愚者たちの街影
ラブリー・ラビットクロー 2023年8月15日
僕が家族とこの|拠点《ベース》に移住して来てからもうすぐ一年になる。地平線が揺らめく渇いた砂漠の中に建てられた街。堅い外壁に守られて、その壁越しに覗く一本の|柱《ピラー》。それは蒼穹すらも穿くのではと思わせる程の鉄の巨塔だった。凡そ人が造った物にしては、あまりに巨大。それに尊大で、無骨で、遠慮がない。その威容はまるで神への配慮に欠けている様ではないか、と見上げた片腕の弟が呆然と零していたのを覚えている。これからお世話になろうという拠点に向かってそんな事、それこそ配慮に欠けた呟きではあったのだけれど、その時は僕も同じ感想を抱いてしまったのだから咎める訳にもいかない。そしてそれは、僕の家族の誰もが意図せず共有した感嘆であった事は言うまでもなかった。ともかく、そんな畏れも知らない街こそが、今僕たちが暮らす拠点だ。
ここに越して来る前に住んでいた拠点は既に無い。錆びたトタン板に大破した自動三輪。そして墜落して久しい型遅れのレシプロ機。それらガラクタの寄せ集めを赤茶色に変色した有刺鉄線でぐるぐる巻きに束ねて作られた粗末なバリケードに守られた、色んな意味での限界集落だった。そんな故郷はある晩、突如として襲来した武装レイダーの集団によって呆気無く崩壊を迎えた。寧ろそれまでよく保った方だ。高台に備えたトーチカと12.7mmの重機関銃がなければ疾うの昔にそこはなんの変哲も無い更地となっていた筈なのだから。唯一の命綱である村のトーチカは、不意に撃ち込まれた最初の砲弾によって呆気無く砕け散り、そこからは当然の帰結として拠点に住む市民の殆どが虐殺されてしまった。その事をわざわざここで回想するには能わない。ただ今も夜毎に夢の中で繰り返される人々の悲鳴と鮮血とが撒き散らかされただけなのだから。皆そんな話は聞き飽きている。うんざりだろう。心底うんざりだが、それでも僕達には前を向く以外に選択肢は残されていない。
荒野の只中へと投げ出された僕達は、それこそ鼠達の餌になるのを待つばかりの身となった所に幸運にも通りがかった|奪還者《ブリンガー》のキャラバンに拾われる事となった。
弟は右腕を失ったし、妹は子供を亡くして茫然自失と右往左往するばかり。僕には元から嫁も子供も居なかったのだから、こんな時こそ前に立って皆を引っ張るべきだったのに、何をどうすれば良いのか皆目検討もつかなかった。鼓舞する言葉も失くしてただ肩を抱き、砂の混じる粒の様な涙で渇いた大地を湿らせるばかり。その時の僕らと言ったらあまりにも惨めだったものだから、それをキャラバンの人達に憐れまれたのは僥倖と言えた。彼らは、神をも畏れぬ鉄の拠点『NewDawn』に食糧や資材を持ち帰る優れた奪還者だったのだ。
それからの生活は傷ついた僕達にとってはあまりにも優しく、平穏な日々が続いた。まず驚いたのが、見張りの仕事が無いという事だった。なんでもこの拠点を囲む外壁には大口径の機関銃が取り付けられていて、それら全てがAIによって制御されているという。AIが敵を感知すれば自動的に機銃が掃射されてレイダーを追い払ってくれるという事らしい。そして次に驚いたのがこの拠点の経済状況だ。物々交換が基本となるこの世界にあって、この『NewDawn』という拠点だけは独自通貨による取引が成立していたのだ。みなクレジットと呼ばれる不思議な仮想通過を用いて食糧を買い、本を求め、娯楽映像を蒐集していた。その異様な光景たるや、今や思い出す事も難しい世界崩壊前の営みを彷彿とさせた。僕達が必死にバリケードを組み、夜も徹して見張りを立てて、翌日の一欠片のパンの為に奔走していたその時も、この拠点では悠然とした平穏に満たされていたのだ。怒りは無かった。虚しさも無く、ただ人々が築き上げたこの世の楽土に漸くとして辿り着いた事への安堵感だけが、僕達に幸せを齎せてくれたのだった。
その幸せを形作るこの街の支配者の名を、人はビッグマザーと呼んでいた。仮想通過に価値を持たせ、昼も夜も人の手を借りずに見張りを立て、あらゆるライフラインを保証する。その全てを担っていたのは人工知能。この拠点は運営のほぼ全てをビッグマザーというAIに一任する世界最大級の先進拠点の一つだった。
