ブランドンが線路に降りた。そうして青年は手を振り、レグへと背を向けたのだった。
 
 
 

成功 🔵​🔵​🔴​


 
 
 
 地下鉄の廃線、その暗いトンネルを、ブランドンは歌いながら歩いていた。特別上機嫌であったわけではない。ただ、勝手に口ずさんでしまっていただけだ。理由はわかっていた。普段なら違うルートを使うのに、監視カメラも気にせず線路へ下りた理由も、同じく。
 先程出会った機械の猟兵にもらったタオルで、ずぶ濡れの頭を拭いながら、ブランドンは自分の歌っているそれが、かつて女に勧められたミュージカル映画のテーマ曲であることに気付いた。それはそうだ。ブランドンが自分から歌を探したり聴いたりするはずがない。
 太陽のない世界に雨が降り、盲いた夜を雷光が照らす。
 ああ――
(そうだろ)
 お誂え向きなんだ。
 そうするには、よすぎるくらいに、いい日じゃないか。
 再生機器を仲間に借りて、映画を見たなあ。
 結局、良さは全然わからなかったが。「いいとは思わなかった」と正直に言った自分でも、あの女は否定しなかった。語り合えないことを残念そうにはしていたけれど。女のそういうところが、ブランドンは嫌いでなかった。
 青年はジーンズのポケットから、スマートフォンを取り出した。型落ちの、安いスマートフォンだ。もしこれが壊れて、中のデータさえ見られなくなったら、とずっと考えていた。詳しいやつに頼んで、その前にデータをどこかへ移動してもらうべきだろうか。そんなことを考えたこともある。
 だが、ようやく結論が出た。
 考えるまでもないことだった。
 最初から、そういうものだったのだ。
 ――そこまで考えて、ブランドンは、足を止めた。歌うのも止め、乱雑にスマートフォンをポケットへと仕舞う。バーの二階とは別で廃線の奥に作っている己の『準備場所』の方向から、発電機による明かりが漏れてきていたからだ。出入口には遮光の布をかけているが、だからと言って完全に明かりが漏れなくなっているわけではないとブランドンは知っていた――面倒で放っていたのだ。発電機は普段切っている。要するに、ブランドン以外の誰かがいるのだ。相手は気付いているか。それなりにデカい声で歌っていたから、既に気付かれていそうな気もするが。わからない、こういう偵察のようなことは、正直得意ではない。
 相手の正体は何か。
 そんなことを考えるよりも先に、そこに『誰かがいる』という事実が何を意味するのかに気付いて、ブランドンは遠くで細く横たわる光の筋へ向かって跳ねるように駆け出した。
(ちくしょう!)
 誰にも教えていないから、油断していた。石ころ一つでも拾えば戦える自分が、わざわざこうやって隔離された『準備のための場所』を作る必要など、本当はない。
 それでも、『ここ』は必要だったのだ。
『ここ』は――
 転がるように辿り着く。誰だ、とも叫ばなかった。遮光布が千切れ落ちそうなほどの勢いで捲り上げ、中を見る。相手が何者であったとしても関係がなかった。
 ――棺。
 最初に意識の中へ飛び込んできたのは、それだった。
 あ、とブランドンの中で、何かが腑に落ちた。相手は多分、猟兵だった。それは分かっていた。その姿には、彼が殺す犯罪者どもの中によく見られる『卑しさ』のようなものは少しもなく、ただ、仄暗い――特にダークヒーローの奴らが見せるような――高潔さがあった。
 止まれ、とブランドンの頭の片隅が叫んだ。相手が猟兵だからではない。一々猟兵に配慮してやるほど青年は善性を備えていなかった。
 だが、場所が。
 場所が悪い。
『ここ』でユーベルコードを使うのはまずい。『最悪の場合』を考えるなら、ここではなくて外へ猟兵を誘導するように立ち回ってからでなくては。そうは思うのに――叫ぶ頭の中の己は、勝手に動く体を止められるほどの効力は持っていなかった。第一、『巻き込まない』ようにするだけのコントロール能力はあるだろう――なにせ、そのためだけに生かされてきたんじゃねえか。何度も何度も訓練させられてきただろ。それを繰り返すだけだ。
 おれよりも無惨な、『どうしようもない』失敗作を始末する時みたいに。
 そうして、結局、怒りだけが先走って。
 ブランドンは、ポケットの中に入れていた『弾』用の金具を掴むと、殆ど反射と呼ぶべき速度で、ユーベルコードを使用した。
 
 
 
ジニア・ドグダラ
ふむ、かなりの広範囲の捜索が必要ですね……とりあえず、探りを入れますか。

UCにてワタシと二手に分かれて捜索。
地下鉄とは言われても武装を隠したりする都合上人目の多い場所に居つくとは考えにくい。であれば廃線や貨物運搬用の路線、或いは純粋に人の乗り降りの少ない駅にいると想定し捜索しましょう。
私とワタシであれば複数調査も行い易いですし、もし駅員や浮浪者の方がいれば問い掛けてみながら捜索範囲を狭めていきましょう。

もし想定した人格であれば、このように探られていると判断した場合逃走するか襲撃してくる可能性が高い。
逃走ならば居住地を確認してまた追跡できる。襲撃するならば『後先之鎖』が反応するはずです。襲撃時はそれを狙って捕縛するように動きます。

ブランドンさんとの接触が比較的友好か非友好かは兎も角、最低限貴方自身に危険が迫っている事、それによって災害が発生する事、もし可能であれば協力を依頼したい旨を伝えます。
あまり纏わりつかれるのも、嫌悪しそうな方でしょう。誤解は解きつつも必要事項は伝えます。



 
 
 
 転送されたヒーローズアースの都市地図と地下鉄の路線図を見ながら、ジニアは口元に手を当てて考える。地下鉄――と一口に言っても、ヒーローズアースの大都市である。広がる線路は、紙上で見るだけでも広大なものだった。
(ふむ、かなりの広範囲の捜索が必要ですね……)
 とりあえず探りを入れますか。
 念のためある程度人目につかない場所まで移動してから、オルタナティブ・ダブルを使用し、ジニアは己の第二人格であるヒャッカと分かれる。
「二手に分かれて探しましょう」
 ユーベルコードによって形を得た、もうひとりの自分が、「わかった」と返事をして、それから、「人海戦術、と呼ぶにはあまりに少ないが」と、シニカルに呟いた。
「それでも一人で闇雲に探すよりはよいでしょうから」
 もし他の猟兵から情報を得られて、ブランドンなるダークヒーローの所在が絞り込めたとしても、一人で動くよりは二人で動いていた方が時間の短縮になる。
「では、私は東側を回って行きます」
「ならばワタシは西側だな」
「ええ。お願いします、ヒャッカ」
 用意していた路線図でお互いの行動範囲をおおよそ決めて、どちらからともなく別れる。そう言えば、この世界へ来たのは初めてだったか。見慣れぬはずの雑踏は、UDCアースのそれと然程変わらないようで、多少の既視感をジニアに抱かせた。ニュースやネットでよく見るような街並みや人々だと彼女は思った。
(となれば、)
 ある程度までは、自分の経験や予測に基づいて行動しても外れることはないだろう。路線図を見て、見当をつけていく。
(……地下鉄とは言われても、武装を隠したりする都合上人目の多い場所に居つくとは考えにくい。であれば廃線や貨物運搬用の路線、或いは純粋に人の乗り降りの少ない駅にいると想定して捜索しましょう)
 こういった大都市の――特に海外の――地下鉄には、工事途中で廃棄されたり、そもそも路線自体が廃線になってしまったりしたものがそのまま残っている場合があると聞く。当該の、予知曰く『ブランドン』と呼ばれるダークヒーローがどういった戦闘スタイルであるかはまだ不明だが、ヴィランであったことも踏まえると、あまり人目につく場所で生活をするのは好かない類なのではないかとジニアは考えていた。
(私とワタシであれば複数調査も行い易いですし、もし駅員や浮浪者の方がいれば問い掛けてみながら捜索範囲を狭めていきましょう)
 そんなことを考えつつ、まずは手近な地下鉄の駅へと向かう。階段を下りて少しすると、駅員……ではなく、業者らしき男性が清掃を行っているのを見つけたので、「すみません」とジニアは声をかけた。
「ブランドン、というダークヒーローの方がいる場所について、何か知っていますか?」
 男性は清掃の手を止め、被っていた帽子を少し押し上げた。少し年嵩に見える男だった。
「ブランドンですか?」
「ええ。その方が今、少し事件に巻き込まれていて」
「ああ……」
 あいつ、ついになんかされましたか。そう言う男の口調には、呆れのようなものが滲んでいた。それから、侮蔑が。その反応に、ほんの少しだけジニアは胸に苦いものが染みるのを感じる。別段ブランドンなるダークヒーローに対して思い入れがあるわけではないが、単純に、目の前で誰かが誰かを蔑む姿は、見ていて気分のよいものではない。ただ、それだけで表情が変わるほど、心を動かされるものではないのも確かだった。だからジニアは、淡々と質問を続ける。
「なんかされましたか、とは?」
「いえね、あいつ、黒焦げの死体ばっか作るもんですから。絶対いつかどっかの誰かに報復されてなんかの事件を起こすだろうなあ、なんて思ってたんですよ」
「黒焦げ? 炎でも扱うのですか?」
 疑問を口にすれば、ははあ、と男が得心したような声を上げた。
「お嬢さん、あいつのことよく知らないんですね?」
「ええ。ですので、詳しく教えていただければと」
 そう頼んだ途端、男は、矢継ぎ早にブランドンについての情報を吐き出した。それは大いに主観の入った内容ではあったが、事実だけを抜き取れば、有用性の高い情報が多かった。戦い方に始まり、どんな人間とよく一緒にいるか、どのあたりの駅にいることが多いか――これは特に、ジニアが思っていたよりも路線を跨いで色々な駅に出没していたので、感謝すべき情報だった――どんなものをよく持ち込んで食べているかなどまで。惜しむらくは、男がブランドンの外見情報について「茶色い短髪でヘーゼルの目をしている」ということしか持っていなかったことだろうか。昔写真を撮ったら、その場で殴られて消すように言われたらしい。男はそれについて憤慨していたが、許可も得ずにいきなり撮ったなら怒られるのは当然だと思いますが、というのがジニアの素直な感想だった。
 それにしても、多弁な男であった。立て板に水という言葉をジニアは思い出していた。
「――それで、ゴミ掃除を偶に手伝ってくれるのはいいんですけどね――」「あ、あの」
 流石にこの男性の話ばかり聞いているわけにはいかない。ジニアは男との会話を適当なところで区切り、「ありがとうございました」と頭を下げると、名残惜しそうな男に背を向けてその場を後にした。向かうは、男から聞き出した駅の幾つかである。得られた情報を纏めてヒャッカにも共有し、ジニアは、丁度到着した列車に乗って、そこへと向かった。
「――ブランドンについて、ですか?」
「はい」
 降りた駅で、駅員に質問をすると、「ああ、なるほど」と首肯が返ってきた。
「何か今、あいつを中心にしてオブリビオンが事件を起こそうとしているそうですね。他の駅から連絡が来てます。顔写真ならありますよ」
 情報伝達用だと言って撮らせてもらったものですが、と駅員が写真を見せてくれた。若い――ジニアと同い年くらいだろうか? 苦虫を噛み潰したような顔をしているのは、写真を余程撮られたくなかったのだろう。清掃員を殴ったのは写真嫌いもあったのかもしれない。
 三白眼気味に、淡褐色が、ジニアのことを睨んでいた。
(少し神経質気味な方……のように見受けられますね。他人との関わりをそれほど好む類の方ではなさそうな印象ですが……ゴミ掃除を偶に手伝うことからして、気が向けば、というところでしょうか……)
 そうやって写真の青年を分析するジニアに、駅員が言う。
「今日までは、しばらく同じ駅で寝起きしてたんですけどね。あいつ気温で寝る駅決めてるみたいで、ここ最近は気温がちょっと安定してたからか駅変えてなかったんですよ」
「そうなんですね」
「ただねえ、今日……多分、事件のことで猟兵さんが接触したからでしょうね、出ていってしまって。いつ帰って来るかわからないんですよね……どこの駅に帰って来るかなんてのは決めていないはずなので、捕まえられるかどうかはわかりません」
 申し訳ありません、と駅員が謝罪を口にした。
「決まっていないとのことですが、確率の高そうな駅などはありませんか?」
「うーん……」
 駅員が軽く唸って、「わかりませんが、少し確認してみますね」と返事をしてくれたので、「ありがとうございます」と告げて待つ。しばらく時間があって、「辛うじて、なんですが」と駅員がプリンターから何かを印刷してくれた。
「この駅の監視カメラに映っている回数が、他よりは少し多いですね。殆ど人の降りない駅なので、好んでいるのかもしれません」
 ただあいつ、乗客に紛れて監視カメラに映らないよう移動することも結構あるからなあ、と駅員が小さくぼやいた。つまり、『よく使っているから映っているのか』、『隠れられる人間が少ないために映る回数が増えているのか』、その判別はついていないということだ。
 それでも、情報がないよりはいい。駅名の印刷された紙をもらって、ジニアは駅員にお礼を言ってから、そこへと向かった。途中、ヒャッカと情報の伝達とすり合わせもしておく。彼女は主に浮浪者などを伝って情報を収集しているらしい。
 結果として――
(さて、と)
 ジニアは駅員から伝えられた駅から廃線へ続く線路を、一人歩いていた。ヒャッカの方は少し離れた場所にいたので、遅れて来る予定だ。合流してブランドンとの接触にあたるわけではなく、不測の事態への保険として待機してもらっておくつもりだが。
(……ここの駅員さんの話では、まだブランドンさんは現れていないとのことですが)
 ただ、自分とヒャッカが得た情報を統合すると、少なくともこの奥に『何か』があるのは間違いないのだろう――おそらく。事実、ここの駅員が渋々教えてくれた内容に曰く、線路を下りてその先へ赴いているところを目撃したことがあるとのことであった。監視カメラの死角になるよう、少ない降車客たちの陰を伝っていっていたという。
 駅員は、「多分あいつは自分に見られたのに気付いてなかった。だから見逃されてるんだ、もしこれを猟兵だろうが他のやつに教えたのがばれたら殺されるかもしれないから、黙っておいてくれ」とジニアに頼んだ。
(……神経質、攻撃的。他人へ危害を加えることにあまり躊躇がない……用心深いが、少し注意が足りないところもある……)
 ブランドンの内面について考えながら、廃線へ入る。
(もし想定した人格であれば、このように探られていると判断した場合逃走するか襲撃してくる可能性が高い)
 逃走ならば居住地を確認してまた追跡できる。
(襲撃するならば『後先之鎖』が反応するはずです)
 襲撃時は、それを狙って捕縛するように動く――というのがジニアの予定していた行動であった。先手を打って射出機構付きフックワイヤーを使用して拘束し、それでも抵抗するのであればヒャッカと二人がかりで止めるか、少し荒っぽいが、死霊拳銃を突きつけてでも話を聞いてもらう。
(……ブランドンさんとの接触が比較的友好か非友好かは兎も角、最低限貴方自身に危険が迫っていること、それによって災害が発生する事、もし可能であれば協力したい旨を伝えたいですね……)
 ――あまり纏わりつかれるのも、嫌悪しそうな方に思えます。
 であれば、誤解は解きつつも必要事項を伝える程度に接触は抑えた方がいいだろう。
 そうこうしているうちに、現れたのは、真っ黒な布だった。これが――青年の拠点だろうか。気配はない。光もなく、後先之鎖に反応もない。
(……罠を設置している……ようでもなさそう、です)
 慎重に布をめくる。どうやら中は、小さな部屋のようになっているようだった。明かりのスイッチらしきものがあったので、少しの逡巡を挟んでから、ジニアはそれを押した。
「う……」
 急に明るくなって、僅かばかり眩む。何度か瞬きをして目を慣らし、あたりを見回す。
 線路の突き当たりであるらしく、奥は壁だった。こぢんまりとした発電機が、一つ置いてある。それほど広くはない。というか――これは。
(居住地ではない……ですね)
 ここに住んでいるとしたら、決して快適ではなかろう。
 線路をカーテンで区切っただけの空間には、どこから拾ってきたのか、壊れかけた木製の机と、破れたソファが置いてあった。あとは、錆びたネジであるとか、ナットであるとか、ごみのような――否、ごみと呼ぶべきような金具の類が、一抱え以上ある山として積まれていた。ゴミ掃除を手伝う目的は、もしかすると、こういったものを集めるためだったのかもしれない。ベッドのようなものはなかった。
 ここは……なんだろう。場所の用途を疑問に思いながら、一歩進む。と、木製の机に、鍵のついた引き出しがあるのに気付いた。だが、引き出し自体が既に壊れているらしく、鍵が無意味になるほど歪んで、隙間が空いていた。
 その奥に、何かある。
 ブランドンのプライベートであろうし、手を出そうとは思わなかったが、その正体を疑問には思い――そして、蠢いた後先之鎖の感触で、ジニアは即座に身構えると、カーテンの方へと注意をやりながら、ワイヤーを準備した。走って来る足音がする。
 ――憤怒、あるいは憎悪に造作を歪めた青年がカーテンの向こうから現れるのに、一分もかからなかった。もしかしたら三十秒もかかっていなかったかもしれない。
 青年がポケットに手を入れる。
 雷撃が、来る。
 それを悟ったジニアは、青年が手を引き抜き、雷撃を放つのを見越して、跳ぶ。方向は、敢えて飛び込むような左斜め前方だ。零コンマ秒程の踏み込みの直後――
「がっ!?」
 突然『何か』によって妨害されたかの如く青年が悲鳴を上げて、その体勢を崩した。青年がコントロールし損ねた雷撃はジニアのいた場所を抉るわけでもなく、ただ奥の壁へと吹き飛んで消えた。困惑と混乱、それに激情の入り混じった表情で、青年が自分へ向き直るよりも速く。
「――ぐっ!?」
「……すみません、少し落ち着いて話を聞いてください」
 ジニアのワイヤーが、ブランドンを拘束していた。
「私は、あなたに危険が迫っていることを伝えたいだけで……」
「そいつぁもう散々聞かされたよ! 他の猟兵が全部知ってる、そっちから聞いてくれ!」
 ヒステリックな叫び声に、ジニアは口を閉ざした。何が彼の逆鱗に触れたのだろう。
「出ていけよ……ここにはお前に見せるようなもんなんざ何もねえ……」
「……」
 しまった、そういうことか。
『場所が悪い』のだ。引き当てた場所が悪かった。隠れて過ごしているだろうと思っていたけれど――違う。ここに『隠して』、『過ごしていた』のだ。
「……私は、あなたの、触れられたくないところに触れてしまったんですね」
 青年が舌打ちして、顔を逸らした。
「すみません」
「……『そういうつもりじゃなかった』とでも言いたいんだろ。くそったれ……」
 ブランドンがひどく荒く毒づいた。
 ……これ以上、彼を刺激するのはよくないだろう。伝えるべきことは伝えた、ヒャッカと合流して、他の猟兵から情報をもらった方がいい。ジニアがそう判断して、拘束を解こうとしたところで――
「――遺品が」
 青年が、肩を震わせて顔を上げ、『そちら』を見た。
「女の――遺品であるスマートフォンが、ここにあるからだろう?」
 カーテンの向こうから、ヒャッカが、冷ややかな顔でブランドンを見ていた。ヒャッカに見られるブランドンがどんな表情をしているのか、ジニアの角度からはもうわからない。
 外は雨が降っているのだろうか。ヒャッカはずぶ濡れだった。
「お前は、銀行強盗の時に親しい女を殺された。その時、激昂して他の犯人どもを殺した。お前は女の死体を見た――」
 青年は何も言わない。
「女は『スマートフォンを持っていた』。『お前とのやり取りが詰まった』スマートフォンを」
「……ッ」
 ブランドンが息を呑むのがわかった。
「『だから』お前は女のそれを焼いた。それが、ここに在る。そうだな」
 何も。
 何も、言葉はなかった。
「ワタシには、お前が何を思ってそれを焼いたのかなぞわからん。まして、何を考えて持ち帰ったのかなど」
 ヒャッカは淡々としている。
「どうせ、教えろと言って教えられるものでもないだろう」
「……くそったれが。わかってて言ってんじゃねえのか」
 青年が、絞り出すように言って、項垂れた。
「傷が」
 雨粒が落ちるように、青年の言葉が落ちる。
「傷が――つくだろ……」
 おれとあの女の関係なんて何も知らないやつに。
『あんなやつと付き合ってたから死んだんだ、自業自得だ』だとか。
『殺人犯とあんな風に仲良くしてたってことは同類なんだろ』だとか。
「言われたら。あの女の。あの女の――ただでさえ『しあわせじゃなかった』死が……誰かに踏まれて……ぐちゃぐちゃにされるだろ……」
 そんなの耐えられなかった。
「それなら、せめて、あれがなくなれば。なくなれば……って……」
 思っただけだよ。
 出ていってくれよ、と弱々しくブランドンが吐き出した。多分、青年は、泣いていた。
「……行くよ。おれも、必ず、そこに行くからさ……」
 だから、今は、頼むから。
 ジニアは黙したまま、ワイヤーを外して、『がらんどう』な、その空間から出た。謝罪は口にしなかった、青年はきっと、望んでいなかったから。
 最後に、青年が、「葬式にさえ出られなかったおれへの罰かよ」と呟くのが聞こえたけれど――それも聞かなかったことにした。
 暗い廃線を歩きながら、ジニアはヒャッカへ問う。
「……どうして、あんなことを知っていたんですか」
「ここへ向かう途中で他の猟兵に会ったから、直接あの男がヒーローへ転向した事件の詳細を聞いた」
「それだけじゃないでしょう。どうして『遺品』があると知っていたんです」
「いや、知らなかったが」
「え?」
 ヒャッカの言葉に、ジニアはぽかんとする。
「ただ、あの何もない空間に立ち入るだけであれだけ取り乱すなら、あの男にとって『かけがえのないもの』があるのだろうと踏んだだけだ。それで、情報を聞いた猟兵からも、『女のスマートフォンが消えているみたいだ』と聞いたことを思い出したからな」
「それだけで……」
「それだけと言うが――」
 ヒャッカが足を止めて、ジニアを見据えた。自分と同じ顔で、自分とは確かに違う顔が、ジニアを見ている。
「――あの男、あそこまで追い詰めて折っておかなければ、お前のことを殺そうとしていただろうな」
 拘束を解いた時点で。
 え、と目を丸くするジニアを置いて、ヒャッカが歩き出す。それを追いかけるようにしながら――ジニアは、彼女が言った『銀行』へと向かったのだった。
 地下鉄の外は、案の定、雨が降っていた。
 
