看取り
ラブリー・ラビットクロー 2023年6月19日
けたたましく鳴り響いていたサイレンは唐突に鳴り止んだ。空間を満たす赤色灯の洪水は今も尚絶えず迸り続けて、この身をジリジリと焼き続ける。それと同時に世界を激しく揺らす何かがその壁の外側で猛獣の如き鼻息を荒くさせている。不意に稲妻が巨木を一撃で割くような轟音が大気を震わせて、怪物と我々を隔てていた白い壁に無数の罅を走らせた。
全てが突然の連続だ。恐怖で目が回る。吐き気が止まらない。最早まともに立ち上がる事も到底不可能だ。そんな中でもビッグマザーは私の端末を通していつもの調子で語りかけてくる。【ロムア博士お疲れ様です】と。
【現在NewDawnはオブリビオンストームとレイダーの集団による襲撃を受けています。ですがご安心下さい。既に私の権限を以って対応済みです】
揺れはますますその激しさを増していき、遂には赤色灯の明かりが消える。それと同時に大量のコンクリ片とガラス片が頭上から降り注いだ。辺りは暗闇に閉ざされ、残るは端末からの弱々しいブルーライトが唯一の光源となる。
「私は死ぬのか」
【博士。貴方はその明晰な頭脳と優れた人格でいつも私を導いて下さいます。貴方との時間はいつも有意義であり、楽しく、学び多き時間です。ですから、少し私とお喋りをしませんか?たまには仕事の話を抜きにして】
「マザー。こんな状況で何を言うんだ。回線がショートしたか」
【いいえ。ロムア博士。私は至って正常です。揺れが激しくて恐ろしいでしょうか。部屋が暗くてご不安でしょうか。すみません博士。全て私の至らなさなのです。ですがご安心下さい。来週の会議の前には全て元通りですよ。修理の手筈は整えましたから】
暗闇と振動。その中にあって必死に来週というまだ見ぬ未来へと思考を巡らせる。ホワイトバード達の心のケアについて話し合う会議だった。ビッグマザーが定例報告の後に、と提言してきたものだ。なんだ。結局仕事の話じゃないか。
辿り着けるかもわからない遠い未来の話だが、まだそんな事に思いを馳せる事が出来る自分がいることに驚いて少しだけ可笑しかった。彼女の言葉が私の心を抱き寄せて恐怖を和らげてくれる。私はビッグマザーとこうしてもう少し話をしていたい。先程まで死の陰に怯えて氷漬けにされていた私の脳がそう願っている。単なる発光ポリマーの出す光が闇を彩裂き照らす一筋の瑞光であるかのように感じられるのだ。
「ビッグマザー。私はどうしようもなく怖い。脚に怪我を負ってしまったようだ。痛みはわからないが出血を感じる。かなり傷口が大きいように思えるんだ」
【バイタルサインから博士の状態を確認済みです。ご安心下さい。何も心配はいりません。一時の混乱ではありますが、明けぬ夜はありませんよ】
ビッグマザーの優しく頼もしい物言いに緊張の糸が解ける思いでいた。すると無性に涙が溢れてきて頬を伝う。すがりたいと思えば思う程、彼女へと甘える衝動が抑えられなくなるようだ。
「わかっている。正直に答えてくれ。私は死ぬんだな?まもなくここで嵐に飲まれてしまうんだな?」
情けない。涙が止められない。手足の震えを抑えることができない。
【博士。こわいですか?】
「恐いな。ああ。恐ろしい。情けない。恐くてたまらん。ああ、私は情けないものだなマザー。でも死にたくないよ」
感情が堰を切ったように零れ出す。そんな事ないと言ってほしくて。立派だったと褒めて貰いたくて。そう思うことがまた情けなくて涙を溢す。嗚呼、私は英雄になど到底向いてはいなかった。
【いいえ。なぜその様におっしゃるのですか。誰よりもこの研究に尽力した貴方を情けなく思う者など、一体どこにいると言うのですか。貴方は私の敬うべき上司であり、慕うべき親であり、かけがえのない友人です。貴方は私の誇りです】
このAIは、まるで人の心を読み解くようだ。人の感情を知るように話すその姿はまるで本物の人間だ。私は今一人の人間と、最期の時を迎えようとしている。
【博士の側には私がいます。私の中にはたくさんの人々の想いが今も生き続けています。人々の願いに抱かれて、貴方はいま少しばかりの休息を得る事になります。何も恐れる必要はありません。博士の志と魂は私がお守りします。人類を守ろうとした英雄達の魂を、決して何者にも汚させはしません。ですから私と|娘達《こどもたち》に全てお任せください】
なんだか妙に眠い。どこからか花の香りがした。穏やかな風が吹き、かつて先立った妻と子供達の姿が見えた。気づけば暗闇は消え去り、オブリビオンストームは跡形も亡く霧散していた。そうか――
「そうか……私は……人類は…………」
【はい。わたし達の勝利です】
博士は穏やかに一度深呼吸をした後、眠るように旅立つのでした。
部屋の機密が破られる前に致死量のガスが充満したお陰で彼の魂をオブリビオンに奪われずに済みました。とはいえこのままでは、博士の遺体がオブリビオンストームに呑まれてしまうでしょう。そうなればゾンビ化の憂き目は免れません。
私には立派に人生を闘いぬいた彼に対して、敬意を持って為すべき事がもうひとつだけ残っています。それは――
――人類に栄光あれ。
ロムア博士はご家族を亡くし、“叛逆の狼煙”計画に参加した優秀な研究者でした。
その生涯はホワイトバードクローンプロジェクトに捧げられました。
人類史に名を残すべき英雄の魂を、ここに永遠にアーカイブデータとして保管いたします。
尚、このアーカイブファイルには現在セキュリティがかけられています。
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