その時は必死だったから気が付かなかった。しかし今から思えば、神は僕達の故郷を救ってはくださらなかった。邪悪なレイダーが思う様にその武器を振るうのを止めてはくださらなかった。妹の子供たちが、悪趣味な笑みを浮かべるピエロの様なレイダーに連れて行かれるのを止める為に、その鉄槌を振るって下さる事はなかった。奴らに対抗しうる武器一つ下賜されなかった。にもかかわらず、明日を生きたいという無辜に暮らす人々のささやかな願いすら、神は見て見ぬふりをしレイダーの蛮行を赦した。ビッグマザーは違う。人によって造られた知能は、この拠点の人たちを守ってくれている。例えそこに感情がなかったとしても、彼女は僕達を見捨てる様な事はしないだろう。それならば僕は無能な神に縋るような真似はもう止める事にしよう。神への供え物も、礼賛も全て止めよう。この天を穿つ壮大な塔こそが僕達人類の求めた答えなのだと、今はっきりと神へと叩きつけよう。いま穏やかに流れるその日々を送りながら、いつしか僕達はそんな風にして拳を振り翳す様になっていった。
不意に空が翳る。途方もなく膨大なエネルギーが空の雲を掻き集めて、一つの渦を織り成していく様を僕は|具《つぶさ》に目撃していた。空間に歪みが生じる様に大気と大気がぶつかり合って強力な雷が不穏に鳴り響くと、それに共鳴するかのごとく地鳴りのような振動が大地を伝う。稲妻が落ちたのかと思えばそうではなく、拠点を守る外壁のバルカン砲が勇ましく火線を噴き上げていた。仕事先に出向いていた僕の脳を、瞬時に蘇る戦禍の記憶が凍りつかせる。平和に慣れ浸かっていた僕の身体はまるで木偶の様に滑稽に引き攣り、ジタバタとその場にへたり込んでしまった。手を着いた先にあった花壇から出た杭に身体を擦りつけて、小さく悲鳴をあげる。できた掠り傷が痛い。こんなものが痛い。弟は右腕をもがれたというのに、たった一つの傷が痛む程にこの精神は僅か1年足らずの間に脆弱なものへと退化してしまっていた事に驚いた。
ビッグマザーが守るこの拠点で一体なにが?その疑問に答える様にポケットの中に仕舞い込んでいた携帯端末がけたたましく鳴動して、僕の双眼がギョロリと湿った音を立てた。ビッグマザーは謂った。
〘全市民に通達。拠点内中央部ホワイトバーズ研究棟付近に於いてオブリビオン・ストームの出現を検知。直ちに表示された避難経路に従って命を守るための避難を開始してください。これは訓練ではない〙
次に僕が目線を移したのは、ジクジクと赤く痛む僅かに傷ついた自分の掌だった。
今もあなた達が連れて行かれる光景が瞼の裏に浮かぶけれどももう涙は出てこなかったから、てっきり私の涙は全て流し尽くしてしまったのかと思っていました。天井を突き破って落ちてきた赤い肉片を目にするまでは。
私達の暮らす部屋は中央研究所のすぐ近くにあったので、異変は瞬時に訪れました。初めにバチバチと凄まじい電気が走る様な音。やがて突風が窓を揺らし、建物全体が震え出します。地鳴りに食器達が踊りだし、そのまま床に打ち付けられて砕け散っていきました。慌ててテーブルの下に潜るのと、何かが天井を破るのはほぼ同時だったと思います。私の目の前に落ちてきたそれは、恐らくは研究所に務める方の遺骸だったのだと後になって思い至りました。
〘表示された避難経路に従って、直ちに避難を開始して下さい〙
私は半狂乱になりながら、ビッグマザーだけを持って家を飛び出しましました。そうして視界に飛び込んで来たのは途方もなく巨大な黒い渦。時折紫電を唸らせて濛々と身を捩らせる竜巻は、見る見る内に中央研究所の塔を飲み込んで行きます。見た事はなかったけれど、あれがオブリビオン・ストームなのだとはっきりと思い知りました。この世界を引き裂いた全ての悲劇の元凶が、今まさに私達の平和を殺そうとしています。子供たちを失い、故郷を失って、悲しみを生きてきた私達の平和を、この嵐は再び奪おうというのです。まるで内蔵を抉るかのような絶望に私は三度吐きました。