 
 

成功 🔵​🔵​🔴​




第2章 ボス戦 『ミスター・アンノウン』

POW   :    君はこれを持って帰ってもいいし、壊してもいい。
合計でレベル㎥までの、実物を模した偽物を作る。造りは荒いが【目の前にいる相手が大切に思っている存在】を作った場合のみ極めて精巧になる。
SPD   :    記憶を失くしても、果たして君は君なのだろうか。
【手袋に包まれた手のひら】が命中した対象に対し、高威力高命中の【記憶を不可逆に破壊し、削り取る呪術】を放つ。初撃を外すと次も当たらない。
WIZ   :    過去の俺と今の俺がイコールでないなら、俺は誰だ?
自身が【過去及び現在の『己』への疑念】を感じると、レベル×1体の【物言わぬ自分自身の幻影】が召喚される。物言わぬ自分自身の幻影は過去及び現在の『己』への疑念を与えた対象を追跡し、攻撃する。
👑11
🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​

種別『ボス戦』のルール
 記載された敵が「1体」出現します。多くの場合、敵は、あなたが行動に使用したのと「同じ能力値」の戦闘方法で反撃してきます。
 それらを踏まえつつ、300文字以内の「プレイング」を作成してください。料金は★0.5個で、プレイングが採用されなかったら全額返金されます。
 プレイングが採用されたら、その結果は400文字程度のリプレイと「成功度」で表現されます。成功度は結果に応じて変化します。

 大成功🔵🔵🔵
 成功🔵🔵🔴
 苦戦🔵🔴🔴
 失敗🔴🔴🔴
 大失敗[評価なし]

👑の数だけ🔵をゲットしたら、次章に進めます。
 ただし、先に👑の数だけ🔴をゲットしてしまったら、残念ながらシナリオはこの章で「強制終了」です。

※このボスの宿敵主は💠葛籠雄・九雀です。ボスは殺してもシナリオ終了後に蘇る可能性がありますが、宿敵主がボス戦に参加したかつシナリオが成功すると、とどめを刺す事ができます。
※自分とお友達で、それぞれ「お互いに協力する」みたいな事をプレイングに書いておくと、全員まとめてひとつのリプレイにして貰える場合があります。


 
 
 
 よろめきながら、鼠穴のような廃線を出る。泣いたのなんか、いつ以来だろう。子供の頃だって、おれは泣いていただろうか。泣けたんだなおれは、と自分でも驚くばかりだった。
 光に照らされていた準備場所から這い出た地下路はひどく暗い。目が慣れるまで、時間がかかるほどに。涙がすっかり渇いて、痛みだけが残るようになるほどに。
 猟兵の前で、泣いた顔を見せたくねえなと思った。だが、別に体裁を繕ったって意味などないこともわかっていた。
 散々無様に泣いたのが、おれだった。
 なんでおれ、泣いたんだろう。そんなことを考える。
 泣かなくていいだろ。
 泣かなくて。
 違う。
 泣いていいわけがないだろうが。
 被害者ヅラして。
 殺そうとしていた相手に『過去』を見透かされただけのことじゃねえか。
 本当にクズだな、おれは。

 ぜんぶ――てめえのせいだろ。

 あの猟兵にキレたのもお門違いな話だった。おれが勝手に焼いて、勝手に持って帰って、鼠みたいに、『巣』へ置いていただけだ。悪いことしたな、とブランドンは思った。爆発した感情のおかげで、今や逆に冷静になっていた。ゆく道で歌っていた時の、あの心地は、既に消えて失せていた。
 今あるのは、この事件の原因になったという事実に基づいた、奇妙な責任感だけだ。
 銀行へ。あの銀行へ行かなければ。
 オブリビオンが、おれの過去を利用しに来るから。
 それと戦う、猟兵たちに協力して。
『ヒーロー』として、世界を救う、手助けを。
 せかい。
「……『世界』……」
 なあ――それって――おれが。
 おれが、救わなきゃ――だめなのか?
 ただ、クズが嫌いで――殺してただけなんだ。
 しあわせな女がしあわせに死ねない世界が嫌で、殺してただけだ。
 それだけなんだよ。それだけで、『ヒーロー』なんて呼ばれてただけなんだ。
 それで、誰かが助かったのかもしれない。
 それで、誰かの溜飲が下がったのかもしれない。
 でも、おれは。
 おれはさ。
「おれは……『誰か』を救いたかったわけじゃねえんだよ……」
 疲れていた。
 こんなに世界が暗いことを、知らずにいたかった。
 一生暗くたってよかった。
 太陽なんて昇って来なくてよかった。
 雨雲の重たさだけ、知っていられたらよかった。
 ブランドンの姿を見た駅員がぎょっとした顔をして、すぐに見なかったふりをしたのも、もうどうでもよかった。這いずるようにして、青年は地下鉄を出る。
 ひどい雨だった。
 それでも、差す傘なんて、彼にはもうない。

 ●

「ああ――なんだ。猟兵か」
 ピンク色の髪をした男が、銀行の前の道端で、車に凭れて待っていた。男の横には、ブランドンの過去から生み出されたらしき青年が既に立っている。二人とも、しとどに濡れて、傘も差していない。反して彼らの周囲では、傘を持った一般人が大量に行き交っている。
「結構遅かったな。これ以上遅くなったら、先に少し遊びながら待っていようかとも思っていたけれど」
 まあそれでも、君たちが来たなら、これが最終章だよ。
「『ここ』が最終章だ。俺の。あるいは――君たちが出会った『ブランドン』という青年の」
 ここから始まって、ここで終わる。
 男が――邪魔だったのだろう――黒い革の手袋をはめた右手で、濡れた髪をかき上げた。
「ところで、俺はとても弱いんだ。見ての通り、派手な装置もないし、派手な能力もない。君たち猟兵に遠距離から射撃されているだけで簡単に死ぬだろうと自分で予測できるくらいには弱い。だからと言って、特別それを隠したいとも思っていない」
 というか俺は、俺の死は怖くないんだ、と男は笑った。
「何なら、勝手に殺して欲しいと思っているくらいだよ。そもそも、こうやって蘇りたいと思って蘇ったわけでもないしな……」
 多分。
「生前の記憶がないからな。それが本当に正しいのかわからないが。少なくとも今の俺は別に生き返りたかったなんて思ってはいない。だが『生きている』」
 これはまったく疲れることだよ、と男は呟いて、首を竦めた。
「空っぽなのに――『生かされている』ことに、俺は、はっきり言って、疲れている」
 君もそうだろう。
「なあ、ブランドン?」
 男の目は――
 猟兵の向こう側にいる、この場へ最後に辿り着いた、ひとりの青年を見ていた。

 ●

 男に話を振られたブランドンは、ひくり、と、頬を引き攣らせた。
 空っぽなのに『生かされている』ことに疲れている、だと。
「君の過去から君のことを聞いたよ。ここで何が起こったのかも」
 男が、車から離れた。オブリビオンが車など所持しているはずがないから、どうせ誰かを殺して奪ったのだろう。こいつもクズだ、わかってる。本人が殺してもいいと言っているのだからさっさと殺してやればいい。そういうスタンスだったのは、過去のおれも今のおれも変わらないはずだ。
 それなのに。
「『世界』は、このままだときっと、『滅ぶまで君を生かす』よ。ブランドン」
 それなのに――
「じゃあ、『世界』なんて『滅んでいい』と思わないか?」

 それなのに、なぜ、過去のおれは、あいつを殺してないんだ。

「何故君が『世界』を守ってやらなくちゃならない?」
 言葉が出て来ない。死ねクズと罵って攻撃したらいいだろ。なんでできない?
 なんでおれは。
「君の『世界』は――」
 あ。
「――君の本当に『守ってやりたかった』『世界』は――」
 あ、あ、あ。やめてくれ。やめろ。
「――もうとっくに、『滅んでいる』のにな」
 ――ヒビが。
 胸の奥の――何かに、ヒビが深く……入ったのが、わかった。
「君の太陽はもういない!」
 あああ。
「君の世界はもう滅んでいる!」
 アハハハハ、と、男が哄笑を上げた。
「猟兵諸君はどうなんだ? 『君たちの世界』は本当に、『滅んでいない』のか?」
 まあどちらでもいいが、と男が言う。
「ブランドン!」
 大声に、びくりと、肩が震えた。
「俺は弱いけれど――ちょっとした手品が使えるんだ」
 男は笑いながら、スマートフォンを放り投げた。綺麗な放物線を描いたそれは、猟兵の誰かに邪魔されるということもなく、ただブランドンの手の中に落ちた。
『――ブランドン?』
「………………は?」
 あの女が。
 あの女が。
 あの――女が!
『傘も差さないで何してるの?』
 ビデオ通話状態になったスマートフォンに映っていた。
 何も言えない。
 答えられない。
 背景は車内か、と気付いて、男が先程まで凭れていた車を見た。まさか、そんな。
「君はこれを持って帰ってもいいし、壊してもいい。俺を殺したら消えてしまう、ただの幻だけどね。でも、極めて精巧な偽物だ。本物と見紛うくらいの、完璧な。鑑定士がいるなら見せてみたっていいくらいだ」
 あるいは。
「君が望むなら……何もかも忘れさせてあげることもできる」
 ああいや、と男が苦い顔をして言い直した。
「何もかもは言い過ぎか。大部分を、と言い換えよう」
 尤も、それで君が君でいられるかは知らないが。
 男が、ブランドンから視線を猟兵たちへと移した。
「猟兵の君たちにも――同じことをしてあげられるよ。取り戻したいものがあれば、俺にはそれが出せる。……流石に、街とか宇宙船とか、そういうあんまり大きいものは無理だが」
 人くらいのサイズなら簡単だ、男が笑う。
「俺は道化だよ。君たちを悪趣味で怒らせる、無能で名も無き道化だ」
 アハハ、と男がまた笑う。
「何もかも失くして、記憶も名前も命でさえも、一切合切骸の海へ置いてきたのに、世界を滅ぼすためだけに蘇ってきたのさ。俺は滅びのための一手段に過ぎない」
 これほど笑えることもないだろう。
「まあ、それでも俺は、唯一つ、今楽しみにしているものがあってね」
 スナーク。
「無から生み出される、遍在する怪物! 本当にそれが生み出されるなら――」
 男の傍にいた、過去のブランドン〈自分〉が、前に出た。男が、車の窓に向かって、何かを囁いた。ビデオ通話が切れる。男が笑顔で続ける。
「――それは少しばかり『興味深い』ことだろう?」
 急に――男の笑顔が消えた。

「それじゃあ、答えを聞こうか猟兵諸君。『たとえ偽物だとしても』取り戻したいものはあるかな? ないなら、俺と戦ってくれよ。君たちを描く『過去』を、粉々にしてやるからさ」

 そうして。

「君たちも『誰でもない己』に苦しめ」
 俺と同じように。

 ブランドン。虚ろな目が青年を射抜く。
「君は――どっちにつく? どれを選ぶ?」
 いずれにしても――
「其処には何も残りはしないのだろうがね」

 ビデオ通話の切れたスマートフォンが――青年の手の中で、痺れるほどに、重たかった。
 
 
 
ジニア・ドグダラ
私にも偽物であろうと縋りたい物はあります。大切な過去はあります。取り戻したかった人はいます。
けれども、彼女は私の手で埋めたのです。幻覚に縋る事は在れども、それで終わりなのです。
だから、この話は“しまい”なのです。

だからブランドンさん、立ち上がりなさい。
己の手で太陽を探し出す時間です。

止血剤を即座に投与し、わたし達を呼び出します。
この場においては、それが重要な事だと思いますので。

して、彼が立ち直るに必要な事をしましょう。
わたし達の言う通り敢えて近距離で行動し、鎖やチェーンフックで拘束したり拳銃で脚を撃ちぬくなりで時間を稼いだり攻撃のチャンスを生み出しましょう。

あの手が危険なのは承知の上。
その上で例え私の記憶が無くなったとしても。

『それを誰が保証するのか』
〈それは誰でもない己でしょう〉
《おや、不思議な事に記憶を持つ己が多数いる存在が居ます》
[であれば過去が無かろうと、誰でもない己の保証は容易いでしょう]

『〈《[そうでしょう、私]》〉』

観測出来うる誰かが居るなら、私の過去に揺るぎは無い。


桜雨・カイ
※作り手が人形を取り戻す為に屋敷を襲撃、弥彦の妻と子が亡くなった
人の身を得た時には、世界はもう終わっていた
残されのはからっぽで何もできない、人の形をしているだけの人形(元凶)だけ。

取り戻したいものは、あります。でも失った命は代わりなんてない。

自分を許すことがどんなに難しいか自分もよく知ってます
……だけど、そんな私に手をさしのべて受け止めてくれて救われた事が何度もあるから。
だから私も手をブランドンさんに伸ばします

あなたを大事にしてくれた女性がいたことは幻ではない
そしてあなたが大切に思う事も間違いでは決してありません
どんなに辛くても、その想いは手放してはだめです
それがあなたの生きてきた証です

最後は破壊ではなく浄化(のユーベルコードで)で


ヴォルフガング・ディーツェ
…はは、若いというのは良いモノだね。痛みに敏感だ

ようこそブランドン「地獄の入口」へ
愛した者を喪う事は観測者の世界の終わり。それも大事なものが数える程にしかない人間ならば余計に、な
それは違いない、残念ながらね

だが、お前が安易な死を選ぶのなら
彼女の死を穢すのなら
記憶からすら彼女は死に絶え「哀れな死者」としての記号しか残らない

その程度の心なら、彼女への愛より自己憐憫が勝るなら…お前は地獄に足を踏み入れる資格すらない

今君に必要なのは哀れみではなかろう、故に厳しい選択を可視化してやる

選べ、持たざる者

真に負け犬となり、野垂れ死ぬか
狂犬となってでも、記憶の中の女を生かしてゆくか

選ばれなかったお前が、選べ

アンノウンとやらに答える言葉は一つ
この百年の孤独が貴様如きの幻で埋められなぞするか

「指定UC」を起動
思い出を穢す無貌と己自身に「ハッキング」
無貌にはその身を構成する記憶を踏み潰し、自分には一時的に記憶を封じる

なあに、無茶は慣れたものさ
隙を見て雷の「属性攻撃」を纏わせ「部位破壊」でその喉元を爪で抉ろうか


玖篠・迅
ブランドンの助けになれることが限られるとしても
今までに悪いと言われることをしていたとしても
彼女とのやりとりとか、朱鳥に優しかったところを見て
彼女の記憶を無くしたり、偽物でも彼女をどうにかさせたくはないな
…どっちになっても今よりもっとしんどかったり辛くなると思うから

ブランドンがどっちについても、霊符に「属性攻撃」で金属性を込めたのを周囲に投げとく
少しでも雷撃を制御しにくくさせたり、避雷針がわりになるように
もしブランドンが偽物の彼女に攻撃しそうだったりしたら、「麻痺攻撃」と「呪詛」の金縛りで動きの邪魔とかもするな

ブランドンとかの記憶がどうにかされそうなもしもの時に備えて七星七縛符の用意もして、地縛鎖と「ハッキング」「第六感」も使って彼女の痕跡を探したい
何もないかもしれないし、あってもブランドンが信じなかったり怒るかもしれないけど
さいごに何を思っていたかとか、何かあったりわかればブランドンに伝えたい


レッグ・ワート
いいって言ってるし厳密な条件も無いんで、ブランドンちょい話してくる?敵が増えないと俺は助かる。そんでこれがテイクアウトしたホットミルク。偽物は偽物だが機会は機会。短時間でも道具は現役が使ってこそだ。

そんじゃ宣言通り昔相手といくか。避難誘導は事前連絡した地元警察宜しく。防具改造で各耐性値を電撃耐性に変換合算。バイクやアンカー使ってなるたけ近距離張り付いて、めり込み系使う余裕は奪いたい。ただ出力・範囲の下限把握狙いで、耐性帯は動かせるが幅には限りがあるように装う。観察からの見切りもできれば上等。一般を巻き込まないように、最悪庇える立回りを留意。知らない体で他も混ぜるが、攻撃の狙いは例の領域だ。情報が揃うか、生命力吸収の程度が厄介な場合、出力と範囲を拡げた被膜置換でいく。腕越しでも壁越しでもまあ届くだろ。
少なくとも殺れる確証は無いと、話進められる気しないんだよな。

俺には最初からレスキュー向き能力に聞こえんだよ。本人生身で針山希望なら猶更。テンション削がれたんなら暇だろ、勉強諸々話進めていい?


トリテレイア・ゼロナイン
→もっと詳しく にて“創造主”に関する詳細アリ

(機械妖精の尾行は正解でした。もしブランドン様が猟兵の静止用いた“自死”企てた場合、標的の一般人には事欠かず。最悪に備え潜伏続行)

紫髪の女とオレンジの男の“偽物”

過去が人を形作るなら、確かに私は彼女らの手で“死”を迎え…再誕と同時に騎士の資格を失ったのです

二人斬り捨て

…潜った戦場は数知れず
この類の搦め手も慣れました

迷いも止まりもしません
我が原点は“喪失”故に
刻まれし届かぬ理想こそ駆動理由故に
厚顔無恥にも歩んだ騎士の道、敵、味方…騎士として相対した全ての者の為
そして、この剣を預かるが故に

軍用規格故、耐電性は十二分
されど装甲内で無機物への再変換は厄介
一般人かばいつつUC纏わせた剣盾で偽物の電撃反射
道化諸共撃ち抜き

機械は存在意義を刻まれ動き
されど、人は見出さねばならない

私に何が言えるのか
近しく、遠きこの男に…

されど…

太陽を失っても、灯りを作る事も出来ます
彼女の死に責任があるなら、世界に空いた穴を塞ぐのです
代償行為でも、動く理由には十二分ですとも



 
 
 

 地の底の天に花はなく。
 真昼の夢に実〈じつ〉はなく。

 ●

「取り戻したいものは、あります」
 カイがそう答えるのを、ヴォルフガングはただ見ていた。
「でも失った命は代わりなんてない」
 そうなのだろう。
 そうなのだろうな。
 揺らめいている。何が、と老いた狼は思った。自分の記憶だろうか。感情だろうか。そのどれでもないのかもしれない、と彼は思った。これは命の揺らめきなのかもしれなかった。誰かの。自分ではない、誰かの。
「自分を許すことがどんなに難しいか自分もよく知ってます」
 オブリビオンと『過去のブランドン』は、動かず彼の言葉をただ聞いている。
「……だけど、そんな私に手をさしのべて受け止めてくれて救われた事が何度もあるから」
 だから、とカイは言う。
「私も手をブランドンさんに伸ばします」
「……要らねえよ……」
 不快そうに、この日、この瞬間のためだけに過去から呼び出された青年が、「そっちに手を伸ばしてやればいいんじゃねえのかい、猟兵さんよ」と俯き気味にカイを睨めつけ、ぐちゃぐちゃに濡れたジーンズから一本の針金を取り出した。
「いいえ。いいえ――」
 カイが、真っ直ぐに、青年の過去を見据える。
「なぜなら、あなたもまた、『ブランドンさん』でしょう。両方救えるのならば、私はどちらにも手を伸ばします」
「……」
 青年は無言だった。苛ついたように、針金を指で回している。
「『救う』か」
 口を開いたのはオブリビオンだった。表情は変わっていない。
「手を伸ばしてやれば誰でも『救われる』なら、この世に悪なるものはないと思うが。猟兵というのは、そう、誰彼の苦悶に手を伸ばして引き上げられるほどに強いのか?」
「強くはありません。救えるとも限らないと知っています」
 ですが、それで手を伸ばすことをやめたくはない。
「そうか」つまらなさそうにオブリビオンが手袋をぐいと引っ張った。「御大層な理屈だ――それが壊れた時、君がどうなるか見てみたいものだな」
「……貴方の相手は私です」
 カイにオブリビオンが接近するのをトリテレイアが前に出て阻止し、戦闘が始まる。
 それを見ながら――ヴォルフガングは、ただ、口を開いた。
 すぐ後ろにいるはずの、もう一人の青年に向かって。
「……はは、若いというのは良いモノだね、痛みに敏感だ」
 土砂降りの雨の中。
 データ上でしか知らぬ女の墓を参った時と同じ格好のまま、嘲りの口調で、彼は言った。ブランドンという男にとって女がどれだけ大事な存在であったのか、そんなものを推し測るつもりはない。ただ。
『その空虚は、ヴォルフガング自身も、よく知るものだった』。
 スマートフォンを握ったまま動かない青年に、老いた狼は振り向いて言う。
「ようこそブランドン『地獄の入口』へ」
 地獄、と小さく呟きながら、青年がヴォルフガングを見た。暗く落ちた画面を、降り注ぐ雨粒が川のように流れている。雨はいい、たとえどれだけ泣いていても、それがわからなくなるから。
「愛した者を喪うことは観測者の世界の終わり」
 それは、ある種の者にとっては、『死』よりも重い『終わり』だ。
 愛は水に似ている。自分自身という器に注ぐ者もあれば、己の器がたとえ空であっても、他人の器に注ぐ者もいる。それで満たされているのだ――自分の愛した、誰かが満たされているという事実がある、それだけで『生きていける』者は確かに居る。
 だからこそ、それを喪った時というのは、その類の者にとって、己の終焉を意味する。
 そして――
「それも大事なものが数える程にしかない人間ならば余計に、な」
 ブランドンはその類の人間だった。
 きっと、その点において、ヴォルフガングと青年は共通していた。己が愛を注いだ誰かを喪い、あの、自身を『道化』と称したオブリビオンが言うように――『世界が滅んだ』。
 空の器だけを残して。
「それは違いない、残念ながらね」
 それなのに、まだ、『生きている』。それがどれほどの業苦であるのか――ヴォルフガングには、多分、わかっていた。
 だが――
「だが、お前が安易な死を選ぶのなら」
 ヴォルフガングは、冷徹に光る赤い瞳で、青年を射抜いた。そこには何の感情も滲んではいない。そもそもこの狼の世界だって――とっくに『滅んでいる』。世界の理屈に沿って言うのであれば、『未来のために』排出された『過去』にこそ、彼の愛も感情も置き去りにされてしまって久しいのだと、自身で理解していた。
 自分にとってどれほど価値のない『未来』であったとしても、『世界』は、勝手に、それを求めて『過去』を捨てる。だからヴォルフガングは、温度のない――もしかすると、あの、いけ好かない『道化』を名乗るオブリビオンと同じに見えるかもしれないとさえ思う、空の――澱みでさえも抜け落ちた、底冷えがする冬の瞳でブランドンを見ていた。
 それでも。
 何故、自分は、猟兵であるのだろうか。
 その理由を、ヴォルフガングは、おそらく、知っている。
「彼女の死を穢すのなら」
『ヴォルフガングの世界』は滅んでいる。
 もう終わってしまっている。
 けれど。けれども――『ヴォルフガングの世界』を滅ぼした『世界』にこそ。
「記憶からすら彼女は死に絶え『哀れな死者』としての記号しか残らない」
 ヴォルフガングの愛した者たちの、残り香があるから。
 美しかった、愛おしかった、かけがえのない日々の欠片が、この『世界』にあったことを『覚えている』自分が在るから――それがどれだけ絵空事じみた精彩を放っていても、その芳しさを疑う自分がいたとしても、『その愛の貌さえもう思い出せなくても』!
 それだけは、ヴォルフガングが『生きている』限り、『世界』から喪われないから。
 壊れて中身のなくなった器でも。器が残っているなら……そこに在ったことは喪われないから。
 たとえ『頭の中のすべての思い出を改竄してしまっている可能性があった』としても。
 たとえ『妄想上の家族を創り出してしまっている可能性があった』としても。
『それだけは、未来に残るから』。
 この胸の痛みが、『真実』を叫ぶから。
 冴えた頭がいくらそれを偽りだと否定したとて。
 その『痛み』は、『それを感じている今の自分』は、何が嘘でも、『本物』だから。
 それを――彼は、守っている。
 自分が虚実の捻じれに裂けてしまうまでは、ずっと。
「ブランドン、お前は、彼女をただの『記号』にしてしまうつもりか?」
「……あいつの婚約者や……家族が、覚えててくれるよ……」
 ブランドンが、弱々しく反論した。
「本当にそう信じているのか」
 返事はなかった。彼も理解しているのだ、『墓に供えられる花など、既になくなっている』ことを。ヴォルフガングが百合を持って行った時、彼は、女の墓に花がなかったのを確かに見ていた。
「殆どの生者は、『未来』のために『過去』を捨てる。記号化して、感情を整理する」
 言葉にせず、お前もそうなのか、とヴォルフガングは暗に問う。
「その程度の心なら、」
 壊れた器の、その欠片で自分が傷ついても抱き締めていられないなら。
「彼女への愛より自己憐憫が勝るなら……お前は地獄に足を踏み入れる資格すらない」
「……あんたは、」
 ブランドンが、一層強く、スマートフォンを握りしめた。
「逆にあんたは――『記憶』で満足できるのかよ」
 そこに燃えていたのは、怒りだった。
「『記憶』は喋らない、『記憶』はメッセージを送ってくれやしない!」
 おれに必要なのは、『おれの頭の中にしかないもの』じゃない。
「『おれとは無関係に在る』、確かな『実物』なんだ。あの女『そのもの』なんだよ!」
 それが戻って来ないなら。
 ブランドンの言葉を、ヴォルフガングが引き継ぐ。
「戻って来ないなら――最初からなかったことにしたい? 偽物でもいいから『そのもの』を取り戻して慰められたい? 笑わせるな。それこそが自己憐憫だと言うんだ」
 いいか、と男は、淡々と告げる。
「『なかったことにはできない』。何も。何もだ! たとえ何もかも運よく『忘れられた』としても、『忘れた』事実がお前を追い込む。新聞が、人々が、それこそ『世界』が。お前以外のすべてが、『お前の忘れた愛を思い出させる』んだ。それをわかって言っているのなら――その覚悟があるのなら、自己憐憫と言ったことは撤回してもいい」
 この世界はな。
「過去を勝手に捨てていくくせに――それを礎にした明日だけは、確かに作り上げるんだ」
「……ッ」
 激怒したらしいブランドンが、ポケットに手を入れようとするのと、ほぼ同時に。
「あー、ちょいといいか」
 間に割って入ったのはレグだった。
「雨が凄いんでな、渡すのもどうかと思ったんだが。一応ホットミルク買ってきたぞ」
「は?」
 毒気を抜かれた顔で、ブランドンが、レグを見る。一瞬で攻撃する意思を失った青年に、流石に扱いが上手いなあ、とヴォルフガングは感心した。
「いや、『最後に飲むなら、それがいいと思ったんだ』って言ってただろ?」
 だからここへ来るまでにテイクアウトしてきたんだ、とウォーマシンが言ったので、青年が、「あ、あー……? ありがとう?」と呆れたような顔をした。
 直後。
 雷撃が天を裂いて落ちてきて――レグが自分とブランドンを庇うように動いた。ほぼ直撃したので、青年が流石に一瞬ぎょっとした顔をしたが、相手が機械であると知っているからか、すぐに表情を緩めた。やれやれ、せっかちな道化だ。自称する通り、怒らせることだけには長けているようである。それを見た迅が「大丈夫な!?」と慌てたように言って、何らかの属性を――おそらくは五行の金――付与した霊符を周囲に投げた。避雷針代わりだろう。当のレグはと言えば、「まあまあ平気」などと返している。
「――いずれにせよ」
 庇ってくれたレグに「ありがとね」と告げて、ヴォルフガングは離れる。
「……今君に必要なのは哀れみではなかろう、故に厳しい選択を可視化してやる」
 選べ、持たざる者。
 雷鳴が、雨の曇天を震わせている。
「真に負け犬となり、野垂れ死ぬか」
 ヴォルフガングには、ブランドンを生かしておく道理がない。もし他の猟兵が止めようとしたとしても、それがこの青年の『選択』なら、結果はどうあれ、男はそれを『選ぶ』。
「狂犬となってでも、記憶の中の女を生かしてゆくか」
 この世界に。
 ただ一つの塵としてしか存在を許されていない、有象無象のお前が。
「選ばれなかったお前が、選べ」
 それだけ言って、ヴォルフガングは返事を待たずに身を翻した。既に戦いは始まっている――それに参加するもしないも、青年が選ぶことだ。一般人に目をやると、誰かが連絡したらしき警察が誘導しているのがわかった。ただそれでもすぐに封鎖や避難が完了するわけでもなく、トリテレイアが幾らかを庇いながら戦っているようだ。
 ――と、閃光がすぐ近くに轟音と共に落ちてきて、視界が一瞬眩む。だが、それを隠れ蓑にオブリビオンが『元に戻された看板を足場に』跳んだのを――見逃すはずもなかった。
 飛び上がった状態から回転するように放たれた踵を交差させた両腕で受け、衝撃をぐん、と殺してから、一息に跳ね返す。オブリビオンの方もそれくらいは予想していたのか、体勢を崩すこともなく、むしろヴォルフガングの腕を足場にするような形で、後方へと跳んだ。
「やっぱり難しいな、猟兵は」
 オブリビオンは――男は、足首を回しながら、どこか軽薄に笑っている。
 空虚を抱えると、やはり、ひとは笑うのかもしれない。
「……墓標にはどう刻んで欲しい?」
「ハハハ、君は馬鹿らしいことを訊くな。『俺』の墓標なんて存在しないだろう。アンノウン〈正体不明〉とでも呼んでくれればいいさ。呼び名なんて、どうでもいい」
「名前こそが己を定義する第一歩だというのに、それを拒否するのか」
「『どれも正しくない』からな、『俺』を定義するには」
「――お前の過去を探してやろうか? 俺にはそれができる」
 びり、と――雷によるものではない痺れが、場に走ったように感じた。
「やってみてもいいが。それは――『俺』じゃない。『俺』では『有り得ない』ものだ」
「何故そう断言できる?」
「それは既に死人だから。せめて記憶の連続性があればな。その名前を名乗ってもいいんだが。殆どないからな……」
「殆ど、ということは、『あるにはある』のだな」
「『忘れたことを知っている』だけさ」
 あるだろう、そういうことは往々にして。
「たとえば買うべきものがある。だがそれを忘れている。『忘れたことを知っている』。そういう状態に近い。それは記憶があると呼べるか?」
「お前と問答をしようとは思っていない」
 つれないな、とオブリビオンが肩を竦めた。
「それならば君は……と。ああ。その目は、『偽物など要らない』という目だな」
「よくわかっているじゃないか」
 この、アンノウンとやらに答える言葉は一つ。
「この百年の孤独が貴様如きの幻で埋められなぞするか」
「一時の『慰み』にはなるかもしれないのに?」
「――それ以上侮辱の言葉を吐いたら、道化らしくその口を笑みの形に裂いてやろう」
「怖いことを言う。とても『ヒーロー』とは思えない」
「最初から、そんなものになったつもりはない」
「そういうものか。……はは、そうだな、そういうものかもな」
 会話はそれで終わりだった。アスファルトにヒビでも入るのではないかと思わせるような踏み込みで、オブリビオンがヴォルフガングに肉薄する。その翠を含ませた青い瞳が、猛獣の獰猛さで迫った。一瞬で間合いを詰められ、黒い手袋をした手のひらが、ヴォルフガングの顔を捉える――が、それこそ彼の求めたものだ。
 調律・機神の偏祝〈コード・デウスエクスマキナ〉。
 これまで何度使ったかわからぬUCを起動して、オブリビオンが己に触れた瞬間に、思い出を穢すこの無貌と己自身に『ハッキング』を行う。
 ――他人を踏み躙ることの代償を、しっかりと払ってもらうぞ。
 無貌にはその身を構成する記憶を踏み潰し、自分には一時的に記憶を封じる。忘れたことを覚えているだけとて――『それすら消えてしまうこと』の意味を知れ。
(なあに、無茶は慣れたものさ)
 そう嘯くヴォルフガングが、僅かに表情を変えたのは、踏み潰そうとしたオブリビオンの記憶に――見慣れた仮面が朧気に見えたからだった。
 そしてそれが、それこそが、このオブリビオンにとっては――否、蘇る前の、『この男』にとっては、昏い夜を歩くための閃光だった。太陽を失った男にとっての。
 ……ああ。
 なるほど、『そういうこと』か。
 ブランドンが選ばれた理由を――ヴォルフガングはここで悟った。
 得心して――その記憶を潰し終わるより先に。オブリビオンは男から手を離して、前蹴りで思い切り突き放した。しまった、表情で気付かれたか。
「……過去を探してもいいとは言ったが、『覗き見』は趣味が悪いな。俺でもやらない」
「『できない』の間違いだろう」
「ま、それは正しいが……観覧許可くらい取れよ」
「生憎、無法無謀に無茶をするのが得意でね」
「……あーまったく、口が減らない相手は苦手だな……」
 こういう時は面倒がない相手から潰すに限る、とオブリビオンがヴォルフガングから距離を取る。
「ブランドン、こっちのフォローも頼むよ」
 道路の向こう側の方でトリテレイアとカイ、加えていつの間にやら増えたジニアまでをも相手取っていた過去のブランドンが、男をちらりと見るなり、ここまで聞こえるような音量で舌打ちをした。どうやら特別仲が良いというわけではないらしい――というより、何なら多分嫌われている。
「こちとら猟兵三人相手だぞッ! 近距離ッしかも一対一にお膳立てしてやっても碌に戦えねえなら車ン中にでも入ってろボケがッ! 邪魔だ!」
 罵声も飛んできた。うん、完全に嫌われているな。というか結構自我あるね、過去の方。オブリビオンは「どうも動きが馴染まないんだよ。体に癖がついているせいで頭よりも先に動くからタイミングがずれて使いにくい」などと言い訳をしていた。
 仕方がない。ぴゅうい、とヴォルフガングは口笛を吹いて這い穿つ終焉〈スニークヘル〉を魔爪に変化させる。
(こうなれば、雷属性を纏わせた上で、隙を見て喉元を抉ろうか)
 オブリビオンがジニアの銃弾やフックを器用に避けつつ距離を詰めていくのを見ながら、ヴォルフガングはそう決めると、逃げる男を追ったのだった。