〘緊急避難経路のガイドを開始しています。この先の大通りは閉鎖されています。ここから2時方向にある地下シェルターを目指します。四番通路を30m直進して下さい〙
移住をしてきた時に聞かされていたのは、この拠点はAIによって守られた絶対安全都市という事だった筈です。そのAIは今何をしてるというのでしょう?この惨状のどこに安全の二文字があるというのでしょうか。果たしてビッグマザーは本当に私達を守ってくれているのか、ここからでは判別する事ができません。それでも私はビッグマザーのガイドに縋る事しか出来ません。目の前に表示されるホロガイドの言うとおりに脚を動かす事しかできないのです。ビッグマザーが敷いたレールの上を、ただ盲目的に進む事以外に私に出来る事があるなら誰か教えてください。
子供たちをレイダーに連れて行かれたあの日、私は兄に手を引かれてただ泣く事しかできませんでした。強大なレイダーに立ち向かう勇気も力もなく、私はただのか弱いひとりの女に過ぎなかったのです。その記憶が今の私を酷く責め立ててきます。またお前は何も出来ずに逃げ出すんだ!大切な人ひとり守れずに、ただ言われるがままに守られて!そうやってまたひとりで生き残るつもりなんだ!と。
〘多数のレイダーの出現を検知。避難ルートを訂正。拾参番通路を右折してください〙
私はそれでも走ります。枯れていた筈の、それも大粒の涙をボロボロと惜しみもなく流して。結局のところ、私って、自分の命が大事なんです。お母さんお父さんや、兄弟、子供たちの命よりも。どんな後悔の言葉を塗り重ねたって、私は私が、いちばん、たいせつなあああ!
「あああああああああああああああああああああ」
私はやがて無事に地下シェルターに辿り着く事ができました。そこには同じくビッグマザーに導かれて避難してきた人たちが大勢いて、お互いに肩を抱き合っていました。私はそんなヒトビトの群れに挟まって、同じように肩を震わせる事にしました。胸中に広がる安堵感から顔を背けるようにして。
遠くに燃える拠点『NewDawn』の街影が木々の間から見えた。黒い煙をあげて、かつての先進拠点は戦禍の火に飲まれていた。ビッグマザーの案内を信じてただ無心に走ってきた。やがてマザーとの通信が途絶えて振り返ってみれば、そこは思ったよりも離れた森の中だったのだ。兄貴や姉は無事だろうか。共に逃れた人々の中には彼らの姿を認める事は出来なかった。それにしても、と思う。遠くに燃える『NewDawn』の姿は、神に滅ぼされたソドムとゴモラの様だと。あるいは、神に背いて天を目指したバビロニアの様だと。
AIが神に成り代わったその拠点には、神を信奉する者は10人といなかった。倫理感と弾丸とを天秤にかけて貪欲に生きる事を選んだ我々を神は許さないのかもしれない。故郷を焼かれたその時から、薄々感じてはいた事だ。これは審判の時であり、黙示録なのだと。罪多き人類は、神に裁かれる時が来たのだと。ビッグマザーが守る先進拠点でさえ、神の裁きから逃れる事はできなかった。それならば今もなお逃避行を繰り返し、見苦しくも生き延びようとする私達は神に見捨てられた存在に違いない。
燃える拠点の周りを一人の天使が飛び回っているのが見えて私は目を見開いた。3対の白い翼はここからでも輝いて、神々しく美しい。それが手を振り下ろせば爆炎が上がり、立ち上る黒炎が一層勢いを増す。確信した。あれは神の遣い。我々人類を滅ぼさんと遣われた天使・戦乙女なのだ。
力なくその場に崩折れる私に、声を掛ける者は誰も居なかった。
僕はここにいます。僕はここにいます。僕はここにいます。僕はここにいます。
お母さんお父さん助けて。死にたくない死にたくない。やだやだやだやだ痛いのはもうやめてえええええ。
〘もう大丈夫ですよ。私がずっと側にいます。子守唄を歌ってあげましょう。だから何も心配はいりません。穏やかに、眠って下さいね。大切な私の子供たち〙
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