 ●

 欲はいずれも等しく重く。
 白は祈りを届け、朽ち果てて。

 ●

 ジニアは淡々と、止血剤の用意をする。
 これから行うことに必要だからだ。
 ――あのオブリビオンは言った。
「『たとえ偽物だとしても』取り戻したいものはあるか」と。
 その答えは、決まっている。
 止血剤を、注射器で己に投与する。止血作用よりも、今はこれに含まれる鎮痛作用が必要だった。副作用など百も承知だ、それでもジニアは使う。針を抜くと同時に落雷があった、だが彼女は動揺しない。ヴォルフガングが、「選ばれなかったお前が、選べ」とブランドンへ告げるのを、彼女はただ聞いていた。
 失くしたくなくても。
 ひとは失くしてしまう。
 取り戻したくても。
 ひとは取り戻せないものがある。
 秘術・人格分離〈ワタシハワタシデワタシジャナイノダカラ〉――割れそうな頭の中に、普段は存在しない、第三から第五の人格が生み出される。悪辣で、卑劣で、鬼畜外道な――ジニアの複数人格たち。
〈取り戻したいものなんて決まっているでしょう〉
《そうです、そのために、私たちまで生み出したのです》
[それでも、失くしてしまった]
 そうだ。失くしてしまった。あれは確かに、ジニアの『喪失』ではあったのだ。
 けれど――あれは。あの日は。あの邂逅は。あの喪失は。
 ただその『痛み』だけを生み出したものではなかった。
 すう、と、一つ息を吸って、それから、吐いた。これがテイクアウトしたホットミルク、とレグから紙袋を渡されていたブランドンに、ジニアは近寄る。離れていたのは、彼を刺激したくなかったからだ。事実、ジニアの姿を認めたブランドンは、明らかに顔を顰めた。
「……ブランドンさん」
「んだよ……」
「あなたは、私のことを、きっと嫌っていると思います」
〈当然でしょうね〉《触れられたくないところに触れられた挙句、あれだけ追い詰めたのですから》[ここで刺されても文句は言えない様子でしたよ]
(少し静かにしてください)
 頭の中で騒ぐ『ジニアたち』に警告してから、彼女は再び口を開く。
「ですが、私は、あなたに伝えておきたい」
 ブランドンは、敵意の籠った目で見てはいるものの、ジニアの言葉を待って黙っている。
 だから、続ける。
「私にも偽物であろうと縋りたい物はあります」
 大切な過去はあります。そう口にしても、自分の表情は、もう変わらない。
「取り戻したかった人はいます」
 取り戻したかった――という言葉に、ぴくりとブランドンが眉を震わせた。自分にそんなことを聞かせてどうしようというのか、と思わせる表情だった。共感を誘って、懐柔しようとでも言うのか。そんな猜疑心に満ちた表情。
 そうと言えば――そうなのだろうか。わからない。
「彼女は私の、かけがえのない親友でした」
(これは、私の『喪失』。その顛末)
 ただ、ジニアは、ブランドンに言いたいことがあるだけだ。
 同じ、太陽を失った者として。
 そして、『それでも歩き始めた』者として。
「彼女こそが、私にとっての、きっと、太陽でした。そして私は、そんな彼女に照らされる月だったのだと思います。彼女と一緒にいられて初めて輝ける……」
 青年は口を挟まない。ジニアも青年も、降り続ける雨にずぶ濡れだった。
 そう言えば、彼女の体を抱き締めたあの日も、最初は随分と雨が降っていた。梅雨だったから……。なんだか懐かしいです、なんて、ジニアは少しだけ思った。彼女のお葬式をしたのは――もう、随分と前になるのだろうか。
「ですが彼女は、ある日、いきなり行方不明になりました。私がようやく見つけた時には、取り返しのつかない状態になっていました。この世界でも通用するように言うなら……そうですね、おそらくあなたが引き取られた研究所のような場所へ連れて行かれたのでしょう。実験台にされ、記憶も何もかも奪われた上でオブリビオンに利用されて殺されたのだと……思ってくださればと」
 私が唯一取り戻せたのは、彼女の遺体だけでした。
「それが、私の、偽物であっても縋りたい大切な過去。取り戻せないまま失われた……私の『喪失』へ至るまでの物語です」
「……それで」
 ブランドンが、絞り出すように言った。
「それで……お前は……なんで、それをおれに言うんだ。自分も同じような境遇なんだからお前も立ち上がれって?」
「そうです」
「……馬鹿げてる。おれとお前じゃ全然違う。おれは……」
「自業自得だから、ですか」
「……そうだよ。お前はきっと、何にもしてないのに不幸になっただけだろ……」
「では――『しあわせだった私たち』が、『しあわせに過ごせなかった』のは、誰のせいなのでしょうか。『しあわせだった私の親友』が、『しあわせに死ねなかった』のは?」
 青年が、虚を衝かれたような顔をした。
 確かにジニアは悪事を働いたことはなかった。きっと、いや、間違いなく、セレニアも。
 だが、セレニアは失われ、ジニアは彼女の安らかな眠りを守るために今も戦っている。
「私たちが真実『無辜』であったとして――ならばどうして、私の太陽は、失われなければならなかったのでしょう。私の知らない『誰か』のせいですか? それとも、この『世界』のせいでしょうか」
 悪因があったから悪果がついてきたのでしょうか。
「違うでしょう。『世界』は、きっと、そんなに優しくはありません。私たちは、誰かのせいではなく、ただ、奪われる時に奪われるのだと思います。もし、本当にあなたのせいだったとしても――それはきっと、『あなたが悪事を働いていたから』ではなかったのではないかと私は思っています。むしろ、逆だったのかもしれませんよ」
「……」
「時に、『Every cloud has a silver lining』、という言葉をご存知ですか」
「は?」
「諺です。どんな絶望の裏側にも、相応の希望が隠されているといったような意味合いの」
「……」
 怒りを覚えているらしいのは確かだが、どう反応するべきなのか決めあぐねているという様子で、青年がジニアを睨んだ。希望などないと、彼は思っているのだろう。
「確かに私は、親友を失いました」
 けれども。
「彼女は私の手で埋めたのです。幻覚に縋る事は在れども、それで終わりなのです」
 だから、この話は”しまい”なのです。
「太陽を失った私が――いえ、『だから』でしょうか。雲の向こうに太陽を見たのです。彼女の遺体を取り戻した日……彼女の遺体『だけでも』、きちんと私が、『取り戻せた』日……」
 太陽を失ったならば。
『太陽を取り戻す』しか、本当の意味で『救われる』手立ては、きっとない。
 そしてその方法は――本人にしかわからない。
「だからブランドンさん、立ち上がりなさい」
 大雨に暗く落ち込んだ都会の街並みに、雷光が走る。
 だがこの雲の向こうにも、太陽はある。たとえ夜空になったとしても、太陽は、何度でも昇ってくるものだ。
「縋ることは悪いことではありません。それがあなたの歩みを助ける杖になるのなら」
 ブランドンは、濡れたスマートフォンを握ったまま放していない。
「歩けないのなら、歩くことができるようになるまで、支えにしたらいいのです。そうして歩けるようになった時に、感謝と共に手放せばいい」
 さあ、とジニアは言う。
「己の手で太陽を探し出す時間です」
 太陽を取り戻した私の――
「――私の生き方が必要なら、そこで見ていてくださって構いません」
〈尤も、お世辞にも褒められた戦い方ではありませんが〉《あの方にはそれくらいの方がいいのではないでしょうか?》[確かに、こんな世界で生きていらっしゃるからか、かなり善悪に拘る傾向にあるようですから]《ヒーローズアース、『神』が実在する世界!》〈私たちが住む世界と、なんて似ていて――〉[なんて真逆の世界なのでしょうか!]
 世界を作った神の実在が証明されているこの世界で――ヒーローやヴィランと善悪に振り分けられる世界で――
(私が『ヒーロー〈善〉』かどうかなどわかりませんが)
〈善ではないでしょう〉《少なくとも私たちは違いますね》[では、私たちを身に宿して扱う以上、善にはなりえませんね]
(……まったく、あなたたちは)
 割れそうな頭で、ジニアは息を吐く。だが、不思議と気分は悪くない。
 それに、この場においては、この『私達』を呼び出すことこそが。
(――重要な事だと思いますので)
 丁度ヴォルフガングとオブリビオンが離れたので、ジニアはそちらへ向かおうとして――
〈危ないですよ、後ろへ〉
 第三人格の忠告で、咄嗟に後ろへ跳ぶ。直後、彼女が踏んでいた水溜まりを雷撃が舐めて、ぞっとする。直撃を食らっていたら流石に危なかった。
(助かりました)
〈いえいえ。黒焦げになるのは『お嫌』でしょうからね〉
 頭の中で女たちがくすくすと笑った。……こういうところは、やはり好かない。
「ああくそ――次から次へとよ!」
 叫んだのは、雷撃を放ったブランドン――過去から呼び出された、オブリビオンとしてのブランドンだった。
「鬱陶しいな――なんでお前ら、『おれを殺すだけでこんなに手間取ってんだ』!」
(……ああ)
《自殺願望あり、と》〈違いますよ。いえ正しいのかもしれませんが。あれは……〉[あの方の大事な女性が死んだ日から呼び出されたのでしょう]《なるほど、そういうことでしたか》〈ちょっと、私の言葉を取らないでください〉[誰にでもわかることなのですから別にいいでしょう]〈そういう問題じゃ――〉
 女たちは頭の中で騒がしい。
(彼女と一緒に、本当は、『その日』、死にたかったんですね)
 仲間の誰かが殺してくれないかと。
 今も、猟兵の誰かが、自分を殺してくれないかと『待っている』。
 ブランドンは自力では死ねないから――誰かに殺してもらう他ないのだ。
 だからと言って、彼は、『猟兵と本気で戦わずに死ぬ』という選択肢も取れない。
 現在のブランドンは、車の中に女性がいることを知らなかったようだった。それはつまり、あの女性は、『過去のブランドン』のものだということを意味する。
『オブリビオンのユーベルコードで生み出された女性を、もう失いたくない』。
 だからオブリビオンを死なせるわけにはいかない。
『たとえ世界が滅んでも』。
「ブランドン、こっちのフォローも頼むよ」
 ヴォルフガングと戦うことを諦めたのか、オブリビオンが笑いながら言って走って来る。それを聞いて、過去のブランドンが舌打ちする。それを聞いて[下品ですね]と女の一人が嫌そうに呟いた。
「こちとら猟兵三人相手だぞッ! 近距離ッしかも一対一にお膳立てしてやっても碌に戦えねえなら車ン中にでも入ってろボケがッ! 邪魔だ!」
「どうも動きが馴染まないんだよ。体に癖がついているせいで頭よりも先に動くからタイミングがずれて使いにくい」
「知るか! リハビリくらい済ませてから悪事やれ!」
「いや、これは俺のオブリビオンとしての仕様だと思うから矯正は難しいはずだ」
「うるせえなあ! いいからさっさとどれか拾ってけ!」
「わかったわかった。まったく君は威勢がいいな……」
 覚えていないのに知っている何かを思い出して、ひどく嫌な気分になるよ。そんなことを言いながら、オブリビオンがその青い目をジニアへと向けたので、彼女は即座に拳銃を引き抜くと、構えて脚めがけて撃った。だがオブリビオンは、軽やかと思わず評してしまうような足取りでそれを跳ねるように避け、距離を詰めてくる。動きが馴染まないとは何だったのでしょうか、という頭の中の女に、ジニアも同感だった。
「く!」
 呻いて、ブランドンを拘束した時にも使ったフックワイヤーを射出する、が、これも容易に躱される。
「弾丸や射出ワイヤーなんかの単調なのは見切りやすいから楽でいいな」
「――ッ!」
 相手の手が殆ど届きそうな距離になって――実際に手が伸びてくる。手に気を付けろ――と、あのグリモア猟兵は言っていたか。間近で見て、わかる。
 この手は――『この手袋』は、『危険だ』。
 だが。
(この手が危険なのは承知の上)
 その上で例え私の記憶が無くなったとしても。
「――何か企んでいるな」
「っ!?」
 急な足払いで体勢を崩す、オブリビオンの手が、ジニアの首を捉える。そのまま片腕一本で絞め上げられて、「かっ――」と音を鳴らして息が止まった。
「言っておくが、これは対象に『触れていればいい』だけでね。君の意識がある必要はないんだよ」
 動かれても面倒だからな、と男が無表情にジニアを吊り上げた。完全に頸動脈を抑えられている、これはまずい、意識が飛ぶ。鎖、いやこの距離なら今度こそ銃は外さない――そう考える自分を。
「……ああ、くそ、やられた」
 男が、急に解放した。緩んだ男の手から滑り落ち、受け身も取れないまま雨に濡れた地面へ落ちて転がる。動けなかったのは、解放される直前にユーベルコードを発動されたからだ――『私』の記憶が『削り取られて』、一緒に意識までもが落ちかけていた。
『私』、『私』は――〈しっかりしてください〉《ああまったく、不可逆の呪い!》[面倒なものを使っていますね、あの男は]《生前も誰かにこういった嫌がらせをして怒らせて殺されたのでは?》〈ふふ、それなら面白いですね〉[死因が自分の性格! ふふふ]《滑稽ですが――今は先にこちらです》
 暗く落ちそうな意識の中で、誰かが喋り続けている。雨が冷たい。
〈さて、記憶が無くなった第一人格様〉
《大事にしていた過去が無くなった心地はいかがですか?》
[これまでにあなたを作ってきたものの殆どが、消えてしまった気分は?]
 気分? わからない。ただ、頭が割れそうに痛い。あなたたちが喋っているからですか?
[そうですよ。私達が喋っているからです]
〈ご自分で生み出されたのに、覚えていらっしゃらないようですね〉
《では仕方がありません、お可哀想な第一人格様を――》
 いえ、と、女が言葉を切った。
《『ジニア・ドグダラ』を、『ジニア・ドグダラ』たらしめてあげると差し上げましょう》
『それを誰が保証するのか』
 堅い声音の――けれど先程までの女と同じ声が、また増えた。もしかして、これは、全部同じ人の声なのでしょうか……。
〈それは誰でもない己でしょう〉
《おや、不思議な事に記憶を持つ己が多数いる存在が居ます》
[であれば過去が無かろうと、誰でもない己の保証は容易いでしょう]
 己――己とは。これらの声は――ただ一人によって生み出されているのか。
 思い出すことさえ必要がないのです。『ジニア・ドグダラ』の記憶は、過去は、あなただけのものではない。あなたが『太陽を失った日』。あの日からずっと、今日のこれまで。あの日にすべてが終わって、すべてが始まって、あなたは『太陽を取り戻した』。そうしてあなたは月として今も生きている。夜を守る、白い月。それを観測してきた者がいる。他人などよりずっと傍で。あなたの中で。だからこそ、『ジニア・ドグダラ』は他ならぬ『過去〈私達〉』そのものによって保証される――

『〈《[そうでしょう、私]》〉』

 ――ジニア・ドグダラ。あなた〈私〉は、私〈過去〉が在る限り、決して失われない。
「……そう、です……」
『私』は、ジニアは、よろめきながら立ち上がる。
 私はジニア。白光の眠りを守る者。
 他の誰が、完全な私を観測できていなかったとしても。『私自身』にならそれができる。
 そして。
 観測出来うる誰かが居るなら、私の過去に揺るぎは無い。
「……内部に記憶のバックアップがあるタイプか。人格を分割して、記憶をそれぞれに保持させているのか? それなら、完全に死なない限り記憶は戻せる……のか。何にせよそれで実際に復元できるとは。多重人格者に使うとこうなるのか、面白い回避方法だな……」
 立ち上がった彼女の前で、オブリビオンが、笑いながら脇腹を抑えていた。黒い革の手袋の隙間から、真っ赤な血が溢れている――誰がやったのかと驚いて視線を走らせれば。
『現在のブランドン』が、後悔さえ感じさせるような苦い表情で、立ち尽くしていた。
 待て畜生、まだ死ぬな、『まだおれが死んでねえ』だろうが、と叫んだのは――きっと、彼の過去だった。

 ●

 夏の夜明けに咲いたのは、涙より青い薔薇の花。

 ●

 金属性を込めて周囲へ配置していた避雷針代わりの霊符が、過去のブランドンが放つ雷撃に耐えきれず裂け、焦げ燃え落ちた。迅は急いで、増やした霊符を再度放つ。霊符は思っていたよりも役に立っているようで、過去のブランドンが、時折操作しにくそうに顔を歪めているのが見えた。もっと言うなら、『迅の霊符を燃やす』という行動を他の猟兵への攻撃の間に挟めているだけでも十分だった。長引けば長引くほど、集中力がなくなっていくはずだ。
 この間に、迅は、地縛鎖による情報収集を行う。
 ブランドンとの会話だけではわからなかったこと。
 警察でのデータ収集や、彼女が残したデータだけではわからなかったこと。
 他の猟兵、特にヴォルフガングから聞いた、『その人が殺された時の情報』で、どうしても疑問に思ったこと。
 つまり――
(『彼女』がなんで、わざわざ『安全な場所から飛び出してきた』のかってことなんだ)
 ヴォルフガングが、ブランドンに厳しい言葉を投げかけた。ジニアが、『ブランドンの罪が彼女の死を招いたとは限らない』と告げた。今はレグが雨除けと保温のシートをかぶせて、ホットミルクを飲ませている。冷めてんじゃねえか、だとか文句を言っても、青年は、レグの行動を拒絶しない。その理由がどこにあるのか、それはわからなかったけれど。
 そういう姿を見ていると――迅は、考えてしまう。
 ブランドンの助けになれることが限られるとしても。
 今までに悪いといわれることをしていたとしても。
(彼女とのやりとりとか、朱鳥に優しかったところを見て)
 自然公園でブランドンが見せていた、柔らかな笑み。あの笑みを浮かべられる人なのだ、彼は。
 彼が誰かを殺してきた人間だと、迅は知っている。
 怨まれるようなことをしてきた人間なのだと、確かにわかっている。
 それでも。
(彼女の記憶を無くしたり、偽物でも彼女をどうにかさせたくはないな)
 ……どっちになっても今よりもっとしんどかったり辛くなると思うから。
 ヴォルフガングは言った。お前以外のすべてが、『お前の忘れた愛を思い出させる』んだ、と。それはきっと、正しいことなのだろうと迅も思った。
 だって、記憶は、『過去』は――ブランドンの中だけにあるものではないから。
 削がれて落ちた『過去』によって作られた色んな人々の輪郭は、まるでパズルみたいに、世界として噛み合っている。そこからブランドンだけすっぽり抜け落ちたって……『そこにあったものの形』は失われない。最初からなかったことには、どうしたってできないのだ。失くしてしまったことだけが残ってしまって……それなのに『失くしたものがなんだったのか』さえもわからなくなって、ただ、苦しみだけが残ってしまう。
(たぶん、だから、あのオブリビオンだってそうなんだ)
『穴が空いてしまったことへの苦しみ』は、もう、きっとどうやったって消えやしない。
 何もかも失くして、記憶も名前も命でさえも、一切合切骸の海へ置いてきたのに、世界を滅ぼすためだけに蘇ってきたのさ。名乗ることさえしなかった、いや、できなかった、あのオブリビオンの言葉。
 穴が空いているとわかっている。
 それなのに、そこに何があったのか、わからない。
 愛しさだけが残っている。
 それなのに、思い出を眺めて懐かしむことさえできない。
 穴が空いていることさえ忘れたくても――世界は、必ずどこかで、その欠落を、喪失を、当人に突きつける。
『ベイカーが消えたことを、ちゃんと周囲の皆がわかっていた』ように。
(それが、『失くす』ってことなんだ)
 だから、迅は、ブランドンに『それ』を選んで欲しくない。
 地縛鎖は教えてくれる、垣間見せてくれる。この周辺地域で起こったことを。その中から迅はハッキングの要領で、銀行強盗事件付近の情報を探し続ける。ブランドンが失った彼女の痕跡を。彼女が何故、死んだのかを。
 迅はデータを見たから知っている。彼女はちゃんと、自分が今どんな事件に巻き込まれているかわかっていた。声を出したら危険だから通報はできなくて、でもその代わり、婚約者に銀行の住所と、通報して欲しい旨を伝えるメッセージを最後に送っていた。多分、ブランドンはそれを知らなかったはずだ――それを読む前に、彼はスマートフォンを焼いたのだと思うから。彼女は、自分が『運よく見逃されている』ことを知っていた。下手に行動したら死ぬかもしれないことも。
 それでも、彼女は動いた。
 隠れていた場所から飛び出した。
 迅は、残っていた地域の『記憶』の中から、『それ』を正しく――選び出した。それは彼の技術によるものだったかもしれないし、強い勘によるものだったかもしれない。
 いずれにせよ、事実は、彼の手の中にあった。
 ……ジニアに――ヒャッカに、情報を伝えた猟兵のうちの一人は、迅だった。彼女たちがブランドンとどこでどんな話をしたのか、そこまでは知らない。けれど、その上で、彼女は言った。私たちは、誰かのせいではなく、ただ、奪われる時に奪われるのだと。
 もし、本当にブランドンのせいだったとしても――それはもしかすると。
(『ブランドンが悪事を働いていたから』ではなく、むしろ、逆だったのかもしれない……)
 その言葉の『正しさ』を、迅は苦く噛み締めた。
 そうして青年へと情報を伝えようと思って――一瞬息を呑んだ。彼が、スマートフォンを握ったまま、どこかを見据えて、空いた手をポケットに入れていたからだ。だめだ、と迅は咄嗟に千代紙を引き出すと、麻痺と呪詛の金縛りで彼を止めようと思い――『違う』ことに気付いた。何故ならレグが動いていなかったからだ。もし、ブランドンが偽物の彼女を攻撃しようとしているなら、きっと彼が止める。それが『いい結果』になるなら別だろうけど、少なくとも、今は違うはずだ。何より、『そうさせる』なら、レグは多分、自分に情報を事前に共有する。迅は動きを止め、ブランドンの視線の先へと自分も目を向けた。
 ジニアが、オブリビオンに首を絞められていた。
 たすけてあげて、と、知らない女の声がした。電話越しみたいな声。
 ブランドンが、雷撃を放って――いかにも『過去の自分がいる方向』で動いているように見せかけながら、オブリビオンに到達する直前で元に戻した。拾ったものと思しき何らかの金属片が、雷撃の加速のままに男の斜め後ろから、その脇腹に突き刺さる。
 男は、オブリビオンは、悲鳴を上げなかった。「ああ、くそ」と呟いただけだった。
「やられた」
 男の声は、どこか平淡だった。ジニアが雨に濡れた水へ落ちる。生きてはいるようだが、動かない。あの手が原因だ、と迅は気付いた。だって手に気を付けろと、最初に言われた。
 あれ――でも。
『なんで、あの手が危険だって、あのグリモア猟兵は知っていたんだろう』?
「俺の手品は要らないんだな、ブランドン」
「……違う」
 違う、と、青年が苦い顔で言う。すごい、あなたは女の子を助けたのよ。その声は、青年の手にしたスマートフォンから響いていた。
 ブランドン、あなた、ヒーローだったのね。
「――っ!」
 女の声で、ブランドンが、体を強張らせた。
「なるほどな」
 男の脇腹からは、雨に混じって大量の血が溢れ、地面へと落ちていっている。
「『俺の手品に縋った』のか。それでいて、俺を滅ぼすことを選んだと」
 ブランドン、君は。
「君は――なるほど、当たり前だが、『生きている』わけだ……」
 この日まで、ずっと、『生きてきた』わけだな。
 オブリビオンの足元で、ジニアがぴくりと動いて――よろめきながら立ち上がった。そこには忘却や喪失の虚ろはなく、ただ強い輝きだけがある。
「……内部に記憶のバックアップがあるタイプか。人格を分割して、記憶をそれぞれに保持させているのか? それなら、完全に死なない限り記憶は戻せる……のか。何にせよそれで実際に復元できるとは。多重人格者に使うとこうなるのか、面白い回避方法だな……」
 しかし、それにしても痛む。
 男がブランドンによって撃たれたことを知った彼の過去が、「待て!!」と絶叫した。
「待て畜生――まだ死ぬなァッ!!」
 まだ。
 まだおれが。
「『まだおれが死んでねえ』だろうがッ!!」
「……ぎゃんぎゃんとうるさい犬だな……」
 傷に響くだろう、黙れ。そんなことを言いながら、男が、真っ赤になった手を離した。
「止血……は、無駄か。抜く……いや抜いた方がまずいな。ハ、ハ。本当に……痛みがあるのは、オブリビオンとして欠陥仕様だと思うんだがな……」
 どうせ一手段に過ぎないなら、もっと都合よく蘇らせてくれてもいいものを。男が、ため息と共に土砂降りの空を仰いだ。
「心底、つまらない」
 こんなに世界は広いのに。
「俺が還る場所は骸の海だけだ……」
 これが『俺』の罪に対する報いなんだろうか。殆ど唇だけの動きで、オブリビオンはそう口にした。それを――迅は確かに聞き取っていた。立ち上がったジニアが止めるより先に、男が『現在のブランドン』へ向かって走り出した最中でも。
 だからこそ、迅は、その護符を。
 七星七縛符を発動させるべく――オブリビオンへと投げた。
 避けようとしたのだろう。それはわかった。護符の動きは変幻自在というわけではない。先程銃弾を避けていた男なら、どうにか避けることも可能だったろう。だが、ブランドンの突き刺した金属片が、それを許さなかった。身を捻った男が、顔を痛みに歪めて――回避が完全に一拍遅れた。
 そしてそれが、男の失敗だった。
 命中した護符が、オブリビオンからユーベルコードを奪い去る。回避し損なってバランスを崩した男が、雨の地面へと潰れるように落ちた。過去のブランドンがまた罵声を浴びせたが、男は何も言わなかった。たぶん、わかっていたからだ。
 彼がユーベルコードを封じられた時点で――過去のブランドンが求め、彼が『手品』と称するユーベルコードによって生み出された『彼女』は、失われたのだということを。
 事実、現在のブランドンが握るスマートフォンからは、もう、何の声もしない。
「……。結局、こうして戦っても、勝てないのだから……本当に、無意味な話なんだ」
 それは怨嗟のようにも聞こえた。血の滴る脇腹を抑えもせず、立ち上がろうとする男の足を、今度こそジニアが撃ち抜いた。流石にオブリビオンが呻いて、それなのに、笑った。
「フ、ハハ。ハハハ……馬鹿らしい、なぜこの世界は……一々、死人を、蘇らせるんだろうな……それしかないからか……骸の海に行き着くものが、この世界では命だけだから……」
 うんざりする構造じゃないか。
「神は俺たちを作るだけ作って、地獄さえ与えてくれなかった」
 笑う男の表情は、地面へうつ伏せになっているから、わからない。
 この世界は、死人を蘇らせる。その言葉に訊きたいことが生まれて、迅は口を開く。
「あ――あの、」
 警察署でも気になったことだ。グリモア猟兵に伝えられた予知の中、このオブリビオンはユーベルコードなど使っていなかったのに――どうして、あの仮面は『手に気を付けろ』と言えたのか。
 欠けたパズルは、隣り合ったピースで、外れた場所の形がわかる。
「あのさ……」
 雨が、男を打ち据えている。
「仮面みたいな形の……ひと、じゃない、ええと、ものでもない……」
 ヤドリガミでもないし、何て言えばいいんだろ。体も別の人だったよな。迅は数瞬考え、比較的適切だと思う言葉を選ぶ。
「そう……えっと、『喋る仮面』を、もしかして、知ってたり――しない?」
 ――男が僅かに顔を上げ。
 その青い瞳のぎらつきに、迅はぞっとした。
 男の動きは速かった、周囲を把握するためだろう、瞬時に視線を巡らせると、足の一本を撃ち抜かれているというのに、ばね仕掛けのように跳ね起きて、誰が捉えるより先に、後方へと飛びずさった。
「悪いが、俺は『それ』を知らない。君が『それ』を知っていて――万一『それ』が過去の『俺』に関係していたのだとしても」
 今の『俺』には関係のないことだ。
「俺は最早誰でもない。誰でもないが、確かに『俺』である。それが『俺』だ。『俺』は確かに、それについて疲れ果てていて、苦しんでもいる。苦しみ抜いて――幻影を呼び出すことさえできるほどには」
 だが、その。
 喪失こそが。
 空白こそが。
「今の『俺』自身を作っているのだから、始末に負えない」
 空の器に沈みゆく己だからこそ。
「それを今更――『過去の俺』で埋めたいとは思っていない。それは『俺』の死だ。誰でもない己に苦しむよりも、もっと惨く、柔らかな痛苦だ。誰でもないはずの『俺』が、『確かに俺でもあるが、決して俺ではない俺』に溶けかねないことへの恐怖を――君たちにわかって欲しいわけじゃない」
 俺は『俺の死』なんて怖くない。
「だが俺が――『俺』でなくなることは、何より怖いんだ」
 だから。
 轟く雷鳴と閃光に混じって、何やってんだてめえ、と叫んだのは、きっと。
「悪いが、それ以上を知るくらいなら、『俺』は骸の海へ還ることを選ぶよ」
 俺の太陽は、二度と帰ってこないのだと――
「覚えていないが知っている。それ故に、俺にとってこれは真実、『無意味』な話なのさ」
 稲妻に焼かれて、俺は『もう』、『死んでいる』んだ。
「そこの『彼』とは違う。だがそれが俺の、『因果応報』なんだろう。その結末を、『自分が選んだことの集積であったこと』を、否定されることなど俺は認めない。それだけの話だ。それはきっと、『君たちも同じである』はずだろう」
 なあ、と、オブリビオンが――背後へ『ぬらり』と音もなく現れたヴォルフガングにそう言葉を投げた。言われた男は不快そうに僅か顔を歪めただけで、何も言わず、ただその喉を掻き切った。鮮血が噴き出す、膝をついた男の喉から、ごぽ、と粘ついた水音が響く。
「……会話できる程度の、ごぶ、手加減、なんて……要らなかったん、だが」
「手加減なわけがあるか」
 見下すような瞳で、ヴォルフガングが、男の髪を掴んで己の方へと顔を向けさせた。
「他人を踏み躙るだけの道化師には、斬首刑も電気椅子も、慈悲にしかならないだろう」
 長く苦しめ、不出来な道化よ。冷たい言葉に、ハ、ハ、ハ、と男が絶え絶えに笑う。
「性格が、悪いな……まあ、こんな俺が言えた義理でも、ない、が」
 ヴォルフガングが手を離し、男が傾いだ首で言う。それじゃあ猟兵諸君、またどこかで。
「会えるかどうかは、知らないが。……だが、君の言う、『それ』とは遭いたくないな」
 尤も、それでもいつか遭ってしまうかもしれないのが。
「この悪趣味な『世界』の……ごぼっ、法則、なんだろうがね」
 ――閃光。
「ああ。『過去の方』の彼には――最後まで、世話をしてやれなくて、すまない、とだけ」
 俺の都合で呼び出しておきながら、ちゃんと『最期まで』手品を披露してやれなくて本当にすまなかった。
 トリテレイアが跳ね返す、楔型をした雷撃の先で、男はただ、そう謝った。
 ああ、もっと、世界を見ていたかったものだなあ。
 知らない世界を、もっと。
 男が小さくそう微笑んだのを――迅は、立ち尽くしたまま、聞いていた。

 ●

 演者はいつかもう一度、熱いライトをその身に浴びて。
 壊れた籠から鳥は飛ぶ。

 ●

「あー、ちょいといいか」
 ――ヤバいな、『つつき過ぎ』だ。
 どうもヴォルフガングの機嫌が悪いらしい。普段はふわふわ笑っている時の方が多いが、こいつも生体である以上、我慢できないことが何かあったのだろう。あのピンク髪のオブリビオンに投げられた言葉であるとか。何か、そういうところに。そう判断して、レグは男とブランドンの間に割って入ると、ビニールで包んだ紙袋を取り出す。
「雨が凄いんでな、渡すのもどうかと思ったんだが。一応ホットミルク買ってきたぞ」
「は?」
 自分の言葉に、今の今まで爆発しそうだった青年が一瞬で鎮火した。よし、上々。
「いや、『最後に飲むなら、それがいいと思ったんだ』って言ってただろ?」
 だからここへ来るまでにテイクアウトしてきたんだ、と明るめの声音を使って告げれば、ブランドンは、「あ、あー……? ありがとう?」と少しだけ嬉しそうな顔をした。呆れにも見えるが、地下鉄の駅での反応から鑑みるに、これは喜んでいるのだろう。
 青年に袋を差し出そうとして――瞬間。
 過去のブランドンが放った雷が真上から真っ直ぐ、かつ的確にブランドンを狙って落ちてきたので――レグは咄嗟に、近くにいたヴォルフガングごと青年を己の体躯で庇った。驚愕に目を見開いて、ブランドンが自分を見上げる。多分――レグへの心配を瞳に乗せて。
(……何か、思ったより好感度高そうだな)
 仕事がやりやすくなるからオーケイだが。なんで好かれてるんだ?とは若干考えた。生体でないことを羨んでいる素振りがあったとトリテレイアから少し聞いたので、そのあたりで好かれているのだろうか。だが同じウォーマシンであるトリテレイアの方はあまり好かれていないように見受けられる。謎だな、とレグは思いつつも、一旦それについての思考は後に回す。今はこの『生きた』ブランドンを『逃がす』ことが最優先事項だ。
「大丈夫な!?」
 慌てたような迅に訊かれたので「まあまあ平気」と答えておく。元より電撃にはそれなりの耐性があるのだ。対外フィルムを変換することで更に耐性を得ることもできるが、それを敢えて行わないまま、まあまあ、と答えたのは、オブリビオンのブランドンの出力や範囲の下限を把握したかったからである。何しろ周囲は土砂降りで、業を煮やした過去の方に最大火力をぶっ放されて、辺り一面真っ黒焦げなんぞとなった日には笑い話にもならない。
 ただ――
(『雨雲まで打ち上げてから落とす』まで出来てんぞ、あれ)
 火力やばくねえか、とレグは空を見た。まだ灰色の雲に稲光が瞬いている。オブリビオンになったから出来るようになったのか、元から出来ていたのか。前者っぽいがな、とレグは後でブランドンに聞こうと決めた。
「ありがとね」と、どこか疲れたようなヴォルフガングに微笑まれて、「無事ならいいよ」と返す。
「いずれにせよ」
 男の鋭い目線。同類を見るような。敵を見るような。
「……今君に必要なのは哀れみではなかろう、故に厳しい選択を可視化してやる」
 選べ、持たざる者。
「真に負け犬となり、野垂れ死ぬか」
 ――本当に持たざる者なんかね。怒りを込めたようにも聞こえるヴォルフガングの言葉を聞きながら、レグはそう考える。本当の持たざる者というのは、今、周囲でレグの連絡した地元警察に避難誘導されている一般人たちではないだろうか。ただ先程と違って止めるよりはブランドンに良い影響がありそうなので、レグは黙っていた。
「狂犬となってでも、記憶の中の女を生かしてゆくか」
 この世界に。
 ただ一つの塵としてしか存在を許されていない、有象無象のお前が。
「選ばれなかったお前が、選べ」
 ヴォルフガングはそれだけ言って、前線へと赴いていった。選ぶ、選ぶ――ねえ。
(こいつは既に『選ばれている』と思うんだがなあ)
 色々な意味で。
 ジニアがブランドンに話しているのを聞いていても、レグはやはり、そう思う。ただ彼女の、『縋ることは悪いことではありません。それがあなたの歩みを助ける杖になるのなら』という言葉には一言一句同感だった――道具とはいつでも、そのためにある。
 そう、『道具』とは、いつでも。
 一先ず、このまま濡れているのもよくねえな、と思ったので、救護パックの中から雨除けと保温を行えるシートを取り出すと、ブランドンに被せてやった。ホットミルクに雨が入るのもよくないだろう、冷めるし味が悪くなる。ブランドンが、ジニアが去った後も渡された紙袋をじっと見たまま動く気配を見せなかったので、レグも言う。
「――歩けねえくらい足が折れてんなら、遠慮せず杖使っていいんだよ。生体、足とかないと基本動けないだろ。義足とかだってそのために開発されてんだから」
 そりゃ頭も同じことだよ、と、レグは考え、声にはしなかった。思い出や感情を司る頭が上手く動いていないなら、動かせないなら、動けるようになるまで道具を使えばいい。
 さて『手品』とは。
『何を使って行うものか』。
 それをレグは、『正しく』知識として持っていた。
「世の中ってのは、生体が『ちゃんと生きていくために』、道具を作り出してんだ」
「……」
 何も言わず、ブランドンが紙袋を開いて、ホットミルクの紙コップを取り出した。
「……冷めてんじゃねえか」
 口をつけて、第一声はそれだった。軽口叩ける元気があるならまだ大丈夫だな、とレグは判断する。
「ん、冷めてた? 結構急いで持ってきたんだがな」
「あんた、宅配サービスやるのだけはやめた方がいいぜ。かっけえバイクの持ち腐れ」
「ひどい言われようだな」
 どうもバイクが好きらしい。後ろに乗せてくれとも言っていたので、間違いないだろう。全然ホットじゃねえよこれ、なんぞ文句を言いつつ、コップを持たない空いた手で、ブランドンは、『まだスマートフォンを握っている』。
「なあ」
 メンタル、バイタルの値は共に安定しているようだったし、会話の感触から大丈夫だろうと踏んで、レグは言う。
「あのオブリビオンもいいって言ってるし厳密な条件も無いんで、ブランドンちょい話してくる?」
 誰と、とは、言わずとも通じることだった。ホットミルクを飲んでいた青年が止まる。
「敵が増えないと俺は助かる」
「……流石にあそこに飛び込むのは無理だろ」
 無理だろ、とは言うが拒否しない。
「それに、ありゃ……結局、『よくできた偽物』なんだろ」
 そのものじゃない。ブランドンは俯いているので、表情はわからない。
「だが――『よくできてはいる』んだぜ」
『義足』だよ、とレグは言う。
「偽物は偽物だが機会は機会」
 手品師が使うのは『道具』だ。紐でも、カードでも、なんでも。そしてあの車にいるのも――己を道化と称したオブリビオンが手品と呼んで取り出した『道具』に間違いないのだ。
(短時間でも道具は現役が使ってこそだ)
 あれは過去のブランドンから呼び出されたものなのかもしれない。それでも別段構わないだろう、もしかすると、今の青年から呼び出されるよりも『精巧』かもしれない。あちらのブランドンの方が――女の記憶は『新しい』だろうから。
「あっちに行くのが無理そうなら、それ、使おうぜ」
『道具は現役が使ってこそだ』、と言いながら、レグはスマートフォンを指した。
「さっきビデオ通話が繋がってたんだから、履歴辿ればかかるはずだろ」
「……」
「やってみない?」
 しばしの無言。だが、震える青年の指は、スマートフォンを操作した。
 画面に映った女は『よくできていた』。言われなければ生体ではないとレグでも気付かないだろうほどに。過去のブランドンは、何を思ってこれを呼ぶことを頼んだんだろうな、などとレグは、青年と女のぎこちない会話を聞きながら思っていた。
『ねえ、何が起こっているの? ブランドン、あなたが二人いて――時々雷が、きゃ!』
「……大丈夫だよ。解決してくれるやつらがここにはいるから」
『あっ、あ――そうよね、そう、【今度こそ】ヒーローが、ちゃんと、来てくれているのよね――え、』
 今度こそ?と女が首を傾げた。ブランドンの呼吸が止まり、豪雨や気温のせいではなく、顔が青くなっていく、レグは青年の肩を掴んで、「大丈夫か」と状態を確認した。ブランドンが、ぜえ、と喉を鳴らす。
『あら――あれ? わたし――ごめんなさい、なんだか、記憶が、少し、曖昧で』
「いや……大丈夫だ、大丈夫だぜ、あんたが心配することは……」『あ!?』
 女が叫んで、おそらく車の外を見た。レグがそちらを見れば、ジニアがオブリビオンに首を絞め上げられているところだった――吊り上げられた小柄な体は、足が痙攣している。
 ――まずいな、あれ頸動脈いってやがる。止めるか? 殺す気かどうかは知らんが、あの手はヤバいっつってグリモア猟兵が最初に言ってたしな。よし止めよう、猟兵一人再起不能にされるのはかなりまずい。レグが「悪い、一瞬離れる――」と言いかけたところで、
 女が。

『ブランドン、大変、女の子が死にそうになってる!』

 ――青年が、息を呑んだ。
「な――なんでおれにそれを言うんだよ!? こいつとか――おれじゃねえやつに言えよ!」
 こいつ、とブランドンがレグを示す。だが女は言い募る。
『だって――ああ、ええと、なぜだかはわからないけれど――』
 あなたなら、なんとかできるんじゃないかと思ったから。
「――ッ!」
(……これ、あれか)
 銀行強盗事件の時のことを、忘れた状態で生み出そうとして――失敗してんだ。
 そりゃそうだ。ブランドンが記憶している最新状態の『女』は、いや、ブランドン以外の誰が記憶し、どこに記録していたとしても、最新状態の『生きていた女』は、銀行強盗事件で死ぬ瞬間までのものだろう。それは過去も今も変わらない。
 さて、ここで問題になるのが『極めて精巧な』偽物とは、どのようなものかである。
(これ所謂『大切なもの』なら呼び出せるとかなんかそういう曖昧な定義なんだな、多分)
 だから、『事件の記憶がない状態の女』が一番大切なブランドンにとって、最新状態の女は要らない。だが『その状態』を『極めて精巧』と呼ぶかだ。『精巧』であることを突き詰めていけば――どうしても最新状態のデータで呼び出すしかなくなる。女の最新データは、誰がどう観測しても、銀行強盗事件に収束してしまうからだ。だがそれはブランドンの『大切』ではなく――おそらくそこで微妙な乖離が起き、エラーが発生したのだろう。過去のブランドンとオブリビオンの仲がかなり悪そうなのはそのあたりのせいかもな、とレグは思った。うーん、これは『極めて精巧』と呼べるもんかね。看板に偽りありというやつじゃないか、と思わなくもない。だが、確かにそれ以外は『極めて精巧』ではある。生体の記憶って結構曖昧だし、このまま生活させてブランドンから切り離し、銀行強盗事件の詳細について一切教えなければ、いずれ事件のことなどすべて忘れて中身も『極めて精巧な偽物』になったのかもしれない。尤も、おそらくそれは、女の周囲がまだある限り無理な話だったろうが。
 ねえおねがいよ、と、女が言った。ブランドンが身を震わせる。ポケットに手を入れる。青年がどこを狙ってもいいように身構えながら、レグは青年に注意を払う。女を殺すつもりならまだしも、猟兵を狙うつもりなら止めようと思ったからだ。
 だが青年は――オブリビオンを見ていた。
 その姿に、レグは当たり前の事実を、当たり前のように受け止める。
(だから――そうなんだよ)
 道具は、いつだって、現役が使ってこそだ。
 太陽なんぞ、最悪なくたっていいんだろう。
 なければないなりに、生体って、『生きてく』からさ。
 たとえ何も見えずとも、杖があれば、不自由ながら生体はなんとか進めるようになる。
 暗闇を見通す機能のついた義眼やゴーグルがあればもっといいわけだが。
『助けてあげて、ブランドン』
 ――ひどく苦い顔をしたブランドンの操る金属片が、オブリビオンの脇腹に命中した。
(道具ってのは、それぞれ役目があるんだよ)
 本来、そういうもんなんだ。
『すごい――すごいわ、すごい!』
 ブランドン、あなた、ヒーローだったのね。
 青年は何も言わず、引き攣るように喉を鳴らして、身を震わせた。
 もうあれは助からないな。レグは淡々と判断した。というか、今回の事件における最大の問題は、こちらのオブリビオンの方ではない。こっちは自己申告通り本当に弱いし――肉体の強度が普通の生体と変わらない時点でさしたる脅威ではない――第一、『こっちは、消えることも込みで既に殆どのことを受け容れている』。
 だから問題は。
「待て!!」
 青年の――『青年の』、絶叫。
「待て畜生――まだ死ぬなァッ!!」
 まだ。
 まだおれが。
「『まだおれが死んでねえ』だろうがッ!!」
 ――あっちなんだよな。
「ブランドン」
「……」
「喋りたくないのはわかるんだが、一個だけ頼む。あの出力ってオブリビオンだから?」
 数瞬の無言があって、「多分。やったことないから知らねえけど」と青年が小さく答えた。
「オーケイ、ありがとな」
 やったことない、と言うのなら、自滅覚悟なら出来るとかか? わからん。まあいいか。これ以上青年からは情報が出そうにない。オブリビオン化で火力アップに一票で。
「……そんじゃ宣言通り昔相手といくか」
 言って、レグはオブリビオンの方を迅やジニア、ヴォルフガングに任せて『過去のブランドン』へとアンカーを使い一息に接近する。そういやこっちもオブリビオンなのか。あれが死んだらこっちも一緒に消滅してくれねえもんかな、と思ったが、『まだおれが死んでない』と叫ぶあたり、独立したオブリビオンなのだろう。厄介なモンだ、とレグは思った。
 少なくとも『こいつ』を殺れる確証は無いと、今後の話進められる気しないんだよな。
『死にたい』と願う生体ならば、それをきちんと『殺せる』者でなければ――どれほど信用されていようとも、いつかどこかで頭打ちになる。
『死』が『安堵』に繋がる生体はいるからな。死なせる気はさらさらないが。
(なるたけ近距離張り付いて、めり込み系使う余裕は奪いたい)
 というか結局ウォーマシンは無機物判定されるのか。カイとトリテレイアが常時張り付きつつ牽制している現状で、ウォーマシンであるトリテレイアが未だどこも変換されていないようなので、大丈夫そうではある。なんか肩一本いかれてるみたいだが。
「クソが――くそったれがよぉ!」
 なんで。
 なんで。
「なんで――『おれは死ねないんだよ』!! 出来損ないなのに――『生きてる』ってだけで殺してばっかりで――畜生、ちくしょうが――ァあああッ!!」
 パニック起こしてんな。冷静を欠いてコントロールが損なわれるタイプなら楽なんだが、と思えども、他二人がまだ決めあぐねているなら、そういうタイプではないのだろう。あるいは、ある程度は『勝手に動いてしまう』のか。
「あの女だって――結局『おれが殺した』のに!」
 打ち上げられた雷撃が、再び真上から落ちてくる。だが二度も食らうか。雷撃を見切り、接近した状態で『しっかりと青年の頭が砕けるように』被膜置換〈ブレードエピダミス〉を使用しようとして――
「まっ――待ってください!」
 死なせないでください、とカイが叫んだので、レグは止まる。策があるなら聞くべきだ、と判断したからだった。
「なぜ――『あなたが殺した』ことになるんですか? あなたの大切なひとを殺したのは、別の方でしょう!」
 カイの両腕からは、柔らかな光がずっと溢れている。ユーベルコードか、と思うと同時に過去のブランドンがカイへと無言で雷撃を放ったので、それを庇う。単にトリテレイアより自分の方が近かったからというそれだけだ。
「……なぜ、だと?」
 あー、追い詰められた生体の目だ。これやばいんじゃないのか。ポケットに、ブランドンが両手を突っ込み、ついでにそこら中の街灯を全部『雷撃に変換した』。夜の闇が訪れ始めた雨の街から光が消える。代わりに、青白い雷光だけが、痺れそうなほど輝いていた。
 うわマジか。オブリビオン化して出力やっぱ上がってんだろ。周囲を確認する、駄目だ、まだ一般人が結構残ってる。ヤバいぞこれ。トリテレイアも同じことを考えたのか、既に盾を構えて来たる雷をどう捌くかに対して既に注意を割き始めているようだった。
「あの女を、あのクソオブリビオンが『生み出した時』……あの女が言ったんだ」
 バチバチと、嫌な音が響いている。
「『ブランドン、あなた無事だったのね』。全部中途半端に忘れてるくせして……第一声は、それだった」
 あの女。
「聞いたら……『おれを助けようと思って、隠れてた場所から飛び出した』んだと」
 こんなの、おれが殺したでいいだろ。
「あの女を『しあわせなまま死なせられなかった』のは、最後までおれだった」
 だから、これは、おれに対する応報なのさ。
「全部全部終わったら――……おれは記憶を消してもらうよ。誰でもなくなっていい」
 もう、おれはおれでいたくない。
 青年が泣いているのかどうか。
 それは、この豪雨の中では、レグにさえもわからないことだった。

 ●

 かくして其処には何も残らず。

 ●

 ブランドンが激昂してジニアを襲ったと知った時、そしてそれを尾行していた機械妖精が止めたと知った時、トリテレイアが考えたことは、「尾行は正解でした」ということだった。
 そして同時に、銀行でいざオブリビオンと対峙した時、不安要素として抱えたのは、その場にいた一般人の多さだった。猟兵の誰かが避難誘導を地元警察に願い出たらしく、すぐにパトカーや警官が集まってきて、一般人を遠ざけ始めたものの、それでも事前準備としてはやや足りない。こうなると――
(もしブランドン様が猟兵の制止を用いた“自死”を企てた場合、標的となる一般人には事欠かない、ということになります)
 一般人を殺そうとした時点で、誰か猟兵が止める。それを多分ブランドンもわかっているのに違いなかった――あれほど、『善なる者』としてトリテレイアを見て、己を卑下した青年であるから。そのブランドンが『本気で死にたい』と思って“自死”を選んだならば、彼の攻撃は、ほぼ必ず弱き者を狙い、そして。
(……猟兵が『本気で殺そうとしなければ』、決して間に合わなくなるような攻撃行動を……取るのでしょう)
 そして――『トリテレイアにはそれが出来る』ということだった。
 ブランドンの意識の外から。
 ブランドンの頭を打ち砕く。
『それが、トリテレイアには出来てしまう』。
 おそらく、否、間違いなく、他の猟兵にも。
 きっと、『ブランドンが思っているよりも、ずっと簡単に』。
 それはトリテレイアにとって最悪の事態だった。
(機械妖精の潜伏は続行させ……『死なせない』ように立ち回りましょう……)
 ……考えることは、ある。
 幾らでも、湯水のように、湧き出てくる。それが正しいのかさえも、本当はわかってなどいない。生きてこそ、と言うことの残酷さを、トリテレイアは確かに知っている。命が重くのしかかり、壊れてしまう者もいる世界で、それを口にすることが、どれほど――惨い傷を与えるものか! そんなことは、そんなものは……知っていて、なお。
 泣きじゃくる子供にも似た雨の中、トリテレイアは剣を握り直す。盾を構える。
「――取り戻したいものは、あります」
 非難する人々の悲鳴や喧騒、雨音、それから雷鳴。それらの中で、凛とカイが言った。
「でも失った命は代わりなんてない」
 カイの言葉に、ふと思う。
 命に代わりがあるのなら、この世はもっと、簡単なのでしょうか。
 悲しむ人はもっと少なく済むのでしょうか。
 否。そんなことは――
「自分を許すことがどんなに難しいか自分もよく知ってます」
 ――そんなことは、きっとないのだろう。
 サクラミラージュで。
 あるいはヒーローズアースで。
 あるいはUDCアースで。
 ……あるいは、スペースシップワールドで。
 様々な世界で――オブリビオンとして失われた命が蘇ることはある。けれどそれで――
(――『代わりの命で真実救われた』話など……きっと、一度だってありませんでした)
 それで、御伽噺のようなハッピーエンドが見られたことなど、一度だってなかった。
 貫かれた胸の空白に。
 消え去った記憶領域の空白に。
 思い出にもできなくなった日々の空白に。
『代わり』を入れて満足できる者など――……本当はどこにもいないのだ。
 どんな世界の、どんな場所にも。
 まして骸の海から蘇り、歪んでしまった命の形は、最早どこにも入りはしない。
 少なくとも、トリテレイアは、そう思う。
 だから。
 だから、トリテレイアは、『今も騎士であろうとし続けている』。
 その理想に手が届かないとは知っている。
 現実はトリテレイアを無慈悲に突き刺す。
 それでも、きっと、いつまでも。
 失われた彼女らの、いや、違う。
『トリテレイア自身が奪ってしまった』彼女らの……愛した騎士を。
 遠い理想として――『彼』は、資格がなくとも、届かなくとも、動けるならば、ずっと。
「……だけど、そんな私に手をさしのべて受け止めてくれて救われた事が何度もあるから」
 だから。カイの声音は、はっきりとして強い。
「私も手をブランドンさんに伸ばします」
「……要らねえよ……」
(……おや。存外、きちんと人格があるのですね)
 予知では一度も喋らなかったから、てっきり呼び出されただけで自我など殆ど無いのかと思っていたが。過去のブランドンは、ひどく苛立った調子で、「そっちに手を伸ばしてやればいいんじゃねえのかい、猟兵さんよ」と見上げるようにカイを睨み、ずぶ濡れになった古いジーンズから細い針金を引っ張り出した。
 ……あれを装甲内で再変換されたら厄介ですね。
 特に駆動部などに挟み込まれたら一瞬だけでも動きが止まる。他の猟兵から、彼が無機物の再変換を行うことでめり込ませるなどの攻撃ができるという情報は共有されていた。自分の装備が奪われることはおそらくないだろうが――試したことがないとのことなので詳細は不明だが――トリテレイアの高い耐電性を見抜かれた時点で、再変換による攻撃に切り替わるだろうことは容易に想像ができることだった。
「いいえ。いいえ――」
 カイの目は、真っ直ぐに、喪失の重みに堪えかね背を丸めてしまった青年を見ている。
「なぜなら、あなたもまた、『ブランドンさん』でしょう。両方救えるのならば、私はどちらにも手を伸ばします」
「……」
「『救う』か」
 ひどく気分を害した様子で針金を弄る過去のブランドンとは裏腹に、オブリビオンは淡々としている。表情も変わっていない。
「手を伸ばしてやれば誰でも『救われる』なら、この世に悪なるものはないと思うが。猟兵というのは、そう、誰彼の苦悶に手を伸ばして引き上げられるほどに強いのか?」
「強くはありません。救えるとも限らないと知っています」
 ですが、それで手を伸ばすことをやめたくはない。
「そうか。御大層な理屈だ――それが壊れた時、君がどうなるか見てみたいものだな」
 ――この男は、腹を立てているわけでもない。ただ――平淡だ。押し殺しているのかとも思ったが、どうもそういった者ではなさそうにも見える。
 笑顔も真顔もため息もすべて演技。
 貼り付けた――紛い物。道化の化粧。
「……貴方の相手は私です」
 カイへと踏み込むオブリビオンとの間に、トリテレイアは割り込む。
『何も残らない』とこのオブリビオンが言ったのは……自分自身のことなのやもしれない。
 この類のオブリビオンは――疾く葬る方がよい。
 そう思う。誰のためにもならないからだ。当のオブリビオン本人のためにさえならない。
「別に君でもいいが――君は手品を楽しむ性質か?」
 トリテレイアの懐へ飛び込むように軌道を切り替えたオブリビオンは、その体躯の体重を感じさせず軽い動きをしていた。そして速い。トリテレイアのすぐ傍で、感情の遠く沈んだ青色が、翠を薄めて輝いていた。相手が一般人や、猟兵でないヒーローやヴィランならば、これだけで何らかの攻撃を受けるだろう――が。
「――『楽しい手品』であれば、楽しみますとも」
 トリテレイアは、オブリビオンが右足を軸に勢いよく半回転し、上段へ――ウォーマシンの自分の頭部を、生身の足で狙うのが不思議だったが――放たれた左足をがっちりと掴み、「うわ」と軽い悲鳴を上げた男を、己の背の高さを利用して捻り上げ、そのまま雨に濡れたアスファルトへと放り投げた。背中を思い切り強打したらしい男が、肺から空気を吐き出す音が強く聞こえ、人間大の体躯がバウンドする。本人の言う通り弱い、というか――
「――ああ……そう。人間じゃないんだ。そうだな。失敗した」
 受け身は取ったらしい男が、跳ねるように起き上がり、「まあいいさ」と呟いた。それからふらふらと、しかし確りとした足取りでカイと会話していた過去のブランドンに近付いて、「おい邪魔だ」と邪険にされていた。仲が悪いのだろうか。
「……貴方、元々は戦闘が本業ではありませんね。ただ『戦える』だけでしょう」
 肉弾戦はそれなりにこなすようだが、それだけだ。強いて言うなら、肉体も多少頑丈か。オブリビオンが首を竦めて、惚けた顔をした。
「さあ? 言った通り記憶も命も骸の海でね。何もわからない」
 この性格と戦闘経験の薄さ――完全な『対人肉弾戦』か、『装備か何か』を主にした戦い方しかしたことがないように感じられる――を鑑みるに、生前はそういったものを趣味にしていただけの研究職か何かでしょうか、とトリテレイアは少し思った。これほど猟兵に対してアドバンテージのないヴィラン――おそらく。ヒーローではないだろう、もしヒーローならばトリテレイアが先に調べた時、正体の一つや二つ引っ掛かりそうなものであったから――を蘇らせるあたり、骸の海もどういう基準で選んでいるのかわからないものである。
「ま、俺のことはどうでもいいだろう。それより、」
 いいのか、来るぞ。オブリビオンが唇の端を――やはり演技じみた様子で――僅かばかり吊り上げた。言われるまでもなく、トリテレイアも気付いている。過去のブランドンから、雷撃が自分目掛けて飛んでくることなど。弾き返すのは容易だ、盾を振るうだけでいい。
 だが。
「――ッ!」
 過去のブランドンの背後で。
 オブリビオンが、またふらふら歩いていって――近くにいた、『逃げそびれたらしき子供を抱き上げた』。
 ――雷撃を弾き返したら、絶対に巻き込む。
「ぐ――ぅ、っ!」
「……ハ、ハ、ハ。自己犠牲、結構なことだな」
 道路に立っていた、街灯の一本が。
 雷撃から直前で再変換され、トリテレイアの右肩に突き立っていた。
 赤い子供用の傘が、くるくると水溜まりを回っている。カイが「だ――大丈夫ですか!?」と叫び、オブリビオンはと言えば、「この子の親はどこにいるんだ。こんな場所で自分の子供から目を離すなよ」と言いながら、道路をきょろきょろと探していた。
「下衆――め――」
「は? 何を言っているんだ。目を離した親が悪いだろう」
 自分の子供を失う痛みを知らしめてやろうかと思うくらいだよ、と――、初めて、多分、オブリビオンが、『心からの怒りを滲ませて』、言った。
「くそ、親はどこだ……ああもういい、君、そこの警官。この子を適当に避難させてくれ」
 避難誘導していた警官の一人に、火がついたように泣く子供を押し付けて、オブリビオンが帰って来る。トリテレイアは刺さった街灯を引き抜いて、道路に捨てた。ガン、と大きな音が響いて、街灯が転がる。
「さあ、これで子供は帰ったし、楽しい手品の時間だ。後ろを見てみろよ」
 見ずともわかる。それでもトリテレイアは、黙って背後を見た。
 立っていたのは――紫髪の女とオレンジの男の“偽物”だった。
(――私に、人のような唇があるなら)
 どのような表情を作っていたのでしょうか。そんなことを思いながら、トリテレイアは、二人に近付く。穴を空けられた右腕で、しっかと剣を握り締めたまま。
「へえ。それは君を作ったエンジニアか?」
「……答える義理はありませんね」
「それはそうだな」
 オブリビオンは素直だった。自分たちを悪趣味で怒らせる、無能で名も無き道化だなどと嘯きながら、それさえも本当は上手く出来ていない。
「……名も無き道化よ」
 バヂン!と、カイとブランドンの間で雷撃の弾ける音がした。
『ブランドン』は――私の言葉を聞いているだろうか。どちらでもよい。
「過去が人を形作るなら、確かに私は彼女らの手で“死”を迎え……再誕と同時に騎士の資格を失ったのです」
 街灯による傷で軋む腕で、トリテレイアは、ただ、何も言わぬ彼女らを――否、彼女らが何かを言う前に、斬り捨てた。
「……潜った戦場は数知れず。この類の搦め手も慣れました。このような手が通用するとは思わぬことです」
「いや、これでも二割ほどは善意だったんだがな」
「八割は悪意だったのでしょう」
「悪意というか――出来るから、というだけだ。出来ることはやってみたくなるし、効果があるならやってみるべきだと思っている。君も少しは、動揺しなかったか?」
「残念ながら――」
 トリテレイアは、オブリビオンに向き直る。
「――迷いも止まりもしません。我が原点は“喪失”故に」
 騎士とは、トリテレイアにとって星のように遠く。
「刻まれし届かぬ理想こそ駆動理由故に」
 失われた宙で輝く、鮮烈な道標。
「厚顔無恥にも歩んだ騎士の道、敵、味方……騎士として相対した全ての者の為」
 手が届かぬと知ってそれでもなお、目指し続ける場所。
「そして、この剣を預かるが故に」
 トリテレイア・ゼロナインは、電脳禁忌剣アレクシアを構えて、宣言する。
「……喪失の痛みを燃やせるやつは精神が頑強で困るな」
 俺は喪失の痛みで膝をついたやつの味方なんだよ、とつまらなさそうに男が言って、何かに気付いたような顔をすると、過去のブランドンに、「あっちにあの看板を飛ばしてくれないか?」と指示をした。見れば、ヴォルフガングが何かを、現在のブランドンと喋っている。
「俺があっちに行っている間、一般人に手を出していてもいいよ。子供はもういないようだしな」
「あ? 金にもならねえのに一般人襲って意味あるか?」
「あるよ――」
 この二人に関しては、間違いなくな。まあいいけどよ、とブランドンが看板を雷撃にして――男がそれを追うように消えた。足が速い。強化人間なのでしょうか、とトリテレイアは思った。
 それより。
「……まあいいか。めんどくせえと思ってたんだよな」
 子供は駄目とか。
 一般人に手を出すのはもっと後とか。
「もっと卑怯にやるか、猟兵」
 そっちの方が、『よっぽどおれらしい』しな。
 ブランドンがポケットから針金を数本取り出して、雷撃が――一筋、老婆へ向かって炸裂した。足の悪い老婆だ、警官が庇おうとするが、雷撃を防げるはずもない。トリテレイアはそちらへ走る、だが。
「アッハハハ! 卑怯って言うのはこういうことを言うんだぜ!」
 雷撃の方向が、老婆の直前で曲がった。『自在に操れる』――トリテレイアは呻き、自分の背中へ落ちてきた雷撃の連射に、内心で安堵する。街灯を最初に当ててきたところからして耐電性が知られているのかと思ったが、そうではなかったようだ。
「……チ、耐電性能高いな……、ッ!?」
「捕まえましたよ、ブランドンさん」
 カイが、背後から、過去のブランドンの両腕を掴んでいた。
「トリテレイアさんが好きではないんですね? 私のことを完全に見失っていたでしょう」
「てめえ――」
 そう言えば、共有された情報の中に、『用心深いが、少し注意が足りないところもある』とあったか。一般人に手を出すか、とトリテレイアはいつでも盾で反射出来るように身構えておき――カイとブランドンの出方を見る。
「あのオブリビオンのユーベルコードで『出せる』ほど――大事な女性がいたのですよね」
 カイが、優しく言った。
「関係ねえだろ。お前らのやるべきことは、おれの頭をさっさとぶち抜くことだぜ」
「いいえ、それは――それでは、あんまり、『救われない』でしょう……」
「……お前らの言う『救い』ってなんだよ? おれは、」
 おれはとっくに、地獄の底だよ。ブランドンの目はあまりに暗い。
『どうせなら、』
(――現在のブランドン様と、最初に会った時……)
 あの時、彼は、何と言ったのだろう。
「ただ『殺して欲しい』だけなんだよ――わかってねえな、善人様どもは……」
 それにどうせ、おれは『過去から呼び出されただけのオブリビオン』だぜ。
「意味ねえよ。『あっち』の生きてる方に呼びかけてやれ。そしたら猟兵様のどなたかがおれを殺してくれるだろうよ」
「あなたは確かに、『過去』なのでしょう」
 ただ。ただ、それでも――
「あなたが呼び出したんです。あなたが望んだんです。あの車中の女性を」
 それが、私にとっては。
「蜘蛛の糸でも、あなたに差し出す理由になる」
「蜘蛛の糸? は、おれは学がねえからな、お前の言ってるこたぁちっともわかんねえよ」
「わからなくてもいいです!」
 どうして。
「どうして、あなたは――」
 そんなにも。
「――『悪人でありたがっている』んですか?」
 金にならないなら一般人を殺しても意味がないなんて言ってしまうような人なのに。
「あなたは、『悪だから』悪事を働いているわけじゃない。『それしか知らないから』、です。ただそれだけのように見えます」
 それなのに、なぜですか。
「彼女の死を、あなた自身の因果応報と、あなたが思ったことを知っています。どうして、『そう思ったのですか』」
 カイの両腕から、光が溢れて――痛みを堪えるような表情を浮かべた。そうして――過去のブランドンの輝くヘーゼルが。
 明らかな憎しみを持って、カイを見ていた。
「……ああそうか、なるほどな。わかるぜ、そうだよなそれがおれに一番相応しい地獄だと思うんだな? そうだよな、おれには確かに、それがお似合いだ!」
 トリテレイアに当たった後、地面に散らばっていた針金が、雷撃になってブランドンの元へと吸い寄せられるように近付く。離れてください、とトリテレイアが叫ぶのと、実際にブランドンからカイが離れるのは殆ど同時だった。盾で反射、無理だ角度的に間に合わない。流石に焦燥で焼かれるが、カイは何とか雨のように落ちてくる雷撃をすべて避け切ったようだった。そのうちの一つが、近寄ってきていたジニアを狙っていたが、彼女もきちんと避けていたので、安堵に胸を撫で下ろす。
「ああくそ――次から次へとよ!」
 青年の瞳が、憎しみに燃える。
「鬱陶しいな――なんでお前ら、『おれを殺すだけでこんなに手間取ってんだ』!」
 それで終わりの話なんだろ、それで。
 たった、それだけで!
「早く終わらせてくれよ……!!」
 それで何にもなくなって――そうしたら。
 おれは。
 あの女がいる世界を最期に見て。
 それで、ようやく、死ねるのに。
 雷撃、雷撃、雷撃。盾と剣で捌こうとするが、オブリビオンも過去のブランドンも、丁度他の猟兵や一般人、警官と言った人間が自分と彼らの間に入るよう動くので中々難しい。
(く――立ち回りが思ったよりも上手い!)
 トリテレイアが使う個人携帯用偏向反射力場発生装置〈リフレクション・シールド・ジェネレータ〉による反射は、常に最短進路を取るのだが、演算されるその進路に、必ず誰かを配置してくるのだ。わかっていてやっているのかどうかはわからない、知られていないはずとは思うが。単純に警戒されているのかもしれない。
 だが、転機は、一瞬だった。ヴォルフガングの相手を諦めたオブリビオンがジニアと戦い始めて――『現在のブランドン』が、オブリビオンを、撃った。もう助からないだろう、と医術の知識がないトリテレイアにもわかる位置と出血だった。対峙する過去のブランドンが狂乱し――ヴォルフガングがいつの間にか離れ、代わりにレグが合流して――
「クソが――くそったれがよぉ!」
 青年が、きっと、泣きながら叫んでいた。
「なんで――『おれは死ねないんだよ』!! 出来損ないなのに――『生きてる』ってだけで殺してばっかりで――畜生、ちくしょうが――ァあああッ!!」
 もしや――防衛反応が勝手に作動していて、それが自動計算した位置に、つき続けているのだろうか。だからこの青年は、どう足掻いても、死ねないと叫ぶのか。
「あの女だって――結局『おれが殺した』のに!」
 レグが真上からの雷撃を見切り、青年に接近する。この青年を殺してやることを――トリテレイアは何と呼べばいい?
 そんなレグをカイが止め、何故女を殺したのが自分だと言うのかと問う。
「……なぜ、だと?」
 ああ。
 嵐だった。雨の中を雷光が荒れ狂い、女のいる車以外はなくなり、センサーが異常を出しそうなほどの嵐で――夜の街はあまりに暗い。一般人はまだ残っている。全員を庇って――捌き切れるか。同じウォーマシンであるレグも動くはずだ、二体同時にそれぞれ最大出力を出して動けば、いや範囲が広すぎる。どうすべきか、と演算を続けるトリテレイアの前で。
「あの女を、あのクソオブリビオンが『生み出した時』……あの女が言ったんだ」
 青年はただ、やはり、泣いていた。誰にわからなくとも、それでも。
「『ブランドン、あなた無事だったのね』。全部中途半端に忘れてるくせして……第一声は、それだった」
 あの女。
「聞いたら……『おれを助けようと思って、隠れてた場所から飛び出した』んだと」
 こんなの、おれが殺したでいいだろ。
「あの女を『しあわせなまま死なせられなかった』のは、最後までおれだった」
 だから、これは、おれに対する応報なのさ。
「全部全部終わったら――……おれは記憶を消してもらうよ。誰でもなくなっていい」
 もう、おれはおれでいたくない。
 そう言って――周囲に雷を放とうとしたブランドンが、驚愕に目を見開いて、トリテレイアたちではない一点を凝視した。何があるのかと、その方向を確認する。
「……俺は『俺の死』なんて怖くない」
 道が。
 トリテレイアから一直線に、誰も何も遮蔽物のない、完全な『最短進路』を作って、オブリビオンが、立っていた。
 ああ、殺して欲しいのだ――とは。
「だが俺が――『俺』でなくなることは、何より怖いんだ」
 考える必要もなく、わかることだった。
「だから」男が言う。
「なッ……に、何やってんだッ、てめえ!!」
 てめえが死んだら。
 てめえが死んだらあの女が、また『死んじまう』じゃねえか。
 過去のブランドンが、ずぶ濡れで叫ぶ。だがオブリビオンはそれを聞いてもいない様子で独り続ける。
「悪いが、それ以上を知るくらいなら、『俺』は骸の海へ還ることを選ぶよ」
 俺の太陽は、二度と帰ってこないのだと――
「覚えていないが知っている。それ故に、俺にとってこれは真実、『無意味』な話なのさ」
 稲妻に焼かれて、俺は『もう』、『死んでいる』んだ。
「そこの『彼』とは違う。だがそれが俺の、『因果応報』なんだろう。その結末を、『自分が選んだことの集積であったこと』を、否定されることなど俺は認めない。それだけの話だ。それはきっと、『君たちも同じである』はずだろう」
 そうだ。
 そういう話を――きっと、ずっと、これまでに誰もがしてきたのに違いないのだ。
 誰にも否定させたくない、過去を抱えて。
 選んできた、選ばされてきた、己の傷と喪失こそを、支えにして。
 それだけが、自分を作ってきたということを。
 かつてあの青い薔薇の事件で『己などない』と言ったトリテレイアでさえ――今となっては、これを『己だ』と、きっと答えるのではないかと思うほどには。
 己なくして――我々はきっと、『生きられない』。
 生まれることさえ出来はしない。
 ヴォルフガングが雨から滑るように現れて、男の首を掻き切る。
 頽れる男に、やめてくれ、とブランドンが悲痛に叫び、雷撃を。
 雷撃を、多分、ヴォルフガングへと放った。
 もう遅いと、本人もわかっていたろうに。
 それを盾で受け――トリテレイアは。
「……謝罪は、申しません」
 オブリビオンを、過去から来たる雷撃で、焼いた。
『今を生きる、現在のブランドン』が、それを見ていた。オブリビオンである過去のブランドンと違いこちらはまだ、『生きている』と――トリテレイアは知っていた。雷撃を繰り返していた過去のブランドンが、へたり込んで、動かなくなったのがわかった。変換されていた無機物が、轟音を立てて地に落ちる。
 ――機械は存在意義を刻まれ動き。
 されど、人は見出さねばならない。
 いずれ何もなくなるだろう。
 そうして真実彼から何もなくなって――その時。
(私に何が言えるのか)
 近しく、遠きこの男に……。
 されど……。
 されど。トリテレイアは、雷光も街灯も消え去って、豪雨の中、無人になった車のライトだけが照らす夜道で。
『己が灯りとしたもの』を、ただ……思い浮かべていた。

 ●

 かくして其処には何も残らず。
 それでも――

 ●

 余計なことをしただけだったのだろうか。そんなことも、カイは思う。ブランドンの過去までをも救おうとしなければ、『彼』を傷つけることはなかったか?
 二度目の喪失を――『彼』に与えることはなかったか。
 でも。
 しあわせな女が、しあわせなままで死ねなかったから。
 因果応報。
 おれを早く死なせてくれ、それで終わる話なんだろう。
 あの女がいる世界を最期に見て。
 それで、ようやく、死ねるのに。
 おれが殺したから。
 おれはもう、おれでいたくない。
 そんな風に叫んでいたひとを。
(私は……私は決して放っておけません……)
 カイも同じだった。
 カイも。
 カイがまだ、一体の人形であった時……カイの作り手が、カイを取り戻すために、カイの持ち主であった弥彦という男の屋敷を襲撃した。屋敷は落ちて、彼の妻と子は亡くなった。妻子を失った弥彦はいずこかへ消え、カイは未だに、彼を探している。
 ブランドンが女の死を己のせいだと言うのなら。
 カイだって、同じだったのだ。
 人の身を得た時には、世界はもう終わっていた。
 残されたのはからっぽで何もできない、人の形をしているだけの、災いの元凶たる、この人形だけ。
 カイのためにカイの作り手は人を殺め。
 カイのために冴と世一は死に。
 カイのために弥彦は消えてしまった。
 追いかけたくて得た人の身のくせに、未だ追いつけなどしない。
 喪失だけが――喪失こそが、きっとカイの始まりで、今も埋まらない、大切なもの。
 取り戻したいものなど、誰に問われずとも出てくるものだった。
 でも、代わりなどない。
 それもまた、偽りのない、気持ち。
 殺してやれば――よかったか。望む通りに。所詮オブリビオンなのだからと。それこそが幸いだと言って。嫌だ、カイは、嫌だった……。
「……また」
 雨の中、座り込んでいた過去のブランドンが、ぽつ、と呟いた。
「また、死んだ」
 おれの前で。おれの。
「……ちげえよ……」
 言ったのは、『現在のブランドン』だった。スマートフォンを握ったまま、暗い雨の夜を、ゆっくりと歩いてきた。
「あの女は、『死んでた』んだよ……あの日に……」
 とっくに死んでたんだよ、と、同じ顔で、同じ声で、現在が過去を否定する。
「偽物呼び出して……それは……あの女じゃないって」
 お前も『おれ』なら、わかってただろ。
「あの女『そのもの』じゃないなら……本当は、おれも、お前も、要らなかった。そのはずだったんだ。それを……変に縋ったから、おかしくなったんだよ」
 目先の欲に眩んでさ。
「動いてる肉の体があったから……ちっと……『世界にまだ、あいつがいる』って錯覚したんだろ。や、ちげえな。『錯覚したかった』んだ。そしたら、『あいつより先に死ねる』って……思ったから。他でもねえおれだから、よくわかるぜ……」
「……」
 過去が、怨みがましく、現在の青年を睨んだ。裏切りを咎める目だった。だが現在の青年は、気にした様子もない。
「嬢ちゃん……ジニアって言ったっけか」
「はい」
 急に呼ばれても、ジニアは、不思議そうにもしなかった。ただ、静かに、濡れたフードの奥で、ブランドンを見ていた。
「悪いが、おれには、太陽なんぞ取り戻せそうにない。暗い道だよ。きっと、これからも」
「……そうですか」
「おれは、あの女の葬式にも立ち会ってない。墓しか知らないんだ。死体でも親友を取り戻せた嬢ちゃんとは、やっぱり、ちげえよ。おれの雨雲の向こうに、太陽なんて、きっと永遠に昇っては来ねえんだ。少なくとも、死ぬまで」
「……」
「あとさあ、狼の兄ちゃんよ」
 ヴォルフガングの耳が、僅かに動いて、水滴をひとつ、跳ねさせた。静かに俯いていた横顔で、赤い瞳が、ブランドンを見る。
「考えたが、おれは、どっちも選べない。どっちにもなりたかねえんだ。記憶だけで生きていけるほどおれは強かねえし。まず記憶力もよくねえし。かと言って、もう、死んだって、惨めなだけだってわかったしな」
 だって過去のおれがこんなクソ惨めな姿晒してんだからなあ。そう自嘲を浮かべたので、過去のブランドンが顔を歪めて中指を立てた。ヴォルフガングは「そう」とだけ言って、目を逸らした。
「あとレグ」
「うん?」
「お前が言う通り――あの女はさ、『道具』だったよ。使ってこその」
「……そうかい」
 ウォーマシンの声音は、少しの間こそあれ、坦々としていた。
「でも、道具だったから――結局、諦めがついたんだ。あの女なら、こう言ってくれるな、っていう言葉をさ……あの女が、よくできた顔で……言ってくれたから……」
 そう言って欲しかったわけじゃない。
 でも、言ってもらえて嬉しかったのは確かだった。
「ただ、それで嬉しがってるおれがさあ、あんまり『卑しい』と思っちまってさ……ありゃもう使いたくねえな……」
「それならそれでいいさ。道具ってそういうもんだから。取捨選択していいんだ」
「……そうか。それでいいんだな」
 ハハ、とブランドンが笑う。
「それで、えーと、坊主。悪い、名前なんだっけ」
「お、俺? 玖篠迅。迅でいいな」
「ジンか。いいねえ、酒の名前だ。おれは飲まねえが。で、ジンさ、途中、なんか言おうとしてこっち見てたろ。あれ教えといてくれ」
「……」
 迅は少し迷うように目線を彷徨わせて、それから、口を開いた。
「……その、あの女の人が、なんで死んだかって話を、……伝えようと思って」
「あー、なるほどな……」
 でもそれ、そこのバカが大声で叫んでたからちっと聞いてたんだよな、と、ブランドンは飄々とした様子で肩を竦めた。
 ――何か。
 カイは徐々に嫌な予感がしてきて――現在のブランドンを、じっと見る。変に……明るいというか。何かが抜け落ちてしまったような。
 これから、『何かしよう』としているような……嫌な予感がある。
 それは迅も同じなのか、不安そうに眉根を寄せていた。
「ま、いいや。教えてくれ」
「……ブランドン、仲間に名前、呼ばれたから。犯人だと思ってなかった。だから、あの人は、人質の中に、ブランドンがいるんだと思って……」
 助けようと、思ったみたいで。迅は、内容が内容なだけに、やや歯切れが悪い。
「それで出て来てどかんか。はあ……つくづく、危機感のねえ女だったんだなあ……」
 やっぱ住む世界が違うわ。ハハハ、と現在のブランドンが笑う。
「むしろ逆だった、か。マジで……逆だったんだな。おれのこと善人だと思ってて……そうか……助けようと……ばかな女だなあ……」
 ああ、最高に、ばかで、しあわせな女だった。
「だから……幸せでいて欲しかったんだよなあ……おれはさ……」
 ああいう女が、ずっとしあわせでいられる世界を。
 見ていたかったんだ。
 雨が、やまない。
 ――あれ、ブランドンさん、手――を。
 カイはその違和感に、ようやく気付いた。手を――握っている。スマートフォンを持っていない方の手だ。どうしてだ?
 何かを握りしめているかのように。何を?
 暗くて皆濡れていて――もし血が出ていたとしても、わからない。鼻が利きそうな人狼のヴォルフガングの方もちらと見たが、我関せずとばかりに――いや。そうだ。
『自分は今から起こることに関与しない』と言った様子で、男はブランドンから目を離している。
 あ、と思った。
 駄目だ。駄目だ、止めないと駄目だ。
『救うと言った、自分が止めるのだ』。
「あ、あの」
 カイは、一歩前に出て、問う。
「ブランドンさん、その、一つお伺いしたくて」
「なんだ?」
「その――手に。何を、持っているんですか」
 ――さあっと。
 一気に、ブランドンの表情が抜け落ち――瞬間、雷撃が再び閃いて、
「――ッさせません!」
 過去のブランドンの頭部目掛けて真っ直ぐに飛び出したそれを、トリテレイアが身を挺して受け止めた。白い胴に小さな金属塊がめり込むのが見える。同時に現在のブランドンが、何かに背中を攻撃されたらしく、たたらを踏みながら、「いっづぁ!」と高い悲鳴を上げた。それでバランスを崩したブランドンを、レグが拘束する。
「玖篠! 七星七縛符頼む!」
「う、うん!」
 鋭い声に迅が頷いて護符が命中し、「くそが!」と青年が叫んだ。防衛機能――自動迎撃。
 あのまま撃たせていたら。
 カイはその事実に気付いて、ぞっとした。自分を使っての自死を、今、彼はしようとしたのだ。過去のブランドンは、「そら見たことか。おれだからな。やると思ったぜ」と嘲笑を唇に乗せていた。トリテレイアが、拘束されて膝をついたブランドンと目線を合わせるためにしゃがみ込む。
「ブランドン様――」
「よお、ヒーローズ・フォーティナイナーズじゃねえか、廃線ンとこで邪魔したのもてめえだな?」
「そうです」
「は。よくやるぜ」
「……太陽を、取り戻せないと仰っておられましたね」
「そうだよ。太陽なんて、おれにはもうないんだって――この事件で痛感したんだ」
「そうでしょうね。……私にも、もうありません。それなのに理想は高く、星のようです」
「共感を誘う手口か?」
「私に共感性がある……のでしょうね。今の私には……」
「生き物みてえな機械だな」
「私もそう思います」
 トリテレイアが軽く笑った。おそらくは、自嘲だった。だからだろうか、ブランドンが、不審そうに目を細めて、そのまま黙った。
「……で、何が言いたい」
「太陽を失っても、歩く術はあるのだということを」
 どんな方法でもいいのです。
「太陽を失っても、灯りを作る事も出来ます」
「あんたにとっての灯りってのは何なんだ?」
「騎士道物語ですよ。……子供向けの。あるいは……私の創造主『たち』が愛した……私は騎士を理想とし、騎士道のためだけに今も『生きる』、ただの騎士道狂いです」
「……」
 ブランドンは、それを聞いても、トリテレイアを馬鹿にはしなかった。
「ブランドン様」
 トリテレイアが続ける。
「彼女の死に責任があるなら、世界に空いた穴を塞ぐのです」
「……どうやって。穴どころか、もうなくなっちまってんのに」
「代償行為でも、動く理由には十二分ですとも」
 殺人を推奨はできませんが。
「もしそれでしか歩けないのであれば……そうするしかないのかもしれません」
「……結局今までと同じじゃねえのか……」
「世界が失われているのでしょう? それなら、最早、自嘲と、矛盾と、……貴方の抱えた愛だけを灯りに、身一つで歩いていくしか……術はないのです。道なき道を拓いて。今までと変わらないというのなら、貴方はそれをずっと出来ていた。そして、結局、それ以外に道はなかったということです」
「……へ、流石だ。全然響かねえや……」
 でもよお。
「こんだけ猟兵がいて……誰もおれを、ぶっ殺せない世界だって言うんなら……生きるしかねえんだろな……ってのは、わかったよ」
 恵まれてるよ。おれは。
「なんで……お前らの一人でも、あん時、この銀行にいなかったのかなって……やっぱ思うがよ……お前らがなんか、おれのためにさ、必死になってんの、ハハ、好きだぜ……」
 泣いていいかな、と今のブランドンが――これからも生きていくブランドンが、言う。
「勝手に泣いてろ」と吐き捨てたのは、過去のブランドンだった。
「絆されて、幸せになって――あの女のことをいずれ忘れるお前が、おれは嫌いだよ」
 いつかお前はどこかで応報される、と過去が笑う。
「おれじゃない『過去』が、お前を刺すぜ。そん時を待ってろ」
 それで、誰が結局殺してくれるわけだよ、と皮肉気に言う青年に、誰が応えるより早く。
「――あなたは、」
 カイは口を開いた。
 カイの援の腕〈タスケノカイナ〉は、先程、女性が死んだ理由を聞いた時に効果が切れてしまっている。得心してしまったからだ。「どうして自分が殺したと思うのか」という問いの答えとして、「おれを助けに来たからだ」というのは……あまりに、似つかわしかった。
 だからカイは、もう一度、問う。
「あなたは……まだ、自分を捨ててしまいたいですか?」
 援の腕を使って、過去のブランドンに触れる。抵抗はなかった。ただ、熱く脈打つような痛みが、伝わってくる。雨でお互い体は冷え切っているのに――喪失の痛みだけが、赤々と燃える炎のように熱い。
「ああ」過去のブランドンは、澱んだ眼で言う。「捨てたいよ。こんなもん、全部さ」
「……あなたを大事にしてくれた女性がいたことは幻ではない」
 そしてあなたが大切に思う事も間違いでは決してありません。
 カイは続ける。
 過去のブランドンの方が――記憶が薄れていない分、きっと、痛みが強くて。
 つらいのだ。
 それを感じる自分自身を、捨ててしまいたくなるくらいに……。
 だが、それをしてしまったら。
「どんなに辛くても、その想いは手放してはだめです」
 それだけは。
「それだけは……命を手放すのと同義だから……」
 それがあなたの生きてきた証です。
「おれは結局、ただの影だよ」
「それでも。かつて生きた『あなた』でした」
「お前が真に癒すべきは、あっちだぜ」
 手を伸ばして、青年を抱きかかえる。
「どちらもです。どちらも『あなた』です」
「変なやつだ」
「変でいいです。私は『皆笑って終わりたい』んです」
 あなたもです。
 死にたいあなたを。
 ただ殺して。
 死にゆくあなたに、感謝されて終わるなんて――
「私は、どうしたって、やっぱり、嫌なんです」
 それくらいなら、怨まれても、『また己の愛を失ってしまった』その傷を癒したい。
「……今のおれよぉ!」
「ンだよ……」
 過去のブランドンが、カイにしがみつくようにして、泣いているのがわかった。
「おれだって――あいつに、『ヒーローだったのね』って……言って欲しかったよ」
「……悪かった」
 悪かったよ。
「おればかり、『生きている』というだけで、もらって――違う、お前から奪ったよ」
 お前の方が、必死だったのに。そうだぜくそったれ、と過去の影が泣く。
「……刺されんなよ、夜道気を付けろ」
「太陽も灯りも、まだ見つかりそうにねえけど」
「だからだボケ――あと墓参り忘れんな。あの女の婚約者、もう別の女と結婚してっから」
「は!? え!? マジで?」
「自分で調べろ。キレて殴んなよ」
 じゃあな、と最期に過去が呟いて。
 カイに、「ありがとよ、猟兵」と笑った。
 ――因果応報というのなら、人が笑ってくれる因果がいいです。
 この事件で、カイは、ブランドンにそう言った。
 その言葉は、多分、少しだけ――叶ったのだろう。
 それにしたって、雨は止まず、道路はめちゃくちゃだった。
 一般人はもうおらず、区域を封鎖しているパトカーも、被害を恐れて随分遠くへ退避していたから、この近くにはいない。
 いつの間にやらアスファルトもめくれていて、街灯は全部抜かれている。
 車の中には、オブリビオンが殺した人の死体があるかもしれない。
 いつ頃晴れるかだとか。
 いつ頃街は復旧するかだとか。
 それらは誰にもわからないし、何の保証もない。
 今日という日に生まれたものはすべて消え。
 得られたものが何だったのか、本当は誰もわかっていない。
 ただ、でも。
 失った痛みを抱き締めて――まだ。
 まだ、カイたちは、生きている。
 明日も、まだ、きっと。
 これからも生きていくのではないかと――カイは、願っている。

 ●

 燃える太陽。あるいは己で作った灯りの火。あるいは優しい誰かの光。
 記憶に沈む狂気から、届かぬ星への憧れや、この身を支える杖でさえ。
 いずれも馴染まぬ我が生は、あなたを欠いて強く痛み、永久に暗いままだろう。
 されどかなしきものよ、けして戻らぬ眩い日々よ。
 この暗闇こそが――あなたの在った証となるのだ。

 地の底の天に花はなく。
 真昼の夢に実〈じつ〉はなく。
 欲はいずれも等しく重く。
 白は祈りを届け、朽ち果てて。
 夏の夜明けに咲いたのは、涙より青い薔薇の花。
 演者はいつかもう一度、熱いライトをその身に浴びて。
 壊れた籠から鳥は飛ぶ。

 かくして其処には何も残らず。
 それでも愛は、稲妻のように未だ閃く。
 
 
 
 

成功 🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​



最終結果:成功

完成日:2022年05月07日


挿絵イラスト